2022年ベストアルバム

 今年は「これ!」という1枚を見つけることができなかった感じですね。一応、そこそこいいアルバムはあったのですが抜けた1枚はなしです。

 収録曲の良さならばBig Thiefなんですけど、やはり70分を超えるボリュームはアルバムとしてはどうなのかと。

 もうアルバム単位で聴く時代ではないんでしょうけど、未だにサブスクをやっていない身としてはアルバム1枚聴いたときの気持ちよさを重視したいということで以下のような順位になりました。

 

 

1位 Fontaines D.C. / Skinty Fia

 

 

 アイルランド・ダブリン出身のポスト・パンクバンドの3rdアルバム。この手のバンドはキャリアを積むにつれて勢いがなくなってくるのでは? とも思っていましたが、全然そんなことはないですね。

 演奏もメロディもいいですし、アルバム全体の緩急もついている。特に9曲目の"I Love You"はとてもかっこよくていい曲だと思います。

 


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2位 Big Thief / Dragon New Warm Mountain I Believe In You

 

 

 最初にも書いたように収録されている曲の質ならこのアルバムが1番。やはり20年代前半のインディーシーンの中心はなんでしょう。

 もとからメロディは冴えていますし、ボーカルのAdrianneの声もいいのですが、今作では更にサウンドが進化していて、フォークっぽい感じだけではなくさまざまな音が鳴らされています。

 ただ、前回のように少しずらしたタイミングで2枚リリースしてくれたほうが個人的には良かったですね。

 


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3位 羊文学 / our hope

 

 

 とにかくアニメ「平家物語」のOPにもなった"光るとき"が良かった。

 アルバム全体を通じても、1曲目の"hopi"とラストの"予感"のギターを中心に据えて、それを聴かせる構成はいいですし、曲調としてもバラエティに飛んでいると思います。日本のギターロックだと、ギターが良くてもボーカルが埋没してしまうことも多いですが、ボーカルの塩塚モエカにパワーがあっていいですね。

 11曲目の"マヨイガ"は、ややアニメ映画のエンディングを飾るために(映画は未見ですが)、歌詞もアレンジもややそれっぽい感じに引っ張られた印象で、ここであとひと押しあったら完璧だった。

 


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4位 宇多田ヒカル / BADモード

 

 

 今までのアルバムと比べて「大好き」という曲はないのですが、全体を通してさすがのクオリティですね。

 ここ2枚は、音楽的には比較的似たような感じでしたが、今作はエレクトリックな感じを取り入れていてサウンド的にも進化が感じられました。

 相変わらず歌詞も効いていて、♪一人で生きるより/永久(とわ)に傷つきたい/そう思えなきゃ楽しくないじゃん♪とかすごいですよね。

 

 

5位 崎山蒼志 / Face To Time Case

 

 

 メロディは前作にも増してよくて、"嘘じゃない"とか"風来"とかのメロディの良さは特筆すべきものがあると思うんですけど、個人的にちょっとアレンジが残念。

 グルーヴ感こそが崎山蒼志の売りではないかと思うのですけど、今回はアレンジでストリングスを入れたりしたことでスケール感こそ出たものの、その分グルーヴ感は交代してしまったような…。相変わらず曲はいいんですが。

 

 次点は、Yeah Yeah Yeahs / Cool It Down。忘れた頃の鮮やかな復活でした。

 

2022年の映画

 今年は去年よりはちゃんと映画を見た気がします。ただし、相変わらず立川シネマシティでやってないとどうしても見逃しちゃう問題はあって、やはり見ている人に比べれば見れていないんだと思います。

 それでも、とりあえずは今年の5本をあげておきます。ちなみに今年見た作品だと『ドライブ・マイ・カー』も素晴らしかったですが、さすがに今年の映画にあげるのはどうかと思ったので、それ以外で5本選んでいます。

 

1位 『ベイビー・ブローカー』

 

 

 映画の始まりと終わりはやや強引で、脚本的には穴もあると思いますが、洗車場で子どもが思わず窓を開けてしまってそこで疑似家族が成立するシーンはすごく上手いですし、他にも印象的なシーンがいくつかあり、さすが是枝裕和という感じです。

 そして、やはり役者がいいです。日本の「赤ちゃんポスト」がモチーフになっていて、日本でも撮れた作品かもしれませんが、じゃあ役者は誰にやらせるの? となると、なかなか思いつかない。

 

 

2位 『NOPE/ノープ』

 

 

 人を襲っているらしきチンパンジーの姿が写り、さらに画面が変わって黒人の親子が牧場で馬の調教をしていると、空模様が怪しくなり、空からコインが降ってきて父の頭に直撃して父が亡くなる。

 この映画の冒頭のシーンを見て、監督のジョーダン・ピールについてまったく前知識のなかった自分は「これはデビッド・リンチみたいな感じか?」と思いながら、見ていましたが、リンチではないですね。

 そして、だんだんと「これはシャマランなのか?」となるのですが、後半になるとどんどんと映画は加速していき、『AKIRA』への明らかなオマージュや『エヴァンゲリオン』的なものまで登場して、スケールが大きいのだか、そんなに大きくないのだかよくわからないようなスペクタクルが展開されます。面白かったです。

 

 

3位 『クライ・マッチョ』

 

 

 クリント・イーストウッドが91歳にして主演した映画で、さすがに足元がおぼつかない感じはあるのですが、枯れたぶん、まさにイーストウッドな感じの映画です。

 本作のテーマはマッチョイズムの否定でもあるわけですが、「マッチョイズムの有害性」をことさらに描いたり、それを象徴するようなシーンを特につくりこまずに、あっさりとイーストウッドの口から「俺はわかったんだ」と言わせて終わらせるところが味わい深いですね。

 

 

4位 『犬王』

 

 見終わった最初の感想は「これはクイーンであり、犬王はフレディ・マーキュリーだ」ということ。映画の中のかなりの時間をステージのシーンが占めているのですが、それがとにかく過剰。

 湯浅政明監督は、アニメならではのさまざまな効果を存分に使って作品を見せる監督ですが、今回はありとあるゆる演出方法が詰め込まれれている感じで、とにかく派手で華麗です。これほどいろいろなアニメの演出を楽しめる作品はなかなかないでしょう。

 

 

5位 『すずめの戸締まり』

 

 『君の名は。』で明らかに東日本大震災のイメージを見据えた映画を作った新海誠が真正面から東日本大震災を描いた作品。

 「今ある風景が失われてしまうかもしれない」というのは、『君の名は。』にも『天気の子』にも共通するモチーフですが、本作ではすでに失われてしまった風景を通じて、かつての人々の生活に思いを馳せるという形になっており、このあたりも一歩踏み込んだ感じです。

 ただし、震災を真っ向から描いただけに、トリッキーなラストはつくりにくく、『君の名は。』や『天気の子』のラストにあった「こう来たか!」みたいな感じはないですね。

 

2022年の本

 気がつけば今年もあと僅か。というわけで恒例の今年の本です。

 今年は小説に関しては、朝早起きしなくちゃならない日が多かったので寝る前に読めず+あんまり当たりを引けずで、ほとんど紹介できないですが、それ以外の本に関しては面白いものを読めたと思います。

 例年は小説には順位をつけているのですが、今年はつけるほど読まなかったこともあり、小説も小説以外も読んだ順で並べています。

 ちなみに2022年の新書については別ブログにまとめてあります。

 

blog.livedoor.jp

 

 

小説以外の本

筒井淳也『社会学

 

 

 「役に立つ/立たない」の次元で考えると、自然科学に比べて社会科学は分が悪いかもしれませんし、社会科学の中でも、さまざまなナッジを駆使する行動経済学や、あるいは政策効果を測ることのできる因果推論に比べると、社会学は「役に立たない」かもしれませんが、「それでも社会学にはどんな意味があるの?」という問題が真摯にとり上げられています。

 データによる分析が重要だとしても、「そのデータをどう切り分けられるのか?」「10年前のAについてのデータと現在のAについてのデータAは果たして同じなのか?」など、意味を理解するための試みは残り続けるのです。

 

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ジェレミー・ブレーデン/ロジャー・グッドマン『日本の私立大学はなぜ生き残るのか』

 

 

 なんとも興味を引くタイトルの本ですが、実際に非常に面白いです。

 2010年前後、日本では大学の「2018年問題」が新聞や雑誌を賑わせていました。これは2018年頃から日本の18歳人口が大きく減少し始め、それに伴って多くの私立大学が潰れるだろうという予想です。 

 ところが、2022年になっても意外に私立大学は潰れていません。もちろん、経営的に厳しいところは多いでしょうが、なんとか生き残っているのです。

 この謎に2人の外国人の社会人類学者が迫った本になります。そして、日本の非難関大学の「あるある」をフィールドワークした上で、「同族経営」という意外な答えに行き着くのです。

 

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S・C・M・ペイン『アジアの多重戦争1911-1949』

 

 

 満州事変から日中戦争、太平洋戦争という流れを「十五年戦争」というまとまったものとして捉える見方がありますが、本書は中国における1911年の清朝崩壊から1949年の中華人民共和国の成立までを一連の戦争として捉えるというダイナミックな見方を提示しています。

 一連の戦争と書きましたが、著者はこの時期の中国において、「内戦」、日本との「地域戦争」、そして太平洋戦争を含む「世界戦争」という3つの戦争が重なり合う形で進行していたとしています。

 本書を読み終えたのが2月半ばだったのですが、ウクライナに対するロシアの行動が、本書の描く日本の中国に対する行動と被って仕方がなかったです。

 満州事変で成功した日本は、「暴支膺懲」をかかげて目的もはっきりしないままに中国と全面戦争を行い、その結果は世界戦争での日本の敗北と共産党政権の誕生でした。

 クリミア併合に成功しながらも、「暴ウ膺懲」をしようとして泥沼にハマったロシアの行く末はどうなるのでしょうか…。

 

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渡辺努『物価とは何か』

 

 

 各所で話題になった本ですが、これは面白く勉強になりましたね。

 著者はまず、物価を蚊柱、個々の商品の価格を個別の蚊に例えています。個別の蚊はさまざまな動きをしますが、離れてみると一定のまとまった動きが観測できるというのです。

 本書は「個別の蚊の動きを追っても蚊柱の動きはわからない」という前提を受け入れつつ、同時にスーパーなどの商品のスキャナーデータなどミクロのデータも使いながら、「物価とは何か?」、さらには「日本の物価はなぜ上がらないのか?」という謎に挑んでいます。

 長年デフレが続いていたのに、今年になって急に「インフレだ!」と言われはじめた日本で、まさに今読むべき本となっています。

 

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岡田憲治『政治学者、PTA会長になる』

 

 

 近年、さまざまな場所で批判的に語られることが多いPTA。どんな事情があってもやらされるかもしれない恐怖の役員決め、非効率の権化のように言われてるベルマーク集めなど、PTAについてのネガティブな話を聞いたという人は多いと思います。

 本書は、政治学者である著者が他薦によってPTA会長になり、改革のために悪戦苦闘を重ねた記録になります。

 外で働いている人とPTAの常識の乖離といったものは多くの人が指摘していることではありますが、本書は、著者がその「PTAの常識」なるものがいかなる理由で生まれてきたものかを見極めようとしている点が面白いです。

 そして、著者は「PTAの常識」の改革を目指すのですが、上手くいったケース、いかなかったケースがそれぞれあり、PTAに限らず、日本の組織というものを考える上でも非常に興味深い記録になっています。

 

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オリヴィエ・ブランシャール/ダニ・ロドリック編『格差と闘え』

 

 

 2019年10月にピーターソン国債経済研究所で格差をテーマとして開かれた大規模なカンファレンスをもとにした本ですが、とにかく豪華な執筆陣でして、編者以外にも、マンキュー、サマーズ、アセモグルといった有名どころに、ピケティと共同研究を行ってきたサエズやズックマンといった人々もいます。

 そして、時代が変わったなと思うのは、「格差は是か非か」「政府の介入は是か非か」という原則論が戦わされているわけではなく、格差の是正の必要性重、政府の介入の必要性を認識を共有しつつ、「では、どのような原因があり、どのような政策対応が可能なのか?」といった点で議論が進んでいる点です。

 「住宅価格」、「教育」、「チャイナ・ショック」、「自動化」、「ジェンダー」など、さまざまな切り口で格差の問題が論じられているのも魅力です。

 

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リン・ハント『人権を創造する』

 

 

 本書は新刊ではなく、久々の重版ですけど、これも面白かったですね。

 「人権」というのは、今生きている人間にとって欠かせないものだと認識されていながら、ある時代になるまでは影も形もなかったという不思議なものです。

 人権というと、どうしても法的な議論が思い起こされますが、本書が注目するのは「共感」という感情であり、18世紀に流行した書簡体小説です。人間が他者に共感し、その身体の不可侵性などを感じるようになったからこそ、「人権」という考えが成立し得たというのです。

 政治史→文化史という流れはよく見ますが、文化史→政治史という流れを指摘しつつ、その後の人権の発展にも目を配った刺激的な本です。

 

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ケネス・盛・マッケルウェイン『日本国憲法の普遍と特異』

 

 

 「75年間、1文字も変わらなかった世界的に稀有な憲法典」

 これは、本書の帯に書かれている言葉ですが、今まで存在した成文憲法中、改正されないままに使われている長さにおいて、日本国憲法1861年に制定されイタリア憲法に続いて歴代第2位です。日本国憲法は「特異」な憲法と言えます。

 しかし、一度も改正せずに済んでいるということは、実は日本国憲法の内容が「普遍」的だったからとも言えます。

 この「特異」と「普遍」について論じたのが本書です。

 憲法は当然ながら政治にとって重要なものなのですが、憲法といえば憲法学者が論じるべきものであるというイメージが強かったかもしれません。それに対して、本書は比較政治学的なスタンスから今までになかった形で憲法に切り込んでおり、まさに新しい地平を切り開いた本と言えるのではないでしょうか。

 

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小説

 

呉明益『雨の島』

 

 

 なんとなく出る度に呉明益の本をあげている気がしますが、やはり力のある作家ですね。

 本書は連作短編ですが、後記に「ネイチャーライティング」という言葉が使われているように、自然を題材としたノンフィクション文学のような趣もあります。特に各短編の前の置かれた呉明益自身によるスケッチは美しく、生物に対する繊細な視点が感じられます。

 「雨の島」とは台湾のことであり、その山や森林、海の様子が描かれています。そして、その自然に魅せられた人間たちが描かれるのです。

 全編を通じてエコロジーではあるのですが、ぱっと思い浮かぶ「エコロジー」とは少し違った「エコロジー」が展開しています。

 

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郝景芳『流浪蒼穹

 

 

 短編「折りたたみ北京」や長編の『1984年に生まれて』で知られる郝景芳のデビュー作にして、本格的な火星SFとなっています。

 この小説を読むと、「火星=(理想的な)社会主義国会」、「地球=資本主義国家」という図式を思い浮かべると思います。

 これは間違いではなく、おそらく作者もそのようにイメージしながら書いているのでしょうが、ポイントはこの小説の主眼が2つの世界の優劣を示すことではなく、2つの世界を知ってしまった人間の寄る辺のなさを描こうとしている点です。

 この感覚は、おそらく欧米や日本に留学した中国人学生の一部などにも見られるものなのではないでしょうか?

 小説としてはやや冗長な部分もあるのですが、本書はこの感覚を非常に丁寧に描き出しています。

 

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柴崎友香寝ても覚めても

 

 

 読み始めたときは随分とちぐはぐな印象の小説だなと思いつつも、最後まで読むと「そういうことだったのか!」となる小説。

 主人公に感情移入できる人は少ないかもしれませんし、読むのがやめられなくなる小説とかではないのですが、最後のゾワゾワっとする展開はいいですね。印象に残る小説です。

 非常に緻密な描写と雑な描写が同居していて、そのちぐはぐさがずっと気になるわけですが、このちぐはぐさの理由が最後の30ページくらいで一気に明らかになります。

 

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ジーナ・アポストル『反乱者』

 フィリピンに生まれ、アメリカで創作を学んだ女性作家による小説。帯に「超絶メタフィクション長篇」との言葉があるように、かなり複雑な仕掛けをもった小説でになります。

 とりあえず、カバー裏の紹介は以下の通り。

 

 フィリピン出身のミステリー作家兼翻訳者マグサリンは、新作小説の案を練り始める。そこへ一件のメールが届く―送信者はその小説の主人公である、映画監督キアラだった。
 キアラの父親も映画監督であり、1970年代にベトナム戦争中の米軍による虐殺事件を扱った映画をフィリピンで撮影したのち、失踪していた。キアラは、1901年にフィリピン・サマール島のバランギガでも同様の事件が起きていたことを知り、それをみずから映画化するために、マグサリンに現地での通訳を願い出たのだ。
 こうして始まった二人の旅の物語に、キアラが書いた映画の脚本の主人公、1901年当時のサマール島に上陸したアメリカ人の女性写真家カッサンドラの物語が絡み合う。彼女が目撃するのは、米比戦争で駐屯する米軍と服従を強いられる島民という、支配と被支配の構図だ。マグサリンはその脚本に、実在の女戦士、フィリピン人のカシアナ・ナシオナレスを登場させる。かくして米比戦争の虐殺事件をめぐる物語は、さまざまに視点を変え、時空を超越して、交錯していく……。

 

 このあらすじの「1970年代にベトナム戦争中の米軍による虐殺事件を扱った映画をフィリピンで撮影したのち、失踪していた」という部分を読んで、まず思い出すのはコッポラの『地獄の黙示録』です。『地獄の黙示録』はフィリピンで撮影されており、この小説にもその事が出てきます。

 別にコッポラは失踪しませんでしたが、映画の中でカーツ大佐は失踪して独立王国を築いていました。

 

 この『地獄の黙示録』をはじめ、小説の前半に登場するのはアメリカ文化です。

 モハメド・アリがマニラでジョー・フレイジャーと対戦した「スリラー・イン・マニラ」の話や、エルヴィス・プレスリーなど、フィリピンを舞台にしつつも頻出するのはアメリカ文化です。

 

 本作の登場人物ではキアラはアメリカから来た人物であり、映画監督です。この通訳を頼まれたのがマグサリンなのですが、彼女は作家でもあります。つまり2人とも創作者なのです。

 キアラの父ルードは『意図されざる者』というベトナム戦争中のアメリカ軍の虐殺事件を描いた映画をフィリピンのサマール島で撮影したのちに失踪します。

 娘のキアラは父の謎を追うような形で、サマール島で映画を撮ることを考えるのですが、そのテーマが1901年の米比戦争の際に起きたサマール島での虐殺事件です。

 この事件はバランギガ虐殺として知られており、米比戦争のWikipediaには次のように書かれています。

 小さな村でパトロール中の米軍二個小隊が待ち伏せされ、半数の38人が殺された。アーサー・マッカーサーは報復にサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じた。少なくとも10万人は殺されたと推定されている。 米比戦争 - Wikipedia

 

 この事件について、キアラはアメリカ人の女性写真家カッサンドラを主人公に据えた映画を作ろうとします。

 しかし、マグサリンはキアラの書いたシナリオが気に食わずに、勝手に手直ししたものを書き始めます。

 

 ここから、マグサリンとキアラがサマール島を目指す話と、キアラのシナリオとマグサリンのシナリオ、ルードの作っていた映画の話が入り混じっていき、そこからフィリピンとアメリカの関係性が浮かび上がってくる形になっています。

 「歴史」を書くアメリカに対するフィリピン側からの撹乱といったものが1つのテーマと言えるでしょう。

 

 ただし、「虐殺」や「歴史」を扱っていながらも軽妙な面白さもあるのがこの小説の特徴でしょう。

 個人的には中盤のマグサリンとキアラのパートがもう少し充実していたほうが、読みやすかったような気もしますが、挑戦的で読み応えのある小説であることは間違いないです。

 

羊文学 / our hope

 アニメの『平家物語』のテーマ曲"光るとき"が非常に良かったので、アルバムも買ってみましたが、まず、"光るとき"は非常に良いですね。

 アルバムだともう少しギターのザラザラした感じが目立つアレンジなのですが、それを含めていいと思いますし、ボーカル&ギターの塩塚モエカの高いところに行ったときの声もいいですね。

 邦楽だと今年のベストソングかもしれません。

 


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 アルバム全体を通じても、1曲目の"hopi"とラストの"予感"のギターを中心に据えて、それを聴かせる構成はいいですし、曲調としてもバラエティに飛んでいると思います。

 例えば、4曲目の"電波の街"では浮遊したような感じがありますし、つづく5曲目の"金色"では全編を通してガシガシした感じのギターで、同じギターロックの中でも変化があります。

 また、ボーカルの表現力もなかなかあって、7曲目の"くだらない"ではウィスパーボイスから始まって伸びのあるところまで見せています。

 

 9曲目の"ワンダー"はスケール感を感じさせますし、日本の男性ギターロックバンドにありがちなボーカルがギターに埋没してしまうということがないです。

 10曲目の"OOPARTS"も疾走感のある曲で、アルバムとしては後半が強いと思いますが、ただ11曲目の"マヨイガ"は、ややアニメ映画のエンディングを飾るために(映画は未見ですが)、歌詞もアレンジもややそれっぽい感じに引っ張られた印象もあります。ここがもう少し尖っていると言うことなかったですね。

 

 

砂原庸介『領域を超えない民主主義』

 版元の東京大学出版会からお送りいただきました。どうもありがとうございます。

 

 まず本書のタイトルですが、これが「領域を超える民主主義」だと、「グローバル化の中での、EUなどの国家を超えた主体や国境を超える多国籍企業NGOの話なのか?」となりますが、「領域を超えない」というところで多くの人は「?」となると思います。

 タイトルに続く副題は「地方政治における競争と民意」で、著者の仕事をそれなりに追っている人からすると本書が著者の今までの仕事の集大成的なものであることが見えてきますが、そうでない人にはまだ本の内容はイメージしづらいと思います。

 

 本書が主にとり上げるのは都市の問題とその意思決定です。

 都市は経済成長の源泉でもありますが、都市が成長し拡大すると今までの地域的な枠組みに収まりきらなくなることがあります。

 例えば、東京はその発展とともに周辺地域に市域を拡大させ、さらには千葉県に「新東京国際空港」ができるなど、都市機能の一部を他県に置くようになりました。

 

 人口の移動が常に起きているのに対して、都市の枠組みを変えることは容易ではありません。市町村合併を行うのも簡単ではありませんし、ましてや日本では都道府県がほぼ不動の枠組みとなっており、同じ都市圏に複数の都道府県があることも珍しくはありません。

 そして、そもそも日本の地方自治都道府県−市町村という2段階の地方自治体があり、ここでの意思決定が食い違うこともあります。

 都市は既存の領域を超えて広がっていくのに、その意思決定の枠組みというものは一定の領域に閉じ込められており、まさに「領域を超えない」のです。

 

 この問題については、著者の『大阪―大都市は国家を超えるか』中公新書)で扱われていますが、本書は以下の目次を見てもわかるように、この問題に対してさまざまなアプローチで分析し、大阪に限らず、日本のどこの都市でも見られる問題として取り出しています。

 これまでの説明ではとっつきにくさを感じるかもしれませんが、例えば、市庁舎や県庁舎の所在地がどのように決まるかを分析した第2章から読み始めれば、本書が扱っている問題に興味が持てるのではないかと思います。

 

第1章 政治制度が生み出す分裂した意思決定

第2章 都市の中心をめぐる垂直的な競争──県庁所在市の庁舎

第3章 都市を縮小させる分裂した意思決定──2つの港湾都市

第4章 大都市の一体性と分節──国際比較と日本

第5章 民意をどこに求めるか──住民投票と地方議会

第6章 領域を再編する民意──平成の大合併

第7章 大都市における分裂した意思決定と民意──2010年代の大阪

終 章 分裂した意思決定の克服に向けて

 

 現代の政治は地域的な領域を設定して行われることが多いです。主権国家がその代表ですが、国家は自らの領域内について法律を定め、行政を進めます。日本とサウジアラビアでは法や政治の様子はずいぶん違うでしょうが、領域によって区切られているためにそれが大きな問題を引き起こすことは稀です。

 ただし、地球温暖化問題のような「領域を超える」問題になると、国家間の調整が必要になってきます。

 

 そして、この「領域を超える」問題は国内の地方レベルでは常に起こっています。道路や鉄道は市町村や都道府県をまたいで建設されますし、都市の発展が郊外のスプロール現象を招くかもしれません。また、中心部で出るゴミをどう処理するか? 中心部に通勤してくる人が使うインフラの費用を誰が負担するか? といった問題も出てくるでしょう。

 

 こうした問題の調整に国が出てくることもありますが大事なのは地方政府同士の連携です。

 しかし、これがなかなか難しいですよね、というのが本書の基本的な認識です。

 

 まず、地方政府内での対立があります。日本の地方自治制度は首長と議会の二元代表制をとっているので、首長と議会が対立することがしばしば起こり得るのです。

 この問題は著者の『地方政府の民主主義』でも論じられていましたが、個人の集票力でもって勝ち上がってくる地方議員が個別的な利益を重視して現状維持的に振る舞う一方で、当該自治体全域から選ばれる首長は全体的な利益を重視して、現状変更的に振る舞うことがあるのです。

 

 次に地方政府間の競争があります。現在の選挙制度のもとでは、地方議員は政党化されていないために他の地域の地方議員と連携するということはなかなか起こりませんし、首長が考えるのも基本的には当該自治体の利益です。

 また、首長が他の自治体との連携に動いたとしても、首長が交代すればそれは覆されるかもしれません。

 

 さらに国と地方の関係もあります。日本では自治体の自主財源が弱く、新たな事業を行う場合は国の補助金に頼るという形になっていました。このような状況の中で起こるのが、補助金をめぐる地方政府同士の競争です。

 

 こうした状況に対して、国が用意したメニューは市町村合併であり、合併特例債という「アメ」と合併しない自治体への財政的圧迫という「ムチ」を用いて、「平成の大合併」を進めましたが、その結果、市町村の規模は極めて大きくなり、これ以上の合併は難しい状況になっています。

 この地方政府の連携の難しさがどのような問題を生んでおり、それをどのように乗り越えることができるかを探ることが本書のテーマになります。

 

 第2章でまず扱われているのは県庁所在地の庁舎の問題です。

 東京都を別にすれば、県庁所在地には県庁舎と市庁舎があります。このうち市の発展を考える市庁舎は市の中心に居続けようとするけど、県全体の発展を狙う県庁舎は中心部から移動することもあるということを指摘することで、異なるレベルの地方政府(市と県)の追求する利益の違いというものを明らかにしてます。

 最初にも書いたように、第1章の議論が抽象的すぎてピンとこない人はこの章から読んでもいいと思います。

 

 戦前の日本の府県は中央の出先機関であり、府庁舎や県庁舎の多くは城郭の近くに置かれました。

 戦後になって都道府県知事が公選制となり、経済も成長すると、地方の中心として豪華な庁舎も建てられるようになります(福島県庁や香川県庁、東京都庁など)。

 一方、岐阜県のように県庁舎を市の中心部から移転するところも出てきます。郊外開発の起爆剤として、あるいは、知事と市長の対立などを背景として、県庁舎をあえて都市の中心から動かしたのです。

 さらに市町村合併によって拡大した都市では、改めて「都市の中心はどこなのか?」という問題が市庁舎の建て替え問題とともに起こっています。

 

 第3章では下関と函館という港湾都市の衰退をとり上げています。

 函館(箱館)は長崎についで最も古くから外国に開かれた都市であり、1879年の郡区町村編制法では全国でも数少ない「区」とされ、北海道で最も人口が集中した都市でした。下関(赤間関)は日本で最初に市制が施行された31市の1つでした。この2つの都市の中核を担ったのが港湾機能です。

 

 ただし、両都市とも県庁所在地からは離れていました。

 そこで、北海道では県庁所在地の外港との位置づけがなされた小樽港に投資が集まり、また石炭の積出港として発展した室蘭港の存在もあって、函館の地位は相対的に低下していくことになります。

 下関においても、港湾の拡張がなかなか進まない中で、対岸の門司が福岡県令・安場保和のもとで大規模な港湾として整備されると、その地位は低下していきました。

 

 道や県の支援を受けらなかった両都市は、独自に港湾整備のための資源を獲得するために周囲の町村との合併を行います。相対的な地位低下があったとはいえ、港湾を中心に人は集まっており、その都市域は広がっていたからです。

 度重なる合併の結果、5.36km2だった赤間関市は、下関と名前を変え、1939年には154.14km2、55年には217.43km2、2005年には715.89km2まで拡大しています(70p表3−1参照)。

 

 しかし、これは諸刃の剣でもありました。周囲との合併で都市の規模は大きくなりますが、港湾とは関係のない地域も抱えることになっていきます。新たに合併した地域での社会基盤整備にも資源が必要となり、港湾のみに集中するわけにはいかなくなったからです。

 港湾機能が一部の大規模な港湾に集約されるようになってくると、中心部の空洞化も進んでいきます。一方で郊外の人口が増えたことで、例えば函館市人口重心は平成17年まで年を追うごとに港から遠ざかっています(78p図3−4、平成22、27年はやや中心部への回帰が見られる)。

 

 さらにモータリゼーションの動きと、新幹線の駅が中心部にできなかったことは(新下関と函館北斗)、旧来の中心部の地位の低下に拍車をかけました。

 両都市とも、現在では観光に活路を見出そうとしていますが、それがうまくいくかは未知数です。

 

 第4章では大都市圏の国際的な比較が行われています。

 ただし、本章を読むとそもそも「都市圏なのか?」という問題が大きいこともわかります。本章ではOECDのデータを元に分析を行っていますが、そこでは横浜は東京圏に含まれますし、大阪市京都市・神戸市も1つの都市圏としてまとめられています。

 国際的な比較では、都市圏の中の地方政府の数が多いほど、その成長が抑制される可能性があることが示されていますが、日本ではそのような傾向が明確に見られるわけではありません。

 日本では3大都市圏が突出して巨大なものとなっていますが、海外と比較すると例外的なものではありません。ですから今よりも巨大な地方政府の設置ということも考えられます。一方で、3大都市圏以外の地方都市では、中心部への集約の弱さが1つの特徴だといいます。

 

 第5章と第6章では住民投票の問題をとり上げています。

 本書では都市における意思決定を問題にしています。第1章でも述べられていたように二元代表制が意思決定をややこしくしている面があるのですが、「それならば住民投票をすればよい」と思う人もいるでしょう。そこで「民意」が示されるはずだからです。

 ただし、そう単純にはいかないというのが本書の分析になります。

 

 まず、住民投票ですが、これにはいろいろな種類があります。

 首長や議員の解職を求める住民投票がありますし、憲法95条に書かれた地方自治特別法を制定する際の住民投票大阪都構想における特別区設置のための住民投票はこれに近い)、市町村合併において合併協議会の設置を求める住民投票市町村合併への同意や公共施設の建設などをめぐって条例に基づいて行われる住民投票です。

 近年、注目を集めやすいのは大阪都構想のものを除けば、条例に基づいて行われる住民投票でしょう。96年の新潟県巻町の原発建設をめぐる住民投票以来、各地で条例に基づく住民投票が注目を集めています。

 

 しかし、条例に基づく住民投票には基本的に法的拘束力を持ちません。巻町の住民投票に見られるように、住民投票が一種の拒否権として機能することがある一方で、2006年に行われた岩国市の米空母艦載機の受け入れをめぐる住民投票では、住民投票の結果を市長が無視する形になりました。

 

 住民投票では、それを求めるグループが署名を集めて条例の制定を要求することが多いですが、地方議会は条例の制定を拒否することも可能です。

 一方で、首長が議会に対して住民投票の実施をちらつかせて圧力をかけるということも可能です。庁舎の建て替えなどをめぐって、新人首長が既存の案をひっくり返すために住民投票に訴えることもあります。

 このように住民投票が複雑な政治的な駆け引きのもとで行われることも多いので、住民投票が必ずしも多くの住民が納得できるものとなるとは限らないのです。

 

 そこで第5章ではオンラインを通じたヴィネット実験を行うことで、住民投票による決定がどのように受け取られるのかということを分析しています。

 ヴィネット実験は、質問文のある部分を回答者によって入れ替える形で提示し、それに対する反応を調べるもので、秦正樹『陰謀論』中公新書)でも使われていましたが、本書の実験ではその著者が協力しています。

 

 実験では住民投票の争点を、市庁舎の建設、ごみ処理施設の設置など4つ示し、投票率や得票率をいくつか示し、さらに提案者も市長、議員、住民直接請求と示し、どの程度同意できるかということを訊いています。

 詳しくは本書を読んでほしいのですが、市庁舎建設とごみ処理施設の建設を比べると、市庁舎建設では住民投票の決定に高い同意が与えられる一方で、ごみ処理施設では地方議会の決定を尊重する傾向が見られます。これは市庁舎は政治家のエゴ、ごみ処理施設は住民のエゴを結びつくと考えられているからかもしれません。

 また、得票率が高いほど住民投票の決定に同意が与えられる傾向がありますが、投票率に関しては必ずしもそうなってはいません。これは投票率が高く、結果が僅差の場合は住民投票のみで決めることに躊躇があるからかもしれないと分析されています。

 この実験からは住民投票が必ずしも意思決定の切り札にはなっていないことがうかがえます。

 

 第6章では平成の大合併における住民投票が分析されています。

 市町村合併における住民投票は大きく分けて3つあって、まずは合併特例法にもとづく合併協議会設立の住民投票です。2つめが合併の賛否を問う住民投票、3つ目が合併の枠組みを問う住民投票です。

 

 合併協議会を設立した自治体は住民の後押しがあるわけですが、賛成多数となった28の市町村のうち、その枠組みで合併ができたのは9の市町村に過ぎません。一方、反対多数となった38の市町村でも、28のケースでは最終的に合併を行っており(別の枠組みで合併舌ケースが多い)、住民投票の結果と合併は必ずしも結びついていません。

 

 合併の賛否を問う住民投票は、合併相手を含めた複数の自治体で行われることが特徴で、それを分析すると、人口が少なく高齢化が進んでいる自治体で賛成の割合が高くなり、財政力指数の高い自治体で反対の割合が高くなる傾向があります。

 このタイプの住民投票は相手のいることなので賛成多数となっても、相手が反対多数となり破談になるケースもあります。

 

 合併の枠組みを問う住民投票では、選択肢が多くなるほど投票率が下がる傾向がありますが、複数の選択肢から現状維持(合併しない)が選ばれる可能性は低く、賛否の二択よりも合併への抵抗は弱まります。

 また、枠組みが決まった場合にその通りに合併が成し遂げられた市町村は多く、合併協議会のケースよりもまとまりやすいです。これは地方議会の意思というものが合併協議会よりも反映されており、それがポイントになっているためと考えられます。

 

 第7章は大阪都構想の問題を取り扱っています。大阪では、橋下徹率いる維新の会が一大勢力に成長し、府政と市政の中心となりましたが、その目玉政策である大阪都構想住民投票で2度否決されました。

 本章は、『大阪―大都市は国家を超えるか』の続編的な位置づけにもなります。

 

 大阪市の面積は225.33km2で、横浜市の437.4km2、京都市の827.8km2などと比べるとその市域は狭いです。

 そのため1960年代の中馬馨市長の時代から堺市東大阪市などの周辺の10の市と合併して大都市圏をつくろうという動きがありましたが、中馬の死や高度成長の周年などによって果たされずに終わりました。

 その後の大阪で起こったのが、市と府が互いに行おうとする非効率な都市開発でした。

 

 ここで登場したのが大阪府知事となった橋下徹です。橋下は大阪の二元的行政を問題だと考え、2010年に大阪維新の会を立ち上げると、府議会を制し、さらに大阪都構想の実現へと突き進むのです。

 他の都道府県でも改革を志向する知事はいましたが、その多くは地方議会の壁に阻まされていました。ところが、橋下は地方議会の征服に成功します。大阪府議会は定数が1や2の選挙区が多く、「維新か(改革か)/反維新か(守旧か)」という選択を迫りやすかったのです。

 さらに市議会でも第一党となり、国政進出も行うことで国政に対する影響力も持ち、それをテコに大阪都構想を見据えた大都市地域特別区設置法が制定されます。

 

 ただし、2013年の堺市長選挙で都構想に反対する候補が勝ったことで、中馬市政時代から検討されていた大・大阪的な構想は姿を消し、大阪市特別区に分割することが目指されるようになります。

 維新は府知事選と市長選を同日に行うダブル選挙で、首長選挙を「維新か/反維新か」という枠組みに落とし込み、また府議会の定数削減を通じて1人区を増やして維新に有利な選挙制度をつくりあげました。

 さらに公明党を揺さぶることで、2度にわたって大阪都構想住民投票にこぎつけるのです。

 

 ところが、この住民投票は2度にわたって否決されます。否決の要因については善教将大『維新支持の分析』『大阪の選択』に詳しいですが、本書では住民投票での都構想反対が一種の「現状維持」の選択肢となっており、それが支持を集めた可能性を指摘しています。地方議会選や首長選で「反維新」に入れた場合、その候補が勝った時にどうなるかはわかりませんが、都構想の否決は「現状維持」の結果が見えているというわけです。

 

 この住民投票は、本来ならば都構想というのは長期に渡る都市の枠組みを決める枠組みのはずですが、実際は「維新か/反維新か」という党派的な問題として扱われてしまいました。

 ですから、支持率を回復させた維新は2回目の住民投票へと進んだわけですが、皮肉にも維新が府政と市政の二重行政を調整したことが、都構想の必要性を薄れされる結果ともなりました。

 第5章と第6章でも見たように、住民投票は長期的・最終的な意思決定のものとして扱わたわけではないのです。

 

 終章ではまとめと展望が行われています。

 本書で見てきたとおり、日本に都市において効率的な意思決定を行うのはなかなか難しいのが現状です。例えば合併によって市域を拡大したとしても、中心部と郊外の対立を内部に抱え込むことになりますし、第5〜7章でみたように住民投票も意思決定の切り札とはなりえないからです。さらに都道府県と市町村という地方政府同士の対立を抱えている場合もあります。

 

 そのため、地方政府内部、そして地方政府間の対立を緩和させるような仕組みが必要になるのですが、そこで著者が注目するのが政党です。

 地方議員や首長が政党としてもまとまりを持てば、地方政府間の利害調整もうまくいくかもしれませんし、首長選や住民投票のたびに単発のイシューが問われるような形ではなく、もっと長期にわたった政策スタンスを選択することが可能になるでしょう。

 

 著者は最後に次のように述べています。

 地方政府を動かす基層的な政治制度の鍵は、政党という組織になると考えられる。政治家個人が有権者の支持をめぐって競争し、分裂した意思決定を生み出すのではなく、地方政府の領域という空間を超えて有権者に支持を訴え、政治家個人が辞めても組織としての決定が残る政党という存在こそが、空間と時間を超えて民意に対して責任を持ちうる。翻って現在の地方政治が、しばしば改革をめぐる長と地方議会のゲームのように見えるのは、その時々の政治状況に左右されにくい安定した政党が地方政治に存在しないからである。(210p)

 

 地方政治の政党化(政党化を促すような選挙制度改革)については、著者の『分裂と統合の日本政治』でも主張されていましたが、そこでは、国政(衆議院)との選挙制度の齟齬が野党の成長を阻害しているというのが大きな理由となっていました。

 これに対して、「地方政治は国政に合わせて変えるべきものではない」という木寺元からの批判(木寺元「誰がための選挙制度」(『都市問題』vol.109))などがあったわけですが、本書では地方政治(特に都市の地方政治)に内在する問題を中心に地方政治の政党化を訴えています。この問題が著者にとってのボーリングのセンターピンのような存在だということがよくわかります。

 

 また、大阪維新の会をどう考えるのか? という点でも本書は面白い論点を提供していると思います。

 大阪維新の会は日本の地方政治において例外的に成功した政党であり、それが地方政府間の連携を可能にしている面もありますが、同時に選挙や住民投票を道具的に用いていて著者のイメージする「安定した政党」とはずれている存在でもあります。

 維新の戦略などもあって、どうしても「維新か/反維新か」となりやすいですが、維新の両義性についてはよく考えていくべき問題でしょう。

 

 フランスやイタリアのように主要国でも政党の溶解が進行している中で、「安定した政党」を生み出す難しさというのはあるとは思いますが、日本の都市問題、地方政治、そして政治全体を考える上で多くの論点と改革の方向性を示している本です。

 

 

 

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syrup16g / Les Misé blue

 Syrup16g、5年ぶりのニューアルバム。

 かなり音圧のあるギターから始まる1曲目の"I Will Come (before new dawn)”から。相変わらずなSyrup16gワールドが展開されていますね。

 五十嵐隆も50近くになって、変に成熟してしまってもおかしくない年頃ですが、相変わらずです。

 10曲目の”In My Hurts Again”の冒頭の♪大気圏の中で暮らしている/何処へいても宇宙服を着ている♪とかすごくいいと思います。さらにこのあと♪来世には お煎餅屋になりたくて♪という歌詞まで待ってますから。

 

 ただ、多少はパッケージングが上手くなった部分もあって、例えば、3曲目の”Everything With You”のサビの部分、♪後の祭りでヤバって叫ぶ/Everything With You/愛を失くして/行き着いた 首つり台の下♪。歌詞だけ書くと、救いようがないわけですが曲調はすごく明るいんですよね。

 ちょうど、ブランキー・ジェット・シティの”2人の旅”の歌詞がすごくまっすぐなラブソングのようでいて曲調がダークすぎるのと間逆な感じです。

 6曲目の”診断書”の♪診断書 待ってる/死んだっしょ♪もそうで、こんな歌詞なのに明るさがあります。12曲目の"Maybe Understood"の♪鬱になったって 闇堕ちしたって/お腹すくよ 命は自我に興味ない♪って部分もいいですね。

 

 ただ、アルバムとしては、"宇宙遊泳"のようにもう1つ弾けるような曲があるとさらに良かったですね。シングルっぽいのは"うつして"ということになるのでしょうが、この曲を含めてミドルテンポの曲が多いので、アルバム全体としてのアクセントはやや弱い感じです。

 それでも相変わらずのSyrup節が聞けてよかったです。

 

 


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