『リチャード・ジュエル』

 一言で言えば非常に「反時代的」な映画。基本的には、イーストウッドがここ最近好んで取り上げる、「無名の人の行った英雄的行為」を描いたもの。アトランタオリンピックの開催中に起きた爆弾テロ事件において、爆弾をいち早く発見し、被害の拡大を防いだリチャード・ジュエルが主人公です。

 ただし、この話のポイントは、リチャード・ジュエルがヒーローから一夜にして容疑者扱いされるようになったことにあります。英雄になるために自ら爆弾を仕掛けてそれを発見するというのは過去に見られた手口でもあり、リチャードもそういった人物ではないかと疑われたのです。

 しかも、それがFBIからマスコミにリークされたことから、リチャードはマスコミに追い回され、彼と母親は生き地獄を経験することになります。このリチャードを以前からの知り合いであった弁護士のワトソン・ブライアントが救うというのが映画の筋書きです。

 

 このように書くと、いかにも映画になりそうな話ではあるのですが、この映画に関しては主人公のリチャード・ジュエルが、母親と同居するややマザコン気味の貧乏な白人男性で、デブで権威好きでガンマニアで同性愛嫌悪でと、およそ現代のハリウッド映画で主人公になれないような属性をもつ人間なのです。

 普通の映画監督であれば少し人物像の修正を行いたいところですが、イーストウッドはこのようなやや問題含みの人物をそのままに描き出し、彼を通じて「普通の人々のプライド」を描き出します。

 一方、リチャード・ジュエルを最初に容疑者扱いする記事を書いた女性記者の扱いはひどいです。最後に改心して涙を流すシーンもありますが、それすらも「薄っぺらい人間は最後まで薄っぺらいものだ」ということを描こうとしたのではないかという穿った見方をしてしまいます。

 

 太宰治が敗戦後に真の自由主義者が今叫ぶべき言葉は「天皇陛下万歳!」だということを短編の「パンドラの匣」で言っていますが、この映画はポリティカル・コレクトネス全盛の時代に「天皇陛下万歳!」と叫んでいるような映画だと思いました。