『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』

 ようやく見てきましたが、映像はさすがでしたね。海を中心とした大自然が活写されているわけですけど、これを現実にある自然そのものではなくて「つくりもの」として作り上げた力というのはすごいと思います。

 ただ、自分は普通の3Dで見たんですけど、これは完全にIMAX向きなんでしょうね。IMAX未体験なので確たることは言えないですが、海のシーンなどはきっと観客が画面に取り囲まれるような状況を想定しながらつくっている感じなので、やはりこの作品はIMAXに向けてつくられているものなんだと思います。

 

 ストーリー的には、さすがに前作から10年以上経つと前作の内容は完全に忘れていて、主人公のジェイクがアバターとなって最終的にはナヴィー族の一員になるということは覚えていたんですが、敵対する大佐のこととかすっかり忘れていました。

 

 また、表のテーマは「家族愛」かもしれなせんが、一番のテーマは「反捕鯨」じゃないか?というくらい、映画の中でアバターの星(パンドラ)におけるクジラが人間たちに殺されるシーンは惨たらしく描写されています。

 それととともにアバターの世界のクジラはナヴィーとの会話が可能であり、音楽や哲学も理解する高尚な存在として描かれています。

 ちなみに、アバターの世界でのクジラは一部の体液みたいのを採取されてあとは捨てられていましたけど、ここは欧米人がかつてクジラから油をとってあとは捨てていたことに対する言及なのかな?と思いました。

 

 というわけで捕鯨はとっても罪作りな行為なので、映画の中で捕鯨に関わっている人たちは中心的な悪役よりも非業の死を遂げます。

 

 あと、「ウェイ・オブ・ウォーター」とタイトルにあるように、途中では自然との調和やスピリチュアルな考えが押し出されているのですが、最終的には「父は家族を守るもの」というマッチョイズムに収斂する展開というのもどうかとは思いました。

 

 でも、この作品はそういったストーリーを求めるような映画ではなく、映像を体験しにいく映画ということなのだと思います。

須網隆夫編『平成司法改革の研究』

 90年〜00年代にかけて日本ではさまざまな改革が行われました。小選挙区比例代表並立制が導入され、1府12省庁制となり、地方自治では三位一体の改革が行われました。それが良かった悪かったかはともかく、これらの改革が日本の社会に大きな変化を与えたということは多くの人が認めるところだと思います。

 

 ところが、本書が取り扱う司法改革に関しては、改革がどのような変化をもたらしたのかが見えにくくなっています。鳴り物入りで設立されたロースクールの多くが閉校に追い込まれましたし、法曹人口の増加も当初の計画のように入っていません。裁判員制度の開始は大きな変化ですが、これが社会にどのような影響を与えているかというと、これもあまり見えてきません。

 

 こうした中で、改めて司法制度改革を点検し、その問題点や達成を探ったのが本書になります。論者によってスタンスは違いますが、副題に「理論なき改革はいかに挫折したか」とあるように編者自身はこの改革をうまくいかなかったものと捉えています。

 

 目次と執筆者は以下の通り。

第I部 司法改革とは何か

 第1章 司法制度改革の源流を考える……………(豊秀一)
    ――関係者の取材から

 第2章 平成の司法改革をもたらしたもの……………(飯考行)
    ――司法制度改革審議会前後の経過と社会を視野に入れて

第II部 司法制度改革の総論的検討

 第3章 制度改革の理論とは何か……………(須網隆夫)
    ――審議会に欠けていた改革の理論

 第4章 司法制度改革と憲法学……………(山元一)

 第5章  比較司法政治から見た
    平成司法改革と日本の最高裁判所……………(網谷龍介)
    ――最高裁判所裁判官の選考制度に注目して

 第6章  平成司法制度改革の起源……………(ディミトリ・ヴァンオーヴェルベーク)
    ――刑事司法制度への国民参加に焦点を当てて

第III部 改革は何を達成し、何を実現しなかったか

 第7章  弁護士の収入減と裁判所事件数の低迷について……………(馬場健一)
    ――見落とされている観点から

 第8章 原発事故賠償に見る民事司法制度……………(大坂恵里)

 第9章 司法制度改革と行政訴訟……………(興津征雄)

 第10章  司法制度改革の司法権論と違憲審査制の国民的基盤……………(岩切大地)

 第11章 「人的基盤」としての法曹人口……………(米田憲市)
    ――ゆがんだ「法の支配」への道

 第12章 「 理論」も「実務」も置き忘れた法曹養成……………(米田憲市)
    ――臨床法学教育を鍵とする再生を目指して

 第13章 「法の支配」と司法への国民参加……………(四宮啓)

 第14章 かくして裁判員制度は始まった……………(平山真理)
    ――しかし、欠けていたのは何か? 被告人の視点、被害者の視点、そしてジェンダーの視点

第IV部 令和の司法制度改革のために

 第15章 「人」に頼るより「制度」の改革……………(泉徳治)

 第16章  提言「令和司法改革のために」……………(令和司法改革研究会)

あとがき……………(須網隆夫)

 

 第1章では司法制度改革がどのように始まったのかが語られています。

 80年代後半頃から日本の民事訴訟制度への疑問が高まり、司法制度改革の機運が生まれてくるのですが、橋本龍太郎首相がリーダーシップをとった行政改革とは違い、司法制度改革には大物政治家の旗振り役はいませんでした。

 そこで議論を牽引したのが弁護士資格を持つ衆議院議員自民党の司法制度特別調査会の会長となった保岡興治であり、司法制度改革審議会の会長となった憲法学者佐藤幸治でした。

 

 ところが、「司法改革」と一口に言っても、法務省は司法試験合格者の年齢の上昇を問題視して司法試験合格者の増員を求める一方で、弁護士会はそれには慎重であり、法曹一元化や陪審・参審制度の導入を求めました。

 このような「同床異夢」の中で佐藤が打ち出したキーワードが「法の支配」でした。さまざまなところで使える「法の支配」という概念をもって、改革をまとめあげようとしたのです。

 

 なお、第2章でも司法制度改革審議会について、「「法の支配」などのある意味マジックワードを用い、全員一致を指向する独特の進行方式でなければ、裁判員制度をはじめとする諸改革は、提言しえなかった」(36p)と述べています。

 

 第3章は編者の須網隆夫による章ですが、新制度経済学の視点を取り入れながら、司法改革を批判的に検討しています。

 司法改革では、法律サービスに対する潜在的な需要はあると考え、法曹人口を増加させ、民事訴訟の迅速化などを行えば、弁護士の活動領域は自然に拡大し、司法アクセスも改善されると考えていました。

 

 ところが、弁護士人口が増加し、法テラスが設立されても訴訟事件数は停滞しています。下がると見られていた弁護士を依頼することもハードルも大きく下がったとは思われません。

 これについて、筆者は法律サービスを提供するのが弁護士以外にも行政書士司法書士などがいるといった日本の社会のこれまでの状況(「経路依存性」)しています。

 また、教育面においてロースクールの導入という大きな制度の変化がありましたが、試験が従来どおりの競争試験であり、さらに予備試験制度を例外として残したことが法科大学院の予備校化をもたらしました。制度補完性の問題が十分に考えられていなかったと言えます。

 

 第5章では、政治学者の網谷龍介が、日本の司法消極主義の要因の1つを最高裁判所の裁判官の任命方法に求める議論を行っています。

 日本の最高裁は明文で立法審査権が認められており、かなり強い権限を持っていますが、裁判官の選考は内閣の単独で行われています。

 アメリカの研究者のショアは、アメリカにおいて「大統領がたかが上院多数派の同意のみで憲法解釈者を決定できてしまうことを例外的であると評している」(98p)そうですが、国会の関与がまったくない日本はそれ以上と言えます。

 

 この問題は憲法制定時にも浮上したそうですが、裁判官に対して国会や国民の関与が大きくなることが、司法の独立を脅かし、司法に政争を持ち込むことになるという論調が強かったために、結局は行政部のみが関与する形に落ち着きました。

 

 1994年に出された憲法改正の読売試案では、憲法裁判所の設置を提言し、参議院を裁判官の指名に関与させるとしていました。

 ところが、司法改革においては最高裁の裁判官の任命方法についての議論は盛り上がりませんでした。司法改革は司法の役割の拡大を狙っていましたが、違憲立法審査権についてはとり上げられず、また、政治との関係についても積極的には検討されませんでした。

 これについて筆者は「民主的選出部門とのインターフェイスへの考慮なしに、国民的基盤なる抽象的概念を頼りに役割の拡張を図るのは困難であると言わざるを得ない」(110p)と述べています。

 

 もちろん、最高裁の裁判官に任命に国会の承認を求めるような改革は憲法改正が必要あり、ハードルの高いものですが、筆者は本章を以下のように締めくくっています。

 

 政治から距離をおきつつ、同時に積極主義を司法に期待するのは欲の張った主張であり、実現可能性が示されてもいない。政治との緊張関係を直視せずに司法の機能拡大を望むには限界がある、というのが平成司法改革から得られる教訓ではないか。(112p)

 

 第6章、ディミトリ・ヴァンオーヴェルベーク「平成司法改革の起源」は、司法改革に至る道と国民参加のあり方として裁判員制度が出てくる過程を追っていますが、平成に行われた改革の背景として、「ニュースステーション」などの民法の批判的なニュース番組をあげているのは興味深いですね。

 

 第7章は馬場健一「弁護士の収入減と裁判所事件数の低迷」です。

 司法改革においてはいろいろと目論見が外れましたが、その1つが弁護士需要の低迷とそれに伴う弁護士の収入の低迷です。弁護士の収入と所得の中央値は2000年の2800万円、1300万円から、2018年には1200万円、650万円とほぼ半減しました(137p)。

 その結果、弁護士からは法曹人口の拡大に反対する声が上がり、当初の年3000人の合格者という目標を消し去る一因ともなりました。

 

 ただし、筆者はこのことを過度に問題視することに懐疑的で、弁護士総収入や弁護士総所得が伸びていることなどから(141p図2参照)、弁護士のパイが限界に達していることはないと言います。

 また、訴訟において双方に代理人が付くケースが増えていない(143p図3参照)ことなどから、まだまだ弁護士需要の開拓は可能だと考えています(例えば、ルーティン的な事件を安い価格で引き受けることなどがあってもよいとしている)。

 さらに過去の歴史を見ても、弁護士が増えれば訴訟が増えるといった単純な関係はないことを指摘しています。

 

 第11章、米田憲市「「人的基盤」としての法曹人口」では、法曹人口の増加の実態と影響について検討されています。

 1990年代、地方裁判所の本庁と支部単位で弁護士ゼロ地域が46庁、1人の地域が32庁の管轄と存在しており、「ゼロワン地域」と呼ばれ、その解消が求められました(234p)。

 企業内弁護士についても、平成16年の弁護士法改正まで、所属弁護士会の許可がなければ営利法人に務めることはできず、「企業法務」にためにも人的基盤の拡大は必要だと言われていました。

 

 こうした人的基盤の充実のためのボトルネックは司法試験の合格者数であると考えれており、司法制度改革では司法試験の合格者増が目指されたのです。

 ところが先述のように弁護士需要の低迷もあって、合格者数は抑えられ、司法試験の合格者数は2021年には1421人まで削減されています。

 毎年1500人の新規法曹の誕生を前提とするシミュレーションでは、法曹人口は2048年の7万300人をピークに現象に転じるそうですが(248p)、この転換は早まるかもしれません。

 

 一方、ゼロワン地域についてはゼロ地区は2008年に、ワン地区も2011年末までに行ったんは解消されています。しかし、現在は合格者抑制の影響を受けて法テラスが新規の弁護士の採用に苦労しているとの話もあるようです。

 また、都市部を中心に企業内弁護士数も増えており、筆者は法曹の「人的基盤」を強化していくべきだと主張しています。

 

 第12章も引き続き米田憲市で「「理論」も「実務」も置き忘れた法曹養成」。タイトルからもわかるように法科大学院の失敗を受けてのものになります。

 ただ、基本的には法科大学院が徐々に司法試験対策に流れていった状況を振り返ったもので、特に改革の方向性などは打ち出されていません。

 

 第13章四宮啓「「法の支配」と司法への国民参加」は裁判員制度について検討しています。

 「司法への国民の関与」のために導入された裁判員制度ですが、この中には「自律的で責任を負う統治主体としての国民」という理想が盛り込まれていました。

 

 ところが、導入された裁判員制度は「自律的で責任を負う統治主体としての国民」の育成に役立っているとは言い難いです。

 まず辞退率は年々上昇して2021年7月には67.1%となり、欠席率は29.7%。その結果、当該事件に選任された候補者の内、裁判所に出頭したのは24.2%にすぎません(289−290p)。

 しかも、裁判員裁判の無罪判決が控訴審で覆されたり、両親による幼児への傷害致死事件に対して裁判員裁判が検察の求刑を上回る量刑を課すと、それを最高裁が否定するといったこともあり、「自律的で責任を負う統治主体としての国民」という理念からは離れた運用もなされています。

 

 こうした状況に対して、筆者が提言するのが守秘義務の緩和です。「自律的で責任を負う統治主体としての国民」の育成のためには、裁判員の経験が周囲に語られていくことが必要ですが、現在の厳しい守秘義務の中では、たとえ裁判員を経験したとしても多くの人がそのことを語りたがらないでしょう。裁判で知り得たプライバシーを守るのは当然ながら、それ以外の部分の守秘義務を弱めてはどうかというのが1つの提言になります。

 

 第16章では、今後に向けたさまざまな提言がなされていますが、その中には民事訴訟の審理期間の短縮、損害賠償の認定額の引き上げ、人質司法からの脱却、取調における弁護士の立会権など、以前から提言されていたものもありますが、司法試験合格者の年2000名程度への引き上げ、予備試験の廃止、被告人が裁判員裁判にするかどうかを否認事件である場合などは選択できるようにすること、裁判員裁判でのジェンダーバランスの確保など、平成司法改革を踏まえての提言もあります。

 

 司法の現場については門外漢なのでわからない面もありますが、どう考えても成功したとは言い難い平成の司法制度改革をこうやって振り返ることは貴重だと思います。

 漠然とした印象としては、司法制度改革は、既存の制度の持っていた磁力から離れられなかったという印象を持っているので、今一度の制度改革が求められているのかもしれません。

 

 

柴崎友香『わたしがいなかった街で』

 『寝ても覚めても』が「おおっ」と思わせる小説だったので、『きょうのできごと』を読み、さらにこの『わたしがいなかった街で』も読んでみたのですが、この『わたしがいなかった街で』も「おおっ」と思わせる小説ですね。

 

 主人公の平尾砂羽は大阪出身の36歳で、最近離婚して東京の墨田区から世田谷区の若林に引っ越してきます。物流関係の会社で契約社員をしており、とりたてて打ち込んでいることなどはありませんが、戦争関係のドキュメンタリーを見るのがやめられません。

 実は砂羽の祖父は1945年の6月まで広島でコックをしており、仕事を辞めていなければおそらく原爆の犠牲になったはずでした。そうしたら砂羽は存在していなかったのです。

 そうしたこともあって、砂羽は戦時中の出来事に興味を持ち、SF作家でもあった海野十三の『海野十三敗戦日記』を読みふけっています。他にも終戦前日の8月14日に行われた空襲の犠牲者のことなども考えています。

 

 こうした設定がわかると、「わたしがいなかった街で」というタイトルは、「広島で祖父が原爆の犠牲になっていたら今のわたしはいなかった」ということであり、「サラエヴォでもアフガニスタンでもイラクでも「わたしがいなかった街」で戦争が行われ、今もどこかで続いているということを示しているのだなと予想がつきます。

 ただし、この「戦争がわたしという存在を奪っていたかもしれない/奪うかもしれない」という想像力は比較的陳腐なものですよね。

 実際、主人公の行動や話は友人の有子の父から「つまらない」とたしなめられています。

 

 描写と会話がうまいので読ませはしますが、この小説の半ばくらいまではやや凡庸さを感じさせるような展開です。

 『寝ても覚めても』の主人公の朝子と同じく、本作の主人公の砂羽も主体性がなく、読みながらイライラする人もいるでしょう。

 

 ところが、この小説は中盤以降でやや不思議な書きぶりになります。

 主人公が昔通っていたカメラ教室で一緒になったクズイという男の妹の夏の視点から話が挟み込まれるようになるのです。

 最初は、砂羽がカメラ教室で一緒になり今でも連絡をとっている中井から聞いた話として夏が登場します。

 この中井という男は非常に人懐っこい男で、何事も波風を立てずに過ごそうとする砂羽と対象的な人物として描かれています。その中井が一度だけクズイの家に行ったときにいたあった妹に再会し、そのことを砂羽に伝えます。しかも、再会と言っても「クズイ」という名前を耳にして、珍しい名前だから聞いてみたらそうだったというかなり強引な出会い方なのですが、ここから紗和は中井からクズイが外国に行ったまま行方をくらましていることなどを聞きます。

 最初の登場の時点では、葛井夏という人物はクズイの謎について何かを語ってくれる人物として出てきたという印象です。

 

 ところが、途中から葛井夏視点の話が始まり、夏の内面が語られ、砂羽や中井とはまったく関係のないところでの夏の行動が描かれます。

 そして最後の方では、夏は中井の人懐っこさを内面化したような行動を取り始め、積極的に人に関わるようになるのですが、このあたりになると夏がもうひとりの主人公のような形でせり出してきた意味と、「わたしがいなかった街で」というタイトルの意味が改めてわかってきます。

 『寝ても覚めても』は「どんでん返し」の小説でしたが、個人的にはこの『わたしがいなかった街で』も「どんでん返し」の小説だと思いました。

 とても面白かったです。

 

 

『ケイコ 目を澄ませて』

 評判がいいので見てきましたが、まず主演の岸井ゆきのが素晴らしく良かったですね。

 岸井ゆきのをちゃんと見たのは朝ドラの「まんぷく」くらいで、年齢不詳な感じながら(中学生くらいの年齢から演じてた?)、安藤サクラ長谷川博己松坂慶子の間に入っても非常にいい感じだったので、将来はコメディエンヌとして活躍するのかと思っていたら、今回はぜんぜん違う役でした。

 

 今回演じているのは聴覚障害者の女子プロボクサーという役で、手話も含めて寡黙ですし、とにかく身体で演じなければならないような役なのですが、それを見事にこなしてます。

 撮影前にボクシングのトレーニングをしたそうですが、このボクシングシーンも決まっていて、特にジムでトレーナーとボクシングのコンビネーションのルーチンを繰り返すシーンは素晴らしいですね。

 そして、ボクシングというのはやはり映画の画として映えるスポーツなんだなとあらためておもいました。

 

 また、聴覚障害者がボクシングをやる難しさというのも描かれていて、セコンドの声も聞こえないので試合中にアドバイスを受けられないし、でもセコンドは黙っているわけにはいかないので、聞こえないにもかかわらず指示を出し続けているというところもありました。

 一方で、練習では会長やトレーナーがやって見せて、それを岸井ゆきのが真似していくというシーンがあって、これはいずれも良かったですね。

 

 あと、この映画の良さは東京の荒川沿いの風景ですね。

 荒川沿いの古びたジムが舞台になっており、主人公のロードワークや日々の生活の中でたびたび荒川沿いの風景が写るのですが、河川敷、鉄橋、首都高、密集する住宅や工場といった具合に、やや時代から取り残されたような荒川沿いの風景がよく撮れています。

 

 さらにメジャーな作品になるには、ストーリー的にもう少しメリハリや主人公の外形的な変化が必要なのかもしれませんが、非常に良いシーンが多かった映画であることは確かです。

 

額賀美紗子・藤田結子『働く母親と階層化』(とA・R・ホックシールド『タイムバインド』)

 今回紹介する本はいずれも去年に読んだ本で、去年のうちに感想を書いておくべきだったんですが、書きそびれていた本です。特にホックシールドの本は非常に良い本だったのですが、夏に読了した直後にコロナになってしまって完全に感想を書く機会を逸していました。

 というわけで額賀美紗子・藤田結子『働く母親と階層化』を簡単に紹介しつつ、そこでやや疑問に思った部分をA・R・ホックシールド『タイムバインド』の議論につなげてみたいと思います。

 

 まず、額賀美紗子・藤田結子『働く母親と階層化』です。いわゆる日本の女性に降りかかる仕事と子育ての両立という負担を分析した本です。

 現在の日本では、家事や子育ては母親中心とされながら、同時に母親には外で稼ぐことも求められているような状況です。これを三浦まりは「新自由主義的母性」の称揚と位置づけましたが、本書もそうした問題意識をもって、母親たちがどのように家事・育児と仕事というダブル・バインド状態にいかに対処しているかを明らかにしようとしています。

 

 同時に本書は階層に注目することで、母親たちが置かれている状況の違いについても注意を払っています。

 今までの両立問題の本や新聞記事などでは、どうしても高収入層の女性かシングルマザーというように両極端なケースがとり上げられる傾向が強かったので、広い階層にアプローチし、階層ごとの違いを明らかにした本書の分析は貴重です。

 

 本書では0〜6歳までの未就学児が少なくとも1人はいる首都圏在住の20〜40代の母親55名に対してインタビューを行っています。

 学歴や職業の多様性確保に努め、対象は四大卒以上32名、短大卒4名、専門卒11名、高卒8名となっています。保育所などを拠点に声掛けを行って集めたそうですが、やはり大卒以外の学歴の母親に話を聞くのは苦労したそうです(補章206−207p)。

 

 目次は以下の通り

序 章 働く母親と階層化[額賀美紗子・藤田結子]

第Ⅰ部 育児・家庭教育[額賀美紗子]

第1章 母親意識と時間負債──母親業と仕事を織り合わせる 

第2章 家庭教育へのかかわり方と就業意欲──「親が導く子育て」と「子どもに任せる子育て」

第3章 家庭教育における父母の役割分担──4つの類型

第Ⅱ部 仕事・家事[藤田結子]

第4章 大卒女性の稼ぎと職業に対する意識

第5章 非大卒女性の稼ぎと職業に対する意識──日常生活のリアリティ

第6章 愛情料理は誰のため─写真にみる家庭の食卓

終 章 仕事と子育ての不平等是正に向けて[額賀美紗子・藤田結子]
補 章 フィールド調査の方法[藤田結子・額賀美紗子]

 

 まず第1章に出てくる「時間負債」という言葉ですが、これはホックシールドの提唱したもので、仕事をしている女性が子どもと過ごす時間が少なくなってしまうことの後ろめたさを表しています。

 本書でとり上げられている母親たちも、専業主婦と比べて子どもと過ごす時間が少ないことに後ろめたさを感じています。

 また、発達が遅かったりすると「愛情不足では?」と感じてしまうこともあるようで、育児については母親が自分を犠牲にしてでも責任を持つべきだという考えを持っている人も多いです。

 

 ただし、「絶対仕事のほうが楽なので。仕事に行って、大人と会話して、平常心を保っているというか」(43p)と話す母親もおり、育児と仕事が単純な二重の負担になっているわけではなく、仕事が育児のストレスを軽減していると考えている人もいます。

 

 保育所についても、一緒に過ごす時間が少ないことに負い目を感じつつも、保育所に預けたことによって親子だけで過ごすよりも良い経験ができていると考える人も多いです。

 ただし、保育所でも「育児に責任者は母親」という形で対応されることに違和感を感じている人もいます(パパが保育所から怒られることはないが、ママはある)。

 

 第2章では、育児について「親が導く子育て」、「子どもに任せる子育て」という類型を導入して分析を行っています。前者は、親が学習習慣を身に着けさせ、いろいろな習い事などを経験させて子どもの見聞を広めることを重視しており、後者は、小さいうちはのびのびさせ、習い事なども本人がやりたいと言ったらやらせるスタンスです。

 

 この2つのスタイルとは母親の学歴とも関係があり、「親が導く子育て」は大卒女性14名に対して非大卒女性9名、「子どもに任せる子育て」は大卒女性9名に対して非大卒女性14名となっています。

 統計調査をしたわけではないですが、本調査からは学歴が高いと「親が導く子育て」、低いと「子どもに任せる子育て」になりやすい傾向がうかがえます(ただし、大卒女性の中にも子どもを管理しすぎることに抵抗を示す人はいます)。

 

 ただし、高い学歴を望んで例えば小学校受験をさせようとすれば、自分が仕事を続けることが難しくなり、就業意欲にブレーキが掛かります。一方、「子どもに任せる子育て」には時間負債を緩和させる効果があります。

 日本は高学歴女性の就業率が他国に比べて低いのですが、その要因の1つが「親が導く子育て」へのめり込んでしまうことかもしれません。

 

 第3章では、父親についても分析に含め、「母親に偏った「親が導く子育て」」、「父母協働志向の「親が導く子育て」」、「母親に偏った「子どもに任せる子育て」」、「父母協働志向の「子どもに任せる子育て」」という類型を取り出して分析しています。

 

 まずは「親が導く子育て」ですが、「父母協働志向」であってもやはりイニシアティブをとっているのは母親で、母親が父親を巻き込むような形で習い事などが決められています。一方、「母親に偏った」ケースでは、父親がそもそもほとんど習い事をしておこなかった、父親が高卒など、父親の育った文化が影響を与えているケースが多いようです。

 

 「子どもに任せる子育て」では、「父母協働志向」のケースは両親の教育的関心は高いものの、明確な意図を持って「子どもに任せる」としているケースもありますし、るりさんのケースのように父親は「親が導く子育て」的志向を持っているケースもあります。一方、「母親に偏った」ケースでは、父親がそもそも育児に関心がない、母親がやるものだと思っているといったケースが見られます。

 

 階層ごとに見ると、両親とも大卒だと「父母協働志向の子育て」になりやすく、両親だと非大卒だと「母親に偏った子育て」になりやすいです(108p図3−2参照)。さらに、その中でも「母親に偏った「子どもに任せる子育て」」が多いです(109p図3−3参照)。

 

 第4章では大卒女性の職業意識を探っています。

 就業しても、就業に対する意識はそれぞれ違います。生計維持分担意識が強い人もいれば、低い人もいますが、本書でとり上げられている大卒女性を見ると、やはり生計維持分担意識が強い人が多いです(20名中、強い者が17名、弱い者が3名)。

 ただし、夫との比較でいうと「自分が主な稼ぎ手」が3名、「2人がほぼ同等の稼ぎ手」が4名、「夫が主な稼ぎ手」が13名と、夫が主な稼ぎ手と考える人が多いです。

 

 さらに彼女たちの語りから、「キャリア」型(ライフワークとして仕事に取り組み、高いレベルのコミットメントを持っている者)と「ジョブ」型(社会参加や家計補助のために収入を得ることが目的のもの)という類型を取り出して分析しています。

 「キャリア」型のふゆみさんは、週に1回はベビーシッターを頼んで働いており、管理職を目指しています。

 また、わかなさんのように仕事と子育ての両立が大変で契約社員になったが、キャリアを形成する機会を失ったしまったと感じた人もいます。

 家事負担については、大卒フルタイム共働き夫婦であっても妻の家事負担が大きくなる傾向があります。

 

 第5章では非大卒女性の職業意識を探っています。

 対象は17名で、生計維持分担意識が強い者が8名、低い者が9名と、大卒女性に比べると生計を担おうという意識は弱いです。

 

 注目すべきは同じ非大卒であっても高卒と専門卒では意識が違うことで、今までの調査では非大卒で高卒と一括されることが多い専門卒ですが、生計維持分担意識を高める傾向があるようです。

 本書を見ると、専門卒で生計維持分担意識が高いのは、看護師、福祉士、歯科衛生士などの資格職で、こうした資格の有無が影響しているとも考えられます(ただし、福祉士のケースでは同じ福祉職の夫の給与が低いことが理由になっている(136−137p)。高卒女性で唯一生計維持分担意識が高い者も介護福祉士の資格を持っています)。

 

 高卒女性の場合、本書でとり上げられているのは、ネイリスト、介護職など、長時間労働が必要とされる職種についていたため、子育てとの両立が難しかったために辞めざるを得なかったケースです。

 

 先ほどの「キャリア」型、「ジョブ」型の類型でいうと、専門卒では半々という感じですが、例えば、しおりさんは美容の専門学校を出て美容師になったものの、職場のブラックさによってパートの美容師となっています。本来ならば「キャリア」型を志向したが条件的に「ジョブ」型に落ち着かざるを得なかったケースと言えます。

 高卒女性だと「キャリア」型を志向しているのは、介護士のうららさんのみで、他は正社員だったもののマタハラを受けて退職し、非正規になってしまったなど、職場の不安定さがキャリア志向を難しくさせています。

 

 夫との家事分担では、大卒にあった妻と夫が同程度というタイプがなく、非大卒ではすべての回答者で妻が全部、または夫よりも2倍程度家事を負担しています。理由としては夫が長時間労働であること、固定的なジェンダー意識を持っていることなどがあげられます。

 

 第6章は「愛情料理は誰のため」というタイトルで、調査対象者に撮ってもらった写真も使いながら料理について分析しています。

 料理の負担はどうしても女性に偏りがちですし、特に日本では「手作り規範」とも名付けられる手作りを称揚する雰囲気があります。

 

 では、そうした手間が誰に向けられているかというと基本的に子どもです。もちろん、夫の要求などを重視している人もいますが、誰を重視するかでは16名中、「子ども」が9名、「子どもと夫」が3名、「自分と夫」が2名、「子どもと自分」が1名、「自分」が1名です(169p、「夫」単独の選択肢はあったけど選ばれなかったのかな?)。

 

 「手作り=愛情」という考えに肯定的な人は16名中13名ですが、ここでも愛情の対象は基本的には子どもです。

 例えば、朝食に子どもには絵皿を使うが、大人は皿洗いの時間を節約するために食パンをティッシュの上に乗せるだけといったケースもあり、子どもにきちんとした食事をさせたいという規範は強いです。

 そして、この食事における「子ども中心主義」は就業形態や職業、学歴、世帯収入による違いはなく見られるものだといいます(179p)。ただし、看護師などの専門職では手作り規範の相対化が行われやすい傾向があり、世帯収入が高いほど調理済み食材やサービスや家電の購入などで時短を図る傾向があるそうです。

 

 このように本書は、今まで大卒女性中心に論じられることが多かった女性の仕事と育児・家事の両立問題に対して、非大卒の語りも取り入れることで、「階層」の問題を含めて考察している貴重な研究です。

 最後の食事の問題もさらにここから分析を深めていきそうで面白いと思います。

 

 ただし、第6章で日本の家庭における「子ども中心主義」に行き着いたのであれば、前半の章での書き方をもうちょっと見直しても良かったのでは? と思う部分もあります。

 

 例えば、第3章では子どもの習い事に対して次のように書かれている2つの部分があります。

 1つ目は、3歳児に水泳だけではなくピアノも習わせようとしているせいこさんのケースです。夫にピアノを習わせる意義を理解してもらえないことを嘆いています。

 

せいこさん:ピアノをやったところで、別に何も身に付かないって。

 ー なるほど。それに対して何か言いましたか?

せいこさん:私はピアノをやることで、右手と左手で、右脳と左脳を同時に使うから、結構いい、今後使えるようになるって言ったんですけど。別に、ピアノ習ってても自分たちと変わらないような生活をしたりとか、ピアノを引けるからといって別にすごい人になってるわけじゃないみたいな。(94p)

 

 2つ目は子どもの習い事に熱心に取り組む夫についての記述です。

 

 たとえば、わかなさんの夫は水泳教室、そのこさんの夫は卓球教室に子どもたちを熱心に通わせていた。習わせようと考えたのは夫で、教室を探したり、うまくなるための練習に付き合ったりするのも夫だった。かれらがこれらの習いごとに特化して興味を示すのは、自らが経験し、過去に打ち込んできたものだからである。大和ら(2008)は、父親の育児参加が増えてきたとはいえ、父親は育児を「子どもと楽しいことをする」こととしてとらえがちで、「育児にレジャー化」が進んでいるという見解を示している。これを踏まえると、父親の習いごとへのコミットは、母親たちのように子ども中心的な意識を背景とした行動ではなく、自己充足的な意味合いが強い。家庭教育の「楽しい」部分を父親が引き受け、しつけや教育にかかる手間ひまは母親が背負うことになっていた。(107p)

 

 他にもこの章では、子どもの習い事に対して興味を示さない父親に対する母親の不満が紹介されていますが、この章を読むと、やはり育児の中心は母親であるべきと感じてしまいます。

 なぜなら、父親の育児は「自己充足的なレジャー」に過ぎないのに対して、母親の育児は「美しき自己犠牲」だからです。

 

 というのは言い過ぎにしても、例えば、せいこさんが子どもの頃にピアノをやっていたとしたら、それは自己充足なのでしょうか?

 一応、「親がやらせたいもの」と「子どもの立場に立って将来に役に立ちそうなもの」という分け方はできそうにも見えますが、卓球とピアノでどっちが子どもの将来のためになるかというのは誰にもわからないことでしょう。

 

 第6章の食事についての分析を見ればわかるように、日本の母親に負担を強いているのは「子ども中心主義」でしょう。

 育児と仕事の両立のためには、この「子ども中心主義」の相対化が必要だと思うのですが、第3章の議論は、父親への「滅私奉子ども」の要求であり、「子ども中心主義」を強化するものになってしまっています。

 ここは小さいうちの習いごとなんて親のエゴに過ぎないと割り切ったほうが母親も父親も幸せになれるのではないでしょうか?

 

 

 おまけですが、A・R・ホックシールド『タイムバインド』は、「なぜ両立支援の整っている職場で長時間労働が蔓延しているのか?」という疑問に対して、「家庭よりも職場のほうが居心地が良いからだ」という見方を示した本になります。

 評価されることの少ない育児に比べて、成果に対してきっちりと評価が出て、しかも仲間がケアしてくれる職場の方が居心地がよく、子どもを愛していないわけではないが、職場にとどまってしまうというものです。

 

 日本では家庭の権威の中心が子どもにあり、それが「子ども中心主義」を生み出すと同時に、育児に対する評価のようなものも生み出しているのではないかと思います。

 「子ども中心主義」は相対化されるべきだと思いますが、なくなれば家庭からの逃避が起きてしわ寄せが子どもに行きかねないわけで(ホックシールドアメリカの状況をそのように捉えている)、難しい問題です。

 

 とりあえず、今回紹介した2冊の本は仕事と育児の問題について、さまざまなことを考えさせてくれる本です。

 

 

 

 

イアン・マクドナルド『時ありて』

 『サイバラバード・デイズ』などの作品で知られるイアン・マクドナルドが描くSFですが、とりあえずはあまりSFっぽさは感じられないかもしれません。

 古書ディーラーのエメット・リーが『時ありて(タイム・ワズ)』という詩集を偶然手にすることから始まります。著者名はE・Lというイニシャルのみ。出版社も記されていないという謎めいた本です

 そこには戦争中(?)にトムからベンへと書かれた手紙が挟んであり、エメットはこの二人がどのような人物であったのかに興味を持ちます。

 そして2人についての情報をネットで募ると、ソーン・ヒルドレスという女性が反応します。この2人についての情報を知っているが、2人には公式の従軍記録がないというのです。

 そこからエメットとソーンの2人はトムからベンという2人の男の正体をさぐる行動に出ます。

 

 前半は戦争を背景としたラブストーリーのようでもあり、ちょっとオンダーチェの『戦下の淡き光』とか『イギリス人の患者』とかを思い起こさせる感じもあります。

 ところが、この2人らしき人物が写った写真が第1次世界大戦のときにも、第2次世界大戦のときにも見つかります。しかも、実際には24年の歳月が流れているのに、2人の姿はほとんど同じように写っているのです。

 

 ここから本作はSFの要素をもつものとなっていきます。

 ただし、本書は150ページほどの中編であり、SF的な仕掛けを突き詰めて描いているわけではありません。そこを期待するとやや肩透かしを食うかもしれません。

 それでも雰囲気作りの上手さというのは、普通のSF作家にはないもので、ラブストーリーとミステリーが物語を上手く引っ張っています。

 個人的にはもう少し書いてくれても良かったのではないかと思いますが、余韻を大事にするならこういったラストでもいいのかなという感じです。

 

 

2022年の紅白歌合戦を振り返る

 あけましておめでとうございます。

 今年もやはりブログは紅白の振り返りから。今回の紅白において注目すべき点は、「結果発表→蛍の光」ではなく、「蛍の光→結果発表」というルーティンの変更が行われたことでしょう。

 それに伴い、結果発表→キャプテンへの優勝旗の授与→キャプテンの涙の一言、といったものも消滅していしまいました。トリ前に紅組と白組の歌手たちがトリを務める歌手へエールを送るというシーンもなく、もはや紅白歌合戦における「勝利」は、紅白の視聴率などと同等の視聴者の興味を引く「数字」のように扱われていたと思います。

 

 「歌合戦形式の消滅」については2018年の紅白を振り返った記事でも指摘していましたが、ついにMajiで消滅5秒前くらいになってきた感じです。

 プログラム的にも後半はスペシャルゲストの連続で、どちらに軍配を上げるべきか迷った人は多いと思います。自分も「氷川きよしが良かったから白じゃね?」と言ったら、奥さんに「氷川きよしスペシャルゲストだ」とたしなめられました。

 もはやNHKが「歌合戦」という競争の公平な管理者であることを放棄していたと思います。

 

 そして、氷川きよしについては本来ならば当然大トリで、石川さゆりMISIAという紅組連続登場を、”白雲の城”→”きよしのズンドコ節”または”歌は我が命”の2曲を歌って迎え撃って白組勝利で最後の花道を飾るくらいでも良かったですけど、氷川きよしが白組という枠から「限界突破」してしまったので、こういう形になったんでしょうね。

 YOSHIKIらがTHE LAST ROCKSTARSと名乗っていましたが、氷川きよしはまさにTHE LAST 演歌歌手だったのではないかと思います。

 

 司会は橋本環奈があまりにもそつなくこなしていたので、吉高由里子綾瀬はるかが懐かしい…。

 来年の紅白の司会は来年の大河の主演の吉高由里子を期待していいんですよね?

 

 以下、各歌手の短評。

 

SixTONESSixTONESはカッコイイ路線をいくのかと思ってましたけど、やっぱりジャニーズはこうなるんですね。

郷ひろみ→歌はともかく、スギちゃんやテツANDトモをたんなる風景として消費していくのが紅白の豪華さ。

Saucy Dog→声が万人ウケするクリープハイプという印象。

SEKAI NO OWARI→もうちょっと何かがあればほとんどの人が知っているヒット曲になったかも。でも、この演出でセカオワを紅組と認識できた人はいるのか?

三浦大知→曲紹介の黒島結菜の元気のなさは心配だったけど、歌は素晴らしい。メロディの入りから圧倒的なスケール感を出せる所がいい。

Aimer→うちの子どものお気に入りで、難しい曲をよく歌うよ…と思っているけど、それをきっかりと歌ってくる上手さ。

三山ひろし→多くの視聴者は右下のワイプのけん玉を凝視していたと思うのですが、そういえばず~まだんけはいつからいなくなった??

Vaundy→そんなによく知らなかったんですけど、歌手としてのスケール感もあって、なおかつなんでも歌えそうな人なんですね。人気も納得した。

back number→曲紹介で「なんでくるみちゃんがいないの?」と思いましたが、次が乃木坂だったんですね。プログラムの改善点。

工藤静香→いい歌を歌っているとは思いますけど、キムタクと結婚したり、娘をすかさず売り込んだりする出来の良さがやや歌手としての魅力を下げているような気もする。

King & Prince→低音が効いたサビとかはジャニーズの楽曲の中でもあんまりないかっこよさだったと思いますが、曲名が”ichiban”というのはもうちょっとどうにかならなかったのか…。

あいみょん→”君はロックを聴かない”のポップさが改めて印象付けられた。

加山雄三→若手の歌手の歌が非常に複雑で歌詞の言葉数も多い中で、このシンプルさは新鮮だった。昔は一家揃って嫌ってましたけど、声も出てたし良かった。

藤井風→去年は第2部をジャックした感じでしたけど、爽やかな印象だった前回から変態っぽい今回へ。いいんじゃないでしょうか。

篠原涼子→ずっと「with T.KOMUROは?」と思っていたので、おばあちゃん化したT.KOMUROが出てきて満足ですよ。

ゆず→1・2・3、ダァーッも「もう1回!」もどうでもいいんだけど、岩澤の声は平成の無形文化遺産

松任谷由実 with 荒井由実→応援に駆けつけたダボダボ青色ジャージのあいみょんとTシャツ姿の郷ひろみの絵面が面白すぎた。

安全地帯→石川さゆりなんかをみると、どうしても60代になると声量とか声のハリは落ちちゃうのかな?と思いますが、玉置浩二はまだバリバリですね。

MISIA福山雅治→歌手としての力量は段違いですけど、難しい曲を歌いこなすMISIAに対して、シンプルなメロディ、狭い音域、日本人の好きそうな叙情的な歌詞の”桜坂”で対抗するのは間違っていない。

 

 勝敗的には氷川きよしや安全地帯を白だと思っちゃえば、白組の勝ちだし、そういったスペシャルゲストを丁寧に除外すれば紅組の勝ちという感じですかね。

 男女が合戦する時代でもないのかもしれないけど、「紅組と白組の対決」という要素がなくなれば、「FNS歌謡祭まであと一歩」ということになりかねないので、個人的には「対決」を残してほしいですね。