テッド・チャン『息吹』

 テッド・チャンの『あなたの人生の物語』以来17年ぶりの作品集。

 すでに各所方面で絶賛されているので改めて詳しく書く必要もないかと思うほどですが、やはりテッド・チャンは優れた作家だと認識させられる作品集です。

 前作の『あなたの人生の物語』に比べると、中編とも言える「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」が「あなたの人生の物語」ほどではないので1冊の本のインパクトとしては見劣りしますが、「息吹」、「偽りのない事実、偽りのない気持ち」、「不安は自由のめまい」といった作品は素晴らしいですね。

 

 ケン・リュウが出てきたときに、同じ中国系ということもあって何かとテッド・チャンと比較されましたが、この『息吹』を読むと、中国とアメリカという2つの社会を知り、その違いを考えるケン・リュウと、そういった社会的なテーマには興味を持たずにより普遍的な哲学的テーマに関心を集中させるテッド・チャンという違いが改めて見えてきます(テッド・チャンは中国人の両親のもとアメリカで生まれ、英語で育った)。

 

 「息吹」は架空の世界の仕組みを探求する話なのですが、その仕組みの探求の面白さはもちろん、その結果、世界の有限性を知ってしまった悲しみとも諦念とも、あるいは覚悟と言えるようなものが描かれており、読み手の情緒を揺さぶります。

 

 「偽りのない事実、偽りのない気持ち」は新しいテクノロジーが人の認識や行動をどう変えるかという話なのですが、新たなライフログ検索装置の普及と、未開民族への文字の普及が並行して語られます。

 もし自分の行動がすべて記録され、簡単に検索できるようになったらどうでしょうか? よくある友人間や恋人同士の記憶違いなどもなくなるはずです。また、訴訟においてもより正確な判断がなされるようになるでしょう。しかし、同時に嫌な記憶を抑圧して忘れる、都合のいいように解釈するといったこともできなくなるかもしれません。

 そうした問題を文字の導入と重ね合わせたのがこの作品で、新しいメディアの登場が人間にもたらす変化を重層的に描いています。

 

 「不安は自由のめまい」は、量子力学多世界解釈を使って、「もしあのとき違う選択をしていたら?」という多くの人が知りたいことを実際に知ることができたらどうなるか? ということを描いた作品。 

 この作品では、選択によって分岐した世界の自分と一定期間対話できる装置が売られており、これを使って違った選択の結果をある程度知ることができます。

 「あのとき恋人と別れていなかったらどうだったのか?」「あのとき転職したらどうだったのか?」、こういったことを考える人は多いと思います。けれども、人間は違った選択のその先を知ることができないので、選択を受け入れるしかないわけです。

 ところが、もう一つの選択の結果を知ることができれば、それは違ってくるでしょう。しかも、この装置は別の選択の結果を知ることができるだけで、選択をやり直せるわけではないのです。

 この作品では、そうした装置の登場がもたらす人々への影響を、それによって悩みを抱えてしまった自助グループの人々と、一攫千金話から描き抱しています。

 

 他にも「商人と錬金術師の門」、「オムファロス」といった作品の面白かったですし、待たせただけあってハイレベルな作品集となっています。