遠藤乾『統合の終焉』

 EUについての研究者でもあり、ジャック・ドロールEU委員長のもとで欧州委員会「未来工房」専門調査員を務めたこともある著者のEU研究についての集大成とも言える本。

 大文字の「統合(Integration)」は終わった。けれども、どっこいEU欧州連合)は生きている。そしてそのことの含意には、実際上であれ理論上であれ、相当な奥行きがある。本書のメッセージを煎じ詰めると、そうなる。(「まえがき」 v)

 この一文から始まる本書は、EU統合の歴史を辿るとともに、「連邦国家」を目指す統合が終焉したことを確認し、それでもなお政治において大きな存在感を持つ「未確認政治物体(UPO)」(4p)であるEUの実像について迫ります。
 非常に読み応えのある本ですが、特にEUの「統合」を阻んだ「国民国家」のロジックの強さと、政治学あるいはその他の社会科学がいかに「国民国家」という枠組みに捉えられているかとうことを論じ部分は面白く、刺激的です。


 目次は以下の通り。

まえがき
第1章 ヨーロッパ統合の政治学EUの実像と世界秩序の行方
第I部 EUの歴史的形成 統合リーダーシップのドラマツルギー
第2章 ジャン・モネ 「ヨーロッパの父」は何を創ったのか
第3章 ジャック・ドロール 中興の祖はどう動いたのか
第4章 マーガレット・サッチャー 劇場化するヨーロッパ
第II部 ポスト統合を生きるEU 冷戦,拡大,憲法
第5章 鏡としてのヨーロッパ統合 「地域」の作り方と安全保障,経済統合,人権規範
第6章 拡大ヨーロッパの政治的ダイナミズム 「EU-NATO-CE体制」の終焉
第7章 統合の終焉か フランス・オランダによる欧州憲法条約否決は何を意味する
第III部 危機の下のEU/ユーロ 正統性,機能主義,デモクラシー
第8章 ポスト・ナショナリズムにおける正統化の諸問題 国家を超えたデモクラシーは可能か
第9章 ユーロ危機の本質 EUの正統性問題からグローバルな「政治」危機へ
第IV部 国際政治思想としてのEU 世界秩序における主権,自由,学知
第10章 ようこそ「多元にして可分な政治体」へ EUにおける主権と補完性
第11章 国際政治における自由 EUシティズンシップの問いかけ
第12章 日本におけるEU研究の可能性 方法論的ナショナリズムを超えて

 
 日本では、EUを現在の主権国家体制を乗り越える進んだ取り組みとして紹介し、いずれはアジア地域でも目指すべきお手本として捉える論説がよく見られます。いわば「EU性善説」(25p)とも言えるべきもので、そこでは「統合は正しい」という価値観が先行し、統合のもたらす問題点は見えにくくなります。


 しかし、この正しいはずの「統合」は2005年のフランス・オランダによる欧州憲法条約の否決で完全に躓くことになります。
 冷戦終結後、EUは東欧地域へとその範囲を広げ、加盟国は大幅に増えることになりました。そこで「憲法」というシンボルが持ちだされ、EUのエリートたちはその求心力でさらに統合を深化させようとしたのですが、この「憲法」というシンボルはフランスとオランダの国民によってノーをつきつけられたのです。
 この「憲法」というシンボルは、欧州憲法条約が「2007年締結のリスボン条約に置き換わる家庭で公式に廃棄され」(234p)ました。著者はこの時点で連邦国家的なものを目指す「大文字の統合」は終焉したと見ています。


 著者はこの「憲法」というシンボルについて第10章で次のように述べています。

 「憲法」「主権」「人民」「民主制」「市民権」などの枢要な法学・政治学用語は、大抵の場合、一国単位で成立し、その単位を前提として初めて実質的な意味をもつものばかりである。ためしにこれらの用語の前に「国家の」という形容詞をつけてみよう。すると、想定されるほとんどのケースで、そのような形容詞が不要だとわかるだろう。(294p)

 

 このような国民国家のイメージを前提としてEUを語る場合、そこで出てくるのが「民主主義の赤字」論です。
 EUの政策決定に加盟国の意思が必ずしも十分に反映されないというこの問題は、一方では「反EU」の旗印となり、一方で「だからこそ選挙によって選ばれる欧州議会の権限を強化し、そしてEU大統領をつくるべきだ」という主張を導きました。
 しかし、後者の、EUに対する民主主義的制度を充実させることによって「民主主義の赤字」を乗り越えようとする試みはうまくいっていません。その代表は欧州議会で、著者は欧州議会の現状について次のように述べています。

 欧州議会選挙は、ヨーロッパ次元というよりも国内次元の政治争点をめぐって争われる「二流の総選挙」の傾向が強い。さらに深刻なことに、1979年の直接選挙導入以来、この傾向を克服するのに資すると思われた議会の権限強化が進められてきたにもかかわらず、事実としては、欧州議会選挙が行われる度に投票率が低下してきている。これは、ヨーロッパ次元における民衆と議会のきずなの脆さが、権限強化などの小手先の施策では矯正しえない構造的なものであることを示している。(253p)


 このように政治における「アイデンティティや公共空間が基本的にナショナルな領域に留まっている」(254p)ため、新しい「連邦国家」としてのEUは人々の支持を得られないままに、その旗を降ろそうとしているのです。


 しかし、「大文字の統合」が終わったからといってEUが終わるわけではありません。この点について著者は第II部の終わりの部分で次のように書いています。

 EUは、大文字の「統合」を後にしても、すでに強固な統治機構を備えてしまっている。いってみればそれは「ポスト統合」を生きているのであり、そこでは容易にばらばらの諸国家の寄せ集めに戻ることはなく、まして逆に超国家に飛躍することもないのである。
 とすると問題の焦点は、そのいわば宙ぶらりんな中間体として権力を行使し続けるEUをどのように制御し、またいかなる思想や概念の下で補足するのかという点に移ってくるだろう。(234p)


 ここから著者はさらに分析を進めていきます。
 第8章では民主主義の「入力志向」と「出力志向」という二面性を手がかりにEUにおける民主主義を考えます。これはフリッツ・シャルフの持ち出してきた概念で、「入力志向」はリンカーンの「人民の人民による人民のための政治」における「人民による」の部分に、「出力志向」は「人民のための」の部分に対応します。。
 確かに「入力」の面において、EUの民主主義はうまくいっていませんが、「出力」の面に注目するならば、EU国民国家が単独ではなし得ないことをすることができます。ここにEUにおける民主主義の可能性があるとも言えます。

 
 しかし、この「出力」面から見たEUは、第9章でとり上げられているユーロ危機において大きく揺らぐことになります。
 EUはとりあえず「出力」面でうまくいっているという「機能的正統性」は、ユーロ危機において深刻な打撃を受けます。ユーロ危機に伴いEUが各国に緊縮政策を強いたことは、「EUが社会的連帯の反対概念になることを意味」(282p)します。
 こうしてジャック・ドロールが推し進めて社民的コンセンサスは完全に崩れることになります。

 そのコンセンサスは、少なくとも被支援国ではすでに死んでいるのである。いきおい社会民主主義は国家復権に向かい、ナショナリズムを栄養源に連帯を再構築しようとするだろう。こうして日々、EUの拠って立つ社会的基盤は掘り崩されているのである。(284p)


 このように再び立ちはだかるのは、「国民国家」のしぶとさです。
 が、この「しぶとさ」というのは「国民国家」の強さを示すものであると同時に、「政治」の弱さを示すものでもあります。

 もともと、世界や国際という広大で分権的な領域に面したとき、理想主義は弱含みであり、進歩は期待薄であった。だから余計、現にある事実に流されるのである。しかし現代世界は、友好国と敵対国の間の不断の紛争という事実の流される以上に、世界市場という圧倒的な趨勢に流されている。そして、その趨勢を「政治」が制御できないとき、世界ないし国際という場はどこまで「政治」の名に値するのだろうか。
 ここで起きているのは、「政治」という現象の縮減である。政治家や政治学者の多くは、その縮小の領域で、いわば縮みゆくコップの中の嵐を生きている。(288p)


 こうしたある種の悲観的な認識を示しながら、この本はさらに先へと進みます。
 第IV部はEUをつらぬく「補完性原理」の歴史的分析などかなり専門的な部分も多いのですが(でも、面白い)、第11章では国民国家の枠をゆっくりだが変えつつあるEUシティズンシップの分析など、再びEUの可能性をさぐる試みもあります。
 今まで、このエントリーを読んできた人の中には「著者はEUを肯定するのか?否定するのか?」と感じた人もいるかもしれませんが、最初の引用したように「統合(Integration)」は終わった。けれども、どっこいEU欧州連合)は生きている」のです。
 そしてこのEUは、国家を越えた共同体の可能性や限界を教えてくれるだけはなく、それを分析する政治や法の枠組みの可能性や限界を教えてくれるものでもあります。
 というわけで、政治に興味がある人にはもちろんオススメですし、「国民国家は終わった!これからはグローバル化だ(<帝国>だ!超多国籍企業だ!新しいネットワークだ!)」みたいなことを言いたい人にもぜひ読んでもらって、立ち止まって考えてもらいたいですね。
 間違いなく立ち止まってじっくりと読む価値のある本です。


統合の終焉――EUの実像と論理
遠藤 乾
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