マイケル・マンか、ガス・ヴァン・サントか

 今日はついにDVDプレイヤーを買った。一応、パソコンでDVDは見れるんだけど、映画ともなるとパソコンのモニターでは見にくく(大きさというよりデスクの上にあるので)、ここ最近はビデオをおかなくなっていまったレンタルやで新作映画を借りて見ることができない状態だったんで。
 そんな日に見つけたのが、DVDの話題から始まる蓮實重彦のインタビュー記事。
 http://flowerwild.net/2006/11/2006-11-08_133443.php
 日記のタイトルはその記事からの引用なんだけど、このインタビューは面白い。最初はいかにもな蓮實節で、いかにも的な感じがしすぎるんですけど、途中のこの「マイケル・マンか、ガス・ヴァン・サントか」って問いは、いきなりなんだけどかなり納得できる問い。

蓮實:そこで、最初の質問に戻るのですが、DVDでなんでも見られるという状況がもたらしがちな欠陥は、ある種の歴史意識の低化というか、いま起こりつつあることへの視点が希薄になることです。たとえばの話ですけれど、「ガス・ヴァン・サントマイケル・マンと、どっちがいいのか」という問いを立てたとします。両方いいといったんじゃ批評にならないし、無理に選択することの批評性というものがあるのです。ガス・ヴァン・サントだってかなりいい線をいっていると思っていますが、私のどこかに疑問が残っている。というのは、彼は映画作家というより、フィルムによる芸術家を目指しているんじゃないかという気がしているからです。それに対してマイケル・マンは、TVの『マイアミ・バイス』シリーズ(1984-89)のプロデューサーで、その『マイアミ・バイス』(2006)を21世紀に平気な顔して撮ってしまうんですから、そこにはいかがわしさがついてまわる。しかし、映画の正統性という点からすると、マイケル・マンを選ばざるをえない。確かに、『コラテラル』(2004)のほうが『マイアミ・バイス』より良かったと思いますが、このひとはやはり──すごいというのとは違うんですね、彼は。でも私は、マイケル・マンのほうがガス・ヴァン・サントより貴重な映画作家だといいきってしまうことが、いま映画批評家に求められているような気がしています。ガス・ヴァン・サントは、個々の作品を誉めたりけなしたりすればよい。しかし、マイケル・マンの場合は、それを論じることがある種の映画の擁護につながるのです。だから、マイケル・マンを選択すると断言することが刺激になって、その作品の評価を超えて、映画についていろいろ考えさせることができるのです。ガス・ヴァン・サントマイケル・マンと、選ぶとしたら、あなたはどちらを選びますか。その理由はなんですか。それを突きつけることが、現代の映画を見ていることだと思う。くだらない設問といえばくだらない設問かもしれませんし、マイケル・マンの名前もガス・ヴァン・サントの名前もほかの名前に置き換えられるのですが、でも今一番欠けているのはその種の問いだと思う。

 すごい組み合わせを持ち出したもんだな、と思いつつもここで蓮實重彦の言ってることは正い気がする。
 ガス・ヴァン・サントは最近の『エレファント』、『ラスト・デイズ』と見ているけど、ミニマルな映画を撮っているようで実はいくつかのいいシーンがあるだけじゃないか?って感想を持っていたので(『ラスト・デイズ』はマイケル・ピットが歌う部分のみ)、蓮實重彦の「彼は映画作家というより、フィルムによる芸術家を目指しているんじゃないかという気がしているからです。」という指摘には深く納得。
 一方のマイケル・マンは、『ラスト・オブ・モヒカン』、『インサイダー』、『アリ』、『コラテラル』と見てて、『インサイダー』以外は、どうも長すぎというかやや平板というかな印象をもちつつも、確かに映画的な表現をしっかりとしている監督という印象がある。また『インサイダー』のアル・パチーノをはじめ『コラテラル』のトム・クルーズとか『アリ』のウィル・スミスとかの”濃い役者”をきちんと撮れるのも彼の特徴。クリストファー・ノーランの『インソムニア』なんかはアル・パチーノを主役に据えたことで、非常に重っ苦しい映画になってしまいましたが、マイケル・マンはそういった重苦しさに耐えられると言うか、こなせるところがある。
 
 このあとのセルジオ・レオーネへの擁護も個人的には『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を買ってるだけにうなずけるところで、さらに最近のスコセッシへの辛辣な批判も同意するところですが、

たとえばマーティン・スコセッシ。最近の彼の作品はとても画面を注視できないでしょう。「え、こんな画面撮っていいの! こんな編集でいいの!」ということです。それは、やっぱり、彼が始めからダメだったんじゃないかということだと思います。『タクシードライバー』(1976)はとても評価できませんでしたが、それでも一時期は擁護しようとしてみました。しかし、最近のスコセッシを見ていると目を覆いたくなってしまう。やはり最初からダメだったんじゃないか。『ミーン・ストリート』(1973)は良かったっていうひとがいますが、もう一度見直して、本当にいいのかというかたちで、DVDを使ってほしい(笑)。

ってのは手厳しいところ。僕はまだ『タクシードライバー』がよい映画だと思っております…。

 さらには次の部分の皮肉もなかなか。

SAYURI』(2005)のように、京都の舞妓さんを中国系の女優が独占することになってしてしまうのです。世の愛国者どもは、あれを見て、危機感をつのらせないのですかね。チャン・ツイー程度なら日本にもいるはずですし、あのコン・リーのイモねえちゃんだって年増芸者としてあそこまでできるのですから、何かやりかたがあるはずです。そうしないと、愛国者ではない私にはどうでもよいことですが、カンヌやヴェネチアなどの一流の国際映画祭の審査員は、中国系の女優に独占されてしまいます。元通産系の官僚どもは、やれアニメだ、やれコンテンツ産業だと馬鹿のひとつ覚えのようにいっていますが、ソフトパワーとしての日本の女優の国際的な露出度を考えなおすべきなのです。テレビでは、女優は絶対伸びません。だから、したたかなエージェントがひとりいて、長期戦略で売り出すという以外ない。『SAYURI』と『太陽』(2005)で国際的に健闘した桃井かおりをベルリンの審査員に売り込むぐらいのことを、経済産業省は本気で考えるべきなのです。

 これもまさにその通り。

晩ご飯はステーキとキュウイ