神林長平『いま集合的無意識を、』

 この前読んだ『絞首台の黙示録』が非常に奇妙で面白かったので、神林長平の2012年に出版された短編集を読んでみました。

 なんといっても注目を集めるのが、パソコンの画面に伊藤計劃を名乗る文字列が現れて神林長平本人らしき作家と対話を行う表題作の「いま集合的無意識を、」でしょう。

 ただし、この文章は小説というよりは書評なんだと思います。伊藤計劃の『ハーモニー』に対する鋭い批評になっています。

 

 それよりも自分が興味深く読んだのが冒頭に置かれた「ぼくの、マシン」。

 「戦闘妖精雪風シリーズ」のスピンオフ作品で、シリーズを全く読んでいないと面白くないかな? と思ったのですが、これが一番面白い作品でした。

 テーマは「ネットワーク、あるいはクラウドの拒否」といったもので、自らのパソコンを所有するために、ネットワークへの接続への拒否するというものです。

 最近のソフトはネットワークに繋がっている事が前提になっていて、知らない間にUIが変化していたりしますが、これが嫌だ、それでは「ぼくの、マシン」ではないというのです。しかも、この作品は2002年に書かれており、時代を先取りした作品だとも言えます。

 

 もう1つ面白いと思ったのが「かくも無数の悲鳴」。宇宙警察やさまざまな組織に追わえれている男が主人公なのですが、途中から展開されている量子的宇宙論(並行世界がいくつも存在する考え)において、その可能世界のが否定的に語られます。可能性化の存在は人間の固有性を奪うというのです。

 

 『攻殻機動隊』で草薙素子は「ネットは広大だわ」といって、ネットのなかに溶けていきましたが、上記の2作品で語られているのはそれとはまったく違ったスタンスです。ネットに接続して匿名化することが自由なのではなく、むしろネットを遮断して固有名を守ることこそが自由なのだという著者の世界観がこの作品集には現れています。

 ネットへの接続が意識されないほど、ネットとのつながりが当たり前になった今こそ読む価値のある作品群と言えるかもしれません。

 

 

小沢健二 / So kakkoii 宇宙

 いきなり、♪そして時は2020 全力疾走してきたよね/1995年冬は長くって寒くて 心凍えそうだったよね♪と強烈に90年代を思い起こさせる出だしで始まるアルバムですが、やはり90年代を強烈に意識させ、蘇らせるアルバムですね。

 

 そんな中で個人的に一番響いたのが、"アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)"。

 最初に聴いたときからシンプルながら美しい曲だなと思っていたのですが、何回か聴いた後に「これは岡崎京子のことを歌っているのではないだろうか?!」と思って調べてみたら、そもそも映画の『リバーズ・エッジ』の主題歌なのですね。情報に疎すぎた…。

 そのことを知った後だと歌詞などもなおさら染みてくるわけなのです、そういった背景は向きにしても途中で入るトランペットとかはここ最近聴いた曲の中でも屈指の美しさ。文句なしにいい曲だと思います。

 

 小沢健二の最近の活動に関してはまったくノーチェックというわけではなくて、Mステとかに出た時は見るようにしていて、"流動体について"や"フクロウの声が聞こえる"(SEKAI NO OWARIとコラボしたバージョン)とかは聴いていて、「良いけどけっこう小難しい歌詞だな」などと思っていたのですが、今回は冒頭の"彗星"をはじめとしてポップに寄せる部分は寄せてきた感じですね。

 特に"彗星"は「LIFE」の楽曲を期待するファンに応えた音になっていますし、冒頭にも書いたように歌詞がまるで「90年代同窓会」とった趣きです。

 一方、ラストの"薫る (労働と学業)"は、ポップですが「90年代的懐かしさ」とは離れた作品で、♪おそれることもなき好奇心を 図書館の机で見せつけてよ♪というフレーズが良いですね。

 

 ちょっと声が低くなったぶん、声のポップさのようなものは後退したかもしてませんが、50代になってもこれだけみずみずしいアルバムをつくれるというのはさすがで、90年代を知らない人にどれくらい響くのかわからない部分はありますが、個人的には期待を上回るアルバムでした。

 


小沢健二『彗星』MV Ozawa Kenji “Like a Comet”

 

田中(坂部)有佳子『なぜ民主化が暴力を生むのか』

 紛争が終結して、新しい国づくりを始めてそのために選挙も行ったのに、再び政事的暴力が噴出してしまう。これはよくあるパターンだと思います。近年だと南スーダンがそうでした。PKOで派遣されていた自衛隊が武力衝突に巻き込まれそうになっていたのは記憶に新しいと思います。

 本書は、タイトルのように「なぜ民主化が暴力を生むのか」という問に答えようとした本です。中心的な事例としては東ティモールを、分析手法としては計量分析とゲーム理論を主に用いながら、民主化が暴力を生み出すメカニズムを明らかにしようとしています。

 個人的には分析の仕方にいまいちピンとこない部分もあったのですが、テーマ的には非常に興味深いものですし、いくつかの興味深い知見もあります。

 

 目次は以下の通り。

第1章 民主化は暴力を生む?
第2章 先行研究と本書の分析枠組み
第3章 紛争後社会における小規模な政治暴力の発生―政治体制と政治制度が及ぼす影響
第4章 紛争後社会における政治勢力の組織的転換
第5章 紛争後社会における指導者による暴力
第6章 民主化、国家建設、そして暴力

 

 民主主義が暴力を抑制するという主張があります。定期的な選挙がある国では、負けたグループにも再チャレンジの機会があり、暴力による権力の奪取というリスクのある行為に走らなくても、選挙によって権力を奪取するチャンス、または話し合いなどで自分たちの要求の一部を受け入れさせる可能性があるからです。

 一方で、選挙の直後に暴力が噴出するのも発展途上国ではしばしば見られる光景です。例えば、ケニアでは大統領選挙をきっかけとして2007〜08年にかけて1000人以上の犠牲者が出る暴動となりました。

 

  本書の第3章では、民主主義が暴力を抑制する効果が現れるには、一定の時間を経る必要があるとの分析を行っています。国家建設が始まったばかりの頃は国家の治安維持能力も低く、反体制派が暴力に訴えるコストは低いです。一方、国家の治安維持能力が高まればコストは高くなり、暴力の発生は抑制されるというわけです。

 本書では1946〜2009年の間に起こった犠牲者が25人以上というかなり小規模の暴力についても網羅的にとり上げて分析しているのですが、それによると内戦終結後約4年〜6年半ほどの期間以前に関して民主主義による暴力抑制の効果は見られず、その期間以降は暴力再発のリスクを低める効果があるとのことです。

 また、各勢力が権力を分掌し、多様な意見を包摂しやすい議院内閣制のほうが政治暴力の再発リスクを低めるとのことです。

 

 では、なぜ民主化は国家建設が始まった当初は暴力を抑制する機能を持たないのか。それを内戦時の武装勢力の戦略から探ったのが第4章になります。

 非主流派の武装勢力にとって、選択肢は3つあるといいます。1つは政党化して選挙を戦うことです。もう1つは治安部門に編入されることです。そして最後が暴力を維持することです。

 政党化の成功例としてはモザンビーク抵抗勢力だったRENAMOなどがあげられますが、政党化に成功するには人的資源や組織能力、そして何よりも支持者の獲得が必要になります。

 一方、治安部門への編入は、武装グループからするとメンバーの再就職を保障することにもなる点が魅力的です。ただし、政府からすると能力的には申し分なくても、既存の軍や警察と武装勢力は敵対関係にあった者同士であり、そう簡単には受け入れられないかもしれません。

 上記2つの選択肢がうまく行かなければ、武装を継続して政府と交渉、合意、そして破棄を繰り返すようなことになるかもしれません。

 

 本章では非主流派の選択をゲーム理論で考察しています。主流派と非主流派という2つのプレイヤーを考え、交渉をするか否か、政党化するか武装を維持するか、といった選択の積み重ねを考えていくのです。

 ただ、この分析には疑問も残りました。ここでは完全情報ゲームを規定して、それを後ろ向き帰納法で解いているわけですが、国家建設時における武装勢力の判断というような不確定要素に満ち、さらには多数のアクターが関わるものに関しては、そんな簡単な完全情報ゲームを想定できないようにも思うのです。

 

 この章の後半では東ティモールの事例を分析しています。東ティモールが独立した当初、武装集団としては独立を推し進めた主流派のフレティリン(東ティモール独立革命戦線)と非主流派で2001年の選挙にも参加せず武装を維持し続けたCPD-RDTLがいました。CPD-RDTLは自身の国軍への編入を求めましたが、主流派はこれを拒否し、CPD-RDTLは武装を続けました。

 一方、元フレティリンの兵士たちからの不満に対して主流派は、当初は消極的だった国軍の創設によってその一部を国軍に編入しています。

 また、非主流派の一部が結成したPD(民主党)は、東ティモールの現地語であるテトゥン語の公用語化という政策を掲げ、ポルトガル語とともにテトゥン語の公用語化に成功しています。PDの持つ人的ネットワークによって、主流派に対して信憑性のある脅しを示すことができたことがその背景だと考えられます。

 

 第5章は指導者による暴力を取り扱っています。

 民主化が行われた国において、選挙で選ばれたはずのリーダーが強権化してしまう事例はよく見られます。例えば、カンボジアでは近年フン・セン首相の強権化が目立っています。

 東ティモールでも、2006年にアルカティリ首相が待遇に不満を持つ兵士の反政府的行動に対して強権的に弾圧しようとしましたが、逆に国民の支持を失って辞任を余儀なくされるということが起こっています。

 なぜ、選挙で選ばれたはずのリーダーが強健化し、ときには無茶な暴力の行使を命じてしまうのか? この章ではそのメカニズムを分析しています。

 

 この2006年の騒擾に関しては、東ティモールのガバナンスの構造に原因があったとする考えや、アルカティリ首相とグスマン大統領の権力争いに原因を求める考えなどがありますが、著者はこの騒擾をアルカティリによる起死回生のギャンブルだったと見ています。

 国家建設時の指導者にとって、有権者に対するアピールになると考えられるのが治安の維持と向上です。特に東ティモールのような大きな経済発展が期待できない国では、治安の改善は大きなアピールポイントになるでしょう。

 しかし、法の支配が確立していない状態では、どの程度の超法規的措置が認められるかが問題になります。もし、指導者も有権者も合法的に振る舞うならば法の支配が確立します(1)、指導者も有権者超法規的措置を認めるならば指導者の暴力は許容されます(2)、指導者が合法的な基準で行動し、有権者超法規的措置を許容するなら指導者のやり方は有権者から手ぬるいと感じられます(3)、指導者が超法規的措置をとり、有権者が合法的な基準の維持を求めるならば、指導者のやり方は過度なものと映り、有権者の不満が高まります(4)。

 著者は東ティモールの2006年の騒擾は(4)のケースだと見ています。

 

 東ティモールのアルカティリ首相は、フレティリンの創設メンバーでありながら、イエメン出身でムスリムという多くの東ティモール人にとっては馴染みのない人物でした。2003年の世論調査では、アルカティリ首相への支持は49%だったのに対して、グスマン大統領への支持は94%と、首相の不人気さが目立っていました。

 

 2006年に兵士の一部が待遇への不満から兵舎を出ると、国軍司令官は兵士の解雇を発表し、アルカティリ首相もこれを支持します。これに対してグスマン大統領が兵士の解雇を批判すると、首都ディリで若者を中心としたグループの抗争が起きるなど、やや不穏な情勢になっていきます。

 アルカティリ首相は、軍の最高司令官であるグスマン大統領を外す形で国軍の武力行使を容認します。首相と大統領の権力抗争にも見えますが、著者はアルカティリ首相が超法規的措置であることを意識しつつ、ここで政策的なアピールを狙ったと見ています。

 ところが、自体は沈静化せず、むしろアルカティリ首相の判断が批判されるようになります。さらに市民グループに警察の武器が渡ったことが明らかになると、アルカティリへの批判はさらに強まり、辞任を余儀なくされることになるのです。アルカティリは「起死回生のギャンブル」に失敗したのです。

 また、この失敗の背景には、国際部隊が入ってきたことで、東ティモール情勢が国際社会の注目を浴び、海外メディアがモニタリングの質をあげたということもあるようです。

 

 この第5章の指導者側の暴力への注目は興味深いと思います。権威主義的な政治スタイルが流行する中で、今後は国造りの中でも反政府組織の暴力だけでなく、指導者が側からの暴力も注目し、分析していくべきでしょう。

 ちょっと第4章の議論はピンとこなかったのですが、第3章と第5章についてはなかなか面白い知見を含んでいると思います。

 

 

『ジョーカー』

 ようやく見てきました。

 評判通りホアキン・フェニックスの怪演はさすがで、まずその演技に惹きつけられました。主人公のアーサーのちょっとずれたようなダンスも印象的で、主演の存在感が際立った映画だったと思います。

 これだけ公開から時間が経つとだいたいのストーリーは耳に入ってきてしまっているわけですが、それでも緊迫感をもって見ることはできましたし、基本的にはよくできた映画なのだと思います。

 

 ただ、ジョーカーを描く上でハードルとなるのがクリストファー・ノーランが『ダークナイト』で描いたジョーカーの存在です。ヒース・レジャーが鬼気迫る演技を見せ、トラウマなどのすべての説明をあざ笑うかのようなジョーカーの存在は、その前日譚を語ることを難しくしました。

 本作では、基本的にジョーカー誕生の理由を説明しつつ、ジョーカー本人を信頼できない語り手とすることで、「トラウマと孤独と差別=ジョーカーの誕生」という図式をなぞりつつも確定はさせないような内容となっています。

 

 これはよく考えられたアイディアだとも思うのですが、「ダークナイトのジョーカーとのギャップがあるのでは?」という疑問に対するエクスキューズをラストでしていることに対してはややモヤモヤしたものも残りました。

 このラストは、「この映画は暴動を煽っているのではないか?」という疑問に対するエクスキューズにもなっているのですが、そこもちょっと日和っている印象を受けます。

 

 また、「社会派」っぽいけど映画では社会の問題をほとんど描いていない点も気になりました。劇中ではアーサーがエリートビジネスマンが殺して、それが人々の思わぬ支持を受けることが物語の転換点となるのですが、それだけの支持が集まる背景を今の現実社会の文脈に投げてしまっていて、「時代を超えるような作品足りうるのか?」と感じました。

 最後に人々の不満が爆発するわけですが、その爆発に至る過程や、不満を持つ人々の存在は殆ど描かれていないと思うんですよね。

 そのあたりをアーサーと同じアパートに住む黒人のシングルマザーのソフィーあたりをつかってうまく描けなかったものかと思いました。

 

スティーヴン・クレイン『勇気の赤い勲章』

 1895年に発表された南北戦争を舞台にした戦争小説。ヘミングウェイも激賞している小説で、解説で訳者の藤井光が「二十世紀の大半を通じて、さらには今世紀に至るまでのアメリカ文学における戦争小説のひとつの「型」は、クレインのこの小説によって完成したのだとも言える」(256p)と述べるように、アメリカの戦争小説の原点というべき作品かもしれません。

 

 19世紀の小説らしく、描写や比喩を用いた戦場の表現に力が入れられており、現代の小説のようなスピード感はないです。

 では古臭いかというとそうではないところもあって、まずは戦場を匿名化して描いている点は徹底していて、そこには未だに古びない批判的な視線があります。

 主人公にはヘンリー・フレミングという名前がありますが、小説の中ではほとんど「若者」という言葉で指し示され、他の兵士も「のっぽの兵士」、「戦友」といった具合に固有名詞を持たない形で描かれることがほとんどです。

 また、解説によればチャンセラーズヴィルの戦いというジョセフ・フッカー将軍率いる北軍とロバート・リー将軍率いる南軍が激突した戦いが舞台になっているということですが(南軍の勝利に終わる、主人公は北軍の兵士)、舞台となっている戦闘の歴史的な意義や戦いの全体像が語られることはありません。主人公はわけのわからないまま戦闘に巻き込まれ、わけのわからないままに戦います。

 

 主人公は戦場の現実を知らなままに、「男」になるために意気揚々と戦場に赴き、退屈な大気の日々を過ごした後に、突然戦場に投げ込まれます。一瞬にして今までの勇気は消し飛ぶわけですが、逃げればどうしようもない恥辱感が湧き上がり、敵を打ち破れがすべてを消し去る高揚感がやってきます。この戦場の心理をこの小説は非常に丁寧に描いています。

 

 最初にも述べたように、スピード感などは「古い小説」なのですが、戦場の描き方はけっして古びておらず、むしろ極めて現代的な小説と言えるかもしれません。

 

 

Longwave / If We Ever Live Forever

 Longwave、11年ぶり5枚目のアルバムということでいいのかな?

 とっくに解散してしまったと思っていたLongwaveですが、なぜか復活しました。

 メジャーデビュー作の2ndアルバムはデイヴ・フリッドマンがプロデュースしており、その後に出されたEPの「Life of the Party」は文句なしに素晴らしかったと思うのですが、いまいちブレイクしないままに消息を絶っていたのですが、バンドはつづいていたのですね。

 

 今作に関していうと、音とか曲には以前と大きな変化はありません。どのくらいの期間、アルバムを制作していたのかはわかりませんが、収録されている曲のメロディは良いと思います。特に3曲目の"1 X 1 (Disorder)"あたりはキャッチーですし、思わず口ずさみたくなるような曲です。

 6曲目の"Stay with Me"も良いと思いますし、8曲目の"The Trick"もいかにもLongwaveらしいギターが楽しめる曲です。ラストの”It's Not Impossible"もスケール感があって良い感じです。

 

 ただ、音に関していうと、デイヴ・フリッドマンがプロデュースしていたころや、ジョン・レッキーがプロデュースした3rdアルバムの「There’s Fire」に比べると、やや普通になってしまったというかおとなしくなってしまった感じは否めない。7曲目の"Echo Bravo"のギターとか尖った部分もあるのですが、音に関しては昔のほうが凝っていたような気がします。

 改めて、もう1度デイヴ・フリッドマンと組んでアルバムをつくってくれないかな〜と思いました。

 


Longwave - "If We Ever Live Forever" - Official Video

 

 

リンク先はMP3のダウンロードです↓ 

猪俣哲史『グローバル・バリューチェーン』

 本書の冒頭にある問いは「iPhoneはメイド・インどこか?」というものです。USAでしょうか? チャイナでしょうか? それとも別の国でしょうか?

 正解は「Designed by Apple in Califoronia, Assembled in China.」というものです。

 iPhoneは一つの典型的な例ですが、現在の工業製品はさまざまな国から部品が集められ、中国などで組み立てられ、そして世界各地へ出荷されています。この国境を超えたサプライチェーンがグローバル・バリューチェーンです。

 本書は、このグローバル・バリューチェーン(以下GVC)の実態とメカニズムを明らかにするとともに、副題に「新・南北問題へのまなざし」とあるように、今後の南北問題も展望しています。米中貿易摩擦を読み解く知見もありますし、非常に刺激的ですし勉強になる本です。

 

 目次は以下の通り。

第1章 GVCとは何か

第2章 GVC誕生秘話 東アジアの統合された多様性

第3章 怒れる米国、かわす中国 GVCをめぐる超大国のロジック・ゲーム

第4章 付加価値から見た世界経済

第5章 価値は世界をどうめぐっているか 付加価値貿易の計測手法

第6章 技術革新と経済発展

第7章 GVCパラダイム 新・新・新貿易論?

第8章 新・南北問題の解決へ向けて 政策への含意

第9章 第4次産業革命におけるGVC

 

 少し前のものになりますが、2009年にiPhone3Gの部品単価を分析したところ、フラッシュメモリーやディスプレイ・モジュールを供給する日本が付加価値の12.12%、ベースバンドやカメラモジュールを供給するドイツが6.03%、アプリケーション・プロセッサーSDRAMを供給する韓国が4.59%、Bluetoothなどを供給するアメリカが2.15%、組み立て加工の中国が1.30%を占めていたそうです。ここの流通マージン等の64.21%が上乗せされて500ドルのiPhoneとなります(20p表1−1参照)。

 このようにアメリカで設計し、各国の部品を集め、人件費の安い中国で組み立て、営業・販売、アフターサービスはアメリカで行なうという仕組みができあがっています。

 こうした国境を越えた分業の形態がGVCです。分業が経済発展の鍵であることはアダム・スミスが言っていますが、現在ではこれが国境を超えた形で行われているのです。

 

  「①生産要素(労働、資本、土地)の価格や生産性の格差は、国内よりも国間の方が大きい」のですが、「②肯定感を連結するための費用は、単国内よりも複数の国にある拠点を結ぶ方が大きい」(27p)ため、①によるメリットが②のデメリットを上回らなければGVCは形成されません。

 地域における比較優位が明確で、生産ネットワーク間のアクセスが容易で、なおかつ分業のもたらすスケールメリットを活かせるだけの消費市場が存在することがGVCの発展には必要になります。

 そして、現在この条件が揃っていると思われるのが東アジアです。

 

 EUが「似た者同士」のグループであるのに対して、東アジアは日本や韓国のような先進工業国がある一方で、インドネシアのような資源国、シンガポールのようなサービス産業立国、さらに巨大な労働力を持つ中国と、異質な国が集まっています。本書の48−49pに各国の産業構造をその産業特価の度合いによって比較するグラフが載っていますが、それをみれば東アジアの多様性が視覚的にわかるようになっています。

 

 さらに51−53pにかけて、産業の生産額シェアを表したスカイライン・チャートが載っていますが、これをみるとアメリカが各分野において過剰生産あるいは生産不足の少ない極めてフラットな形を占めているのに対して、中国、インドネシア、韓国・台湾・シンガポール、マレーシア・フィリピン・タイといった国々のスカイライン・チャートは凸凹であり、比較的フラットな日本においても製造業を中心に生産過剰が見られます。

 ただし、東アジアとアメリカをひとまとめにしてスカイライン・チャートをみると(55p図2−8)、ほぼフラットな構造になっています。個々のピースは凸凹でもアメリカという消費市場も組み入れて考えると、そこには互いに組み合わさったシステムの姿が見えてくるのです。

 

 さらに東アジアには域内に香港とシンガポールという「高度に整備された輸送インフラや物流管理能力、そして英語と中国語をほぼ等しく主要言語に持つことなど、他の国にはない強力な優位性」(57p)を持つ場所があります。

 さらに東アジア地域の関税は、関税の上限である「譲許関税」よりも低い税率が設定されていることが多く、ASEANはもちろん、中国やインドでも関税の引き下げが進んでいます。

 こうして出来上がった東アジアのGVCについて、本書の第2章では次のようにまとめています。

 

 中国という存在が、東アジア地域に極めて特異な生産システムをもたらした。すなわち、

 (1)中国以外の東アジア諸国が高付加価値の部品・付属品を生産し、

 (2)それらを中国の安価(低付加価値)な労働力によって集中的に最終製品へと組み上げ、

 (3)消費市場としての欧米諸国に輸出する、という三角構造に基づいた国際分業体系である。そして、この非対称的な価値創出メカニズムこそが、今日における米中貿易不均衡問題の本質を読み解くカギとなる。(63−64p)

 

 第3章では、いよいよ米中貿易摩擦に焦点が当てられているわけですが、まず、アメリカの地域のデータを見ると、2016年のアメリカ大統領選挙において、中国との競争に多く晒されている地域の有権者ほど 共和党に投票する割合が高かったことがわかります(77p図3−1参照)。

 中国は1990年代なかばから2011年にかけて世界の加工生産輸出の44〜55%程を占めていました(89p表3−1参照)。前世紀の末から工業製品の輸出における中国の存在感というのは圧倒的です。

 

 しかし、ここで気をつけたいのが中国はあくまでの最終的な組み立てを行っているだけであり、中の部品は別の国で作られているケースが多いということです。

 先程、iPhoneのケースをとり上げましたが、中国で行われているのは最終的な組立工程にしかすぎません。ところが、アメリカに向けて輸出されるのは180ドル近い商品であり、輸出統計にも180ドル分の輸出が計上されます。つまり、中国が得ている付加価値は組立工程のわずかなものなのに、統計上は中の部品を含めた価格が計上されているのです。

 

 ですから付加価値ベースでアメリカの対中貿易赤字を見るとその数字は圧縮されます。2005年では約23%、2015年でも約12%過大に計上されていると考えられるのです(米国政府統計との乖離はさらに大きい、91p図3−5参照)。

 付加価値ベースで貿易を見ると、中国の対米黒字は圧縮され、日本や韓国の対米黒字は増大することになります(93p図3−7参照)。「対中国での赤字が日本や韓国に振り替えられるという、政治的にも極めてセンシティブな結果」(94p)となるのです。

 

 ただし、この事実が知られるようになれば米中貿易摩擦はおさまるかというと、著者は否定的です。中国でも中間財の生産が増えており、統計と付加価値ベースのギャップは縮まってきていますし、現在、摩擦のポイントは知的財産権の問題へと移りつつあるからです。

 このことについて著者は次のように述べています。

 近年の主に協調ゲームを基盤としたGVCにおいて、米中貿易関係は非熟練労働をめぐる対立を抱えつつも、根底では常に米国の知的資本と中国の労働力による「共謀」を前提としてきた。それゆえ、トランプ政権の対中強硬路線にはある種の偽善性・演劇性が潜んでいたわけであるが、前述のZTEとファーウェイに対する措置は、これまでとは様相が異なるものとして見ていいのではないだろうか。(97p)

 

 第4章では、付加価値貿易の考え方を説明しつつ、付加価値貿易の視点から見るとないが見えてくるかを紹介しています。

 詳しくは本書を見てほしいのですが、自動車産業においてドイツの高付加価値化が際立っており、それに連れてスロバキアハンガリーチェコなどの周辺諸国で「自動車産業化」が牽引されている一方で、アメリカとメキシコの関係においては、アメリカの生産ラインがそのままメキシコに移植されたような動きを見せています(115p図4−6参照)。これは興味深い分析です。

 

 第5章は付加価値貿易の計測方法を扱った章で、産業連関分析から入って付加価値貿易の計測方法やそのデータを紹介しています。

 

 第6章では技術革新がGVCを通して経済発展に及ぼす影響を分析しています。

 製造業にはさまざまなスタイルがあり、自動車のように部品同士の丁寧なすり合わせが必要な垂直統合型から、サプライヤーがクライアントに従属する従属型(アパレルなど)、加工業者に一定の裁量をもたせる相互依存型(近年ではアパレルでもこのタイプがある)、部品の標準化が進んでいるモジュール型、ほぼ汎用部品で構成される市場型といったタイプがあります。

 

 近年では、モジュール化の動きが自動車産業でも起こっています。こうした中でデルファイ、ボッシュデンソーといった基幹部品メーカーが存在感を高めるとともに、中国では瀋陽航天三菱汽車とデルファイが、主に中国の地場自動車メーカーに対して、その個別の車体を基準にエンジンなどの基幹部品をマッチングして販売するという協業を行っています。瀋陽航天三菱汽車がエンジンとトランスミッションを、デルファイが電子制御ユニット(ECU)を提供することで、技術力の低いメーカーでも自動車の生産が可能になるのです(157−158p)。

 

 また、電子産業ではプラットフォーム・リーダーと呼ばれる製品の技術基盤を提供する企業が存在感を高めています。代表例はなんといっても「ウィンテル」(マイクロソフトインテル)ですが、中国の携帯電話市場では2G/3Gのときは台湾のメディアテックが、4G のときは米国のクアルコムが、その基幹となる製品パッケージを供給することで存在感を高めました。クアルコムと中国の携帯電話メーカーに関しては、相互依存型の関係に変容しつつあると著者は見ています。

 

 こうした状況に関して、著者は次のように分析しています。

 従来、グローバル市場に参加するには国内に高度な産業基盤を必要とし、まず前提として、その国が巨大な資本投下を伴う工業化の長い道程をたどることが想定されていた。しかし、輸送技術や情報通信技術の発達により生産工程の細分化と地理的分散が進展したことで、強力な産業基盤を持たない途上国でも、組立工程など自国の技術レベルに合った部位を国際的なサプライチェーンから切り取ることが可能となった。(168p)

 このような中で、技術移転も先進国主導企業と途上国企業の関係性の中で進んでいきます。技術自体の国際移転・伝播のスピードも上がっており、GVCには経済発展のプロセスは今までよりも大幅に圧縮する力があるのです。

 

 第7章ではGVCが新しい貿易理論をもたらすかどうかが検討されています。やや専門的な議論も含むので詳しいことは本書を読んでほしいのですが、リカードがその基礎を確立し、ヘクシャー=オリーンからサミュエルソンに至る流れの中で維持してきた3つの古典的命題の1つ目(完全競争のもと、生産活動は規模に対して収穫不変である)をクルーグマンの「新貿易論」が覆し、2つ目(産業は均質な生産者によって構成されている)をメリッツの「新・新貿易論」が覆したわけですが、GVCパラダイムは3つ目の命題(各国は最終製品についてのみ貿易を行い、また、それら製品は輸出国の生産要素だけを用いて生産される)も覆すことになります。

 

 第8章ではGVCを通して「新たなる南北問題」を展望しています。

 GVCは今までの先進国と途上国の壁を壊しつつあります。例えば、電気・光学機器産業のサプライチェーンにおける付加価値のあり方を見ると、1995年の段階では高付加価値=先進国、低付加価値=途上国という棲み分けがはっきりと見られたのに対して、2009年の段階ではその棲み分けが崩れつつあります(195p図8−1参照)。

 そうしたこともあって、先進国ではグローバル化に対する揺り戻しが起きており、それが政治を大きく揺さぶっています。

 

 しかし、雇用を守るために保護貿易を行なうという選択肢は時代錯誤のものとなっています。「輸入に制限がかかれば生産活動に活用できる中間財・サービスの範囲が狭まり、結局のところ自国企業の国際競争力を著しく低下させる」(198p)からです。

 また、中国の輸出は日本やアメリカにおいても多くの付加価値を生み出しており、逆に2006年に欧州員会が中国とベトナムの靴製品に対して行ったダンピング相殺関税は、欧州域内の靴のデザインや流通などの業者に大きな打撃を与えることとなりました。

 さらに、安価な輸入品が手に入らなくなることは低所得者層の打撃となります。

   

 では、雇用をどうすればいいかというと、著者はサービス雇用が増えていることに注目しています。アメリカの雇用を見ると、2011〜16年にかけて、倉庫業、宅配業、小売業で雇用が伸びており、サプライチェーンの運用を支援する産業での雇用の増加が確認できるのです。

 

 一方、途上国にとってGVCの発展はどうだったかというと、まずは大きな恩恵をもたらしたと見ていいでしょう。雇用が増え、国民所得が上がりました。特に中国は「GVCへの参加を通じて歴史的にも例を見ない急速な富の蓄積を果たし」(206p)ました。

 また、GVCの参加には複雑な取引が行えるだけの法制度の整備も必要であり、GVCに参加するためにそうした法制度の整備が進んだ面もあるでしょう。

 

 しかし、この発展がさらに他の途上国(例えばアフリカ諸国)を巻き込んでいくかというと、著者はやや懐疑的な見方を示しています。

 アフリカ諸国の労働生産性は低迷したままですし、先進国の消費市場に以前のような勢いはありません。また、環境問題に対する関心の高まりで、より厳格な環境影響評価に基づく生産管理が求められるようになりました。

 そして、何よりも生産のオートメーション化が進んだことで、今後、製造業は今までのような膨大な労働力を必要としなくなってくる可能性が高いのです。

 GVCの恩恵は中国+αで打ち止めになってしまう可能性もあるのです。

 

 先進国と途上国の関係においても変化があるかもしれません。21世紀前半の国際ルールづくりでは先進国がルールをつくり、途上国が追随するという形でルールが形成されましたが、GVCによって先進国の絶対優位性はゆるいでいくことになります。もちろん、途上国も安価な労働力党武器は失いますが、その代わりに国内の消費市場という新たな交渉カードを手に入れることになります。

 こうなると、特に国内の市場が大きい中国やインドなどは先進国のつくるルールに従わなくなり、独自のルールをつくっていくようになるかもしれません。

 

 終章では、第4次産業革命とも呼ばれる近年の新技術の製造業とGVCへの影響を検討しています。詳しくは本書を読んでほしいのですが、新技術はサプライチェーンの追跡を容易にし、製造現場のオートメーション化を進めます。

 今までは、途上国は「安価な労働力」という入場チケットをもってGVCに加わり、成長とともに「安価な労働力」というチケットをさらに貧しい国に譲り渡していく形でしたが、第4次産業革命によって、この「安価な労働力」というチケットの有効期限は切れてしまうのかもしれません。

 

 このように本書は、GVCという近年の現象を分析しながら、今後の南北問題や国際貿易体制の行方までを占うという非常にスケールの大きく射程の長い本となっています。それでいて、現状についての細かな分析も充実しており、面白く読みごたえのある本に仕上がっています。

 難解で高度な分析も行っているのですが、それを図やグラフなどに落とし込むことで直観的にわかるようにしていることも、この本の優れている点と言えるでしょう。

 GVCという製造現場に起きている現象だけでなく、米中貿易摩擦の行方や南北問題の行方に興味がある人にもお薦めできる一冊です。