安中進『貧困の計量政治経済史』

 貧困について、過去の状況を計量的に分析した本になりますが、本書の特徴は対象が日本の近代という点です。

 貧困の歴史について欧米中心に計量的に分析した本としては、アンガス・ディートン『大脱出』などいくつか思いつきますが、近代日本を対象とした本は個人的にはあまり思いつかないですね。

 

 とり上げられているテーマは、「税不納」、「自殺」、「娘の身売り」、「乳児死亡」の4つ。

 基本的にはそれぞれの章ごとに独立した論文が並んでいるような形なので、「日本近代の貧困史を概観する」といった大きな視野をもった感じの本ではないですが、数字になったことで見えてくる貧困の実態は非常に興味深いと思います。

 

 目次は以下の通り。

序章 近代化・民主化と多様な貧困

第1章 税不納

第2章 自殺

第3章 娘の身売り

第4章 乳児死亡

終章 結論

 

 第1章は、松方財政期の「身代限(しんだいかぎり)」と「土地関連税不納」をとり上げています。「身代限」とは当時の破産や強制執行につながるもので、「土地関連税不納」はいわゆる税の滞納になります。

 松方デフレと呼ばれる松方財政前期には身代限も税不納も激増します。ところが、松方財政後期の明治23年恐慌期になると身代限は減少傾向が続くのに対して、税不納は再び急激に増加します。

 この謎について考えるのが、この第1章です。

 

 明治14(1881)年に大隈重信が下野し、松方正義が大蔵卿に就任します。インフレへの対処の必要性は誰もが認識していましたが、大隈が公債を用いて紙幣の整理を行おうとしたのに対して、松方は行財政費の節約と増税によってこれを行おうとしました。

 この松方の政策は強烈なデフレを引き起こし、米価はそれまでの半分ほどにまで下落しました。この米価の値下がりは農民を直撃しています。

 明治23(1890)年の恐慌は、凶作による米価の高騰と、企業勃興ブームの中で起こった記入逼迫が原因だと言われています。

 ただ、ここで疑問として浮上するのが米価の高騰は農民にとっては必ずしも悪くないことのはずで、それがなぜ税不納の増大につながるかということです。

 

 実際、米価の推移と重ね合わせてみると、身代限は1888年を底とした米価の高騰によって着実に減っていますが、税不納は1889年を底として1890年に跳ね上がっています(27p図1−5、1−6参照)。

 

 ここでポイントになるが、身代限は富農に多く、税不納は小農に多いという点です。

 松方デフレの初期は凶作にも関わらず米価が下落してことですべての農家が大ダメージを受けましたが、明治23年の恐慌では米価が高騰したため、売るための米を持っている富農は価格高騰の恩恵を受けました。一方で、凶作により自分たちの食べる米すら確保できなかった小農はその恩恵を受けられず、税不納が増えたと考えられるのです。

 そして、本書はこの関係を実際に計量分析で確かめています。

 

 第2章は自殺について。近年では貧困や経済危機と自殺は結びつけられて論じられることが多いですが、自殺研究の祖ともいうべきデュルケムは貧困が自殺を抑制する可能性を指摘しています。

 その後の研究では、景気後退期に自殺が増える、自殺率と失業率が正の相関関係にあると指摘しているものが多くなっています。また、戦前の日本の研究では米価が下がると自殺が減るという関係を指摘しているものもあります。

 

 本書では、現在における自殺の原因と都道府県別の自殺率を見た上で、戦前の自殺の傾向を探っています。

 まず、自殺の原因ですが、1890〜1910年代にかけてのトップは精神錯乱です。1910年頃から病苦が増え始め、1920年代になるとトップになります。「活計の困窮などという貧困が主な理由だと思われる自殺者は1880年代には多かったものの、その後は減少しています(51p図2−4、2−5参照)。

 

 貧困による自殺者は単年で最も多いのは松方財政期における1886年です。

 この時期の自殺率と第1章でもとり上げた土地関連税不納は相関するような動きを見せており(53p図2−6参照)、また、地域別の自殺率を見ると、現在は地方で高めなのに対して、1884〜92年までの自殺率は都市部で高めになっています(53p図2−7参照)。

 

 計量分析の結果からも、税不納と自殺率には強い関連が見られます。当時は税不納=即差し押さえ、公売となっており、税不納によって人生が詰んでしまうような状況が自殺をもたらしていると考えられます。

 さらに米生産高が増えると自殺が減り、米価が高くなると自殺が高くなる傾向もうかがえます。

 

 第3章は娘の身売りについて。本書の中でも最も興味深い章と言えるでしょう。

 娘の身売りが大きくクローズアップされたのは昭和恐慌期です。欠食児童と娘の身売りは農村の過酷な状況を示すものとして現在の日本史の教科書などでもあげられています。

 ただし、娘の身売りはそれ以前に行われていたことですし、男子の身売りといったものもあったといいます(時代を経るにつれ売られる男子は減り、女性が売られる傾向が強くなる)。

 

 また、日本には政府が公認した公娼制度があったことも、娘の身売りを後押ししたとも考えられます。

 東京では警視庁が公娼を管理しており、『警視庁統計書』によって娼妓の数や出身地などがわかります。

 こうしたデータから、最初は東京や新潟出身の娼妓が多かったが、1920年代になると山形や秋田出身の娼妓が増えていることなどが指摘されていました。

 

 本書では、農村の置かれた経済的な状況が娘の身売りに関係しているのではないかと考え、次の3つの仮説を提示しています。

仮説1:繭の生産額が減少すると、娘の身売りが増える。

仮説2:米の生産額が減少すると、娘の身売りが増える。 

仮説3:鉄道敷設により地方の主要駅が開業すると、発展地域では娘の身売りが減少し、その反対に後進地域では娘の身売りが増加する。(88p)

 

 仮説3については、まず東京・新潟・山形出身の娼妓数の推移を見ると、1905年ごろまでは東京がトップだったが、その後、新潟が首位に躍り出たあと減少していき、1905年頃から急激に増え始めた山形が1930年の昭和恐慌の時期に東京を押さえてトップになるという動きが見られます(84p図3−2参照)。

 昭和恐慌期には、上のと青森を結ぶ列車が「悪徳周旋業者」を通して身売りのルートになっていた様子を伝えるような新聞記事もあり、鉄道という移動手段の発達が娘の身売りを促進する要素となっている可能性があるのです。

 

 まず、東日本全体で分析すると、繭の生産額と娼妓数は負の関係にあり(繭の生産額が増えると娼妓数は減る)、米の生産額とは一貫した関係が見いだせません(90p表3−3参照)。

 仮説3の鉄道の影響については、東日本全体だと影響は見いだせませんが、当時後進的であるとされた北海道・東北6県に限ると主要駅の開業が娼妓数を増加させるという関係が見いだせます(93p表3−4参照)。

 

 さらに本章では、新潟、秋田、山形の県別の分析も行っています。

 まず、新潟ですが、新潟駅の開業は1904年です。この後の1900年代の後半に新潟出身の東京稼業娼妓数は急激に伸びています(94p図3−4参照)。

 新潟県は東北に比べて第一次世界大戦の好景気の恩恵を受けたと言われていますが、これに呼応するように10年代半ばから新潟出身の娼妓数は急激に減少しています。

 

 秋田県については、秋田駅の開業が1902年で、それまでほぼいなかった娼妓数が徐々に増えはじめます。秋田出身の娼妓数が大きく増え始めるのは1920年代半ばからであり、ちょうど繭生産額の落ち込みとともに急増しています(96p図3−5参照)。

 山形県では、山形駅の開業は1901年で、しばらくすると山形出身の娼妓数が増え始め、1920年代後半の繭生産額の落ち込みとともに娼妓数は急増しています(96p図3−6参照)。

 ちなみに1920年頃までは秋田と山形では繭生産額と娼妓数が正の関係にあるように見ええますが、これは鉄道の開業とともに、繭の供給地としての役割と娼妓の送り出し地としての役割の双方が求められたからだと考えられます。

 

 第4章は乳児死亡ですが、ここだけは日本国内の分析ではなく、国際比較になります。

 一般的に民主化が進展すると乳児死亡率が改善すると言われています。これは民主主義体制になると政府が市民の生活に関心を払うようになるからだと言います。

 また、当然ながら経済成長は乳児死亡率を低下させると考えられています。

 

 日本では、明治維新後の経済成長がありながら、乳児死亡率は第一次世界大戦後まで低下しませんでした。

 日本の乳児死亡率が低下したのは1920年代ですが、この時期は金融恐慌や昭和恐慌などの不況が続いた時代であり、経済的な豊かさが乳児死亡率の低下をもたらすという理論とは齟齬がある印象を受けます。

 そこで、政府の乳児死亡対策や、村などが中心となった愛育村などの事業を乳児死亡率低下の要因としてあげる研究もあります。

 

 この第一次世界大戦後というタイミングは、日本では大正デモクラシー普通選挙の実施と行った時期と重なっています。

 そこで、本章では今まで積み上げられた民主化と乳児死亡対策の関係についての研究を踏まえて、「民主化は短期ではなく長期的に人間開発を向上させる」という仮説を立てて、それを検証しています。

 

 結果として、民主化は乳児死亡率の長期的な減少効果があると解釈できる結果が出ています。

 ただし、この章については日本についての時系列的な分析もほしいですね。ここでは民主化の指標としてV-DemプロジェクトのPolyarchy Indexを使用しているのですが、この指標が例えば男子普通選挙の導入以降の日本の政党政治をどう評価しているのかといったことは知りたいところです(https://v-dem.net/data_analysis/CountryGraph/

で見てみたけど、戦前の日本のMultiplicative Polyarchy Indexは低いままで変化なし?)。

 

 このように、本書は日本の近代史について興味深い分析を行っている本です。特に娘の身売りと税不納については、データを分析することで、今までよりも一段と理解が深まる内容になっています。

 かなりたくさんのモデルを走らせて分析しているので、それぞれが何をしているのか混乱する部分もありますが、基本的な知見については理解しやすい形でまとまっていると思います。