玉手慎太郎『公衆衛生の倫理学』

 新型コロナウイルスの感染拡大の中で、まさに本書のタイトルとなっている「公衆衛生の倫理学」が問われました。外出禁止やマスクの着用強制は正当化できるのか? 感染対策のためにどこまでプライバシーを把握・公開していいのか? など、さまざまな問題が浮上しました。

 

 そういった意味で本書はまさにホットなトピックを扱っているわけですが、本書の特徴は、この問題に対して、思想系の本だと必ずとり上げるであろうフーコーの「生権力」の概念を使わずに(最後に使わなかった理由も書いてある)、経済学、政治哲学よりの立場からアプローチしている点です。

 そのため、何か大きなキーワードを持ち出すのではなく、個別の問題について具体的に検討しながらそこに潜む倫理的な問題を取り出すという形で議論が展開しています。

 

 そして、その議論の過程が明解でわかりやすいのが本書の良い点になります。

 「これが答えだ!」的な話はありませんが、問題点がわかりやすく取り出されているので、公衆衛生の問題を考える上での最初の地図のような役割を果たしていくれます。

 

 目次は以下の通り。

序章 公衆衛生倫理学の問題関心
第1章 肥満対策の倫理的な課題
第2章 健康の社会経済的な格差の倫理
第3章 健康増進のためのナッジの倫理
第4章 健康をめぐる自己責任論の倫理
第5章 パンデミック対策の倫理
終章 自由としての公衆衛生へ

 

 みんなが健康になるのは良いことに思えますが、そのためにどこまでのことをしていいかというと意見が分かれるところだと思います。

 例えば、酒の飲みすぎは健康に良くないですし、将来的な医療費の増加につながるため、酒のラベルに「飲み過ぎに注意しましょう」という注意喚起を書いたり、アルコール度数の高い酒に高い税率をかけたりすることは、比較的多くの人が受け入れるのではないかと思います。

 一方、マイナンバーカードなどで酒の購買履歴をチェックして一定以上は変えないようにするとか、酒を禁止する、とかまでいくと「やりすぎだ」と感じる人が多いのではないかと思います。

 

 ただし、例えば致死率の高いパンデミックの場合は外出禁止などの自由を制限する手段も許容されると考えられる人も多いでしょう。

 著者は23p図1で「介入のはしご」という図を示していますが、「情報の提供」などに比べて「選択の制限」などを行うにはより強い正当化のための理由が必要になるはずです。

 

 本書の第1章でまずとり上げられているのが肥満の問題です。

 肥満はさまざまな病気の原因とされており、新型コロナウイルスでも肥満の人は重症化しやすいとされました。

 こうしたこともあり2008年からはメタボ健診も行われるようになっています。このメタボ健診の目的としては、個人の健康増進とともに医療費の削減という狙いもあります。肥満対策は社会全体の利益になるとも考えられるのです。

 

 ただし、肥満防止のための政策が行き過ぎたパターナリズムとなる可能性もあります。

 パターナリズムには「強いパターナリズム」と「弱いパターナリズム」があるといいます。弱いパターナリズムは自律的な決定能力を持たない人に対するもので、強いパターナリズムは自律的な決定能力を持った人に対するものになります。

 例えば、嫌がる子どもに野菜を食べさせるのが弱いパターナリズムで、大人に嫌いな野菜を食べさせるのが強いパターナリズムとなるわけです。

 難しいのは強いパターナリズムだからダメというわけではなく、シートベルトの着用義務は強いパターナリズムですが、広く受け入れられています。

 

 さらに「目的パターナリズム」と「手段パターナリズム」という分類もあります。当人が支持する利益を増進するのが手段パターナリズム、介入する側が目的まで設定するのが目的パターナリズムです。

 例えば、禁酒したいという人に酒のメニューを見せないのが手段パターナリズム、酒が飲みたい人から酒をとり上げるのが目的パターナリズムとなります。

 

 ただし、この2つがきれいに切り分けられないこともあるでしょう。

 肥満のケースで言えば、肥満防止の啓発が強くなされるほど、周囲からのプレッシャーによって肥満をなんとかしなければと思うようになるかもしれません。そうなった場合、介入は手段パターナリズムなのか目的パターナリズムなのか曖昧になります。

 また、「肥満を防止しよう」という啓発がなされるほど、肥満は「自己責任」とみなされるようになり、「肥満=自己コントロールができない人」といった形で肥満のスティグマ化が起こるかもしれません。

 

 さらに肥満対策は医療費の削減という財政上の要請から進められている面もあります。こうなると目的は個々人の幸福というよりも、社会的なコストの問題であり、「健康」というものが他の目的のために手段となる「健康の道具化」が起こっているとも言えます。

 健康という価値を肯定するとしても、その実現をめぐってはさまざまな倫理的な問題があるのです。

 

 第2章でとり上げられているのは、社会経済的な要因からくる「健康格差」の問題です。

 どのような家庭に育つかでその人の健康状態は変わってくるかもしれません。例えば、経済的に貧しくてジャンクフードばかり食べていた、親が忙しくて歯磨きの習慣が身に付かなかったといったことがあれば、その人の大人になったときの健康状態は恵まれた環境で育った人に比べて悪化しているかもしれません。

 

 こうした健康格差は問題ですが、では是正のために介入をすべきか、どんな介入をすべきかというと難しい問題もはらんでいます。

 例えば、政府が健康状態の改善のために「食事に野菜を一品増やそう」と呼びかけることは特に悪いことではないように思えますが、そういった経済的余裕のない人もいるでしょうし、逆に経済的に裕福な人達だけがそのメッセージを受け止めて生活を改善し、ますます健康格差が開くということも考えられます。また、肥満と同じように不健康がスティグマ化される恐れもあります。

 

 2016年に自民党の若手議員が「健康ゴールドカード」という提案をしました。これは定期検診を通じて健康管理に務めた人は医療保険の自己負担を3割よりも低い水準に引き下げるというものでしたが、これは自助努力によって健康を獲得することができるという前提にもとづいており、「不健康=自助努力ができない人」というイメージを強める恐れがあります。

 

 一方、イギリスでは国内で販売される食パンの食塩含有量を少しずつ減らすことで、人々の塩分摂取量を減らし、高血圧や脳卒中心筋梗塞などの症状を減らしたとされています。

 これならば「自助努力ができない人」にも効く政策になりますが、こういった方法がエスカレートすれば個人の自由や自律が侵害されていると感じる人も出てくるかもしれません。

 

 そこで登場するのが第3章でとり上げられているナッジです。

 ナッジは、例えば、メニューの目立つところにヘルシーなメニューを載せるなど、人々の行動をちょっとだけ誘導するもので、自由や自律を侵害するものではないとされます。

 拒否できるちょっとしたおせっかいを通じて社会全体の効用を改善できるというのが、このナッジを推進するリチャード・セイラーやキャス・サンスティーンの立場で、彼らはこれを「リバタリアンパターナリズム」と名付けました。

 さらに比較的低コストで介入ができるのもナッジが注目される要因です。

 

 ただし、ナッジが有効である、つまり人々がナッジによって大きく誘導されるのであれば、それはそれだけ自律性が侵害されているとも考えられます。

 また、ナッジは安上がりな方法であるために、慎重な検討なしに導入されてしまう懸念もあります。

 

 ナッジは本人が望んでいる目標を実現するための手助けという位置づけが基本になります。基本的に「健康増進」は多くの人が望んでいる目標と言ってもいいかもしれません。

 ただし、ナッジは本人の利益だけではなく社会全体の利益のためにも用いられがちですy。例えば、臓器提供カードのデフォルトを「提供」にすることの目的は個人の利益ではなく社会全体の利益でしょう。ナッジの提唱者のサンスティーンはこのようなナッジを肯定しています。

 このように社会全体の利益のためのナッジが普及すれば、健康に対する自己コントロールが知らぬ間に縮小されているということも起こり得るでしょう。 

 

 第4章では健康をめぐる「自己責任」の問題が論じられています。

 健康問題において自己責任論を持ち出すのはよくないとされていますが、それでも酒やタバコもやらない人が酒やタバコが原因で病気になった人に「自己責任だ」と言いたくなるのは理解できますし、ましてや医療費の抑制が要請されている中でこうした声が高まってくるのはある意味で自然です。

 

 自己責任論に対しては、まずは本人のどうにもならない要因があるという反論があげられます。遺伝性の疾患に対して本人ができることは限られます。

 そこで、コントロール可能性ということが前提にされるわけですが、世の中における「責任」に概念は必ずしもコントロール可能性に結びついているわけではありません。組織の責任者は部下のやったことの責任を取る必要がありますし、子どもが飛び出してきた交通事故でも運転者は一定の責任を感じるでしょう。

 コントロール可能性とそれに伴う責任の有無というのはグラデーションがあり、恣意的な線引がなされやすいのです。

 

 自己責任論を強調することは、健康を害した人があたかも劣った人でとの印象を与える点で個人の尊重に失敗しています。

 一方、コントロール不可能性を強調しすぎると、今度はその人を自由な選択を行う主体とはみなさなくなるという点で、こちらも個人の尊重が侵害されると言えます。

 こうした中で著者は持ち出すのが「後ろ向きの責任」、「前向きの責任」という概念です。

 

 定義はそれぞれ

後ろ向きの責任:過去の特定の行為から生じた損失の責任を、当人が個人的に引き受けることを要請する規範

前向きの責任:当人の置かれた状況に応じて、将来ある特定の行為を遂行することを望ましいとみなす規範(175p)

となります。

 

 例えば、「日本の過去の戦争に対する責任」というときに、当時生まれていなかった人に「後ろ向きの責任」はとりようがないわけですが、「前向きの責任」であれば、それを引き受けるべきだという話はできるでしょう。

 

 この2つの概念を使うと、自らの健康に対する責任の問題について、後ろ向きの責任ばかりを追求するのは問題だが、前向きの責任についてはあるのではないか(将来の健康のためにできることをすべきである)と考えることができると思います。

 そして公衆衛生の政策では、不健康になってしまった後ろ向きの責任を追求するのではなく、将来に向けてサポートするようなものが重要だとも言えるでしょう。

 

 第5章ではパンデミック対策とそれがもたらす問題が論じられています。

 新型コロナウイルスの感染拡大に際し、マスクの強制や外出の禁止など、人々の自由を制限する政策が打ち出され、それが支持されることともなりました。さらに一部では、中国のような強権的な政策が支持される向きもありました。

 「命を守る」という価値がせり出してくると、「自由」という価値は相対的に低下してしまう傾向があるのです。

 

 これに対して著者はアマルティア・センのケイパビリティ・アプローチの考えを使ってこの問題に答えようとします。

 ケイパビリティとは「人が達成することのできる機能(ある状態であることや、何かをすること)のさまざまな組み合わせ」(205p)で、その人が実現しうる生活の可能性になります。

 例えば、「大怪我をしない」という価値だけが重視される社会では、危険なスポーツは禁止されるべきかもしれませんが、このケイパビリティ・アプローチならば、「危険なスポーツを楽しむ」という選択肢の存在が評価されるわけです。

 

 この考えをもとに考えると、コロナ対策として、①外出禁止、②ワクチン接種、という政策があり、いずれもコロナを抑え込めるとした場合、同じコロナの抑制という結果を得られるとしてもケイパビリティを改善するのは②でしょう(ただ、実際には飲み屋の営業時間が短縮される代わりにコロナになる確率が下がるといった微妙なケースがおおいでしょうが)。

 ケイパビリティ・アプローチをとったからといって望ましい1つの答えが出てくるわけではありませんが、1つの手がかりとなる概念であることは確かだと思います。

 

 さらに終章では、本書で残された問題として、「健康」という概念、生権力、ジェンダー、グローバリゼーションという4つの観点をあげています。 

 このうち、生権力についてはフーコーの議論の重要性は認めるものの、生権力からはどのような公衆衛生政策が望ましいかを考えるのは難しいとみています。

 

 このように本書は肥満やパンデミックなどのわかりやすい問題を扱いながら、公衆衛生における倫理の問題を分析しています。

 全体的にわかりやすいですし、何よりも答えではなく、考える上でのポイントを取り出していることが本書のポイントでしょう。

 「健康」というのは多くの人が同意できる価値観であるからこそ、そこに潜む問題を明らかにしてくれる本書は一歩立ち止まって考える切っ掛けになるものだと思います。

 

 また、高校では「公共」が始まり、今まで政治経済を教えていた教員が倫理的な部分を教える必要が出てきていますが(自分がそう)、そういったときに本書は非常に役に立つのではないでしょうか。

 巻末にはブックガイドもついていますし、社会の問題を多面的に考察するための入門書ともなっています。