『キング』というと関東大震災以後の大衆文化を代表するものとして日本史の教科書にも登場しています。ただし、100万部を売ったということが紹介されているだけど、その具体的な中身や人気の秘訣については知らない人も多いと思います。
そんな『キング』について、『言論統制』や『ファシスト的公共性』などで知られる佐藤卓己が持ち前の調査力を発揮して論じた本。原著は2002年の出版ですが、今回岩波現代文庫に入りました。
「はじめに」に、
たしかに「政治的正しさ」のアリバイ作りとなるファシズム研究=批判は量産されたが、自らがファシストになる可能性まで念頭においた研究はどれほど存在するのだろうか。(xii p)
国民国家批判をつきつめれば「一億遭難民化のススメ」に行く着くが、幸福な難民はおそらく一部の強者にすぎない。弱さの糾弾は、強者のみを正当化する政治に至る。それこそが、ファシズムとは言えまいか。(xii〜xiii p)
といった言葉が並んでいることからもわかるように、非常に力のこもった本です。
目次は以下の通り。
1 講談社文化と大衆的公共圏
第1章 マス・メディア誕生
第2章 講談社文化と岩波文化
第3章 「大衆」の争奪戦2 『キング』の二つの身体
第1章 野間清治の立身出世主義
第2章 『キング』への道
第3章 「雑誌報国」か「積悪の雑誌王」3 「ラジオ的雑誌」の同調機能
第1章 「くち・コミュニケーション」の企業化
第2章 「ラジオ読者」の利用と満足
第3章 『キング』レコード4 「トーキー的雑誌」と劇場的公共性
第1章 「ラジオ的雑誌」のトーキー化
第2章 「雑誌報国」と「映画国策」
第3章 「日刊キング」と戦争ジャーナリズム
5 『キング=富士』のファシスト的公共性第1章 雑誌の黄金時代?
第2章 「読書の大衆化」と「大衆の国民化」
第3章 「精神弾薬」と思想戦結 国民雑誌の戦後 一九四五-一九五七年
第1章 「戦犯雑誌」のサバイバル
第2章 国民雑誌の限界
おわりに―国民雑誌の終焉
このように5部仕立て500ページを超える本なので、ざっくりと紹介していきたいと思います。
第1部の冒頭に1924年に創刊された『キング』の発売前の宣伝の広告文が載っていますが、とにかく大げさで、最初から「国民雑誌」を狙っていたことがわかります。『キング』は新聞広告をはじめとしてポスターやちんどん屋なども使って徹底的な宣伝が行われました。
宣伝では「面白い」という要素とともに「此の国に生まれ、この国に育ち、限りなく恵まれたる生の喜びを享受せしめようとする道義的観念を含ませてゐる」(4p)と書かれており、面白さと道徳性の両立が図られました。
また、当時は「大衆」という言葉が使われだし、その存在に注目が集まった時期とも重なっており、『キング』はまさに「大衆」をターゲットに創刊されました。
この『キング』の下地にあったと考えられるのが、当時多くの部数を誇っていた婦人誌でした。絵などを使った表紙、附録、実用的知識といった要素は婦人誌から『キング』へと受け継がれていきます。
階層的には今までの読者層よりも「下」を狙っており、安価であると同時に総ルビであるなど読みやすさが追求されました。地域的にも都市部よりも郡部に広がりを見せており、朝鮮半島などの植民地でも広く読まれました。
『キング』を刊行した講談社文化と対置されたのが岩波文化ですが、岩波書店は婦人誌や少年誌を持ちませんでした。そのために岩波は知識層には強くても大衆に弱かったわけですが、一方、『キング』は大学生にも浸透しており、『キング』のイデオロギーとも言える立身出世主義は大衆だけではなく、知識層にも通じるものでした。ここから著者は「講談社文化(大衆)VS岩波文化(知識人)の図式に疑問を呈しています。ちないに野間清治も岩波茂雄も元教師であり、「教化」という点では共通しているといいます(74p)。
新しく登場した「大衆」に対して、プロレタリア文化運動もその獲得を目指します。総合雑誌の『改造』は「左翼バネを使って部数を急上昇」(76p)させました。しかし、知識人の間では流行したプロレタリア文化運動も大衆への浸透では『キング』に遅れを取りました。
『ゴー・ストップ』というプロレタリア大衆小説を書いた貴司山治は、小林多喜二の『蟹工船』について、「小説中に描かれているやうな漁夫や水夫の間に持込んだら果たして読むだらうか? 恐らく読まないだらう。理解することができないだらう」(86p)と述べ、キング的な大衆化の必要性を訴えましたが、蔵原惟人は「所謂大衆文学、通俗小説の形式と、封建的町人及びブルジヨア的小市民の世界観、或ひは世界観であるところの英雄崇拝、安価なるヒロイズム、義理人情、伝奇的趣味、物事に対する非論理的な態度等と切り離して考へることはできない」(91p)と、貴司の主張を切って捨てました。
結局、左翼陣営は「大衆か? 芸術か?」という問いに答えを出せないままに、大衆の獲得に失敗するのです。
第2部では講談社をつくった野間清治の人生とともに『キング』の性格が検討されています。
荒木武行『人物評伝 野間清治論』には「日本には文部省が二ツある。一ツは大手町にあり、一ツは駒込坂下町にある。一は官立であり、他は私設である。(中略)野間大臣は政変なく、永劫に保証せられたる大臣の椅子によりて新聞と雑誌王国を統制してゐる」(111p)との記述があるそうでうが、メディアの世界においてそれほどまでの影響力を持った人物でした。
野間清治は1878年に群馬県に生まれ、小学校の臨時雇代用教員となりました。そこから前橋の師範学校に通い、1902年には東京帝国大学文科大学臨時教員養成所に入り、中等教員国語漢文科免状を受けました。
その後、月給が高いということで沖縄に赴任しましが、ここでは遊郭から毎日酔っ払って出勤するような堕落した生活を送っていたようです(教えを受けた徳田球一の回想がある(118p))。この生活を改めるために野間は妻として服部左衛子を迎え、東京帝国大学法科大学首席書紀のポストに就きます。
野間が出版の世界に入るにあたってまず手掛けたのが1910年に創刊された演説雑誌『雄弁』でした。この『雄弁』には東京帝国大学法科大学首席書紀のポストになったことで得た人脈が活かされていますが、逆に言うと学歴重視の雑誌でもありました。著者は「しかし、日本の雄弁会が一人の「ヒットラー」を生まなかった理由は、あるいは『雄弁』にも見られた学歴主義の限界から説明できるのではあるまいか」(137p)と述べています。
さらに1911年、野間は講談社の看板を掲げ、『講談倶楽部』を創刊します。当初は返品の山となりますが、小説家を動員して講談の題材を文章化する「書き講談」のスタイルが確立すると、部数を伸ばしていきます。吉川英治もこの『講談倶楽部』の懸賞で一等を獲り(189p最初は吉川雉子郎名義)、後に国民的な作家となりました。
さらに野間は『少年倶楽部』、『面白倶楽部』、『婦人倶楽部』、『現代』、『少女倶楽部』といった雑誌を創刊させていきます。学生からはじまった講談社(大日本雄弁会)の読者層は、階層的にも下へ、そして年齢的にも下へと拡大していくのです。
このように各年齢層への雑誌を出した後、「階級、年齢、性別を超越した国民統合メディア」(164p)として『キング』は構想されます。野間は各雑誌の読者を引っ張ってくることができるのあらば75万人程度の読者が獲得可能だと考えていました(165p)。
この構想に関して、著者はゲッベルスの「〜ためのラジオ」はありえず「ラジオは常にただ一つ、ドイツ国民のために存在する」(166p)という言葉を引きながら、『キング』の特性を「ラジオ的」と位置づけています。
『キング』創刊後、講談社は『幼年倶楽部』を創刊し、キングに迫る部数を発行しました。
『キング』の成功とともに、野間は多くの自己宣伝本を出版します。『キング』を貫く思想の1つが立身出世主義でしたが、野間は自らこそがそれを体現する人物だとして自らを売り出したのです。
こうした野間を、宮本外骨は「ヤシ的人物」として厳しく批判しましたし、右翼的なスタンスをとる野依秀市からも厳しく攻撃されました。
一方、野間は自らの立身出世を再生産するかのごとく講談社少年部をつくり、小学校を卒業した少年たちを入社させました。野間は彼らをヒトラー・ユーゲントのような分隊に分け、勉強と剣道を日課にさせるとともに、書店への宣伝などに当たらせました。松浦総三は野間の姿を創価学会の池田大作に重ね合わせています(218p)。
第3部では、『キング』をラジオと重ね合わせながら分析がなされています。
『キング』の創刊とラジオ放送の開始はほぼ同時でした(ラジオ放送の開始は1925年)。当時のラジオは少し前までのインターネットと同じように大きな期待がかけられており、ラジオによって新聞はなくなり、大学の講義もラジオに置き換わるとの予想もありました(このあたりに関しては佐藤卓己『ファシスト的公共性』のレビューで詳しく紹介しました)。
著者はこうした『キング』の「ラジオ的雑誌」の側面を、「音読文化の現代化」あるいは「くち・コミュニケーションの企業化」として考察しています。雑誌を音読するというのは今からするとあまり想像できませんが、投書には老人や子どもに『キング』を読み聞かせているというものがいくつもあります。
また、『雄弁』から始まったことからもわかるように野間は演説を重視しており、常に大衆的な公共性を志向していました。そして、『キング』と同じく大衆的な公共性をつくり上げるメディアがラジオだったのです。
ラジオが「ながら聴取」が可能だったように、『キング』も気晴らし的に読まれました。1932年にラジオの受信契約数は100万件を超え『キング』に肩を並べます。そうした中でラジオ放送で人気を得たのが浪花節でした。そして、『キング』の誌面でも同じように浪花節は大きな存在感を占めていました。
また、ラジオは視聴者に対して一方的にメッセージを送るメディアでありながら「参加の感覚」がありました。『キング』もまた、この「参加の感覚」を重視し、寄稿欄や投書欄、懸賞を充実させていました。
さらに野間はキングレコードをつくり、レコードの世界にも進出します(当時、レコードは出版物だった)。はじめのうちは「健全なる歌」を強調する路線は受けませんでしたが、満州事変が勃発して時代の雰囲気が変わるとキングレコードは黒字化し、雑誌、レコード、映画などのメディアミックス戦略を取るようになります。
1930年代はトーキー映画が普及し人気を博した時代でもありました。第4部ではこのトーキー映画と『キング』の関係、そして戦争とのかかわりを見ていきます。
映画が人気を得るようになると、映画会社は『キング』に連載されていた読み物にその原作を求めます。挿絵をふんだんに使っていた『キング』の読み物は映画の原作として最適だったのです。一方、映画(活動写真)の観客を『キング』が奪ったという面もあるようで、投書などからは『キング』が活動写真よりもよいものとみなされる風潮があったことも見えてきます。
映画の普及とともに、『キング』の誌面には「映画小説」あるいは「誌上映画」と呼ばれるものも登場します。これは小説や浪曲の一場面を映画スタッフが撮影するものです。
こうした映画、特に剣戟映画の流行について、著者はそれが知識人をも惹きつけたことに注意を向け、こうした剣戟映画による精神的解放と全体主義による精神的解放を重ねた中谷博の議論などを紹介しています(304−305p)。
1931年になると講談社に巡回映画班が組織され、全国での教育映画の無料公開などを行うようになります。さらに講談社は野間の死後の1940年にトーキー映画の制作を行っています。
この映画について触れた第4部第2章に関しては、野間清治と小林一三の対比なども行われており、そこも興味深いです。小林は雑誌の対談の中で野間に対して「さうすると、浪花節を利用して、教育をやるのと同じことですね」(316p)と述べるなど、両者の方向性は随分と違うのですが、二人とも1937年に設置された内閣情報局の参与となるなど、この時期の国家とメデイアを考える上のでのキーパーソンとなります。
野間は1930年から『報知新聞』の経営にも取り組んでいます。『報知新聞』は伝統ある新聞でしたが、『東京朝日』、『東京日日』の東京進出、『讀賣新聞』の台頭により部数を減らしていました。その劣勢を跳ね返すために迎え入れられたのが野間です。
野間は『キング』と同じように「安心して家庭に入れ得る新聞」(331p)を目指して、センセーショナルに陥らないような紙面づくりを目指しましたが、満州事変以降の時局の変化の中でこの路線は失敗します。
一方、『キング』でも戦争報道、戦争についての報道写真が増え、国際情勢をあらわした附録の地図などがつくようになります。また、国策に沿った誌面づくりをしていた『キング』は出征中の兵士の間でも広く読まれていました。
日中戦争が始まっても『キング』は500頁以上を維持しており絶好調でしたが、そうした最中の1938年10月に野間清治は亡くなります。1ヶ月後に息子の恒も急死し、講談社は報知新聞の経営から身を引くなど組織改革を行うのです。
しかし、野間清治の死によっても『キング』は失速しませんでした。第5部では1940〜45年の『キング』(途中で『富士』に雑誌名を変更)がとり上げられていますが、戦時中でも『キング』は好調でした。
一般的に、二・二六事件や盧溝橋事件の頃から言論や出版の自由は逼塞したようなイメージがありますが、1937〜40年にかけて出版物の刊行点数はうなぎのぼりに増えています(375−376p)。日中戦争とともに雑誌の臨時増刊号も相次いで発行され、「出版バブル」ともいうべき状況だったのです。
『キング』(『富士』)も1943年まで100万部を維持しており、しかも定期購読が普及したことから経営もより安定しました。1944年という敗戦色が強まった時期でさえ、講談社は193万円以上の利益を上げ、90万円を株主配当に当てていました(385p)。
内容面では『キング』も国策職を強め、総合雑誌化していきました。「大衆雑誌は修身の教科書ではない筈だ」(400p)との批判も出ましたが、それでも『キング』は売れ続けました。講談社雑誌の年間発行部数の戦前ピークは1942年です。
1941年の『キング』の目次を見ていきながら、著者は「この目次を年表を横に眺めれば、あたかも日米開戦へ向けた一連のシナリオが出来ていたかのごとき感想さえ抱くだろう」(407p)と述べています。
1943年の3月号からは『キング』は『富士』に改名されますが、これは当局の支持ではなく自主的なものと見られます。このころから誌面も変わり始めます。紙不足や輸送力不足などによりページ数が減り、小説欄や広告欄が縮小されます。
1945年4月号の論説では「名誉欲権勢欲」「金銭欲出世欲」を捨て、「正宗の名刀一本に帰へれ」と書かれていますが、これに対して著者は「ここで否定された「名誉欲権勢欲」「金銭欲出世欲」、つまり立身出世主義こそ、野間イズム、「キングの精神」であったとすれば、ここに『キング』の魂は玉砕したと言えよう」(423−424p)と述べています。
さらに第5部では『ファシスト的公共性』でもとり上げられていた、「公共性」の問題がとり上げられています。「公共性」という言葉に関しては、ハーバーマスが打ち出した「市民的公共性」というユートピア的な「規範」が「あたかも歴史的「実体」概念」であったかの如く論じられることが多い」(425p)のですが、著者が注目するのは「市民」の枠には入らなかった「大衆」の「公共性」です。民主主義において参加が重要なのであれば、ファシズムもまさに「参加」を重視しており、「ヒトラーは「黙れ」といったのではなく「叫べ」といった」(426p)のです。
著者は戦前の日本において、「大衆的公共圏」が「市民的公共圏」を飲み込んで「国民的公共圏」を形成する過程を『キング=富士』の中に見出しています。
最後の「結」では戦後の『キング』が描かれています。国策雑誌の様相だった『富士』ですが、1946年新年号からは再び『キング KING』となり(アルファベットが入った)、発行は続けられました。1945年12月号でも『富士』は50万部を維持しており、著者はGHQも「占領政策に不可欠な大衆メディアとして「意図的な見逃し」が行われた可能性も否定できない」(453p)と述べています。
誌面から軍人は消えましたが、作家たちは戦前・戦中から連続していましたが、軍人の評伝に代わってマッカーサーの評伝が連載されました。
しかし、講談社の雑誌は徐々に細分化していき、またテレビの普及はメディア環境を決定的に変えていきます。そうした中で読者層は地方の義務教育だけを受けた層、つまり創刊当初の層へと限定されていきます。高学歴者の興味を引きつけることはできなくなっていったのです。
そして1957年の12月号で『キング』は終刊となります。後継誌の『日本』も失敗し、「国民的雑誌」は姿を消すのです。
ざっとまとめる予定だったのでうが、けっこうなボリュームになってしまいました。それだけ中身の詰まった本です。
ここで書かなかった部分以外にもさまざまなメディアの動向についての目配せがあり、『キング』の歴史だけにとどまらず、戦前・戦中・戦後のメディア史としても面白く読めると思います。
2022年度から始まる高校の「歴史総合」の科目では、「近代化」「大衆化」「グローバル化」の3つがキーワードとしてあがっていますが、個人的に一番とらえどころがないと思うのが「大衆化」。実際に授業でどう消化されるべきなのかはわかりませんが、日本における「大衆化」を考える上で本書は非常に有益な本であるとも感じました。