高岡裕之『総力戦体制と「福祉国家」』

 歴史を見ていくと、日本が戦争へと突き進んでいく中で、1938年に厚生省が誕生し、同年に農家・自営業者向けの国民健康保険法が創設され、42年に労働者年金保険が誕生するなど、福祉政策が進展していたのがわかります(1940年の国民学校の創設と義務教育の延長をこれに含めてもいいのかもしれない)。

 なぜ、戦争と同時に「福祉国家」の建設が目指されたのか? そして、この「福祉国家」とは現在の「福祉国家」と同じものと考えていいのか? ということが本書の取り扱うテーマになります。

 役所の文書の引用が多いために、「面白がって読める」というような本ではないかもしれませんが、読み進めるに従って現れてくる戦争下の「福祉国家」の姿は間違いなく面白いものです。

 今回、「書物復権」で復刊されたのを機に読んでみましたが、戦争が日本の社会に与えたインパクトを考える上で外せない本ではないでしょうか。

 

 目次は以下の通り。

序章 戦時期日本の「社会国家」構想
第1章 厚生省の設立と陸軍の「社会国家」構想
第2章 広田‐第一次近衛内閣期の「社会政策」と「社会国家」
第3章 戦時労働政策と「社会国家」
第4章 戦時人口政策と「社会国家」
第5章 「健兵健民」政策と戦時「社会国家」
終章 戦時「社会国家」の歴史的位置

 

 野口悠紀雄『一九四〇年体制』などに見られるように、日本の総力戦体制と戦後の日本を連続的に捉える見方は近年さかんになっており、戦後の「福祉国家」の源流をこの時期に見る研究も社会学を中心に出てきています(富永健一『社会変動の中の福祉国家』、広井良典『日本の社会保障』など)。

 こうした中で、本書は戦時期の「福祉国家」について、そのロジックを見極めようとしています。例えば、年金や皆保険といったアイディアはどこから出てきて、どんな狙いをもっていたのかということを確かめていくのです。

 

 第1章では厚生省の設立がとり上げられています。

 厚生省は1938年、第1次近衛内閣のときに誕生しており、初代の厚生大臣木戸幸一で文部大臣と兼任でした。

 厚生省の創設は国家総動員体制の一環であり、陸軍が人的資源の確保のために設立を後押ししたという理解が一般的でしたが、近年では、内務省のイニシアティブを評価し、日本の福祉国家体制の起点として評価する声もあります。

 

 実際、厚生省の設置は、日中戦争勃発以前である近衛内閣成立時の「社会保健省」の設置構想から始まっており、国家総動員体制の前から計画されていたものなのです。

 1936年には陸軍が「衛生省」の設置を主張しており、ここから厚生省設立が動き出したという見方もできますが、実際の厚生省において陸軍の主張がそのまま反映されているわけではありません。

 

 本書の第1章では、「衛生省」の設置を主張した陸軍省医務局長で、のちに厚生大臣にもなった小泉親彦の考えを読み解くことで、陸軍の構想がどのようなもので、それが実現したか否かを読み解いています。

 

 小泉が危機感を抱いていたのが「壮丁体位」の低下でした。つまり、徴兵によって兵士を集める際、日本人の体格が劣化しており、優良な兵士の獲得が困難になっているというのです。小泉はこの背景に、世界恐慌以降の農村の困窮、それによる都市化の進展、結核の蔓延などを見ていました。

 実際、壮丁の身長や体重は低下したわけではないのですが、1928年あたりから徴兵検査でもっともよい甲種が減少し、現役兵には適さない丙種が増えているという状況はありました(37p表2参照)。

 

 ただし、本書が読み解くように、実はこれは20歳男子人口の増加と陸軍の定員の削減によってもたらされたものでした。人口が増えて定員が減れば、徴兵検査の場では甲種を減らして丙種を増やす必要が出てくるわけです。

 こうした背景があっても、小泉は「壮丁体位」低下論にこだわっていました。小泉によれば「人的戦力」こそが重要であり、「人的戦力」を充実させることが必要だったからです。

  小泉は「壮丁体位」の低下の要因を、都市化、工業化、学歴の伸びなどに見ており、農村での暮らしこそが優良な兵士を生むという農本主義的な考えを持っていました。

 1930年代は日本で工業化や都市化が進展していた時期でもあり、この流れを押し止めることは難しかったわけですが、小泉は「衛生省」の設立によって、国民の生活を科学的に管理することで、この問題を解決しようとしたのです。

 

 ところが、厚生省の骨格を事実上決定した『設置要綱』では、国民の「体位」は国民の日常生活を反映するものだとして、「社会問題」の解決が優先されました。

 反発した陸軍は厚生大臣に小泉を据えようとしますが、これも失敗し、人事でも内務省と繋がりが強くなりました。陸軍の要求に応えるものとして「体力局」も設置されましたが、89万円の予算のうち76万円は「第十二回オリンピック大会助成費」でした(中止になった東京オリンピックのこと)。

 

 こうして、厚生省では「社会問題」の解決が優先されることになったわけですが、ここでいう「社会問題」とは何なのか? 当時、その必要性が叫ばれた「社会政策」とな何なのか? というのが第2章のテーマになります。

 

 社会政策への関心が高まったのは、二・二六事件後に成立した広田内閣においてです。二・二六事件をきっかけに、「社会不安」の根源が窮乏にあえぐ農村にあるという認識が強まり、農村向けの社会政策が必要だと考えられたのです。

 この農村向けの社会政策として浮上したのが、農村の医療問題と国民健康保険制度でした。

 

 当時、医療利用組合という産業組合の一種によって農村の医療問題を解決しようとする動きがありました。中心となったのは賀川豊彦で、賀川は農村の窮乏を打開するには協同組合による互助しかなく、特に、医療利用組合によって、医療の資本主義的形態である開業医から医師を開放し、医療の非営利化を実現すべきだと考えていました。

 

 しかし、当然ながら開業医中心の医師会はこれに反発し、対立構造が生まれます。一方、内務省社会局は、国民健康保険は医療利用組合より優れており、国保によって医療利用組合もその役割を終えると考えていました。そして、国保は開業医制度とも調和するものと考えられたのです。

 

 しかし、医療利用組合には「無医村問題」への対応という側面もありました。医師のいない町村数は1923年の16%から1934年の30%へと増加しており(92p)、医師の数は増えても、その増加分は大都市に集中していました。これは農村の窮乏とともに、大都市の近くで先進的な医学を学びたいと考える医師たちが増えたからです。

 これに対して医療利用組合は、総合病院を中心として地域医療のネットワークを構築することで、先進的な技術に触れたいという医師の望みを叶えつつ、地域の診療所の運営も行おうとしたのです。これは国保では対応できな部分でした。

 

 そのため、政府の中からも医療利用組合や産業組合によって、町村を単位とする地域保険組合の「代行」を認めようという動きも出てきます。

 もっとも、だからこそ医師会の反対はますます激しくなり、医師会による巻き返しが起こります。医療利用組合による「代行」は基本的には「例外」となり、開業医を中心とする医療制度が存続することとなったのです。

 

 もう1つの農村問題が、農村における過剰人口の問題でした。1920年代半ばから、日本(内地)の人口増加は90〜100万人規模に達するようになっていました。この背景には医療の進歩による死亡率の低下があります。

 この農村の過剰人口の問題の解決法として、分村による満州移民の推進、工業部門の拡大に寄る人口の吸収があげられました。工業部門の拡大については軍備の拡張にも必要であり、陸軍からも生産力の拡充が求められ、「重要産業5カ年計画」が立てられました。

 その結果、当初、厚生省に求められていた「農村社会政策」路線は後退していくことになります。

 

 第1章で見たように、厚生省は必ずしも陸軍の要望を直接的に反映して生まれたわけではないのですが、日中戦争の勃発と全面化は誕生した厚生省にも大きな影響を与えていくことになります。厚生省が誕生した1938年と翌39年の予算では、7割以上が軍事援護費にあてられており、「軍事援護省」ともいうべき存在でした。

 

 しかし、日中戦争の拡大とともに軍需産業を中心とする重工業化が進むと、それに対応した「社会政策」が必要になってきます。

 今までの軽工業では、労働力需要の中心は女子でしたが、重化学工業では男子の熟練工が必要となり、労働力を兵士と工場で奪い合うような構図が出現したからです。

 労働力の需給調整が急務となり、1938年に職業紹介法が改正されて職業紹介所の国営化が断行されます。1939年の国民徴用令をはじめとして、労働力を統制するためのさまざまな施策が打ち出されていくのです。

 大河内一男は戦争は社会政策を促進すると述べましたが、労働力が「人的資源」として重視されるようになるに連れ、それを保全するためのさまざまな政策が登場してくるのです。

 

 厚生省には1939年に労務管理委員会が設けられ、工場医・鉱山医精度の整備、体育施設や食堂の整備、労災の防止、女子の労働時間の短縮、産前4週間の使用禁止、未経験労働者の労働時間の制限、社会保険の拡充、労務者住宅の整備などが答申されていくことになります。

 

 こうした中から、例えば、1941年には労働者年金保険法が公布されています。施行は42年なので日米開戦後のことになるのですが、このような時期に労働者を対象とした年金保険が導入されているのです。

 年金導入の背景には、労働者の賃金をある意味で強制的に貯蓄させることでインフレを抑制する狙いもあったのですが、基本としては労働条件の改善が困難になる中で、「労働者に安心と希望」(154p)を与えるものとして構想されました。

 

 当時は、賃金統制令や賃金臨時措置令によって賃金の引き上げは難しくなっており、それでいて職場の移動の防止措置もとられていたために、労働者の勤労意欲は減退していたのです。

 「合法サボタージュ」が蔓延しているとも言われる中で、年金は労働者の勤労意欲を引き出す1つの手段でした。

 

 もう1つの政策が労務者住宅の建設です。1930年代後半、重化学工業の立地地域や炭鉱のある地域へ大きな人口移動があり、これらの地域では住宅不足が深刻化しました。ひどいケースでは工場が昼夜2交替制であったため、1部屋に2人が同居し万年床となっているものや、1軒に2、3家族が暮らすもの、月に20数日遊郭から出勤する者などもいたそうです(159p)。

 こうした状況を受けて、厚生省では1939年には7万6000人分、40年には11万8000人分の住宅を供給する計画を立て、41年にはそれを実現するために「住宅営団」という特殊法人がつくられます。

 住宅営団では、今後5年間で予測される住宅建設量の20%にあたる30万戸を建設するとう世界的に見ても未曾有の規模の計画が掲げられました。

 しかし、軍需を最優先する戦時経済のもとで住宅営団に十分な資材が回ってくることはなく、質、量とも当初の計画には遥かに及びませんでした。

 

 先程述べたように、日中戦争が始まった頃は「農村人口の過剰」が叫ばれていたわけですが、日米開戦の足音が近づくことには一転して人口の増加が目指されるようになります。1941年1月に第2次近衛内閣が打ち出した「人口政策確立要綱」は1960年に「内地人」総人口1億人を目指すものでした。

 当時、ヨーロッパでは人口の伸びの停滞が指摘されており、日本でもヨーロッパのようになるという危機感が持たれるようになりました。日本でも工業化とそれに伴う都市化が急速に進展しており、これが人口の増加を大きく抑制すると考えられたのです。

 

 この時期、人口問題は経済問題だけではなく「民族問題」としても認識されるようになってきます。ナチスドイツからの影響もあり、民族=人口の量こそが国力であるといった主張も生まれ、都市化による人口増加の停滞と「体位の低下」が大きな問題として取り上げられるようになったのです。

 将来人口の推計では昭和75(2000)年の1億2274万人をピークに昭和100(2025年)には人口ピラミッドの形は「壺型」になると予想されていました(190p図17参照)。これは実際の人口の動きとかなり重なっており(191p図18参照)、工業化や都市化などの趨勢を考えると、将来の少子高齢化は避けられないものだったのです。

 

 しかし、これでは国力が低下してしまうわけで、出生力を上昇させるための改革が必要になります。

 そこで、「人口政策確立要綱」では、結婚貸付制度や人口政策的税制(家族控除の多子累進化や独身税など)、家族手当の導入、20歳以上の女子の就業制限、学校制度改革(修学年限の短縮)、多子家庭・妊産婦に対する物資の優先供給、産児制限の禁圧などが列挙されました。

 

 農村人口の問題については、(1)内地での小農の維持、(2)農業の機械化・協同化による生産力の拡充、(3)満州移民分村計画による中農主義といった対策が考えられていました。

 食料の確保や農業の近代化、農家の所得保障を考えると(2)のやり方が良さそうにも思えますが、これでは優良な兵士の供給源たる農村の人口が減ってしまいます。そこで、農村人口の維持のためにも(1)の方法も模索され、その中で小作料の引き下げや農地の適正価格の設定、小作農の土地購入を支える制度の創設など、「農地改革」を志向するようなアイディアも出てくることになります。

 一方で、満州分村による農業戸数の維持も掲げられ、内地の農家の戸数の減少を満州での農家の増加で穴埋めしつつ、農家人口が一定になるような政策も構想されています。

 しかし、こうした構想は1941年の1月に始まった企画院事件で改革を唱える官僚らが農村の社会主義化を進める「共産主義者」として弾圧されることで、失速していくことになります。

 

 第5章では、第3次近衛内閣で厚生大臣となり、東条英機内閣でも続投した小泉親彦に再び焦点が移ります。

 小泉は「健兵健民」政策という質実剛健な国民を育成することで戦争に勝つことを目指しますが、そのために大胆な医療政策の転換が企図されました。

 

 医師会の抵抗もあって、農村の無医村問題が解決しない中で、小泉が打ち出したのが母子保健、結核対策、防疫などの「医療」と、さまざまな厚生施設の提供を行う「国民厚生団」という特殊法人の設立でした。

 1941年度の厚生省の歳出が約1億9000万年の中、この特殊法人は30億円の政府出資をもとに運営されることが想定されており、いかに巨大であったかがわかります。

 しかし、そう簡単にこの構想が進むはずもなく、医療の部分だけを取り出した「医療団」を、1億円の政府出資をもとにつくろうというものです。これによって地域医療ネットワークの整備を行おうとしたのです。

 しかし、医師会の反発や産業組合の取り込みがうまくいかなかったこと、何よりも戦争の拡大によって医療団は目立ったせいかをあげることができませんでした。

 

 一方、国民皆保険の実現に関しては一定の成果をあげます。小泉にとって農村の保健問題の解決は優先的な課題であり、どちらかというと都市を向いていた厚生省が農村の問題にも力を入れるようになったからです。

 1942年に国民健康保険法の第2次改正が行われ、地方で健康保険を普及させるためのさまざまな取り組みがなされることになりました。その結果、42〜44年にかけて被保険者数は大幅に伸びていくことになります(256p図21参照)。

 さらに保健婦の設置も進められ、厚生行政の実行組織を地方でも確保しようとしました。

 ただし、応召によって医師が戦地へと送られたこともあり、国保組合ができても肝心の医療が提供できないこともあり、戦時下の「国民皆保険」は形式的なものだったとも言えます。

 

 また、「健兵」のための体力向上のための施策も実行され、必要な体力が示され、それに達するための修練のための施設がつくられたりもしますが、最終的には戦局の悪化による食糧不足によって、「体力」向上どころではなくなってきます。

 

 終章では、簡単に戦後との連続性にも触れられていますが、厚生省や国民健康保険、あるいは保健所などは戦後へと引き継がれましたが、住宅営団と医療団は戦後に解散しています。つまり、厚生省の考えた社会政策の柱は戦後には引き継がれなかったのです。

 

 このように、本書は戦前と戦後の連続性や断絶を考える上で必要となる複合的な視点をもって、戦争と「福祉国家」の関係を論じています。

 都市化や工業化は戦前から戦後を貫く環境であり、ここへの対応はたとえ戦前の体制であっても戦後と重なるものになります。

 一方で、この戦前と戦後の間には「戦争(総力戦)」という巨大な異物が挟まっています。過剰人口の問題は人口不足の問題へとひっくり返り、農村の維持のために都市化の流れを押し留めるような政策も模索されるわけです。また、「福祉政策」の目的は、「戦争遂行」のためのものにすげ替えれます。

 それでいて、医師会などが政府の方針に抵抗し続けているのも、非常に日本的な光景と言えるのかもしれません。

 公文書からの引用なども多く。硬い内容ではあるのですが、「戦前戦中の福祉政策」という狭いテーマに興味がある人だけではなく、「戦前戦中戦後の社会」あるいは「福祉」といった広いテーマに興味がある人が読んでも得るものが多い本だと思います。