デニス・ジョンソン『海の乙女の惜しみなさ』

 先週、レベッカ・ステイモスという聞いたことのない名前の女性から電話があり、共通の友人であるトニー・ファイドが他界したと知らされた。自殺だった。彼女が言ったように、「みずから命を絶った」。

 二秒ほど、その言葉の意味が分からなかった。「絶った……なんてことだ」

 「そうです。自殺してしまったようで」

 「どうやって死んだかは知りたくない。それは言わないでくれ」。正直言って、どうしてそんなことを言ったのか、今でもまったく想像がつかない。(31p)

 

 『ジーザス・サン』や『煙の樹』などの作品で知られるデニス・ジョンソンの第2短編集にして遺作となった作品。

 人生のどん底、最悪の瞬間のようなものを見事に掬ってみせるのがデニス・ジョンソンの作品の特徴ですが、今作は遺作ということもあるのか「老い」というテーマも感じさせます。

 冒頭に紹介したのは表題作「海の乙女の惜しみなさ」の一部分ですが、この作品はまさにそうした特徴がよく現れています。

 広告業界で働く初老の男が主人公で、彼の人生や体験が断片的に語られていきますが、そこには確かにみじめな経験があるとともに、いくつかの出会いがあり、喪失があります。

 

 つづく「アイダホのスターライト」は、アルコール依存症の治療センターにいる男の書いた何通もの手紙という形式を取った作品です。これはまさにデニス・ジョンソンの得意とする最悪な状況を描いた作品と言えるかもしれません。

 

 次の「首絞めボブ」も刑務所を舞台とした作品で、最悪な状況、どうしようもない人物が描かれているのですが、最後になって「この場所は魂の交差点みたいなものなんじゃないか」(113p)と哲学的なレベルに突入します。

 

 4つ目の「墓に対する勝利」は、大学で創作を教えていた主人公が教え子を連れて、牧場に住むダーシー・ミラーという作家に会いに行くが、その後、ミラーについて心配なことがあると連絡を受け…という話。ここでは「老い」が限りなく「死」に接近している感じでちょっとホラーっぽいですね。

 

 最後は「ドッペルゲンガーポルターガイスト」という話ですが、これはちょっと他のジョンソンの作品とは違った印象を受ける作品です。

 主人公は大学で創作を教えている人物ですが、そこでマーカス・エイハーンという才能豊かな若者に出会います。実際に彼は詩人としてその名を知られていくことになるのですが、彼はエルヴィス・プレスリーに取り憑かれている男でもありました。

 しかも、単純なファンというわけではなく、エルヴィスが生まれた時に死んでしまったとされる双子の兄弟(ジェシー・ガーロン・プレスリー)が実は生きているという一種の陰謀論に取り憑かれているのです。

 この話はエルヴィスの謎というのもコテコテの陰謀論で惹かれますし、ラスト近くの9.11テロのエピソードの入れ方などもはまっていて、面白いと思います。

 

 <エクス・リブリス〉シリーズの第一弾が、このデニス・ジョンソンの『ジーザス・サン』で今ブログを振り返ってみたらあれから10年なわけですが、実際にアメリカで発行された年から考えると、『ジーザス・サン』から、この『海の乙女の惜しみなさ』まで26年の月日が流れているわけで、その月日も感じさせるような短編集でした。

 

 

遠藤晶久/ウィリー・ジョウ『イデオロギーと日本政治』

 まず、この本のインパクトは帯にも書かれている、「維新は「革新」、共産は「保守」」という部分だと思います。

 若年層に政党を「保守」、「革新」の軸で分類されると、日本維新の会を最も「革新」と位置づけるというのです。そして、以下のグラフ(134p図5.1)から読み取れるように、20代が無知だからというのではなく、20〜40代に見られる現象なのです。

 

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 本書は、さまざまなサーベイなどを通じて現在の日本の有権者の政治意識を明らかにしようとした本です。ソ連の崩壊や社会党の退潮、小選挙区比例代表並立制の導入と新進党民主党といった野党の誕生の中でも、政治を語る言葉はそれほど変化しませんでしたが、冒頭にもあげた「保守/革新」の変容などをサーベイによって示すことで、若い世代に起きている政治認識の変化を浮き彫りにしています。

 さらに都知事選に出馬した田母神俊雄の支持層から分析した日本の極右層の姿や、若者の「自民支持」のからくりなど、いくつかの興味深い知見が明らかになっています。

 

 目次は以下の通り。

序章 はじめに
第1章 有権者におけるイデオロギーの変化
第2章 世代で捻れるイデオロギー対立
第3章 イデオロギーと投票行動
第4章 イデオロギーと政治参加
第5章 イデオロギー・ラベルの比較
第6章 改革志向と保守・リベラルから見る政党対立
第7章 日本における極右支持
第8章 若者の保守化?
第9章 おわりに――比較の中の日本のイデオロギー
あとがき

 

 まず、イデオロギーという概念ですが、本書では「有権者が政治的な政治の意味を理解し、様々な政策争点について政党の立場の違いを理解し、それにしたがって投票所で選択をするための地図を構成する、その枠組みである」(14p)としています。

 この「枠組み」が世代によって異なっているというのが本書の主張の1つになります。

 

 世界的に見て、多くの国で「右/左」というイデオロギーによるラベルが用いられており、それは資本と労働の間の亀裂として捉えられてきました。日本では慣用的に「右/左」よりも「保守/革新」のラベルが用いられることが多く、また対立軸としては安全保障をめぐる問題が重視されてきました。

 

 第1章では過去の世論調査の回帰分析を行うことで、改めて過去の日本人がどのようにイデオロギーを把握してきたのかが分析されています。

 過去の質問に安全保障や外交に関するものが多いということもあるかもしれませんが、収入とイデオロギー位置の関連性はあまりなく、農村と都市の差もあまりありません(農村=「保守」というわけではない)。また、福祉サービスの問題や女性の地位向上などもイデオロギーとの関連性はあまりなく、「保守/革新」を分ける1つのポイントと考えられがちな天皇の役割に関しても特にイデオロギーとの関連性はありません。日本のイデオロギー位置は安全保障、外交、歴史問題といった限られたイシューの中で成立していたことがうかがえるのです。

 

 第2章では世代とイデオロギーラベルの関係を分析しています。年長世代と若者の価値観の差を説明するものとして、世代効果と加齢効果があります。つまり、生まれ育った時代が価値観を大きく規定するという考えと、多くの人は加齢とともに一定の価値観を身につけるようになり、それが年長者と若者の価値観の違いを生むという考えです。

 日本では、年長者ほど自民党共産党イデオロギーの差を大きく認識する傾向があり、逆に若者はこの差を小さく認識しているのですが、本書ではこれを加齢効果というよりも世代効果の帰結としてみています。

 世界的に政治の分極化が進んでいると言われていますが、日本ではむしろ選挙制度改革の影響もあってイデオロギー対立の収斂が進んでおり、加齢効果もあまり働いていないのです。

 そして、冒頭にも紹介したように若者の間では「保守/革新」というイデオロギーが無効になりつつあり、共産党が「保守」と位置づけられ、日本維新の会みんなの党が「革新」と位置づけられているのです(69p図2.5参照、この調査は2012年に行われたのでみんなの党が入っている)。 

 

 第3章で分析されているのはイデオロギーと投票行動の関係です。日本の有権者がどの程度イデオロギーに従って投票行動を行っているかということが分析されています。

 分析結果によると、かつては確かにイデオロギーが投票行動に影響を与えていましたが、2010年になると保守側(自民党)への投票についてはイデオロギーの影響が残っているものの、革新側(社会党民主党共産党)への投票についてのイデオロギーの影響はほとんどないとのことです。90年代以降、「革新」というイデオロギーが大きく揺らいだことがうかがえます。

 また、イデオロギーは年長者世代に影響を与えている一方、若い世代の投票行動への影響は弱まっています。

 

 第4章は政治参加全般とイデオロギーの関係について分析されています。政治参加を「投票行動」、「選挙運動」、政治家への陳情や自治会の活動などの「システム支持行動」、市民運動への参加やデモなどの「エリート挑戦行動」という4つに区分し、それぞれとイデオロギーの関係を明らかにしようとしています。

 「投票行動」、「選挙運動」への参加とイデオロギーの関係はあまりありませんし、「システム支持行動」に関しても特定の世代(1944−58年生まれ)を除くと、あまり関係がありません。

 一方、「エリート挑戦行動」については「革新」であるほど参加しやすい傾向が見られます。ただし、若い世代に限るとこの傾向はなくなっています。多くの民主主義国で投票率が低下する一方で、若者がデモなどに参加する傾向が見られますが、日本ではその傾向があまり見られないのです(ただし、この分析は2010年までしかカバーしておらず、反原発デモやSEALDsの活動が注目されてからどうなったかはわかりません)。

 

 第5章は冒頭にあげたグラフが載っている章で、本書の1つの読みどころと言えるでしょう。

 最初に述べたように「保守/革新」というイデオロギーの対立軸は年長世代と若者の間で理解が異なってしまっています。若年層では「改革」を標榜する日本維新の会みんなの党を「革新」と認識しており、この用語は旧来のイデオロギーを把握する上で適当な用語とは言えなくなっているのです。

 

 ただし、「革新」という言葉はいかにも古めかしいものであり、若者には理解されにくい用語と言えます。

 そこで「保守/リベラル」であればどうかというと、実はここでも20代と30代は自民、民主、日本維新の会みんなの党共産党の5つの政党の中で日本維新の会を最も「リベラル」と認識しています(136p図5.2参照。もっとも、リベラルの語源を考えれば、この理解もわからなくはない)。

 一方、「右/左」のイデオロギーに関しては20代〜60代まで、すべての年代が右から順に自民、日本維新の会みんなの党民主党、共産という順番で並べています(137p図5.3参照)。この図式は崩れていないと言えるでしょう。

 ただし、若年層になればなるほど自民と共産の距離は近づきますし、若年層ではこの「右/左」のラベルに対して「わからない」と答える割合が「保守/革新」、「保守/リベラル」に比べてかなり多いそうです。「右/左」のラベルを使うのが適切であるとも言い難いのです。

 また、政策争点に関してがどれくらいイデオロギーと関係があるのかというのも世代によって違いがあり、例えば、原発再稼働は高齢層にとってはイデオロギーに関わる問題ですが、若年層ではそれほどではありません。

 日本におけるイデオロギーの理解や位置づけは世代によって大きな違いがあるのです。

 

  第6章は、こうした曖昧になったイデオロギーに「改革志向」という次元を付け加えることで、有権者の政党観を捉えなおそうとしたものです。

 2017年の調査に基づいて分析が行われていますが、ここでも50歳以上と49歳以下を分けて分析することで、世代間の違いを浮き彫りにしようとしています。対象となっている政党は、自民、民進、公明、日本維新の会、共産の5つと無党派層、さらに回答者自身のポジションについても聞いています。

 

 その結果、年長者は改革志向では大きい順に自民、日本維新の会民進・共産・公明がほぼ団子という形で並べています。一方、無党派を一番改革志向が弱いと見つつ(無党派層を政治に関心を持たない層と認識しているのか)、回答者自身の改革度合いをどの政党よりも大きいものとしています。

 一方、49歳以下では改革志向は大きい順に日本維新の会、自民、回答者自身、無党派層民進、公明、共産となっています。また、「保守/リベラル」の広がりよりも改革志向の度合いの幅が広く、年長者と比べて改革志向の度合いで政党を認識していることもうかがえます。

 ここで注目すべきは50歳以上では、回答者自身のポジションに近い政党は存在しないものの、49歳以下の回答者に関しては回答者自身のポジションと自民党がかなり近いということです(164pの図6.1、図6.2参照)。

 ちなみに本章の最後で、イデオロギー・ラベルに関する混乱は有権者だけでなく政治間も見られることで、「寛容な改革保守」と自らを位置づけた小池百合子が、実は「改革」と「リベラル」に支えられており、保守色の押し出しと「リベラル」の排除がその支持基盤を失わせたと指摘しています(177p)。

 

 第7章は「日本の極右支持」と題して、2014年の都知事選における田母神俊雄の支持層を分析しています。

 日本では自民よりも右のポジションの政党が長続きしたことはなく、なかなか「極右支持層」の実態を明らかにすることが難しい状況が続いています。ところが、2014年の都知事選では明らかに自民よりも右寄りの候補が現れ、なおかつ、一定の支持を集めたのです。

 

 田母神俊雄に投票した有権者の特徴ですが(東京都の有権者を対象にしたウェブ調査のため実際に投票した人とはずれている可能性もある)、まず平均年齢は42.6歳と他の3候補(舛添、細川、宇都宮)よりも5歳以上若く、男性が63%を占めます。このあたりは西欧諸国の極右支持層と重なります。

 ただし、失業者が多いわけでも学歴が低いわけでもありません。さらに国会や政党への信頼は細川・宇都宮支持者よりも高く、都政、国政に対する満足度も高く、国政への満足度に至ってはどの候補の支持者よりも高いです(191p図7.1参照)。

 田母神支持者は、既存の政治やエリートを否定する、いわゆるポピュリズムの支持者とはまったく違った存在で、権威主義ナショナリズムといった旧来の左派的な価値観に対抗するものに動かされている、いわば昔ながらの右派といった傾向が強いのです。

 今のところ、自民よりもさらに右の極右ポピュリストが台頭する余地は小さいのかもしれません。

 

 第8章では「若者の保守化」という言説をとり上げて、それが本当かどうかを実証的に分析しています。本書のもう1つの読みどころと言えるかもしれません。

 今まで加齢とともに自民への支持が増える傾向にありましたが、近年の国政選挙の出口調査を見ると、20代の若者における自民の得票率が高いことがわかります。世界的に見て、若者は左派的な傾向を持つにもかかわらずです。この謎を鮮やかに解き明かしたのが本章になります。

 

 まず世界価値観調査をもとに国際比較を行うと、日本の若者は特に右傾化していません。2010年代の若者(30代以下)の右派は10.8%と1990年代の10.3%とほとんど変わりませんし、スウェーデンニュージーランドアメリカといった国よりもずいぶん低い割合になっています(ドイツやオーストラリアよりは高い、216p図8.1参照)。

 一方、左派の割合を見ると、予想に反して日本の若者の左派の割合は1990年代の10.3%から2010年代の17.0%へと大きく上昇しています。むしろ若者は左傾化しているのです(219p図8.3を見ると、世界的にやや左傾化しているのが見て取れる)。

 

 この謎を解く鍵の1つが自民党が左派からも票を得ていることです。日本の若者の中の右派は当然ながら自民に投票するわけですが、左派の3割ほども自民に投票すると答えており、その割合は民主党とほぼ拮抗していることです(222p図8.5参照、ここでは2010年と2014年のデータが使用されている)。

 さらに日本の右派の17.5%が支持する政党がないと答えているのに対して、穏健左派では42.7%、左派では50%が支持する政党がないと答えています(224p)。つまり一般的に「左派」と考えられている政党が左派の若者の支持を集めることができていないのです。

 

 この他、安倍内閣の支持について聞く問に対して「わからない」と答える若者が多いこと、野党支持が少なく無党派が多いことなどから、若者の選択肢は「自民か野党か」ではなく、「自民か無党派か」であり、投票行動も「自民か野党か」ではなく「自民か棄権か」になっていると考えられるのです。そして、これが出口調査で若者の自民の得票率が高く出るからくりです。

 こうした分析を承けて結論では、「イデオロギーについていえば、なぜ日本の有権者(特に若者)が保守化したかではなく、自民党がどのように左派からの支持を取り付けているのかが問われるべきである」(230p)と述べています。

 さらに「若者自体はイデオロギー軸上の真ん中に留まって、政治に関心を払ったり払わなかったりしているのだが、それと同時に、左側の選択肢に対する信頼を失っている状況が、表面上は保守化のように見えるのであろう」(230p)とも述べています。

 問題は若者の右傾化や保守化ではなく、自民以外の政党の訴求力のなさなのです。

 

 最後の第9章では非常に簡単なものではありますが、イタリアとの比較を行い、日本の特徴を取り出そうとしています。

 

 このように本書は非常に興味深い知見を与えてくれる本だと思います。

 この本で明らかにされている事実は、個人的には驚きというものではなく、比較的しっくりと来るものだったのですが、だからこそ面白いという部分もありました。

 例えば、高校生相手に授業をしていて「保守/革新」、「右/左」という言い方にピンときていないのはわかっていましたし、「若者の右傾化」といっても、そういう若者はいても少数で、大多数は右や左を気にしていないということも知ってはいましたが、改めてこうしたデータに基づいた分析を見せられると、マスコミの言説と自分の感覚のズレがきれいに埋められていくようで非常にスッキリしました。

 

 実証分析を中心とした専門書で、とっつきにくさはあるかもしれませんが、政治に興味のある人は面白く読めると思いますし、政治報道に携わる人や野党の関係者や支持者にはぜひ読んでもらいたい本ですね。

 

 

 

椎名林檎/三毒史

 椎名林檎の4年半ぶりのオリジナルアルバム。圧倒的に良いのは宮本浩次をフィーチャーした"獣ゆく細道"で、宮本浩次の歌手としての力量をいかんなく見せつけた1曲で、暴走していきそうでありながら、1つも音を外さないボーカルは本当に見事です。

 エレファントカシマシの曲にもいいのがありますが、宮本浩次の歌手としての潜在能力を引き出したという点で、椎名林檎の見事なプロデュースの腕が発揮された1曲と言えるでしょう。

 

 ただ、プロデューサーとしての椎名林檎の見事さは確認できても、今までにあった歌手としてのエモさのようなものはほぼなくなったといえるかもしれません。前作でも「ありあまる富」などには椎名林檎の歌手としてのエモさがあったと思うのですが、このアルバムを聴いても特にそういったことを感じることはありません。

 もちろん衰えたというわけではないのですが、かつてあった過剰さのようなものはなくなったのかもしれません。以前は、椎名林檎の歌というのは明らかに過剰さがあって、それに対抗するかのように亀田誠治が過剰な音作りをしていた部分があったと思うのですが、このくらい落ち着いてくると、今までのような過剰な音作りは必要ないかもしれません。

 このアルバムだと、"TOKYO"、"長く短い祭"くらいの音がちょうどよい気がします。

 

 もっとも、トータス松本を起用した"目抜き通り"なんかは派手な音が歌にマッチしているわけで、こうした派手な感じの曲をつくるのも上手いと思います。

 椎名林檎は、今後はプロデューサーとして派手な音作りを続けていくか、歌い手としてもうちょっとシンプルな音を作っていくのか、どっちの方向に進んでいくのかな? と思いました。

 


椎名林檎と宮本浩次-獣ゆく細道

 

 

『海獣の子供』

 五十嵐大介の長編漫画を、松本大洋の『鉄コン筋クリート』などを手がけたSTUDIO 4℃が映画化したもの。

 まず、とにかくアニメとしての表現は素晴らしい!

 五十嵐大介の線が多くて動かしにくそうなキャラクターを見事に動かしているし、前半に見られるこった構図も魅力的。

 そしてなんと言っても海と海の生物の表現がきれいだし迫力がある。クジラの描き方にしても、普通の実写では見られないような肌の質感の見せ方とかがあってすごいですし、海の描写もCGをうまく使いながら鮮やかに見せています。

 日常の中の幻想的な風景とかもアニメならではの表現という形でうまく見せていますし、映像は文句なしです。

 

 一方、ストーリーは長い話をうまく再編集できなかった感じもあり、80年代以降繰り返されているニューエイジものの変奏に見えてしまう。

 主人公の琉花が、夏休みのはじめに海という名前のジュゴンに育てられた不思議な少年に出会い、そして世界の秘密のようなものに近づいていくのですが、その世界の秘密を解説する周囲の人物のセリフが多すぎて、説明的なんですよね。

 おそらく、原作にもあるセリフなんでしょうが、長い原作の中にばらばらに配置されていればそれほど気にならなくても、2時間の映画の中で連発されると、ややうるさくも感じます。

 せっかく、映像の圧倒的な力があるので、ここは下手に説明せずに感覚的にわからせるような方向でも良かったのではないかと思います(この点、アニメの『AKIRA』は「アキラが何なのか?」とか「結局、何が起こったのか?」をあんまり詳細に説明しようとしなかった点がうまかったと思う)。

 ちなみに主人公の声が芦田愛菜なんですが、芦田愛菜は本当になんでも器用にこなせますね。

 

 

ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』

 民間企業だけでなく、学校でも病院でも警察でも、そのパフォーマンスを上げるためにさまざまな指標が測定され、その指標に応じて報酬が上下し、出世が決まったりしています。

 もちろん、こうしたことによってより良いパフォーマンスが期待されているわけですが、実際に中で働いてみると、「こんな指標に意味があるのか?」とか「無駄な仕事が増えただけ」と思っている人も多いでしょうし、さらには数値目標を達成するために不正が行われることもあります。

 この現代の組織における測定基準への執着の問題点と病理を分析したのが本書になります。著者は『資本主義の思想史』などの著作がある歴史学部の教授で、大学の学科長を務めた時の経験からこのテーマに関心をもつことになったそうです。本文190ページほどの短めの本ですが、問題を的確に捉えていますし、紹介される事例も豊富です。さらに、現在「新自由主義」という曖昧模糊とした用語で批判されている現象に対して、一つの輪郭を与えるような内容にもなっており、非常に刺激的です。

 

 目次は以下の通り。

はじめに

Part I 議論
1 簡単な要旨
2 繰り返す欠陥

Part II 背景
3 測定および能力給の成り立ち
4 なぜ測定基準がこれほど人気になったのか
5 プリンシパル、エージェント、動機づけ
6 哲学的批判

Part III あらゆるものの誤測定?――ケーススタディ
7 大学
8 学校
9 医療
10 警察
11 軍
12 ビジネスと金融
13 慈善事業と対外援助
補説
14 透明性が実績の敵になるとき――政治、外交、防諜、結婚

Part IV 結論
15 意図せぬ、だが予測可能な悪影響
16 いつどうやって測定基準を用いるべきか――チェックリスト

 

 「説明責任(アカウンタビリティ)」という言葉が、良いものとしてさかんに使われるようになりましたが、著者に言わせれば、この中には「責任を取る」という意味と、「カウントできる」、つまり測定できるという暗黙の意味が含まれています。ここから以下の特徴を持つ、「測定執着」なる態度が生まれてきます。

 

・ 個人的経験と才能に基づいておこなわれる判断を、標準化されたデータ(測定基準)に基づく相対的実績という数値指標に置き換えることが可能であり、望ましいという信念

・ そのような測定基準を公開する(透明化する)ことで、組織が実際にその目的を達成していると保証できる(説明責任を果たしている)のだという信念

・ それらの組織に属する人々への最善の動機づけは、測定実績に報酬や懲罰を紐づけることであり、報酬は金銭(能力給)または評判(ランキング)であるという信念(19p)

 

  「測定執着」というとかなり病的な態度を想像しますが、上記の3点は現代において至って普通の考えではないでしょうか。3番目の報酬についての部分はともかくとして、1番目と2番目の態度は多くの人々が共有している信念でしょう。

 1975年にアメリカの社会心理学者ドナルド・T・キャンベルは「定量的な社会指標が社会的意思決定に使われれば使われるほど、汚職の圧力にさらされやすくなり、本来監視するはずの社会プロセスをねじまげ、腐敗させやすくなる」(キャンベルの法則)と述べ、イギリス人の経済学者のグッドハートは「管理のために用いられる測定はすべて、信頼できない」(グッドハートの法則)と述べたそうですが、数値による管理は、近年ますます盛んになっていると言えるでしょう。

 

 しかし、こうした風潮はさまざまな機能不全を招いています。「一番簡単に測定できるものしか測定しない」、「成果ではなくインプットを測定する」、「標準化によって情報の質を落とす」、上澄みすくいによる改竄」、「基準を下げることで数字を改善する」、「データを抜いたり、ゆがめたりして数字を改善する」、「不正行為」(24−26p)といった事態がしばしば引き起こされているのです。

 

 測定した実績に応じて報酬を決めるという政策の歴史は古く、1862年にイギリスの自由党の議員ロバート・ロウが提案した政府から学校への財政援助を結果に応じて支払うべきだというものにさかのぼります。

 この計画に異を唱えたのが、文化評論家のマシュー・アーノルドで、彼は年1回のテストの時に貧困層の生徒が不在になってリ、貧困層の多い学校への資金が減らされるだろうと述べました。こうした試みが登場したときから、その問題点は明らかだったのです。

 

 こうしたやり方を軍に持ち込んだのがロバート・マクナマラでした。ベトナム戦争時に国防長官だった彼は、空軍は空爆の出撃回数、砲兵部隊は発射した弾の数、歩兵部隊では死者数を測定し、これを基準にしようとしましたが、うまくいったとは言い難いでしょう。

 

 それでもこうした測定基準は支持され続けてきました。このあたりの事情について著者は次のように述べています。

 説明責任の数値的測定基準の探求は、社会的信頼が低いことが特徴の文化では特に魅力的に映る。そして権力に対する不信感は、1960年代以来ずっとアメリカ文化の基調であり続けた。したがって政治、行政、その他多くの分野において数字が重視されるのはまさに、権力者の主観的で経験に基づく判断に対する信頼に数字が取って代わってくれるからだ。説明のための測定基準の探求は、政治的左翼と右翼、どちらの側にも魔力を発揮する。ポピュリスト的なものであれ、平等主義的なものであれ、階級、専門性、血統に基づいた権力に対する疑念と、説明責任のための測定基準の間には親和力があるのだ。(41p)

 

 右派は公的機関への不信感から数字による測定を支持し、左派は権力者に対する不信感から数字による測定を支持しました。

 さらにアメリカでは訴訟の頻発と賠償額の高額化がこうした状況に拍車をかけます。また、教育や医療などにおけるコストの高止まりが問題視され、複雑な組織の上に立つ経営者もこうした数字を求めました。特に複数の組織を渡り歩くCEOなどにはこうした数字こそが組織を把握する術になるからです。

 加えて、表計算ソフトの普及がこうした測定を容易にしました。スティーヴン・レヴィによれば「スプレッドシートはツールだが、世界観でもある」(47p)のです。

 

 また、学術的にもプリンシパル=エージェント理論がこうした傾向を後押ししました。エージェントを動機づける方法として成功報酬が重視され、その成功を測るために測定基準が導入されました。

 この動きは民間企業にとどまらず、ニュー・パブリック・マネジメントとして公的機関にも広がっていきます。こうした動きに対しては、医療や教育などで成功報酬(外的報酬)を用いることは内的な動機づけを傷つけることになるという批判もありましたが、それでもこうした動きは続いています。

 

 Part IIIでは、さまざまなケースにおける問題点が指摘されていますが、ここではいくつかの分野の失敗を簡単に紹介したいと思います。

 まずは大学ですが、現在、各国で大学の「教育の質」を評価しようという試みが盛んに行われており、また、大学のランキングに注目が集まっています。

 しかし、大学のランキングを上げるために行われていることの中には、豪華なパンフレットの作成や教育雑誌への広告、測定基準のごまかしなど、「教育の質」には関わりのないようなことも多いです。

 増えていく測定基準に対応するため、ランキングを上げるために、急増しているのは大学の事務職員です。そして、この人件費は学費となって学生にのしかかっています。大学を稼げるところにするための試みが、学生の負担を重くしているのです。

 

 次は学校です。アメリカではクリントン政権、ブッシュ(子)政権のもとで学校の成績と学校への資金をリンクさせる試みが行われてきました。

 生徒の成績はテストで評価され、それが学校の評価へもつながるわけですが、この結果、テストへに向けた勉強が重視されるようになり、テストにない科目は軽視されました。また、長文読解など、テストで問われない能力についても低下したとも言われています。

 さらに学力の低い生徒を「障害者」に分類したり、答案を捨てたり、答案に手を加えたりといった不正行為までが行われるようになっています。

 一部の州では教師の報酬をテストの成績と連動させていますが、それでも学力の格差は埋まっておらず、1992年と2013年を比べると白人と黒人の差は逆に広がっています(99p)。また、こうした測定基準の重視は独創的なカリキュラムを難しくさせており、一部の教員が私立学校へ流出する動きもあります。

 

 医療に関しては、グリーヴランド・クリニックやガイシンガー・ヘルス・システムといった輝かしい成功例もあるのですが、問題がないわけではありません。例えば、術後30日間の生存率を重視すれば、医師は難しい手術をしたがらなくなるかもしれませんし、30日間は無理にでも延命させようとするかもしれません。データによって一部の能力の低い医師をあぶり出すことはできますが、それだけですべてを評価しようすれば様々な問題が生まれてくるのです。

 

 警察はこの測定基準の重視が厄介な問題を引き起こす部門かもしれません。アメリカのFBIは各都市からの報告に基づき、主要な凶悪犯罪や主要な窃盗罪のデータを集めて公開していますが、これによって起きたのは警察官が犯罪の程度を引き下げて報告することです。例えば、侵入窃盗は不法侵入に格下げされてデータから外されます。

 さらに例えば、長年の捜査の末に麻薬組織のボスを逮捕するよりも、街角で麻薬を売っているティーンエージャーを何人も逮捕するほうがデータの見栄えは良くなります。警察のリソースは解決しやすい事件のみに振り分けられてしまうかもしれないのです。

 

 ビジネスの世界においても、報酬を数値と過度に連動させることはいろいろな問題を引き起こすと考えられるようになりました。例えば、経営者の報酬を短期的な業績や株価で決めてしまうと、経営者は会社の長期的な評判を無視して経営を行うかもしれません。特に四半期の業績を重視する昨今の経営では長期的な視点は失われやすいのです。

 

 以上のような測定基準のケーススタディからもたらされる教訓として、著者は「測定されるものに労力を割くことで、目標がずれる」、「短期主義の促進」、「従業員の時間にかかるコスト」、「効用の逓減」、「規則の滝」、「運に報酬を与える」、「リスクを取る勇気の阻害」、「イノベーションの阻害」、「協力と共通の目標の阻害」、「仕事の劣化」、「生産性のコスト」といったものをあげています(172−176p)。

  

  かと言って、著者も数値による測定は全部悪いとか、廃止すべきだといっているわけでありません。測定基準との上手い付き合い方が必要なのです。

 そこで最後に測定基準の使用法を使う上での次の10個のチェックリストをあげています。

1 どういう種類の情報を測定しようと思っているのか?

2 情報はどのくらい有益なのか?

3 測定を増やすことはどれほど有益か?

4 標準化された測定に依存しないことで生じるコストはどんなものか? 実績についてほかの情報源があるか?(顧客や患者、生徒の保護者などの経験と判断に基づくもの)

5 測定はどのような目的のために使われるのか、言い換えるのなら、その情報は誰に公開されるのか?

6 測定実績を得る際にかかるコストは?

7 組織のトップがなぜ実績測定を求めているのかきいてみる。

8 実績の測定方法は誰が、どのようにして開発したのか?

9 もっともすぐれた測定でさえ、汚職や目標のずれを生む恐れがあることを覚えておく。

10 ときには何が可能かの限界を認識することが、叡智の始まるとなる場合もある。

 

 このように、この本は組織で働いたことのある人であれば多くの頷く内容を含んでいると思いますし、組織を運営する立場の人にも注意すべき点を教えてくれる本です。この数値により測定というものは、企業だけでなく教育、医療、行政とあらゆる部門に浸透しているので、まさに今という時代に広く読まれるべき本だと思います。

 

 さらに個人的には、近年の「新自由主義」なるものを考える上でも示唆に富んだ本だと思いました。

 現代社会の生きづらさを語る時に、「ミルトン・フリードマンの理論を背景とした新自由主義サッチャーレーガンらの右派によって導入されたことが云々」といったことが盛んに言われますが、この「右派による新自由主義」が根本的な問題であるのならば、それを修正する機会はあったはずです。アメリカではクリントンオバマ民主党政権期、イギリスではブレア、ブラウンの労働党政権期はそれなりの長さであり、右派の政策を修正できたはずなのです(日本の民主党政権は短すぎたと言えるかもしれませんが)。

 

 もちろん、「クリントンオバマもブレアもブラウンもみんな新自由主義者なのだ!」という物言いも可能でしょうが、それではよほどの左翼以外はみんな新自由主義者ということになりかねません。

 このあたりをウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』では、新自由主義の問題点は、本来政治の言葉で語られるべきことが経済の言葉で語られてしまうことなのだとして、経済的な用語に満ちたオバマの演説などを批判していましたが、本書を読むとこの問題がもう少しはっきりとしてくるのではないでしょうか。

 

 つまり、現代の社会において、「実績を数値で測定し、それを公開して説明責任を果たし、さらにその数値にインセンティブをもたせる」というのは右派も左派も正しいと考えている政策であり、だから政権が交代してもこうした政策は変わらない。

 ところが、こうした政策は支持を集める割には同時に人々の生きづらさをもたらすような政策でもあり、この手法が広まったのが新自由主義が広まったのと同じような時期でもあるので(正確に言えば、本書に書かれているマクナマラの例にもあるようにこの手法の導入時期は新自由主義の流行よりも古い)、人々はこの生きづらさの原因を新自由主義に求めている、という感じなのではないでしょうか。

 

 では、どうすればいいか? というと、これは難しい問題で、もちろん数字を使った管理の有効性を完全に否定するわけには行きません。「データが単純な理論を支持しているように見えても、常に複雑な理論がある可能性を保持し続ける」、「経験知や保守的な態度に注意を払う」といった態度や、本書のチェックリストを見返して、常に数値目標といったものを疑っていくということしかないのかとも思いますが、こうした現代社会の問題を考える上でも本書は興味深いものとなっていると思います。

 

 

 

 こちらの記事も参考に

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グレッグ・イーガン『ビット・プレイヤー』

 最近、非常にハードなSF長編を世に送り出していたイーガンの久々の短編集。ここ最近の長編に関して、自分にはちょっと難しすぎるなと感じていて、〈直交〉三部作はスルーしていたのですが(『白熱光』まで読んだ)、今回は短編集と聞いて久々に読んでみました。

 収録作は、「七色覚」、「不気味の谷」、「ビット・プレイヤー」、「失われた大陸」、「鰐乗り」、「孤児惑星」の6篇。後半の「鰐乗り」、「孤児惑星」は近年の長編に通じるようなややハード目の内容ですが、前半の3作は初期のイーガンの短編に通じる、テクノロジーが人間の生き方を変えてしまう様子を描いた作品です。そして、「失われた大陸」はSF風でありながら、社会問題を正面から扱った異色作になります。

 

 「七色覚」は網膜インプラントのテクノロジーによって「ものの見え方」が変わった子どもたちの話。他の人々とは違ったものの見え方が手に入った当初のキラキラとして感覚と、やや苦味のある結末の落差が印象的です。

 

 「不気味の谷」は、ある人気テレビ脚本家の脳をスキャンして移植されたアンドロイドの話。こうしたアンドロイドが遺産相続をしてもいいのかといった問題がメインテーマと思いきや、そこから移植時に消去されたと思われる記憶の欠落部分をめぐるミステリーになってきます。そしてまたアンドロイドのアイデンティティの問題に戻ってくるあたりが上手いですね。

 

 「ビット・プレイヤー」は、冒頭、いきなり奇妙な物理法則が働いている世界が描かれ、読者は何がなんだかという気になりますが、そこはイーガン、その奇妙な物理法則から主人公が置かれた世界を説明し、物語に引き込んでいきます。ここでは仮想空間やAIをどう扱うべきなのかという倫理性のようなものも問われています。

 

 「失われた大陸」は、中東を思わせる地域に出現した〈学者たち〉と呼ばれる謎の集団が現れ、主人公のアリの村も襲われます。そこからタイムスリップが入り、異世界ものになるのかと思いきや、タイムスリップなどはたんなるSF的な装飾のようなもので、本丸は現在行われているオーストラリアの難民政策を描き出すことだということが見えてきます。

 実はオーストラリアは自国に来た難民をパプアニューギニアナウルの収容所に収容しており、その扱いは非人道的だとして国際的な避難を浴びています(例えば、このニューズウィークの記事「オーストラリアの難民政策は「人道に対する罪」、ICCに告発」を参照)。

 イーガンは以前からこの問題を批判しており、難民支援や抗議活動に関わってきたとのことで、難民への非人道的な待遇を告発する物語となっています。

 

 「鰐乗り」、「孤児惑星」は誰か詳しい人にお任せとして、前半の3篇は『しあわせの理由』あたりのイーガンが好きな人に向いている作品で、テクノロジーと人間のアイデンティティの問題が密接に結びついます。

 「失われた大陸」は、イーガンが理系オタクではないことを示した1篇で、個人的には高く評価したいですね。

 

 

ダニ・ロドリック『貿易戦争の政治経済学』

 『グローバリゼーション・パラドクス』で、グローバリゼーションのさらなる拡大(ハイパーグローバリゼーション)、国家主権、民主主義の三つのうち二つしか選び取ることができないとする考えを打ち出したトルコ生まれの経済学者の新著。

 タイトルからはトランプ政権誕生以降の貿易戦争を扱った本を想像しますが、それ以外にも発展途上国の経済成長の行方、経済学の変化、金融の問題などを扱っており、著者の一般読者に向けた時事的な論説を集めたものとなっています。

 

 目次は以下の通り。

第一章 より良いバランスを取り戻す
第二章 国家の仕組み
第三章 欧州の苦闘
第四章 仕事、産業化、民主主義
第五章 経済学者と経済モデル
第六章 経済学上のコンセンサスの危機
第七章 経済学者、政治、アイデア
第八章 政策イノベーションとしての経済学
第九章 何がうまくいかないのか
第十章 グローバル経済の新たなルール
第十一章 将来に向けた成長政策
第十二章 政治こそが重要なのだ、愚か者!

 

 まず、第1章と第2章で論じられているのが、グローバリゼーションの行き詰まりと、国家の重要性の指摘です。

 グローバリゼーションは多くの国に恩恵をもたらすと考えられてきました。発展途上国も、このグローバリゼーションに加わることで経済発展が可能になると主張する人も少なくありませんでした。

 しかし、日本、韓国、台湾といった国は今よりも輸入関税が高かった時代に輸出主導の経済成長を成し遂げましたし(日本についてはいうほど輸出主導ではないですが)、また、中国についても著者は以下のように述べています。

 他国の経済開放によって最大の利益を享受したのはもちろん、最も歴史に残る貧困削減と経済成長を成し遂げた中国だった。一方、自国の側では広範囲にわたる産業政策を導入し、輸入自由化の遅延や局所的な実施、資本規制の導入も行うなど、極めて注意深い戦略を遂行した。中国がグローバリゼーションのゲームの中で従ったのは、ハイパーグローバリゼーションのルールではなくブレトンウッズ体制のルールだったのだ」(44p)

 

 1980年代前半、日本の集中豪雨的輸出などによって保護貿易の機運が高まりましたが、90年代以降、世界の貿易は爆発的に拡大しました。しかし、現在、トランプ大統領をはじめとして自由貿易を攻撃するポピュリスト政党が多くの国に勢力を拡大しています。

 同時にもはや「古い」と考えられていた国民国家の重要性がまし、撤廃すべきだと考えられていた国境の壁は、むしろ高くなりつつあります。

 

 著者はこうした動きを肯定するわけではありませんが、国家の重要性は今一度考え直されるべきだとしています。市場はさまざまなルールや制度に支えられており、国民国家がそういったルールや制度を提供してきたからです。

 もちろん、グローバリゼーションの時代にはルールや制度を作る主体もグローバルであるべきかもしれませんが、グローバル・ガバナンスは未だに十分に整備されておらず、また、地域の違い、市場を支える制度が一つの形だけではないことなどから、このグローバル・ガバナンスはそう簡単には成立しないと考えられます。

 また、著者は市場を支える制度が多様であることは必ずしも悪いことではなく、さまざまな実験が行われているという点ではむしろ良いことでもあります。

 著者に言わせれば、「国民国家を必要としているのは誰なのか? 答えは我々全員だ」(63p)というわけなのです。

 

 第3章はギリシャへの処方箋や欧州の経済政策を批判したものですが、その中で全面的な自由化を行わなくても経済は発展に得るとして次のように書いています。

 インドのケースから学べる教訓は、複数の市場の歪みに苛まれている経済においては、小さな変化でも大きな成果を生み出すことができるということだ。1978年以降の中国の成長の加速は、まさにこのことを裏付けている。中国経済の離陸は、経済全体の改革や抜本的な自由化によってもたらされたものではなかった。集団農業のルールを緩和し、農家に(政府に課されたノルマを上回った)過剰生産物を管理されていない市場価格で売ることを認めた具体的な改革によってもたらされたものだ。(74p)

  このあとアフリカのモーリシャスの輸出加工特区の例もとり上げられていますが、経済発展を促すのは経済の全面的な自由化ではなく、成長を阻害しているものをピンポイントで取り除くことだと著者は主張します。

 EUIMFギリシャに強いたような「ビッグバン」ではなく、制約要因を順々に克服していくような経済政策こそが安定した離陸をもたらすのです。

 

  EUの経済統合をある意味で行き過ぎたものだったと考える著者は、マクロンの当選に触れながら次のように述べています。

 マクロンがドイツに向けて発しているメッセージは明確だ。我が国を助けて、共に真の統合(経済、財政、そしてゆくゆくは政治も)を構築するか、もしくは過激主義の台頭に欧州が乗っ取られるかだ。

 マクロンの考え方は、ほぼ確実に間違っていない(私の議論の延長線上にある第三の選択肢は、経済統合の規模を計画的に縮小させることだろう)。(93p)

 

 第4章は発展途上国の経済成長について論じたものですが、この部分は非常に面白いです。

 21世紀初頭、発展途上国は今後力強い経済成長を見せると考えられていましたが、近年は悲観論が強まっています。それは著者によれば次のような理由があるといいます。  

 東アジアの成功の秘訣に関して誰もが口をそろえることが一つあるとしたら、日本、韓国、シンガポール、台湾、中国、いずれの国も田舎の(もしくは非公式活動に従事していた)労働者を組織化された製造業に従事させることに、非常に長けていたということだ」(98p)

 

 ところが今日では、その構図が大きく変わった。若者は引き続き田舎から都市部へと大挙して移動しているものの、彼らが従事する仕事は工場労働ではなくほとんどが生産性の低い非公式の[国の経済統計にカウントされないような]サービス業だ(100p)

 

  日本の高度成長は農村にいた余剰労働力が都市に移動し工場などで働いたことが大きな要因だったと言われますし、中国の経済成長のかなりの部分も同じような形で説明ができます。

 しかし、現在の途上国にこのような状況はないといいます。しかも、零細なサービス業では製造業のように労働者の組織化が難しく、労働条件の向上を訴えることも難しくなっています。

 日本もそうだったように製造業で雇用される割合は一定のところでピークを迎えて低下していくことになるのですが、現在のラテンアメリカやアフリカでは早すぎる脱工業化を迎えており、製造業の発展が東アジアにもたらした社会全体の底上げを望むことが難しくなっています。「人的資本や制度の機能を十分に蓄積する前に早期にサービス経済に移行したことで、先進国でさえ対応に苦しんでいる労働市場における格差や排除の問題をさらに悪化させた」(109p)のです。

 

 第5章から第8章にかけては現在の経済学について論じられています。

 著者によれば、経済学は一定の条件下におけるモデルを提供する学問であり、普遍的な理論を提供する学問ではありません。しかし、経済学ではその主張があたかも普遍的な理論のように論じられることが度々あります。

 例えば、自由貿易は基本的に多くの人々の利益になるとはいえ、一部の人には打撃を与えますし、社会を不安定にさせる可能性もあります。ところが、そういった負の部分についてはあまり触れられず、自由貿易の「正しさ」だけが強調されてきたのです。

 

 第6章の冒頭では、マンキューが2009年にまとめた経済学者の9割が支持を得ている命題のリストがとり上げられています。ここには「輸入関税や輸入割り当ては全体の経済厚生を引き下げる」、「家賃統制は住宅の供給を減らす」、「完全雇用が達成されていないとき、財政政策は経済を刺激する」といったものがありますが(161−162p)、こういった命題もあくまでも一定の前提条件に基づいたもので、このようなわかりやすいコンセンサスが揺らいでいるというのが著者の見立てです。例えば、最低賃金の引き上げは雇用にマイナスの影響があると信じられてきましたが、最近の研究は結果がまちまちであることを示しています。

 

 ケインズは「最も実務に通じた人でさえ、ずいぶん前に亡くなった経済学者のアイディアの奴隷であるのが常である」と述べましたが(187p)、この「アイディア」について論じたのが第7章です。

 経済学は選考や制約、選択変数といった数値化可能な客観的なものに基づいていると考えられていますが、それらのものは暗黙のアイディアに左右されています。

 

 著者は、なぜ経済エリートの好む政策が実行され、一般的な有権者の望む政策が実行されないのかという問題をとり上げ、経済エリートに有利な政治システムの仕組みとともに問題視するのが、選好に入り込むナショナリズムアイデンティティといった問題です。

 カール・マルクスが、宗教は「人民の阿片だ」と述べたことは有名だ。宗教感情の力を借りて、労働者など搾取される人々は日々の生活で経験する物質的な欠乏をごまかせると彼は言いたかったのだ同様に、宗教右派の台頭とそれに伴う「家族の価値」をめぐる文化的争い、その他の大きく意見の分かれる問題(例えば移民など)が、1970年代後半以降の経済格差の急速な拡大から米国の有権者の目を逸らすのに一役買った。(197p)

  

 このようにしてつくられた価値観が、中産階級貧困層の利益に反するようなことをしても支持を失わない構図をつくりあげたのです。

 一方、第8章で著者は、アイディアがうまく政治と結びつくことが社会をより良くする可能性についても触れています。

 

 第9章から第12章にかけては現在の問題にどのようなスタンスで向き合うべきかということが論じられています。 

 著者の基本的スタンスは第10章で紹介されている。次の7つの原則にまとめられます。「市場をガバナンスのシステムに深く組み込まなければならない」、「民主的なガバナンスや政治コミュニティは主に国民国家の内側で形成されるものであり、近い将来もそうであり続けるだろう」、「繁栄に通じる「唯一の道」はない」、「いずれの国も自国の規制や制度を保護する権利を有する」、「いずれの国も他国に自分たちの制度を押し付ける権利を有しない」、「国際経済の取り決めの目的は、各国の制度の境界面を管理する交通規則を策定することでなければならない」、民主主義でない国は、国際経済秩序において民主国家と同じ権利や特権を期待することはできない」(253−257p)の7つです。

 

 国民国家の多様性を尊重しつつも、国民国家を重視する立場からその意思決定過程も問題にしているのが特徴と言えるかもしれません。

 その上でグローバルな問題に関しては、「国民国家が中心であり、グローバル・ガバナンスは役に立たないという認識に立てば、時間をかけて国家の利益をよりグローバルな方向に仕向けやすくなる」(269p)と書くように、やや迂遠な道をとっています。

 こうした方向性が国民の利益の感覚をよるグローバルなものとし、結果として地球温暖化をはじめとするグローバルな問題を解決しようとする気運を高めるだろうというのです。

 

 他にも、エチオピアボリビアを例にあげて発展途上国における公共投資の重要性を指摘する部分(284−288p)や、国際経済においてドイツの責任を厳しく指摘している次の部分などが印象的です。

 まず、「近隣窮乏化」政策はグローバルなレベルで規制する必要がある。現在において最も重要な事例は、システム上重要な国が過剰な貿易黒字を抱え、他国が完全雇用を維持するのが難しくなっているケースだ。中国が最近まではその象徴的な国だったが、ここ数年は対外黒字が縮小している。経常黒字がGDPの9パーセント近いドイツが、現在では最大の違反国だ。(250p)

 

 このようになかなか刺激的な提言や指摘に満ちた本だと思います。著者が主張するグローバル・ガバナンスの改革の方向性については、その実現性を含めて何とも判断しかねるところがありますが、問題点の指摘という点では非常に面白いです。

 最初にも書いたように発展途上国の経済成長を論じた部分や、近年の経済学の変化について論じた部分も面白く、経済に関するさまざまな問題を考える上でいろいろなヒントが得られる本です。