ウィリアム・トレヴァー『アイルランド・ストーリーズ』

 「現在、世界最高の小説家は?」という問に対しては、それこそ百家争鳴状態で永久に決着がつかないと思いますが、「現在、世界最高の短編小説作家は?」という問には「ウィリアム・トレヴァー」という答えでいいのかもしれません。
 それほどまでに深さと凄みを感じさせる短編集。
 前に<短篇小説の快楽>シリーズとして編まれた『聖母の贈り物』も素晴らしかったですが、この『アイルランド・ストーリーズ』の出来もすごいです。


 トレヴァーは1928年生まれのアイルランドの作家。
 この短編集に収められた作品はいずれもアイルランドを舞台にした作品です(「ミス・スミス」にはきちんとした言及がないですが)。
 アイルランドと言えば、カトリックへの篤い信仰心と、昔ながらの農園の暮らし。
 前半の「女洋裁師の子供」、「キャスリーンの牧草地」はアイルランドの田舎の暮らし、つづく「第三者」、「トラモアへの新婚旅行」ではカトリックの離婚や中絶をめぐる厳しい態度が背景となっていて、それぞれストーリーを動かします。
 そして、下手にオチをつけるのではなくその一歩手前で留まって結末を読者に委ねる絶妙な上手さ。
 後半の「見込み薄」もそうですが、トレヴァーは人々の心が動いた瞬間に焦点を当て、その結果は特に問いません。そして、この「心が動いた瞬間」を描きかたが見事です。


 さらに中盤の「アトラクタ」や「秋の日射し」、「哀悼」では、アイルランドの血にまみれた内戦を描いてみせる。
 英国軍の将校であった夫を殺されて、切り取られた頭部を送り付けられ、ショックのあまり自殺した女性の記事を読んだ老女性教師のアトラクタには自らの子供時代の両親の死の記憶が蘇る。「過ち」と「贖罪」と「赦し」。それでも続く血みどろの闘争。「アトラクタ」はアイルランドの血の歴史を凝縮してみせた傑作です。
 

 「パラダイスラウンジ」、「音楽」は老人同士の秘められた恋の話。美しい恋の物語である「パラダイスラウンジ」と、残酷な物語でもある「音楽」。同じような設定を持つ話でありながら、トレヴァーは絶妙に描き分けてみせます。
 ラストの「聖人たち」はラストを飾るにふさわしい「奇蹟」をめぐるお話。アイルランドの血の歴史の中に咲いた一人の女性の「奇蹟」。もちろんフィクションですが、何か「希望」と「癒し」を感じさせる力強い作品です。


 『聖母の贈り物』に比べると、「マティルダイングランド」のような文学史に君臨するレベルの作品はないかもしれませんが、作品は粒ぞろいで、完成度はこちらが上。「完璧な短編集」と言ってもいいかもしれません。


アイルランド・ストーリーズ
ウィリアム・トレヴァー 栩木 伸明
4336052883


聖母の贈り物 (短篇小説の快楽)
ウィリアム トレヴァー William Trevor
4336048169