「シネマな朗読」

 昨日はhttp://www.tokyoreadingpress.com/の打ち上げ。
 TOKYO READING PRESSは詩の朗読とかの情報を載せているフリーペーパーで、実は僕も「シネマな朗読」っていう詩の朗読シーンのある映画を紹介するコーナーで何回か文章を書かせてもらっていたのですが、12月に出る号で終了してしまうとのこと。それで、その打ち上げということでした。
 そこで、僕が書いて活字になった最初のものでもある「シネマな朗読」全5回を記念にアップしておきます。
 まあ、まず詩の朗読シーンのある映画を探すことから始めなきゃいけなくて、大変な時もありましたが、『カクテル』とか『人間の証明』なんかはこのコーナーがなかったら、詩の朗読って行ってもピンと来なかったし、見直すこともなかったでしょうね。

  • 第1回 『カクテル』

 トム・クルーズとポエトリー・リーディング。まったくと言っていいほど似合わない取り合わせのものですが、そのミスマッチが楽しめるのがこの映画。なんとトム様によるポエトリー・リーディングを2回も聴くことができます。しかも、この映画は1988年のゴールデン・ラズベリー賞アメリカでその年のサイテー映画に送られる賞)を『ランボー3 怒りのアフガン』をおさえて受賞!というすごい映画なのです。
 ストーリーとしては、「軍隊を除隊になったトム・クルーズは成功を夢見てニューヨークへ行くが、学歴やコネがないため成功への道をつかめず、ブライアン・ブラウン演じるバーテンと出会いバーテンになる。2人はコンビを組んでスター的なバーテンとなるが、仲違いしトムはカリブの島へ。そこでヒロインの女性と出会い恋に落ちるが、トムは金持ちの女と浮気。けど、やっぱり真実の愛に目覚める。」というようなもの。
 肝心のポエトリー・リーディングのシーンは、トム様のいるバブリーなバーに「俺は世界最初のヤッピー詩人だ!」と名乗る男が現れ「金がなきゃ何もできないぜ」という内容の詩を朗読。それに対してトム様が「アメリカは飲んでいる/俺のつくるカクテルを」で始まる詩を朗読し対抗します。この詩は一応韻とかもちゃんと踏んでいる詩で客には大受け。ヤッピー詩人はフェードアウト、トム様がシェーカーさばきだけではなく詩においても才能のあるところを見せつけます。
 この映画の全体的な印象は「バブリー」の一言。バブルは日本だけかと思っていましたが、80年代後半はアメリカもけっこうアホな感じだったんですね。脚本に穴多く、まるでトレンディードラマの総集編を見ている気分になります。最後の展開もお決まりのご都合主義的展開ですが、ラストはトム様が再びポエトリー・リーディングで締めてくれます。

カクテル
トム・クルーズ ブライアン・ブラウン エリザベス・シュー
B000E8N9WE

  • 第2回 『いまを生きる』

 「机の上に立つことと詩を読むことの共通点は?」
 こんなふうに言われても何がなんだかわかりませんが、今回ご紹介する『いまを生きる』のロビン・ウィリアムス演じるキーティング先生にとって、この2 つのものには相通じるものがあります。
 この映画は規則の厳しい全寮制のエリート高校に型破りなキーティング先生がやってくることから始まります。彼は生徒たちに、「いまを生きる」ことを訴えるのですが、そうした中で彼が 生徒に教えるのが、自分の考えを持つことの大切さと”詩の素晴らしさ”です。
 机の上に立つとき、生徒たちは戸惑います。けれども、実際に机の上に立ってみたとき、ふだん感じることのできなかった新鮮な感覚を手に入れます。同じ ように詩を朗読するとき、生徒たちは戸惑います。けれども、生徒たちは、キーティング先生にボールを蹴りながら詩の一節を叫ぶ ように言われて大きな声で叫んだとき、キーティング先生に倣っ て"Dead Poet Society"(「死せる詩人の会」、ちなみに原題はこの"Dead Poet Society")をつくり夜の洞窟で詩を読んだとき、机の上に立った時と同じような、今までの型から抜け出した新鮮な感覚を手に入れているのです。
 こうしてキーティング先生に影響を受けた生徒たちは、ある者は恋に情熱を燃やし、ある者は演劇に自らの生きる道を求めます。将来のために今を我慢する のではなく、「いまを生きる」ことの素晴ら しさを知るのです。
 しかし、この映画の結末は苦いものです。キーティング先生に感化され演劇をやろうとした生徒が父親に反対され、その板挟みにあって自殺してしまうので す。キーティング先生の教育は決して無駄で はなく、それが感動的なラストの名シーンにつながるのですが、それでもキーティング先生のメッセージ「いまを生 きる」ということを考えると、最後の生徒への「ありがとう」と いうセリフに、悲しさを感じずにはいられないのです。

いまを生きる
ロビン・ウィリアムズ ロバート・ショーン・レナード イーサン・ホーク
B000CFWNAS

  • 第3回 『ジミー/さよならのキスもしてくれない』 

 今は亡きリバー・フェニックス主演のこの映画は、いわゆる「青春もの」の映画で、リバー・フェニックスは高校を卒業したばかりの17歳の少年ジミーを演じています。仕事第一でつまらない人生を送っている父親へのいらだち、金持ちの友人への反発、そしておさえられない性衝動と、まさに「青春!」という感じの悩みを抱えたジミー、そしてそのジミーの趣味であり秘かに自負を持つものが詩をつくることなのです。
 母親の友人に手を出してまいパーティーに遅刻したジミーは、ガールフレンドのリサの怒りを買い、彼女は他の男とパーティーに出かけてしまいます。ジミーはその男を「単なるスポーツマン」としか見ていませんでしたが、実は彼も詩の朗読をする男でパーティー会場でハーモニカを吹きつつ詩の朗読をするわけです(もちろん同時にやるわけじゃなですよ。ハーモニカの吹き語りは不可能ですから)。その甘くもインチキ臭い詩に対してジミーの反骨心が爆発。すかさず舞台に飛び乗って「おれはポン引きと淫売の世界から戻った!」と叫んで即興の詩を朗読します。
 若さと反骨心に満ちたその詩と、その場を去ろうとするリサへのエコーの効いた「リサ!」っていう叫び、見ているこっちが恥ずかしくなるような場面でもありますが、その恥ずかしさをひっくるめてリバー・フェニックスが熱演しています。
 映画としては、意外なことをきっかけにして最後に和解する父親の描き方が甘いため、いまいちまとまりがないですし、青春映画にしては暗いところもあるのですが、リバー・フェニックスの熱きポエトリーリーディングを見てみるのもいいのではないでしょうか。

ジミー 〜さよならのキスもしてくれない〜
リバー・フェニックス ポール・コスロ ウィリアム・リチャード
B00005G0JE

 「ラップは詩なのか?」特にこの映画で描かれる「フリースタイルのラップバトルは詩なのか?」という根源的な疑問は残りますが、ラップを詩とすると「世界で最も大きな成功を収めた詩人」とも言えるエミネムの自伝的映画がこの『8 Mile』です。
 けれども、それにしてはこの映画は意外に地味。同じくラッパーの50セントの自伝的映画である『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』がわかりやすいほどに「クスリ・銃・女・車」といったギャング的要素満載なのに対して、エミネム演じるラビットはトレーラーハウスに母親と妹と3人暮らしでプレス工場に勤めるという華やかさとはまったく無縁の環境にいます。そんな彼が自らの存在をかけて闘うのが「シェルター」と呼ばれるステージで行われるフリースタイルのラップバトル。即興で繰り出すラップによって相手を攻撃しその勝敗を競うバトルはまさに自分自身をかけた闘いであり、しかもラッパーも観衆も多くが黒人の中で、白人である彼は完全なよそ者として黒人のラッパーたちに目の敵にされるわけです。
 しかし、そうした完全アウェーの状況の中でラビットは勝ちます。そしてそれを可能にするのが彼の”スキル”です。単なる悪口合戦ともいえるバトルの中で黒人の観衆がラビットを支持するのはその”スキル”故です。この"スキル"の炸裂する最後のラップバトルがなんといってもこの映画の最大の見せ場であり、同時に今まで冴えない貧乏白人であったラビットが”エミネム”として輝く瞬間でもあります。
 冒頭の問いに戻ると、お決まりの汚い言葉を連発するラップバトルは「詩的な想像力」とかとは無縁なものかもしれません。けれでも、この映画でエミネムが見せてくれる”スキル”こそ、現代詩をはじめとする現代の芸術に欠けているものなのかも。

8 Mile
エミネム キム・ベイシンガー ブリタニー・マーフィ
B000G7PS04

 「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?」
 このフレーズから始まる西條八十の詩を、松田優作岡田茉莉子大滝秀治ハナ肇といった面々が朗読してくれるのがこの映画。松田優作はあのしわがれた声でこの詩を読んでくれますし、岡田茉莉子によるラスト近くのこの詩の朗読は映画のクライマックスと言っていいシーンであり、これだけ長々と詩の朗読シーンのある日本映画は珍しいでしょう。
 まあ、映画としては三船敏郎をはじめとする無駄に豪華なキャスト、無意味に長いファッションショーのシーン、下手くそな岩城滉一の演技など、数々の欠点があるのですが、今見直すとけっこう面白い部分もあります。
 東京のホテルで「ストーハ」という言葉と西條八十の詩集を残して黒人男性が殺されたことからこの映画は始まりますが、その捜査の過程で浮かび上がってくるのが、日本を占領した「アメリカに対するルサンチマン」と「母と子の絆」。この「アメリカに対するルサンチマン」を熱演するのが松田優作で、「母とこの絆」を象徴するのが西條八十の冒頭の詩です。
 「国破れて母親あり」じゃないけど、日本では何があっても最後に残るのが「母の愛」っていうのが定番。そしてこの映画はまさにその論理をなぞります。さらにはその「聖なる母」を全うしきれなくなった現代女性への告発みたいな側面もあって、まさに「マザコン万歳!」
 そういった意味で、この映画はものすごく日本的な日本映画であり、大滝秀治が「甘くてどうしていけないんだ?人間、なんてったって行きつく先は優しさだよ」と評する西條八十のこの詩は、今までこの連載でとり上げてきたアメリカ映画に出てきた、自分とその将来についてのある意味マッチョな詩とは対照的な、まさに”日本的な詩”と言えるのかもしれません。

人間の証明
松田優作 岡田茉莉子 ジョージ・ケネディ
B000IU3A04



晩ご飯は肉がハンバーグのビーフシチュー