舞城王太郎VS『セカチュー』

 今月も一日遅れました、このコーナー。これを書いている3/1は勤めている学校の卒業式なんですけど、卒業式を歌った歌に川本真琴の“桜”という曲があります。川本真琴はデビュー後に変に売れすぎちゃって、そのプレッシャーでちょっと消えちゃった印象がある歌手なんですけど、1stとかこの“桜”はメロディーといい歌詞といいほんと光ってる。その“桜”に次のような歌詞があります。

いい思い出化できない傷を信じていたい


 今月はここから映画『世界の中心で、愛をさけぶ』と舞城王太郎好き好き大好き超愛してる。』について。


 『世界の中心で、愛をさけぶ』については、「思ったよりよかった」というのが正直な感想で、特に主役の森山未来が非常によかったんですけど、話自体はやっぱり安易といえば安易。前にあげた川本真琴の歌詞的にいうと、あまりに「いい思い出化」できてしまう話なのです。まず、なんといっても恋人が白血病で死ぬというストーリーの根本がそうですし(今さら白血病は…)、主人公が彼女の病気に対してなんの原因もないし、しかも全く無力という設定が、主人公に痛みをもたらすようでいて、実は安全圏を用意するという構造になっています。


 恋人を亡くすという主人公の経験は主人公に大きな喪失感をもたらしますが、同時に対象が崇高なまま失われたことで主人公に常にロマンチシズムを供給しつづけます。しかも映画は、主人公が恋人の残した文通代わりのカセットテープを聴きながら彼女との思い出が語られるという構造で、ますます「いい思い出化」された恋をなぞるという展開になっています。


 一方、舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』は、同じ「病気の彼女と僕」、あるいは「彼女の死と僕」という設定ながら(この中編は同じ「愛と死」をテーマとしたいくつかの話で構成されています)、まったくちがった印象を与えます。この小説はとにかく「痛い」のです。「痛い」というのにもいろいろありますが、例えば、最初の小さい虫に体を食い荒らされる恋人の話でも、とにかくその描写が「痛さ」を感じさせます。皮膚のすぐ下で体を食い荒らす虫、そしてそれを摘出するために繰り返される手術。ひたすら「痛み」を伴うこの描写は、主人公の心を貫きつづけるものです。 


 また、喧嘩に巻き込まれて病身の恋人のもとを一時離れてしまった後悔、無駄だとわかっていても「死なないで欲しい」と言えなかった後悔、そうしたさまざまな後悔が、死の「いい思い出化」を常に妨害しつづけます。『世界の中心で、愛をさけぶ』では、ほぼ「運命」として片づけられていた「死」といものが、舞城王太郎の小説では「ひょっとしたら防げたのでは?」、「もっと愛せたのでは?」という疑問によって常に「今」の問題として問われつづけるのです。


 さらに、『世界の中心で、愛をさけぶ』のテープに対して、『好き好き大好き超愛してる。』で登場するのは、「死後、恋人からこれから100年に渡って毎年一通届くという手紙」というものです。この手紙によって主人公は常に「柿緒(彼女の名前)意外の人はもう愛さない」というロマンティシズム的な思いと、現実の時間の経過と記憶の風化という板挟みに毎年直面することになるわけです。彼女の記憶というのはテープに閉じこめられた安全な思い出ではなく、死者から届く手紙として主人公の記憶と心を刺激しつづけるのです。


 『世界の中心で、愛をさけぶ』のようなわかりやすい話というのもありなのでしょうが、「死」というのはやはりそう簡単に「いい思い出化」できないものでしょう。舞王城太郎はそういったことを小説という形式で見事に批判的に乗り越えて見せたと言えるでしょう。


好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)
舞城 王太郎
4062760819