ジャック・ドンズロ『都市が壊れるとき』

 2005年、北アフリカ出身の三人の若者が警察に追われ逃げ込んだ変電所で感電し、死傷したことをきっかけに起こった暴動は、当時の内務大臣であったニコラ・サルコジが暴動に参加した若者たちを「くず(ラカイユ)」と言い放ったこともあり、フランス全土へと広がりました。
 この暴動の中心となったのは、貧困や失業に苦しむ北アフリカ系の移民やその子どもたちで、暴動の舞台となったのが彼らが住む郊外の大規模団地でした。


 そんな暴動の原因を、フーコーの影響を強く受けたフランスの社会学者が都市問題に探ったのがこの本。現在のフランスの都市問題、そして世界の都市が直面している危機を鋭くえぐりだしています。
 基本的にフランスの現状に基づいて叙述を進めているので、フランスの都市の現状を知らない者にとってはややわかりにくい面もありますし、文章的にフランスの現代思想にありがちな読みにくさというものはあります。
 ただ、非常に重要な問題点を指摘している本であることは間違いないです。

 著者は20世紀になって「社会問題」が「都市問題」として語られるようになってきた傾向があるといいます。

 一九世紀には、あの集団的暴力は「社会問題 question sociale」という名をもっていた。そしてまさしく社会全体〜社会組織のありかた、社会関係における不公平、連帯の欠如…〜が問いに付されたのであった。現在では郊外の暴力についてある人たちは社会問題の回帰を語る。たしかに別のかたちをしているが、その意味するところはおなじであろう、と。別の人たち(わたしたちを含め)は都市問題 question urbaineについて語る方を選ぶ。すなわち都市を問題化し、都市の構造とその変容を生みだすさまざまな傾向について語るほうを選ぶのである。(32p)


 そして同時に、タイトルにあるように、著者はその「都市」が「壊れつつある」と考えているのです。
 20世紀後半に登場した大規模住宅団地は、著者によればいわば「反都市」とも呼べる存在です。同質性を持った住民を効率良く収容する大規模団地は、都市に必要とされる多様性や「閉じつつ開かれている」といった特性を欠いており、都市を「壊す」存在です。
 しかし、実際に今までの都市計画では、建築家がうまく住居や道路といったものを配置することによって社会問題を解決できると考えられてきました。
 こうした考えに対して著者は次のように批判しています。

近代的な都市的なものを手段として社会を正しくしかるべく配置して、ついに社会から悲劇性を除去したがゆえにこそ、そこに社会解体の動きが生じたことそれ自体が明らかにしたのは、都市的なものが破綻したこと、少なくとも問い直されているということであり、こうしたことがらによって社会問題よりむしろ都市問題について語るのが正当化されるのだ。(47p)

 このあたりのロジックはやや錯綜していて難しいのですが、著者は今までの都市計画によって社会問題を解決しようとする企てが完全に失敗だったとしつつ、その社会問題を解決するためには、社会計画によって破壊されてしまった都市を、もう一度つくりなおさなければならないと考えているのです。
 

 「都市をどうやってつくりなおすか?」、この問に関する筆者の明快で具体的な回答というものありません。
 ただ、「地方分権」、「社会的混合」というよく出てくる二つの処方箋について、著者はフランスの住宅政策・都市政策の歴史を紐解きながら否定的な見解を出しています。
 例えば、「地方分権」については、著者はそれを政策の「遠隔作用」と呼んで批判しています。

 政府の望む政策について地方議員に責任を持たせる[有責化する]ために賞罰の種類を増やすこと。しかしだからといってかれらの代わりに行動したり、かれらと契約を結んだりはしないこと。ここに行動方式にかんする都市政策の最新の第三の傾向がある(113p)

 この引用文だけでは、わかりにくいかもしれませんが、「地方分権」あるいは「遠隔作用」というのは、地方の議員や市町村長に都市問題の解決の責任を持たせることです。国はさまざまな賞罰を用意し、地方が都市問題の解決に取り組むように促します。
 しかし、その「促し」は、あくまでも「促し」であって「命令」ではありません。
 例えば、フランスでは貧しいほと向けの社会住宅を整備するか、罰金かを選択できるそうですが(113p)、貧しい人びとを受け入れて地域イメージを低下させるよりも罰金を受け入れる市町村も多いようです。

 国と市町村長のあいだで結ばれた契約は、したがって本質的にいってパートナーたちの関心を満たすことに帰着した。第一に、そのような住民が国民から見捨てられたと感じないようにすること。第二に、その住民がその苦悩や暴力で都市のイメージに損害を与えないようにすること(107p)

 このような矛盾する要請のなかで、結局は貧しい移民たちが大規模住宅団地に「見棄てられていった」というのが著者の見立てです。


 また、貧困地域を立て直すための切り札と考えられている「社会的混合」という概念についても著者は否定的です。
 貧困地域に、中流階級を呼び戻す試みは、多くの場合、貧しい人びとの一部を追い出して、そこに経済的価値のある中流向けの一画をつくることにしかならないし、貧困者をより豊かな地域に移住させようという試みもうまくいかないケースが多いからです。

 社会的混合がとりわけ、もっとも貧しい人びとを追い散らして中流階級によりよいものを提供するというかたちで表現されるときに、なぜ社会的混合を課そうという意志をかくも傲慢にふりまわすのか。そのような条件のもとでは、混合を課すよりも移動性を促すほうがよくはないだろうか。(125p)

 居住環境における混合があったとしても社会的交流[社会関係]の混合がついてくるとは限らないということだ。その理由は「弱い紐帯」を太くする困難であるだろう。アングロサクソン社会学では、文化的にいってもっとも遠い人びととのあいだに橋を架ける紐帯のことをそのように呼ぶ。この紐帯こそが、もっとも貧しい人びとの社会関係資本を殖やすものなのである。だが、この「弱い」紐帯を作るには、ひとに接触する気軽さつまり最小限の共通コードを自由に操る能力が前提となる。ある所与の空間のなかで社会階層や文化スタイルが錯綜するとき、隣人とコミュニケートするにはコードの多様性に熟練することが必要である。だが、この熟練はときにあまりに難しくて獲得できないことがある。こうした混交の影響は、問題の多様な社会的・文化的諸世界のあいだに橋を架ける交流の確立というよりは、自己に退却する傾向に表れる。自己への退却はもっとも貧しい者たちがすることにほかならない。(140p)


 以上の2つの引用文に見られるのは、「社会的混合」という美しいお題目が、多くの場合に貧しい人びとに犠牲を強いるという問題です。
 ただ、だからといって著者がそれに代わるより有効なお題目を打ち出しているわけではありません。
 第3章で、米国で行われた貧困地域に住む人々に資金得援助を与えて別の地域に移り住むチャンスを与える「機会への移住」プログラムとその結果がとり上げられていて、先ほど引用した文にもある「混合を課すよりも移動性を促す」という方向性の正しさが確認されていますが、この本で打ち出されているわかりやすい政策というのはこういったものくらいです(このあたりの議論はアビジット・V・バナジー、エスター・デュフロ『貧乏人の経済学』に通じるものがあり、『貧乏人の経済学』の議論も参考になりそう)。

 
 ただ、あくまでも都市を再生させることによって社会問題の解決の糸口をつかもうとする著者の姿勢は最期まで変わっていません。
 「都市はただ壊れているだけだ。だから別のかたちに作り直すことができる」(203p)という「結論」にある言葉が、著者の明確な主張といえるでしょう。


都市が壊れるとき: 郊外の危機に対応できるのはどのような政治か
ジャック・ドンズロ 宇城 輝人
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