増山幹高『立法と権力分立』

 以前に紹介した待鳥聡史『政党システムと政党組織』と同じ東京大学出版会から刊行されている<シリーズ日本の政治>の1冊。
 本書は「立法を集合行為のジレンマに対処する権力行為と捉え、民主主義的な権力行為が議会の制度設計によっていかに実現されるのかを検討」(16p)するものです。


 と書いても、多くの人にはこの文章自体がよくわからないでしょう。さらにこの本ではこの問題が、ゲーム理論や空間理論(正直、自分もわかったようなわからないような理論なのですが)によって分析されており、扱われているテーマもその分析手法も「難しい」と言えるでしょう。

 
 まず、テーマの「立法を集合行為のジレンマに対処する権力行為と捉え」という部分ですが、ここにおける「集合行為のジレンマ」とは、個々人の合理的な行動が全体でみるとマイナスの結果を招いてしまうような状況です。
 経済学ですと、共有地の牧草地において農夫たちが家畜を増やす結果、牧草地自体が駄目になってしまう「共有地の悲劇」の例などが有名ですし、フリーライダーの問題などとも絡んでくる問題になります。
 こうした「集合行為のジレンマ」が起きるときに、フリーライダーを防止するためにルールを決めるのが、立法の仕事ということになります。


 次に「民主主義的な権力行為が議会の制度設計によっていかに実現されるのか」という部分です。
 民主主義というと「選挙で選ばれた政治家が討議を行い意見がまとまらなければ多数決をする」というイメージが一般的だと思いますが、もし「日本全国から大選挙区制で3000人の代議士が選ばれ時間無制限で話し合う」といったシステムであれば、おそらく物事はなかなか決まらないでしょう。
 そのために議会にはさまざまなしくみが設けられています。それは委員会制だったり、会期制だったり、法案提出に対する制限だったりするのですが、いずれも多様な民意を一つの法律に変換するための工夫です。
 本書の前半は、そうしたしくみについての検討になります。


 ただ、そうした議会のしくみを検討する前に、国ごとの代議制民主主義そのもののスタイルの違いを押さえる必要があります。
 イギリスのように選挙が小選挙区制で、二大政党の勝ったほうが政権を担い、内閣と与党が一体化していくスタイル(これを「権力融合」型と呼んでいる)と、選挙が比例代表制連立政権が中心となる大陸ヨーロッパ諸国のスタイル(これを「権力分散」型と呼んでいる)では、議会の担う役割もまた違ってきます。
 「権力融合」型では、一体化した与党=内閣の優位は明らかなため、議会は見世物としての与野党の論戦が中心になります。一方、「権力分散」型では、さまざまな利害関係をいかに法律にまとめていくかということが中心になります。ポルスビーは前者を「アリーナ型議会」、後者を「変換型議会」と呼びました(35p)。


 「権力融合」型の典型例は先程述べたようにイギリスになりますが、イギリスもはじめから内閣優位の議会制度が作られたわけではありません。この点について著者はコックスの研究を引用し、次のように述べています。

 産業革命により工業化、都市化が進展するとともに選挙権が拡大し、議員が利益誘導のための立法活動に励むことになり、議会は過剰な立法需要に直面する。そうした状況は議員個人の再選動機から生じる議会全体の破綻という集合行為のジレンマであり、コックスによれば、それを解決するのが内閣であり、議員は自らの立法的権限を制約し、いわば法案の交通整理の権限を内閣に委譲し、議会の立法的な過剰負担を回避しようとした。(51p)

 (ちなみに大山礼子『日本の国会』岩波新書)では、日本における内閣の「交通整理」機能の弱さが指摘されていた)


 権力融合型議会の選挙では有権者に政権選択の機械を提供しますが、権力分散型議会の選挙は、有権者代理人選択の機会を提供います(55p)。
 権力融合型議会では、野党であっても委員会の中やその他の駆け引きを使って立法過程に影響をあたえることができ、時には政権に参加しないことが合理的であったりもします。


 ここまでが本書の第2章まで。第3章以降は、空間理論を使ってさまざまな議会制度を読み解いていくのですが、ここからは正直うまく説明できる自信はないです。
 選択肢が3つ以上ある多数決においては「多数決の循環」と呼ばれる現象が起きることがあります。詳しくは坂井豊貴『多数決を疑う』岩波新書)を読んで欲しいのですが、例えば、多数決でXはYに勝ち、YはZに勝ち、ZはXに勝ってしまいような状況です。


 これを解決する一つの方法が委員会制度で、委員会を構成する特定の議員に立法の権限を付与することでこのジレンマを乗り越えることができるとのことなのですが(71-77)p、ここはきちんと説明することはできないので、興味のある人は本書を直接読んでください。
さらに、第4章では権力融合型議会について、第5章では権力分散型議会について、それぞれの制度的な特徴や運用について、やはり空間理論などを駆使して分析が行われています。ここも非力な自分では上手く説明できないので興味のある人は本書を読んでください。


 第6章以降は日本の国会についての分析。小選挙区比例代表並立制における復活当選組の存在が党執行部の求心力を弱め、有権者の政権選択の機会の実現を妨げている(第7章)という分析や、国会の会期の延長を常会においては1回に限るという1958年の第7次国会法改正が、たんに野党に有利なシステムというわけではなく「与党にとって法案の成否を単に時間の管理の問題に帰着させ、与党が議事運営権を掌握することによって、限られた時間をめぐる行政機関の競争を促し、与党の政策選好に沿った法案作成を可能にする」(158p)といった指摘などは興味深いです。


 ただ、後半部分を読むと分析の道具となっている空間理論への疑問も出てきます。もっとも、自分は空間理論や合理選択理論については、まったくの素人なので頓珍漢な疑問かもしれませんが、以下、素人の思いつきを書いておきます。


 この本では政策空間における対立する複数のグループが参照するポイントとして、中位投票者定理(複数のグループのちょうど中間点に政策が落ち着くというもの)による複数グループ間の間の点が指し示され、それが各グループが妥協するポイントとされるのですが、現実の政治でこのようなことが起きているのでしょうか?
 確かに二大政党の政策が似通ってくるなどに説明として、中位投票者定理が説得力を持つのはわかりますが、現実の政策が必ずしもそのような「足して2で割る」的な見通しのもとに決まるとも思えません。例えば、片方に「郵政民営化」を掲げるグループがいて、片方に「国営維持」を掲げる勢力があった場合、「郵便は国営で郵貯簡保は民営化」のような妥協が成り立つかというとそうは思えません。ある種の政策は「シンボル化」するので、「よりマシなもの」よりも「戦う姿勢」のようなものがポイントとなり、それが後の政治過程でも効いてくるのではないでしょうか。


 そして、国会議員の少なさと活動期間の長さも、議員を中位投票者定理的な行動に導かないような気もします。
 国会議員は衆参合わせて700人ちょっとであり、しかもその中で大きな影響力を持つ人物は少ないです。さらに有力な政治家は20年、30年と政治の舞台に立ち続けます。
 もし、国会議員が1万人いるような議会であれば、おそらく中位投票者定理にもとづいて妥協点が見出されていくと思うのですが、実際の国会では有力者がもっと別の形のゲームをプレーしているのではないでしょうか。


 この本の終章では細川連立政権について、財政についての政策次元でも外交についての政策次元でも細川連立政権の政党の組み合わせは導出しがたいという加藤淳子、マイケル・レイヴァー、ケネス・シェプスリーの研究が紹介されていますが(193ー194p)、このあたりの時期の政治は特に中位投票者定理のようなものでは説明しがたい局面だったと思います。
 外から見ていると、この時期の政治には「親小沢」「反小沢」という一つの軸があって、それがイデオロギー的な次元を混乱させていたと思うのです。この「親小沢」「反小沢」という言葉を持ち出すと、「政治は人間ドラマ!」みたいになってしまいますが、これを「履歴」を背負った政治家や政党が繰り広げるゲームみたいに考えられないものかな?と思ったりもしたのですが、あまりにも本書の内容から離れてしまったためにこのあたりでやめておきます。


シリーズ日本の政治7 立法と権力分立
増山 幹高
4130321277