『ファースト・マン』

 『ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼルが再びライアン・ゴズリングとタッグを組んで、初めて月面に降り立ったニール・アームストロングのそこにいたる軌跡を描いた映画。

 宇宙飛行士を描いた映画というと『ライトスタッフ』が思い起こされますが、あの映画でも宇宙飛行士はさまざまなトラブルに見舞われ、大きなプレッシャーと戦っていましたが、それ以上に未知の領域へ挑む高揚感がありました。テーマ曲と相まって見ている方も高揚感を感じながら見ていたと思います。

 

 ところが、この『ファースト・マン』ではそうした高揚感がほぼ消え去っています。高揚感を感じるのはサターンロケットの打ち上げシーンくらいですかね。

 ニールは幼い娘を脳腫瘍で亡くすのですが、それが全編にわたってニールに取り憑いています。ニールは非常に冷静な男ですが、どこか心を閉ざしている部分もあって、それが妻のジャネットとの関係においても微妙な影を落としています。

 

 こうした中でニールはアポロ計画に参加し、ミッションをこなしていくわけですが、仲間の中には事故で死ぬものもいますし、ニール自信もロケットでトラブルに見舞われます。

 このトラブルがニールの孤独とも相まって観客に息苦しいほどの印象を与えるのですが、それがたぶんチャゼル監督の狙いなのでしょうね。ニールの内面の孤独と宇宙における孤独が観客をサンドイッチにする感じです。

 月面のシーンは美しいですし、もちろん有名な「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。」というセリフもありますが、そこに『ライトスタッフ』を見た時のような高揚感はないです。

 

 今のアメリカの状況と、デイミアン・チャゼルという個性によって切り取られた、今までにはなかったアポロ計画で、悪い映画ではないですけど好き嫌いはわかれるところでしょう。

 

 

Beirut/Gallipoli

 ザック・コンドン率いるBeirutの5枚目のアルバム。Beirutは個人的には3枚目の「The Rip Tide」が大傑作だと思っていて、それに比べると前作の「No No No」は軽めというか地味というか、悪くないけどあまり引っかかりを感じないアルバムでした。

 それに対して、今作はとりあえず、1曲目の"When I Die"と2曲目の"Gallipoli"のホーンの部分はインパクトがあって期待させます。特に"Gallipoli"は今までにない勇ましさのようなものを感じますね(タイトルもガリポリの戦いから来ているのかな?)。

 

 ただ、その後の中盤はやや地味に聞こえます。Beirutにしては珍しくうるさめの音が入る4曲目の"On Mainau Island"とかありますが、6曲目の"Gauze für Zah"の最後が引き伸ばされているのと、7曲目の"Corfu"が落ち着いたインストの曲ということもあって中盤は地味です。

 もう1回盛り上がってくるのは8曲目の"Landslide"から。この曲も最初は地味なのですがキーボードの音でうまく盛り上げてきます。9曲目の"Family Curse"も出だしは大人しいですが、後半はホーンなどの楽器で盛り上げてきますね。

 

 それでも、全体的にはやや地味かなと。「The Rip Tide」のころにあったエレクトロニカの要素が薄くなっている分、少しアクセントに欠ける気もします。

 個人的には今の感じに、2枚組EPの「March Of The Zapotec / Realpeople Holland」の電子音を前面に出したほうの要素を入れてきてくれると最高なんですが。

 


Beirut - Gallipoli (OFFICIAL AUDIO)

 

 

呉明益『自転車泥棒』

 短篇集『歩道橋の魔術師』が非常に面白かった台湾の作家・呉明益の長編。

 作家である主人公が父の失踪とともに消えた自転車を探す物語で、出だしは無口な父をはじめとする主人公の家族と、家族の暮らしていた台北の中華商場(「歩道橋の魔術師」でも舞台となった場所)の様子が語られ、ある種のノスタルジックな話を想像します。

 さらに日本統治下の話も出てくるので、映画の『KANO』に通じるようなノスタルジックな話も展開するのかと思います。

 ただ、そういった話を想像しながら読んでいくと、いろいろと話のつくりが過剰に感じます。冒頭に著者の書いた自転車のパーツ図が示され、過去の自転車に関する細かいうんちくが示されますし、主人公の父親の失踪という筋を見失いそうになるくらい、いろいろな話が盛り込まれます。

 アッバスという男と彼が経験したラオゾウという老人との不思議な地下での潜水の話、蝶の羽の貼り絵の話など、話があちこちに飛んでいきます。

 

 ところが、中盤くらいになると、この小説はノスタルジックに過去を描く話ではなく、失われた自転車とともに台湾の歴史を掘り出そうというスケールの大きな物語であることが見えてきます。

 台湾の先住民、日本の統治、日本軍、国民党軍など、台湾の歴史をつくってきた様々な要素が積み上げられていくのです。

 

 マレー半島で活躍した日本軍の銀輪部隊とその自転車たち、ビルマインパール作戦とそこに従軍したゾウたち、台湾の円山動物園の戦時中の悲劇、抗日戦争に参加し、戦後はビルマから中国を経て台湾にやってきたゾウのリンワンなど、台湾、そして台湾を植民地支配していた日本、戦後に台湾を支配した国民党にかかわる近現代史のエピソードが次々と展開し、ノスタルジーには回収できない歴史の重さを読み手に感じさせるのです。

 また、そのエピソードを印象的に描く上でも確かで、特に学校で飼われていたオランウータンの一郎が動物園に送られることになり、不安がる一郎を普段から一郎をかわいがっていた折井先生が、一郎の手を引いて歩いて円山動物園に向かうシーンは素晴らしく泣けます。

 

 『歩道橋の魔術師』に収録された短篇に比べると、決してバランスがよい小説とはいえないかもしれませんが、著者の執念のようなものを感じさせる小説で、ずっしりとした読後感を残す優れた小説だと思います。

 

 

善教将大『維新支持の分析』

 ここ最近、「ポピュリズム」という言葉が、政治を語る上で頻出するキーワードとなっています。アメリカのトランプ大統領に、イギリスのBrexit、イタリアの五つ星運動にドイツのAfDと、「ポピュリズム」というキーワードで語られる政治勢力は数多くいるわけですが、では、日本における「ポピュリズム」といえば、どんな勢力がそれに当てはまるでしょうか?

 そこで、小泉純一郎都民ファーストの会と並んで、多くの人の頭に浮かぶのが、おおさか維新の会でしょう。特に代表を務めていた橋下徹は多くの論者によって代表的な「ポピュリスト」と考えられていました。

 「橋下徹という稀代のポピュリストによって率いられ、主に政治的な知識が乏しい層から支持を調達したのが維新である」というイメージは幅広く流通していたと思います。

 しかし、この本はそうしたイメージに対し、実証的な分析を通じて正面から異を唱えるものとなっています。

 

 目次は以下の通り。

序 章 課題としての維新支持研究
第1部 問いと仮説
 第1章 維新をめぐる2つの謎
 第2章 維新政治のパズルを解く
第2部 維新支持と投票行動
 第3章 維新支持とポピュリズム
 第4章 なぜ維新は支持されるのか:維新RFSEによる検証
 第5章 維新ラベルと投票選択:コンジョイント実験による検証
第3部 特別区設置住民投票
 第6章 都構想知識の分析
 第7章 投票用紙は投票行動を変えるのか:投票用紙フレーミング実験による検証
 第8章 特別区設置住民投票下の投票行動
 終 章 我々は民主主義を信頼できるのか
補論A 批判的志向性は反対を促すか:サーベイ実験による検証
補論B 都民ファーストの躍進とポピュリズム

 

 実は、維新支持をポピュリズムや、橋下徹のポピュリストとしての能力に求める考えは次の3つの現象をうまく説明できません。

 まず1つ目は、橋下が引退した後もつづく維新の強さです。維新は2015年の特別区設置をめぐる住民投票の敗北の責任をとって橋下市長が辞任した後も、同年の大阪ダブル選で勝利し、さらに16年の参院選でも大阪選挙区で大量得票に成功しています。もし、橋下が有権者を操っていたのであれば、このようなことは起きないはずです。

 2つ目に、大阪やその周辺地域以外での維新の弱さです。2012年の衆議院選挙以来、維新は国政にもチャレンジし議席も獲得していますが、大阪での強さを他の地域で再現できていません。例えば、維新の掲げる行政改革や公務員への批判は、大阪だけに当てはまる問題ではありませんが、今のところ維新が強く支持されているのは大阪とその周辺だけでなのです。

 3つ目は先述の特別区設置をめぐる住民投票での敗北です。自分たちが与党の立場にいる時の住民投票ということで、この住民投票は維新にとって有利なはずでした。しかし、その住民投票で僅差とはいえ敗北しているのです。

 

 このような矛盾を受けて著者が提出するのは次のような仮説です。

 第一は、維新が「大阪」の利益代表者として有権者に認知されたという点です。いわゆる「府市合わせ」問題を解決する存在として、既成政党にはないイメージを持つことができたのです。

 第二に、そのイメージを政党ラベルとして活用した点です。維新の候補者は自らの個性よりも「維新の候補者である」ことをアピールして選挙戦を戦い、有権者はそれを重視して投票を行いました。

 そして、第三は、有権者橋下徹に踊らされる「大衆」ではなく、批判的志向性を持った「市民」だったということです。維新支持者は都構想に関する知識を得る中で、ギリギリのところで迷いが生じ、住民投票では反対へと回ったのです。

 

 これを受けて、著者は序章において本書の主張を次のようにまとめています。

 たしかに多くの有権者は、政治や行政に関する知識を欠いている。また、大阪市民の大阪市政への不満は、政令市制度がその根本に決定的な問題を抱えること、さらには大阪市における政治ないし政党の機能不全に起因する、きわめて根深いものである。しかし、それは必ずしも維新支持者が愚かな「大衆」であることを意味しない。大阪市民・府民は、あるいは有権者は信に足る存在である。本書の主張は煎じ詰めればこの一言に尽きる。(6p) 

 

 では、この仮説はどのようにして確かめられるのでしょうか? 出口調査などのデータを見れば維新に投票した人々の特徴などは見えてくるかもしれませんが、「なぜ支持したのか?」といったことは容易にはわかりません。

 そこで、著者が活用するのがサーベイ実験です。有権者に意識調査を行うことで、有権者の支持の理由などを探っていくのですが、近年では、ネット調査が可能になったことにより、有権者ごとにランダムに質問を入れ替えたり、多くの工夫を施すことが可能になりました。これによって有権者の中の支持のロジックを取り出そうというのです。

 

 第2章以下では、仮説を検証するためのさまざまな実験が行われていますが、その前にまず、維新の支持者はこれといった特徴を持っていません。政治的疎外や社会的紐帯の弱さと維新支持には強い関連性がありませんし、教育水準や世帯年収とも強い関連性はありません(45-46p)。松谷満や伊藤理史の研究によれば、維新支持と公務員への不信、新自由主義的信条が関連するとのことですが、著者はこの知見を懐疑的に見ています(48pの注5参照)。また、この解釈では維新が大阪以外で弱い理由をうまく説明できません。

 

 他にもポピュリストとしての橋下徹の能力なりカリスマ性に注目する議論もありますが、大阪府知事時代も大阪市長時代も橋下は一貫してその支持を低下させています。マスメディアを巧みにコントロールし、露出をはかったにもかかわらず、その支持は伸びていないのです。もちろん、それでもそれなりの支持率を維持したところに注目すべきかもしれませんが、やはり維新の強さをすべて橋下徹のポピュリストとしての能力に還元するのは無理があると言えるでしょう。

 

 そこで著者が注目するのが政党としての維新です。橋下徹ではなく、維新が政党として一定の支持を集めていると考えれば、橋下退場後の維新の強さを説明できます。

 多くの有権者は選挙のときに候補の政党を見ます。たとえ、支持政党がなくても、「自民党は嫌だ、共産党は嫌だ」といった形で政党ラベルを利用している有権者は多いと思います。

 ただし、日本の市町村レベルの選挙では一般的に政党ラベルは機能していないと言われます。日本の市町村議会の選挙は大選挙区制で、個人の名前を書かせることが重要です。候補者をみても保守系無所属が一番目立つように、市町村議会では選挙制度の影響もあって政党名はそれほど重視されない状況になっています。

 ところが、維新の候補者は維新の候補者が複数立候補している選挙区においても、独自性をアピールせずに「維新の候補であること」をアピールしています。61-64pでは維新候補者の選挙公報が分析されていますが、それぞれの候補の差は目立ちません。

 

 この政党名の強さと候補者の自律性の弱さが、維新を「大阪」の利益の代表者、あるいは調停者として売り出すことを可能にします。

 維新でなくても、府議会と市議会の多数派が同じ政党であれば、府と市の利害調整は進みそうですが、日本の地方議員は非常に自律性の強い存在であり(選挙のときに政党に頼っていない)、府の政党組織が市議を動かすことは困難です。

 ところが、政党が強く議員の自律性が弱い維新では、政党が市議を動かすことは容易なのです。

 

 このように政党として支持を得た維新でしたが、その支持は弱いものでした。維新の熱狂的な支持者党のは少なく、「むしろ強度という観点からいえば不支持者のほうが「熱狂的」だといえる」(70p)のです。

 この支持の弱さが特別区設置住民投票の否決へとつながっていきます。

 

 第3章以降では、サーベイ実験を通じて、それぞれの仮説を検証していきます。

 どれも興味深いものですが、まずこの本の主張の骨格を検証しようとするのが第4章の維新RFSE(Randomized Fatorial Survey Experiment)です。これは、「おおさか維新の会が、以下のようになったと想像してください」と前置きした上で、「党首は〇〇です」、「党本部は〇〇です」、「関西出身議員の割合は〇〇です」といった質問の「〇〇」の部分を入れ替えながら質問を行い、その支持の度合を訊くというものです(対象は近畿7府県の有権者)。例えば、「党首は〇〇です」の〇〇の部分に「橋下徹」、「吉村洋文」、「渡辺よしみ」といった名前をランダムに入れることで、党首名がどのくらい支持に影響するかを測ろうとするのです。

 

 この結果は115pの図4.3に載っていますが、それによると、党首が橋下徹松井一郎であることは吉村洋文である場合よりも支持を上げ、党首が渡辺よしみや片山虎之助であることは吉村洋文であるときよりも支持を下げます。

 また、党本部が東京23区内である場合よりも大阪市内であったほうが支持が上がります。関西出身議員に関してもその割合が高いほうが支持が上がります。やはり、維新の支持の一つの要因に「大阪」または「関西」色があると言えるでしょう。

 政策に関しては議員定数の削減の割合が大きいほど支持が強まる傾向がありますが、公務員数に関してはそれほど明瞭な関係は見られません。

 

 さらに第5章では、被験者にさまざまな候補者のプロフィールを見せて選ばせることで、維新の政党ラベルが維新支持者の投票行動に対して強い規定力を持つことを明らかにしています。

 維新支持者が維新という政党の名前に反応するのは当たり前のような気もしますが、他の政党の支持者と比べて維新支持者は政党ラベルにより反応しています。

 

 第3部では、特別区設置の住民投票が分析されています。

 まず、著者は住民投票の一ヶ月後に都構想に関する知識を調査することで、有権者が都構想について一定以上の知識を有していたことを明らかにしています(161p図6.1参照)。また、2015年の大阪ダブル選後の調査でも有権者は一定以上の知識を有していたことが確認されています。

 この背景には特別区設置の住民投票の前に特別区設置のメリットとデメリットが記載された『投票広報』が全戸に配布されたことがあります。68pにその内容が載っていますが、デメリットとメリット、それに投票方法が4頁にわたって記載されています。

 もちろん、維新は大規模なキャンペーンを行い、メリットをアピールしたわけですが、有権者は『投票広報』などを通じてメリット・デメリットの双方を理解していたのです。

 

 特別区設置の住民投票で反対が多数を占めた理由としては今までもいくつかの分析が行われています

 まずは、投票直後の出口調査のデータから唱えられたシルバーデモクラシー仮説です。朝日新聞朝日放送が共同で実施した出口調査(197p図8.1参照)によると、反対が賛成を上回ったのは70代以上のみで、他の世代では軒並み賛成が多数派を占めています。つまり、高齢者の反対が住民投票の帰趨を決めたというのです。

 しかし、実はこの出口調査を信じると賛成多数にならないとおかしいのです。この出口調査期日前投票(全投票者の約26%)を含んでおらず、この調査だけで何かが言えるというものではないのです。

 

 さらに世帯収入の高い中心部で賛成票が多く、周辺部で反対が多かったことをもとに、社会経済資源が少ない人が反対したという「取り残される周辺の不安仮説」も、維新の支持者の分析などを見ると支持できませんし、橋下徹個人の支持率と結びつける考えも、それだけではすべてを説明することは出来ないといいます。

 

 そこで、著者は都構想への賛否は住民投票の告示日から投票日の間に大きく「賛成が減る」方向に動いたことに注目します。

 そして、サーベイ実験によって有権者の「一面的な見方に固執しない態度」といった批判的志向性が強くなると、都構想への反対が増えるという関係性を示します(213p図8.8参照)。

 この結果を受けて、著者は「すなわち態度変容を生じさせやすい維新を支持していた大阪市民が、特別区設置住民投票の特異な情報環境下で、自らの批判的な志向性に基づき熟慮した結果、賛成への投票を一歩踏みとどまったのである」(215p)とまとめています。

 

 終章では、これまでの議論を受けて、今までの維新をめぐる議論を次のように批判しています。

 維新政治に関する著作や論考は枚挙の暇がないほど多く存在する。しかしどのなかのどれだけが実証的証拠に基づき、維新について論じるものなのであろうか。とりわけ「大衆社会」と銘打ち、維新を支持する有権者を愚者の如く扱ってきた論者は、何を根拠にそのような議論を展開するのか。筆者から見てポピュリズム論は、研究者を含む知識人が有する、ある意味での傲慢さを明らかにするきっかけになった議論であるように思われる。とりわけ維新に関する論稿については、そのような傾向が強かったのではないか。(223p)

 

 さらに維新の躍進の背景には、大阪において維新以外の政党が機能していない現状があるとして、地方議会の選挙制度を従来の中選挙区制から、拘束式または非拘束式の比例代表制に変えることを検討すべきだとしています(このあたりは著者が「あとがき」で「Twitter友」と書く砂原庸介『民主主義の条件』の議論と重なる)。

 有権者を批判する前に、まだまだやるべきことはあるのです。

 

 このように、この本は実証分析をバリバリ行う学術書でありながら、熱い主張をもっています。自分も「大衆」という概念を持ちだして現実の政治を憂いてみせるような議論にはほぼ意味がないと考えているので、そうした印象論をデータを用いて打ち砕くこの仕事は非常に貴重なものだと思いますし、また広く読まれるべき内容だと思います。

 

 また、著者のサービス精神も十分に感じられる本で、比較的見難いグラフが多い政治学の本の中で、この本のグラフの見やすさは特筆すべきものです。さらに、脚注にも著者のサービス精神は遺憾なく発揮されています。

 

 最後に、これは蛇足ですが、この本を読んで「大阪」という存在についても改めて考えさせられました。

 NHKの歌番組に「わが心の大阪メロディ」という番組があって年一回くらいやってますが、このタイトルの「大阪」の部分に「東京」や「名古屋」を入れると明らかに変なんですよね。「大阪」という言葉は、地名や自治体以上の何かを象徴していて、それが維新を他の地域政党以上のものにしている面もあるのではないか、ということなどを少し考えました。

 

 

 

 

『フロント・ランナー』

 1988年の大統領選で民主党の有力候補でありながらスキャンダルで失速したゲイリー・ハートを描いた映画で、ハートをヒュー・ジャックマンが演じています。

 ハートは若く、見た目も良くて、レーガンに連敗していた民主党にとっても救世主的な候補でしたが、本格的な大統領選が始まる前に女性スキャンダルが出て、あっという間にマスコミの餌食となってしまい、撤退に追い込まれます。映画はこの顛末を描いています。

 

 若い女性との不倫は事実なので、今の「Me Too」の世の中では、ハートを悲劇のヒーローとしては描けません。

 また、ハートは間違いなく優秀なのですが、どこかナメたところもある人間で、「自分が若い女性とのちょっとした浮気などで躓くのは間違っている」というようなスタンスです。この優秀さと尊大さが入り混じったハートという人物をヒュー・ジャックマンが好演しています。

 ただ、脚本的には最初にもうちょっとハートの魅力や、88年大統領選の様子を説明しておかないと、ハートのスキャンダルのインパクトというのはわかりにくいかもしれません。ゲイリー・ハートを知っているのって自分くらいの世代でギリギリだと思うので、若い人にはやや映画の文脈がわかりにくような気がします。

 

 映画の中で、選挙参謀がハートに対して「今は1972年じゃないんだ」というセリフを言うシーンがあります。80年代後半には、以前は許された政治家の女性スキャンダルが許されなくなり、それが致命傷になりかねないものとなったのです。

 これが良いことなのか悪いことなのかは意見の分かれるところでしょうが、この映画はそうした時代の転換点を描いています。

 

 ただし、女性スキャンダルにまみれながら当選してしまったトランプ大統領のことを思うと、時代は再び変わろうとしているのかもしれません。

 ハートの場合は、そのさわやかなイメージを守ることが出来ずに失速するわけですが、そもそもそんなイメージを持たずに開き直るというやり方が見出されてしまったのかもしれません。

 スキャンダルで潰された候補と、スキャンダルを気にしない候補。やはりどちらも問題があるといえるのかもしれません。

 

ジョージ・ボージャス『移民の政治経済学』

 近年は、移民への反発とそれを利用した「ポピュリズム」というものが世界の政治における1つのトレンドとなっています。

 一方、日本では昨年、出入国管理法が改正され、政府は否定しているものの、外国人労働者の受け入れに大きくかじを切ったと見ていいでしょう。つまり、日本でも将来、移民の問題が政治の大きな争点となる可能性が出てきたわけです。

 

 では、移民は実際に受入国にどんな影響をあたえるのでしょうか? 経済を成長させるのでしょうか? それとも減速させるのでしょうか? あるいは移民の受け入れによって損する人と得する人が出てくるのでしょうか?

 この本はアメリカのハーバード・ケネディスクールの教授で、長年、移民について研究してきた著者が、移民のもたらす影響をできるだけ詳しく分析しようとした本になります。

 著者はキューバ生まれの移民で、アメリカが今後も一定の移民を受け入れていくことに賛成ですが、同時に移民のもたらすマイナスの影響も詳細に検討しており、今後、日本の政策を考える上でも参考になる本かと思います。

 

 目次は以下の通り。

第1章 イントロダクション
第2章 ジョン・レノンがうたった理想郷
第3章 米国における移民の歴史
第4章 移民の自己選択
第5章 経済的同化
第6章 人種のるつぼ
第7章 労働市場への影響
第8章 経済的利益
第9章 財政への影響
第10章 いったい誰の肩を持つの?

 

 まず、著者が最初に紹介するのは、スイスの戯曲化であり小説家でもあるマックス・フリッシュが述べた「我々が欲しかったのは労働者だが、来たのは生身の人間だった」という言葉です。

 移民は働くだけでなく、同じ民族同士で集まって住み自分たちの文化を持ち込もうとするかもしれませんし、病気になって社会保障の世話になるかもしれません、さらには子どもをつくるかもしれません。

 移民をたんなる「労働力の投入」と見るのは誤りなのです。

 

 次に、著者は移民研究に関する専門家のバイアスを指摘します。ポール・コリアーは「社会科学者はあらゆる手段を駆使して移民が我々全員にとっていいことだと証明してきた」と書いていますが(15p)、著者もこうしたバイアスを疑っています。

 トランプのような「反移民」の訴えや人種差別主義者などに利用されないように、「良識ある」社会科学者は移民のもたらすポジティブな面を主張したがるのです。

 

 実際、ジョン・レノンの「イマジン」にあるようにすべての国境が撤廃されて、人々が完全に自由に移動するようになれば、GDPは2013年時点の計算でおよそ40兆ドル増加するとされています。2013年の世界のGDPが70兆ドルなので6割近くアップするのです。

 ただし、南北の賃金差が平準化されるには途上国の労働者の95%にあたる26億人が北に移住する必要がありますし、北の地域の賃金は39.3%低下します(34p表2.1参照)。GDPが増えたとしても北の労働者にとっては負の影響が大きいのです。

 また、最初にも述べたように移動するのは生身の人間です。文化的摩擦なども考える必要があるでしょう(著者は中東で国境をなくせば中東全体が豊かになるだろうか? という問いを提示している(39-40p))。

 

 移民によって発展した国といえば何といってもアメリカです。アメリカは豊かさを夢見る多くの人々を引きつけてきました。

 ただし、では、アメリカに移住するチャンスがあれば貧しい国の人ならば全員移住するかというと、そういうわけではありません。例えば、プエルトリコの建設労働者は2万3000ドル稼げますが、アメリカ本土に渡れば4万3000ドル稼げます。そして、プエルトリコアメリカとの間に法的な障壁はありません。しかし、プエルトリコ人の3分の2はそのままプエルトリコにとどまっています。移住のコストは飛行機のチケット代や引越し費用だけではなく、かなりの心理的なコストなどを含んでいるのです(64-68p)。

 

 1960年代に比べ、近年の移民の入国直後の賃金は低下傾向にあります(69p図4.1参照)。これは、近年の移民が貧しい国からやってきており、また、学歴も低いことが多いからです。

 そもそも一口に移民といっても出身国によってそのタイプは異なると考えられます。例えば、スウェーデンデンマークのような豊かな福祉国家からアメリカにやってくる人は高い税金を嫌ったスキルの高い人などが想定できますが、格差の大きな貧しい国では、そうした高スキルの人には移住のインセンティブはあまりはたらきません。移住を考えるのは低スキルの人々でしょう。

 

 ただし、そうした低スキルの移民もだんだんと同化していくと考えられてきました。移住したばかりの移民は英語もうまく話せずに低賃金の仕事をしているかもしれませんが、時とともに英語の能力も仕事のスキルも向上し、アメリカ人の賃金水準に近づいていくと考えられるのです。

 著者はこの実態を明らかにしようと移民たちのその後を国勢調査を使って追跡しました。その結果は92pの図5.1に示されていますが、これをみると1975-79年までに入国した移民については確かに年とともに賃金が上がっていますが、85-89年に入国した移民は最初こそ賃金が伸びたもののその後横這いであり、95-99年に入国した移民にいたってはほとんど賃金の改善が見られません。

 

 この理由として、まず近年の移民の英語とスキルの習熟ペースが遅いことがあげられます。この背景にはヒスパニック系の増大により英語を話さなくてもすむ環境ができてしまっていることがあります(サミュエル・ハンティントンが『ヒスパニックの課題』で指摘したことでもある)。実際、英語の流暢さの改善度と民族居住地区の規模には相関関係があるというグラフも載っています(99p図5.4)。

 また、実はアメリカに移民の波が大きく押し寄せた時期である20世紀の初頭と20世紀の終わりの時期にやってきた移民はともに収入状況が順調に改善していません。順調に収入を増加させることができたのは移民が少なかった時期にやってきた人々なのです(95-96p)。

 

 では、移民は受入国の労働市場にどのような影響を与えるのでしょうか?

 移民がやる仕事はもともと受入国の人のやりたがらない仕事であり、そのため労働市場に与える影響は小さいとの議論もあります。

 しかし、2006年に移民局の家宅捜索を受けた鶏肉加工工場では次のようなことが起こりました。900人の従業員のうちの75%を失ったこの会社は、今までよりも1ドル以上高い時給を設定して従業員を募集し始め、そして多くのアフリカ系アメリカ人が雇われたといいます(125-127p)。移民は米国人がやりたがらない仕事をするのではなく、「米国人が現行の賃金ではやりたがらない仕事をやる」(127p)のです。

 

 もし、移民が米国人の代わりにベビーシッターや芝刈りをやってくれるのであれば、米国人はより高度な仕事に集中できるでしょう。一方、移民が米国人のクローンのような存在であれば、米国人の賃金を引き下げる圧力となります。

 1980年、キューバカストロアメリカに行きたい人の出国を許し、10万人を超える人々がマイアミに到着し、マイアミの労働力人口は8%ほど増えました。

 今までの研究ではこの供給ショックがあってもマイアミの賃金は大きく下がっておらず、移民が来ても賃金にマイナスの影響を与えることはないと結論づけていました。

 しかし、著者は移民の持つスキルに注目します。キューバ移民の多くは高校中退でしたが、ちょうど同じようなスキルを持つマイアミの高校中退者の賃金は大きく低下したのです(139p図7.4参照)。

 142pの表7.1には、1990~2010年にかけて移住した移民が一夜のうちにヘリコプターで降りてきたと仮定した場合の賃金への影響がまとめられていますが、それぞれ移民が多い学歴と重なる人々の賃金が下がる傾向になります(一番多い移民は高校中退なので、高校中退の賃金への負の影響が最も大きい)。

 

 移民は清掃や芝刈りサービスの価格を引き下げますし、また、優秀な移民はイノベーションの担い手となり、学術分野を発展させます。ただし、移民によってすべての人が利益を受けるとは言えません。

 著者の計算によると2015年の時点で500億ドルとプラスではあるもののささやかなもので(アメリカのGDPは18兆ドル)、米国人の労働者は5157億ドルの損失になる一方、米国企業にとっては5659億ドルの利益となります(160p表8.1参照)。

 著者が「このアプローチは現実とかけ離れている」(161p)と述べていることから(この計算では長期的には移民余剰はゼロになる)、この数字から何かをいうことは難しいかもしれませんが、移民受け入れが労働者から企業への所得移転になる可能性は頭に入れておくべきでしょう。

 また、この計算では移民がGDPを2兆1000億ドル増やしていますが、その98%は移民が所得として受け取っています。GDPの増加と今いる国民の福利の向上を混同してしまわないことも重要でしょう。

 

 一方、高技能の移民には米国人の生産性を引き上げるという議論がありますが、この波及効果を具体的に確認するのはなかなか難しいとのことです(第8章のこの部分ではソ連崩壊によってソ連の数学者がアメリカの大学にやってきた影響が分析されていて興味深い(165-170p)。

 

 最後に著者は移民が財政に与える影響を分析しています。移民も社会保障制度を利用しますが、これについてミルトン・フリードマンは次のように述べています。

 リバタリアン国家において、自由で開かれた移住というのが正しい政策であることは間違いない。ただし、福祉国家においては話が変わって来る。(中略)米国に住んでいる移民に対して社会保障給付を行わないこともセットでやらなければならない・・・・・・例えば、分かりやすい目の前の現実的なケースとして、メキシコからの不法移民を見てほしい。メキシコから米国への移住は・・・・・・いいことだ。不法移民にとってもいいことで、我が国にとってもいいことで、米国民にとってもいいことだ。だがそれは、彼らが不法移民である限り言えることだ。(178ー179p)

 

 非常に辛辣な物言いですが、いい悪いは別にしてこの懸念には筋が通っています。移民も人間であり、さまざまな社会保障給付を受けるからです。

 単純に言うと、高技能の移民は社会保障制度を支える側に周り、低技能の移民は社会保障制度から補助金を受ける立場になるでしょう(184pの図9.1には移民が米国人よりも社会保障サービスを受けており年とともにその差は拡大しているというグラフと、それほど大きな差はなく差も拡大していないという2つのグラフが載っており、本文でその謎解きが行われている)。

 

 1997年、米国科学アカデミー(NAS)は一人の移民を受け入れることが長期の財政にどのような影響を与えるかということを試算しました。それによると300年後(!)には8万ドルの利益をもたらすそうです。

 しかし、300年後の予測ができるなどとは思えませんし、この試算も「2016年以降、政府債務の対GDP水準が維持される」という仮定をつけてのものです。そして、25年間の期間では-18400ドルの損失となっています(192pの表9.2参照)。

 2016年、NASは75年という期間で試算しましたが、その結果も政府の財政政策や移民が公共財のコストを増やすか減らすかによって大きく違ってきます。こうした計算はそれほど役に立たないのです。

 

 このように移民に関する議論が一筋縄ではいかない事を教えてくれうのがこの本です。また、著者は長年、移民の与える影響をどのように計測するかを研究してきた人物であり、統計をどのように読むか、データをどのように分析するかというリサーチ・リテラシーについても多くのことを教えてくれる内容になっています。

 

 日本でもこれから「移民は是か非か」、「移民は日本経済を救うのか?」といった議論がなされていくと思いますが、この本を読めば、移民によって受ける影響は立場によって違うこと(基本的に労働者から企業への所得移転になる)、移民によって生み出される富もあれば受け入れの費用もあることなど、この議論が単純に割り切れるものではなく、非常に慎重な対応が必要なものだということがわかるでしょう。

 

 

フランチェスコ・グァラ『制度とはなにか』

 著者はイタリアの哲学者で、以前に出した『科学哲学から見た実験経済学』が翻訳されています。昨年、『現代経済学』中公新書)を出した経済学者の瀧澤弘和が監訳していますが、内容的には哲学の本と言っていいでしょう。

  ただし、その内容は社会科学と密接に関係しています。『現代経済学』を読んだ人ならわかると思いますが、近年の経済学が注目するものに「制度」があります。経済発展の鍵や各国ごとの経済の違いを制度によって説明しようとする考えが数多く登場してきているのです。

 その中でも、この制度をゲーム理論よって説明しようとする考えがあります。青木昌彦などがそうですし、監訳者もこの流れにいる人と言っていいでしょう。

 そして、このグァラもまたゲーム理論に注目しています。ゲーム理論を使って制度を説明しつつ、後半ではその哲学的な位置づけについて探ったのがこの本です。

 久々にきちんとした哲学の本を読んだので、以下では監訳者の解説なども参考にしつつ自分なりにポイントだと思ったところを紹介したいと思います。

 

 目次は以下の通り

序文
イントロダクション

第Ⅰ部:統一
第1章 ルール
第2章 ゲーム
第3章 貨幣
第4章 相関
第5章 構成
第6章 規範性

幕間
第7章 読心
第8章 集合性

第Ⅱ部:応用
第9章 再帰性
第10章 相互作用
第11章 依存性
第12章 実在論
第13章 意味
第14章 改革 

  

  監訳者の解説にも書いてありますが、制度に関しては、制度をルールと考える見方と制度を均衡(ゲーム理論における均衡)と考える見方があります。

 ルールとして制度を捉えると、制度の歴史的発展を説明しやいですが、制度の安定性や制度がなぜ守られるのか? といった点は説明しにくくなります。一方、制度を均衡と考えると制度の安定性や守られる理由は説明しやすいですが、制度が単なる行動の規則以上となることが説明しにくいです。

 

 そこで著者は「均衡したルール」として制度を捉えようとしています。

 まず、制度に関して著者はコーディネーション(調整)と協力を促すものとして捉えています。比較的狭い道で車がすれ違おうとした時、「左側通行(右側通行)」という制度があれば、スムーズにすれ違うことができるでしょう(この場合、右側でも左側でもどちらかに決まっていれば良い)。

 

 第Ⅰ部では、こうした制度がどのようにして信頼を築けるのかという問題がとり上げられています。

 制度は一般的に人々の利益となるものと考えられていますが、奴隷制も一つの制度ですし、伝統的な結婚制度においては女性が不利なケースが多く見られました。

 こうしたことを考えると、制度とは権力者が制定したルールであると考えたくなります。しかし、制定したルールは必ずしも守られるわけではありません。道路の制限速度のように多くの人々が守っていないルールも存在します。ルールという言葉だけでは人々が制度に従う理由を説明できないのです。

 

  これに対して、制度を均衡と考えると人々がルールを守る理由を説明しやすくなります。一般的に周囲の車の速度に合わせることがスムーズな流れを作るからです。

 最近、エスカレーターの片側空けが問題とされていますが、鉄道会社がいくら呼びかけても片側空けがなくならないのは、片側空けが均衡だと考えるとわかりやすいと思います。この状況を変えるにはルールだけでなく、人々の予想や期待を変える必要があるのです。

 著者は、こうしたことから制度をまず均衡として捉えるアプローチを採用しています。

 

 均衡というとゲーム理論を少し知っている人ならば、まずナッシュ均衡を想定すると思いますが、著者が重視しているのはコーディネーション・ゲームです。

  このコーディネーション・ゲームの例として、先述のすれ違おうとしている車の例があげられます。このゲームに置いて重要なのは右でも左でもいいのでドライバーの判断が一致することです。このため、右側通行なり左側通行のルールが決まると、それを守ることがすべてのドライバーの利益となり、それが均衡として定着するのです。

 

 著者は貨幣についても、このコーディネーション・ゲームで説明しています(第3章)。不換紙幣は貴金属やその他の商品に比べると、持ち運びに便利ですし、使いやすいですが、不換紙幣を使うためには、支払い相手もまた、不換紙幣を使う(価値を信じている)必要があります。みんなが一致して不換紙幣を利用することで、貨幣という制度が立ち上がってくるのです。

 

 第4章では、草原で放牧をするヌアー族とディンガ族というケースをまずとり上げています。両者は同じ場所で放牧しようとすれば互いに衝突し利得は0。お互いに放牧しなければ衝突はしないが牛は育たず利得は1、ヌアー族のみ放牧すればヌアー族の利得は2でディンガ族は1で、逆も同じようになります。

 利得行列は以下の通りです。

 

  ヌアー族・放牧する ヌアー族・放牧しない
ディンガ族・放牧する 0,0 2,1
ディンガ族・放牧しない 1,2 1,1

 

 この利得表だけだと、お互いにランダムに放牧地を決め、お互いがバッティングしないことを祈るのみですが、もし、両者の間に昔あった川の川床があったらどうでしょう? こうしたフォーカルポイントがあるのならば(フォーカルポイントについてはトーマス・シェリング『紛争の戦略』を参照)、ヌアー族は川床の北、ディンガ族は川床の南といった棲み分けをすることで両者は望ましい均衡を達成できるでしょう(他にも占い師が互いの放牧場所を決めるようなやり方も考えられる)。

 「ヌアー族は川床の北、ディンガ族は川床の南」というのは均衡なのですが、同時にプレーヤーにとってはルールとして認識されます。著者はこれを「均衡したルール」と呼んでいます(85p)。

 著者は制度に対するこうした捉え方が、アブナー・グライフ&クリストファー・キングストン青木昌彦の考えと近いものだと指摘しています(90-91p)。

 

 第5章ではジョン・サールの議論がとり上げられていますが、サールのこのあたりの議論は未読ですし、あんまりサールの議論にピンときたことがないので割愛します。内容的にはサールの打ち出した構成的ルールは統整的ルールから導出できるというものです。

 しかし、サールの議論のポイントの1つは、構成的ルールが義務や権利を生み出すという点にあります。それに対して著者は、義務論的な力は、ゲームにおける個々人のインセンティブを変換する費用として表現する、クロフォードとオストロムの議論を採用しています。

 

 第7章では、コーディネーションを達成するためには人々の信念なり予想が一致しなければならないのですが、それがどのようにしたら可能なのかということが検討されています。

 ここでは、他人の心をシミュレートすることでそれが可能になるという考えが紹介されています。

 一方、第8章では、他人との協調のためには集合的志向性のようなものが必要ではないかという議論が検討されています。自分の能力もあってあんまりきちんと理解できていないのですが、著者によればこの考えはシミュレーションの理論と大きな差はないとのことです。

 

 第9章では再帰性について検討されています。社会的事物を語るときに厄介な問題は、ある制度なり分類、予想といったものが、実際にそのような行動を誘発したり、規定したりすることです。

 例えば、ある会社が「女性社員はすぐに辞めてしまう」という予想のもとに行動していたら、女性社員には長期的な仕事を任せなくなり、実際に女性社員は仕事にやりがいを感じられずに辞めてしまうかもしれません。入社当初は長く働こうと思っていたにもかかわらずです。

 この章では、こうした再帰性マートン流に言えば「自己成就的予言」、ハッキング流に言えば「ループ効果」もまたゲーム理論の均衡として分析できることが示されています。

 

 第10章では、ハッキングの主張するループ効果の有無が社会科学と自然科学の線引をするという問題がとり上げられています。また、社会構成主義についても批判的に検討されています。

 

 第11章と第12章では、社会的な種類は私たちの表象に依存するというテーゼが検討されています。かなり哲学的な内容ではあんまりきちんと理解できなかったのですが、上記の考えは、社会的種類についての非実在論と不可謬主義をもたらすが、著者によると、依存性のテーゼが誤りであって、社会的種類は人々の考えとは独立に存在するとのことです。制度の本性は機能であり、人々の持つ考えによって決まるのではないとのことです。

 

 第13章では意味の問題がとり上げられています。今まで結婚は多くの文化圏で「成人男性と成人女性の公式な結びつき」と考えられてきました。しかし現在、同性婚をめぐる問題がこの考えを揺さぶっています。

 この問題に対して、同性同士の公式な結びつきを認めるかはさておき、同性同士に「結婚」という言葉は使えないとする立場があります。

 2001年にブリティッシュ・コロンビア州で行われた裁判において、言語哲学者のロバート・ステイトンは、男同士が結婚できるかというのは、「なぜ二人の少年が姉妹になりえないのか問うことや、独身男性が結婚した状態でありえないのはなぜかと尋ねたりするのと同じである」(248p)と述べています。ステイトンによれば、同性婚は「結婚」という言葉とはまた違った言葉で表現されるべきなのです。

 

 これに対して、著者は制度は変化するものであり、「いまどうなのかということでなく、私たちが制度がどうあって欲しいか、将来どうなってほしいかということなのである」(254p)と述べ、ハスランガーの議論などを引きながら、制度の改革可能性を打ち出しています(ここで非実在論と不可謬主義を否定した議論が生きてくる)。

 

 最後の第14章は「改革」と題され、実在論者であると同時に改革論者である道が探られています。

 著者はこれが「タイプ」と「トークン」の区別によって可能だとしています。一般にコーディネーション・ゲームは複数の解をもっており、その一つ一つがトークンとしての制度です。つまり、これまで存在しなかったような解も同一制度内の一つのトークンとみなせるのです。

 そして、このトークン制度が一つの証拠となって、タイプ制度を発展させる可能性があります、著者は同性婚の例を取り上げながら、こうした可能性を示しています。

 

  このように第II部ではかなり哲学的な議論がなされており、正直、著者の狙いと達成したことが十分にわかったとは言い難い面もあるのですが(* このエントリーを書き終わって気づきましたが、下のカバー写真から飛べるAmazonのページに梶谷懐氏(梶ピエール氏)による第II部の議論を解説したレビューがアップされています)、冒頭に著者による要旨付きの目次があり、また、監訳者による解説も充実しているために迷子にならずに読めました。

 

 政治においても経済においても制度の重要性というのは疑い得ないと思いますが、「制度とは何か?」と問われると、それに答えるのは意外と難しいものです。

 この本ではその制度に関して、かなり明快な説明がなされています。著者の説明に100%納得したわけではありませんが、制度を考えていく上での一つのモデルと、考えていくときに必要な論点を教えてくれる本だと思います。