リースマンで考える小泉政治

 最近、菊池信輝『それはないでしょ!?日本の政治』と森政稔『変貌する民主主義』という2冊の新書を読みましたが、そこで上手く説明されていない小泉政治について少し。
 
 個々の評価については、別ブログの次のエントリーで
 『それはないでしょ!?日本の政治』http://blogs.dion.ne.jp/morningrain/archives/7264299.html
 『変貌する民主主義』http://blogs.dion.ne.jp/morningrain/archives/7296246.html


 この2つの本はまったく正確の違う本で、前者は月刊誌などに連載された政治時評をまとめたもの。後者は小泉政治に代表される新自由主義を政治思想史の面から分析しようとしたもの。
 ただ、小泉政治新自由主義に否定的で、郵政民営化は政治の中では些細な問題、小泉改革で割を食うはずの若者層が小泉純一郎を支持したことに首をひねるという点は共通している。
 まあ、彼らに言わせれば、”小泉劇場”に「国民はだまされた」ということになるんでしょうが、これって分析の放棄以外の何ものでもないですよね。
 というわけで、ここではアメリカの社会学者デイヴィッド・リースマンの名著『孤独な群集』に登場する「拒否権行使集団」という概念を使って、小泉政治を分析してみます。
 これによって、小泉政治を国民が支持した理由と郵政民営化が些細な問題ではないという点を少しは示せるはず。


 リースマンはアメリカの社会学者で、この『孤独な群集』で行った「伝統指向型」、「内部指向型」、「他人指向型」という時代ごとに特徴的な性格分析が有名ですが、この本の第二部では政治についての分析も行っています。
 この中でリースマンが現代の政治において権力を握っているものとしてとり上げるのが「拒否権行使集団」。
 リースマン自身の言葉を引用して説明すると次のようなものになります。

 それらのグループはそれぞれの要求のために戦い、そしてその集団の利益に反するようなことをやめさせるだけの力と、さらにひじょうに極限された範囲内であるが、なんらかのことを起こすことができるだけの力を獲得しているのである。さまざまな実業家の集団、映画の検閲を要求するさまざまな集団、農民の集団、労働組合だの、職業的な集団、人種的なグループだの、地域的な利害を代表するグループ、これらじつにさまざまな種類の集団は自分たちに攻撃が加えられた場合、それを中和するだけの能力を持っていることをすでにいくつかの実例によって、示しているのである。(198p)

 これだけ読むと、いわゆる圧力団体(利益集団)と同じようなものにも思えますが、リースマンの捉え方はもうちょっと広いような気がしますし、大きなポイントは「拒否権行使集団」というネーミング。つまり、これらの団体は何らかの政治的な目標を実現するというよりは、自分たちにとって都合の悪い政策を拒否するということを重要視している、あるいは、政治目標を実現できるだけの力はないが政治に対していちゃもんはつけることができるという存在なのです。


 そしてリースマンはこの「拒否権行使集団」の微妙な立ち位置を次のように描き出します。

 これらの拒否権行使集団というのは指導者に属する集団でもないし、また被指導者なのでもない。こんにちのアメリカで国家的規模でリーダーになれる人物というのは、これらの拒否権行使集団を懐柔することのできる人間ということだ。また、こんにちのアメリカにおける被指導者というのは未組織の、そしてときには組織を失ってしまった不幸な人びと、そして、まだ自分たちのグループを作ることができないでいる人びとに限られている。(198p)

 ここでのポイントは「拒否権行使集団」は指導者でも被指導者でもないが、これらに属さない「被指導者層」が存在すること。
 この「被非指導者層」を近年の日本に当てはめるて考えると、労働組合にも入っておらず会社共同体にも属していない若年の被正規雇用の人びとなどが思い浮かぶでしょう。
 

 では、小泉純一郎が何をやったかというと、それはこの「拒否権行使集団」の粉砕ですよね。
 リースマンが「国家的規模でリーダーになれる人物というのは、これらの拒否権行使集団を懐柔することのできる人間ということだ」と言うように、日本の政治を主導してきた田中派のリーダーたちは「拒否権行使集団」を懐柔し、その力を利用することで長年日本の政治を支配しましたが、これによって日本の政治が閉塞感を溜め込んだことは否定できません。
 「拒否権行使集団」はあくまでも政策を拒否できるのもであり、新しい政策を打ち出すほどの力はないからです。
 例えば、「財界が自民党を操っている!」というような議論がありますが、ここ最近を見ても「ホワイトカラー・エグゼンプション」とか「消費税増税」とか「サマータイム」とか、経団連が望みながらいっこうに決まらない政策も多いですからね。
  そんな中で、小泉首相が示したまったく新しい戦略。
 「「拒否権行使集団」を懐柔するのではなく、粉砕する。」ということです。
 

 リースマンが述べるように「拒否権行使集団」というのは非常にやっかいです。

 政党の場合だったら、世論調査の結果、人気を失うこともあるだろう、社会階級の場合だったら他の階級に権力をゆずり渡すということもあるだろう。しかし、その拒否権行使集団というのは「そこにある」のである。(206p)

 
 この「そこにある」、そこにあるつづける「拒否権行使集団」。
 これに対して時代への閉塞感をかんじる組織されていない「被指導者層」がいらだちを募らせるのは当然なのではないでしょうか。


 こう考えると、郵政民営化というのも象徴的な意味を帯びてきます。
 郵政民営化に強硬に反対した全国特定郵便局長会、これこそ「拒否権行使集団」の典型のような存在ですよね。
 彼らに政治的な理想とか日本を変える政策があるとは思えませんが、とりあえず集票マシーンとしては強力で、郵政民営化には絶対的に反対する。まさに拒否権の行使力だけは抜群という感じです。
 つまり、郵政民営化を争点とした2005年の総選挙は、「拒否権行使集団」vs「被指導者層」という図式にもなります。そして、小泉首相はこの図式をつくりだし最大限に利用することで、自民党を未曾有の圧勝に導いたのです。


 ということで、2005年の総選挙は国民がたんに「小泉劇場」に熱狂したと言うより、「拒否権行使集団」vs「被指導者層」という図式の中で、「被指導者層」が自らの民主主義を取り戻すために行動したと言えるのではないでしょうか?
 もちろん、ポピュリズム的な側面がないとは言えないのでしょうが、これだけ日本の政治にインパクトを与えた出来事をポピュリズムと片付けてしまっては、それは一種の民主主義の否定なってしまうと思います。


 * ちなみに個人的に小泉政権を支持した理由はもうちょっと別の部分にもあるのですが、今回は一つの理論として書いてみました。


孤独な群衆
加藤 秀俊
4622019086