柴崎友香『千の扉』

 ここ最近、継続している柴崎友香の小説ですが、これもなかなか面白かったです。

 作中で明示されているわけではありませんが、新宿の都営戸山ハイツを舞台にした作品で、タイトルの「千の扉」とはとりあえずは団地のたくさんの扉を表しているととれます。

 

 主人公の千歳は夫。一俊とともにこの団地で暮らし始めます。本当は一俊の祖父の勝男が住んでいたのですが、骨折して入院し、団地での一人暮らしは無理だということで、勝男が娘の圭子の家に住むことになり、空き家となった部屋に代わりに住むことになったのです。

 そして、千歳は勝男から自分の大事なものを託した「高橋さん」を探してくれと頼まれます。巨大な団地の中で、「高橋さん」の部屋は勝男にもわからなくなっていたのです。

 

 勝男は子どもの頃に戦争を経験した世代であり、戦後の混乱の中で育ってきた世代です。その娘の圭子には学生運動にまつわる思い出があり、千歳がアルバイトすることになる喫茶店の客はバブルの思い出を語っています。

 このように本書は団地を舞台にして戦後70年を語ろうとした小説になります(単行分が出たのは2017年)。

 

 ただし、この小説に「重層的な戦後史」みたいなものを期待すると、それはちょっと違います。 

 変な感想ですし、どれだけ同意を得られるかはまったく不明ですが、自分はこの小説を読みながら「柴崎友香あだち充みたいだな」と思いました。

 

 まず、あだち充といえば違う漫画であっても登場するキャラクターが非常に似ていますが、柴崎友香の小説もそうです。今作の千歳も、いつも通りのやや主体性と積極性に欠けるキャラであり、結婚はしていますが子どもはいません。勝男は勝男は『わたしがいなかった街で』の友人の有子の父とかぶります。

 同じようなキャラが登場しながらも、その動かし方や日常の描き方があだち充はうまいわけですが、柴崎友香もそうですね。会話などは安定の巧さで読ませます。

 

 そして、あだち充といえば、予定調和を描き続けていくように見せかけてどこかで読者が想像していなかった方向にストーリーを引っ張っていくのですが(例えば、『H2』でひかりの母の急死からガラッとムードを変えてくる展開とか)柴崎友香にもそういうところがあります。

 本書で言えば、最初に謎として示される「高橋さん」の話があり、後半には一俊の秘密が明かされて千歳が家出をするというイベントがあります。

 当然ながら、多くの読者はこのイベントこそがこの小説の核であり、夫婦の成長的なものがこの小説を締めると想像します。

 

 ところが、この小説の後半で印象に残るのは、一俊の友人の中村直人のエピソードです。

 一俊は直人の妹の枝里との高校の先輩後輩の間柄であり、千歳が交流を持つのも枝里のほうなのですが、最後になってせり出してくるのが直人の子どもの頃の話なのです。

 戦争や敗戦後の混乱や学生運動やバブルのことも語られているのですが、一番鮮烈な傷として語られるのが(たぶん)90年代のある子どもが抱えていた傷なのです。

 良い意味で裏切られる小説ですし、柴崎友香ならではという感じがします。