ポール・コリアー『エクソダス』

 『最底辺の10億人』『民主主義がアフリカ経済を殺す』などの著作で知られる開発経済学者のポール・コリアーが移民について論じた本。

 トランプ大統領の誕生にBrexitと、移民の問題がクローズアップされる機会が続きましたが、この本の原書が出たのは2013年であり、トランプやBrexitについては論じていません。それでもいくつかの問題に関しては先取りして論じていおりますし、また、移民問題は解決したわけでものないので、まだまだタイムリーな内容となっています。

 また、「最底辺の10億人」を研究テーマとしてきた著者らしく、移民を受け入れる側だけではなく、送り出す側への影響についても紙幅をとって分析しているのが特徴です。

 著者は移民のもたらす正負の影響を分析しながら、最適な移民の規模や政策というものを探ろうとしています。

 

 目次は以下の通り。

 

プロローグ 1

第Ⅰ部 疑問と移住プロセス

 第1章 移民というタブー

 第2章 移住はなぜ加速するのか 

第Ⅱ部 移住先の社会──歓迎か憤りか?

 第3章 社会的影響 
 第4章 経済的影響 

 第5章 移民政策を取り違える 
第Ⅲ部 移 民──苦情か感謝か?

 第6章 移 民──移住の勝ち組 

 第7章 移 民──移住の負け組 

第Ⅳ部 取り残された人々

 第8章 政治的影響 

 第9章 経済への影響 
 第10章 取り残された? 
第Ⅴ部 移民政策を再考する

 第11章 国家とナショナリズム 

 第12章 移民政策を目的に合致させる 

 

 移民は、分析される前から政治化されてきた。貧困国から富裕国への人の移動は単純な経済プロセスだが、その影響は複雑だ。移民に関する公共政策は、この複雑さと折り合いをつけていかなければならない。(10p)

  これは本書のはじめの方に置かれている文章ですが、移民をめぐる意見は、まず「移民に賛成」「移民に反対」という考えがあって、それに基づいて移民の好影響や悪影響が論じられがちです。

 しかし、人口が1億人の国に10万人移民が入ってくるのと、1000万人移民が入ってくるのでは全然違うはずですし、また、その移民が文化的に見て近い地域から来るのか、まったく違う地域から来るのか、高技能の移民なのか、未熟練労働者の移民なのかによっても、その影響は大きく違うはずです。

 本書は、移民が良いのか悪いのかではなく、最適な移民政策を追求する本です。

 

 移民反対論に対する反対の多くはナショナリズムへの嫌悪と結びついていま。特にヨーロッパでは2度の大戦への反省もあってナショナリズムは警戒されており、ナショナリズムが間違っているのであれば、移民を阻止する論拠は弱くなります。

 このナショナリズムに対して著者は次のように述べています。

 アイデンティティを共有するという感覚は、国として得た富を分け合い、持てる者から持たざる者へと富を再分配する行為を受け入れやすくする。つまり、国民的アイデンティティに対する嫌悪感には、協調性が減って、より平等な社会ではなくなるという大きな代償を伴う危険があるのだ。だが多くの利点があるにもかかわらず、国民的アイデンティティを諦める必要が出てくるかもしれない。ナショナリズムが否応なく攻撃的な敵意につながるのであれば当然、それを諦めることによる代償も受け入れなければならないだろう。(17p)

 

 ナショナリズムの悪用を警戒しつつ、国民的アイデンティティの良いはたらきというものも評価していますが、このような両構えの見方は本書の至るところに見られます。例えば、移民は送り出し国にとって富を還流させてくれるかもしれませんが、同時に頭脳流出となって送り出し国にマイナスの影響を与えるかもしれません。

 

 まず、著者が問題とするのは「移住はなぜ加速するのか」という問題です。

 20世紀半ば以降の経済が順調に成長した時期、西欧各国は多くの移民を受け入れました。そして、経済成長が停滞した現在でも、移住の動きは収まってはいません。

 これは2つの理由から説明できるといいます。1つ目は送り出し国と受入国の経済格差です。確かに送り出し国のほうが高成長を続けているケースもありますが絶対的な富の水準でいえば、その差が大きく縮まっているとは言えません。2つ目は先輩移住者(ディアスポラ)の存在です。このディアスポラの存在が大きくなると、移住のコストは下がり、移住が促進されると考えられます。

 

 このディアスポラを測定するのは難しいです。彼らは移住しようとする人の手助けをしますが、中には移民先の国にほぼ同化してしまったり、母国との結びつきが弱まることでこうした機能を果たさなくなる人もいます。

 一方で、ディアスポラが大きければ移民先の文化に同化する必要性は薄くなり、母国との結びつきを維持する人は増えるでしょう。そうなればそのディアスポラを頼って移民はされに増える可能性が高いです。

 ただし、送り出し国の所得水準が受入国に近づけば移民は減少していきます。日本ではかつてアメリカやブラジルなどへ多くの移民が送り出されましたが、現在はそのような現象は見られません。

 

 では、移民は移民を受け入れる社会にとってプラスなのでしょうか?マイナスなのでしょうか?

 著者は、移民のもたらす多様性はプラスになるが、移民が「相互共感」を減少させるようだとマイナスになるかもしれないと考えています。この相互共感とは、例えば、成功した者があまり成功していない者に富を移転させる意思であり、著者は「このような移転はかなり政治化されて自由至上主義社会主義の間のイデオロギー対立に仕立て上げられてしまいがちだが、本来は人が互いをどう見ているかというところに根本がある」(59p)と言います。 

 

 また、他者に対する一般的な信頼のようなものも、共同体の歴史の中で育まれるもので(奴隷貿易が盛んだった地域は一般的によそ者への信頼感が薄い。ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン編『歴史は実験できるのか』所収のネイサン・ナン「奴隷貿易はアフリカにどのような影響を与えたか」参照)、移民が一定以上の規模になるとこうした相互共感や信頼が揺らぐ可能性があります。ロバート・パットナムの研究によれば、移民が増えると先住人口が「閉じこもり」、移民と先住人口間だけでなく、先住人口の間での信頼も低下するとのことです(72−73p)。

  (ただし、この本ではこういった議論のあとに「私がおこなう解釈は、正しくない可能性も十分にある」(76p)と予防線を張った上で、イギリスの非武装警察の伝統と移民も問題の事例をあげているのですが、ここは危うさもあり、なくても良かったようにも思える。)

   

 また、こうした一般的信頼の低下は再分配を難しくすることにもつながります。カリフォルニア州は所得の低い移民が多いものの、州自体は非常に裕福なので再分配によって問題を解決できると思われます(民主党が強い地域でもありますし)。

 しかし、カリフォルニアでは多くの公共サービスが破綻しており、学校制度のランキングでは最底辺のアラバマと並んでいます(84p)。さまざまな要因はあるのでしょうが、著者が指摘する要因の一つが移民の増加によって貧困層への共感が乏しくなったという可能性です。

 

 ただ、移民はずっと移民で居続けるわけではありません。例えば、現在のアメリカでアイルランド系の人を「移民」というカテゴリーで認識する人は少ないはずです。ディアスポラはそのままディアスポラとしてあり続けるわけではなく、その一部は移住先に吸収されていくのです。

 おそらく文化的な距離が近い移民のほうが短い時間で移住先の文化に吸収されていくでしょう。また、歴史を見ればイギリスのようにあとからきた入植者(征服者)が先住民の文化を塗り替えてしまうようなケースもあります。

 著者は文化面からは、移民と先住民の関係としては、同化、あるいは融合としての多文化主義が望ましいと考えており、分離主義を問題だと見ています。移民を一定の地域に集中させることは文化的アイデンティティを必要以上に強化することがあります。例えば、ロンドンのバングラデシュ系の移民の女性はヴェールを受け入れるようになっていますが、母国のバングラデシュではヴェールはあまりかぶられていはいません。また、移民が集中することで移民の利益を代表する政党が伸長する可能性があります(こうした政党が生まれると他の党が移民排斥のポジションを取る誘引になる)。

 

 経済的に見ると、ボージャスの『移民の経済学』でも指摘されていたことですが、基本的に移民は、受入国の富裕層にとってプラス、貧困層にとってマイナスの影響を与えます。富裕層はベビーシッターなどの移民労働者の恩恵を受けるかもしれませんが、貧困層にとっては競争相手が増えることになります。

 ヨーロッパでは、技能の高い移民が先住人口の賃金を引き上げるとの研究もありますが、住宅については需要を増やすことになり、家賃や住宅価格を引き上げます。これも貧困層にとっては痛手となるかもしれません。

 また、東アジア系の移民に関しては親が教育熱心だということもあって、成績の上位に来ます。これは悪いことではないですが、カナダでは法律などの科目で半数近くが東アジア系ということもあり、このままいけが判事の多くが東アジア系になるかもしれません。もし、これらの人々のどうかが進んでいれば問題はないですが、分離したままか彼らの文化を法廷に持ち込むことがあれば、それは問題かもしれません。 

 

 「高齢化の相殺には移民が必要だ」との議論があり、日本でもこうした意見はよく聞かれます。

 確かに、若い移民を受け入れることは一次的に労働力不足などを補うかもしれませんが、平均寿命の伸びは継続的に起こっており、対策としては引退年齢を伸ばすほうが現実的であろうと著者は考えています。また、移民は多くの子を持つ傾向があるため、従属人口という考えでいえば別の問題をもたらします。

 中東諸国のようにゲストワーカーと割り切って受け入れるケースもありますが、著者は「高賃金の民主主義国家への移民は単なる労働力の一部ではない、社会の一員なのだ」(129−130p)と指摘し、さまざまな観点に注意を払うべきだとしています。

  こうしたことを踏まえながら、移民の受け入れが利益になるかそうならないかは、受け入れる移民の数、その国の人口密度などによって異なるだろうとしています。

 

 本書では次に移民の視点から分析を行っています。貧困国から富裕国へ移住した場合、移住者の所得は上がります。単に労働者を機能不全な社会からより機能的な社会に移すだけで、その労働者の生産性は上がるのです。

 こうして移住者は利益を得るわけですが、この利益を税の形で母国に還元すべきだという議論もあります。移民による所得の向上は棚ぼた的なものでもあり、母国の貧しい同胞に還元すべきだというのです。ただし、この母国への税が母国の腐敗したエリートに吸い取られる可能性も高くいですし、移民の所得を引き下げ、彼らを二級市民の地位に押し止めるはたらきをするかもしれません。

 

 移民をするかどうかを決断するのは本人だと思われていますが、移民を投資と考えると、そのお金を出す家族の意思も大きいのかもしれません。移民を送り出す家族は多国籍企業のような存在で「多国籍家族は主に低開発国に拠点を置いて」、「余剰の労働力を富裕国へと送る」(152p)のです。

 また、ディアスポラによる家族や親族の呼び寄せもあります。この呼び寄せを認めている場合、移民のポイント制度などの効果はかなり低くなるかもしれません。

 

 先に移住した移民とっては、あとから来た移民がライバルとなります。彼らによって賃金は下がるかもしれませんし、移民に対する不寛容が高まるかもしれません。

 また、移民たちは移住によって今までよりも高い賃金を手にすることになるわけですが、トンガからニュージーランドへ移住した者を調べた結果、幸福度に関しては低下していました。経済的な成功よりも心理的なコストが大きい可能性もあるのです(167−170p)。

 

 次に来るのは残された者たちです。つまり、移民が外国に行ったあと、残された母国はどうなるのでしょうか?

 アルバート・ハーシュマンは「発言か退出か」という2つの選択肢を提示しましたが、移民は「退出」にあたるのかもしれません。ジンバブエでは大量の人々が南アフリカへの移住しましたが、その「退出」によってムガベ政権のひどい政治が続いたともいえます。

 一方、移民が移住先で民主主義に触れ、帰国したあとにそれが好影響を与えるということもあるかもしれません。マリで行われた研究では帰国した移民の投票率は高く、しかもその周囲の人の投票率もあがったそうです(179−181p)。

 ただし、スリランカのようにディアスポラが反政府組織を支援したことが混乱を長期化させたようなケースもあります。

 ともにアメリカに多くの移民を送り出している国にエリトリアカーボベルデがありますが、後者のガバナンスが良いのに対して前者は最悪に近いです。ディアスポラが母国に与える影響というのはまだよくわからない部分も多いです。

 

 近年、移民を送り出す国で心配されているのが「頭脳流出」です。その国を支えるべきエリートや医師などの専門職の人々が海外に行ってしまうケースが多いのです。

 中国では、確かに学生たちは大挙して欧米などへ渡りますが、その多くは帰国します。ある意味で欧米の教育機関を踏み台にしてるとも言えます。一方、貧困国から欧米へと渡ったエリートの中には母国の状況への失望から帰国しない者も多いです。中国などを含む途上国全体で見れば「頭脳流出」は問題になりませんが、貧しい小国から見れば、それは大きな問題かもしれません。

 

 移民の送り出し国にとって大きなものが移民が母国に行なう仕送りです。2012年に高賃金国から発展途上国へ送られた仕送り額は約4000億ドルで、国際援助資金の4倍です(200p)。ただし、これには中国に送られる500億ドル以上の金額も含まれており、中国の経済規模からするとこれはたいしたものではありません。

 ただし、ハイチは移民の仕送りが所得の15%前後を占めますし、エルサルバドルは16%、バングラデシュとフィリピンは12%とけっこうな規模になります。

 移民の規模が大きくなれば、仕送りも多くなりますが、一方で移民の壁が低くなれば移民は家族や親族を呼び寄せて仕送りをしなくなるかもしれません。

  

 以上の点などを検討しながら、著者は頭脳流出に対する補償として以下のような政策を提案しています。

 受入国政府は、教育の見返りの税収分を移民の出身国に対して支払うべきだ。補償の大まかな基準となるのが、受入国政府の教育予算の割合だ。たとえば、教育が公的支出の10%を占めるのなら、移民からの税収の10%が正当な補償と考えられる。(219p)

 

 後半で著者はもう一度ナショナリズムの問題に触れています。次の文章は皮肉っぽいですが、やはり国家の枠というものは改めて強いものです。

 欧州連合はヨーロッパ全体として収入の1%未満しか、加盟国間で再分配していない。ユーロの苦労と、「移転連合」(これは「ギリシャ人の分まで払う」と読む)という考え方に対するドイツ人の激しい反発は、アイデンティティの再構築の限界を証明している。相応な額の再分配を可能にするため、ヨーロッパ人としての共通のアイデンティティでさえ満足に築けないことを、欧州共同体は50年かけて証明した。(228p)

 

 「国民的アイデンティティは貴重なものであり、同時に許容できるものである」(233p)と述べる著者は、この国民的アイデンティティの維持や、あるいは途上国からの頭脳流出などを考えれば、移民には適切な規模(幸福な中間点)があるだろうと考えます。

 「ハイチはすでに、国外移住がメリットとなる地点をはるかに過ぎている。幸運な者は出て行くが、取り残された人々は全人類に追いつくことができないままなのだ」(263p)とあるように、多すぎる移民は受入国だけでなく、送り出し国にとってもマイナスとなります。適切な移民の規模(この本を読む限り、それは現状よりも小さい)を探っていこうというのは本書のメッセージです。

 

 いつものように著者の主張は刺激的であり、本書も面白いです。ただし、まとめで「かもしれない」を多用したように、まだ推測の部分や、限定された研究に依拠している記述も多いように見えました。確定的な事実を述べた本というよりは、刺激的な問題提起の本として読むのがよいでしょうね。