Olivia Henry / Expectations

 日本語の情報があまりないので詳しいプロフィールはわからないのですが、ロサンゼルスで活動しているシンガーで、ちょっとジャズっぽさも入ったオルタナポップという感じでしょうか。公式ページの紹介ではFlorence & The MachineやAmy Winehouseが引き合いに出されていますが、Florence & The Machineよりはジャズ、ソウルよりですが、Amy Winehouseほどソウルフルな感じはないです。個人的に似ていると思ったのはRegina Spektorですね。

 これが1stアルバムだと思うのですが、目玉はなんといっても5曲目の"Tear Me Apart"でしょう。

 


Olivia Henry - Tear Me Apart

 

 シンガーとしては正直なところAmy Winehouseと比べるほど飛び抜けたものはないと思うのですが、この"Tear Me Apart"のようなダンサブルでパワフルな曲をつくっていけるようであれば面白い存在だと思います。

 他も1曲目の"In My Touch"や6曲目の"Gotta' Run"あたりもいいですし、8曲入り30分ほどのアルバムですが聴かせる内容になっています。

 

 

パク・ミンギュ『短篇集ダブル サイドB』

 先日紹介したパク・ミンギュ『短篇集ダブル サイドA』に引き続き、もう1冊の『サイドB』も読んでみました。

 

morningrain.hatenablog.com

 

 『サイドA』はリアリズムから不条理系のSFまで、とにかくパク・ミンギュの引き出しの広さに驚かされましたが、この『サイドB』のほうもバリバリのSFこそないものの、バラエティに富んでいる。

 本書の最後に収録されている「膝」は氷河期の朝鮮半島を舞台に飢えと戦う男を描いた小説ですし(舞台となっている土地が現在の北朝鮮だというところもポイントか?)、アラスカを舞台とした「ルディ」では映画の『ノーカントリー』でハビエル・バルデムが演じた殺し屋を彷彿とさせるような人物が出てきます。

 

 そんな中でもとりわけ上手さを感じるのが、「昼寝」と「星」。

 「昼寝」は妻を亡くし、家を処分して子どもたちに財産を分け与え、地元の施設に入った75歳の男性が主人公です。主人公はそこで高校時代のあこがれの女性と再開するのですが、彼女はすでに認知症になっていました。

 このように書くとかなり切ない話に思えるでしょう。実際、切ない話です。ただし、そこに笑いを挟んでくるのがパク・ミンギュならでは。しかもその塩梅が絶妙です。

 

 「星」はアルフォンス・ドーデの「星」という作品のカバーなのですが、主人公は人生に失敗し、運転代行業をやっている中年の男です。人生への恨みつらみが述べられた後に読者に秘密が明かされて、物語は急展開します。「誰かのそばに神がいないなら……人間でもいいから、いてやらなくてはならないだろう」(203p)との一節が刺さります。

 

 「ディルドがわが家を守ってくれました」もIMF危機以降の中年男性の悲哀を描いた作品ですが、タイトルからもわかるように笑いの要素は十分ですし、最後は火星人まで登場するハチャメチャな展開です。

 「アスピリン」はソウルの上空にUFOともなんとも言えない直径10キロの巨大な白い「もの」が出現します。そのとき、その真下のオフィスビルで働くビジネスマンたちはどうするのか? という話です。

 「アーチ」は漢江の橋のアーチから身を投げて自殺しようとする人を説得するベテラン警官の話。短編なので難しいでしょうけど、ぜひソン・ガンホ主演で映画化してほしい。

 

 どちらかというとインパクトがあるのは『サイドA』だと思いますが、この『サイドB』もパク・ミンギュならでは面白さが詰まっています。余裕があれば2冊揃えましょう。

 

 

『レ・ミゼラブル』

 ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の舞台ともなったパリ郊外のモンフェルメイユを舞台にした映画で、タイトルはそこから。ミュージカル映画ではありません。

 このモンフェルメイユ、「郊外」というキーワードからピンときた人もいるかも知れませんが、ほぼ住人が移民やその子どもたちで占められている集合住宅が立ち並んでいる場所です。

 フランスの「郊外」は、2005年に北アフリカ出身の三人の若者が警察に追われ逃げ込んだ変電所で感電し死傷したことをきっかけに起こった暴動のときに注目されました。

 住民は移民や低所得者ばかりで、失業率も高く、若者が不満を溜め込んでいるといった状況がニュースなどでも紹介されていたと思います。

 では、15年ほど経った現在はどうなのか? この映画はそれを教えてくれます。

 

 主人公のステファンはモンフェルメイユに赴任してきた警官で、初日から白人のクリスとアフリカ系の移民にルーツを持つグワダと街をパトロールします。

 街には薬物の密売組織があり、売春宿があり、イスラームの教えを子どもたちに説く一団がおり、マーケットで不法なショバ代を取ろうとするゴロツキのような移民系の市長がいます。

 登場する白人はほぼ警察関係者だけで、そこには「フランス」と聞いて想像するのとはまったく違う風景が広がっています。やや強い言い方をすれば、「植民地」のような光景です。

 そんな状況の中では当然ながら警察官は横暴になります。自分たちと異質な人間を従わせることができるのは力だけだと感じているからです。一方、赴任してきたばかりのステファンはクリスたちの価値観と振る舞いに戸惑います。

 そして、サーカス(ロマの一団)からライオンの子どもが盗まれたという訴えをきっかけに、事態は緊迫していくのです

 

 まず、この映画の優れた点は映画の大部分をステファンの赴任初日の1日が占めている点です。観客はステファンとともにモンフェルメイユを知りつつ、一気に緊迫の中へと投げ込まれます。

 登場人物を説明してからドラマを動かすのではなく、どんな人間かもよくわからないままにドラマが加速していくのです。

 そして何と言っても郊外のリアルな描写が効いています。監督のラジ・リはこのモンフェルメイユ出身で今でもここに住んでいるとのことですが、「移民」といってもさまざまな立場のアクターがいることを教えてくれます。

 更にラスト、宙づり的な終わり方ですが、この映画に関してはそれも上手く言っていると思います。ラストも含めてシャープな映画ですね。

 

木下衆『家族はなぜ介護してしまうのか』

 「家族はなぜ介護してしまうのか」、なんとも興味をそそるタイトルですが、本書は、認知症患者のケアにおける家族の特権的な立場と、それゆえに介護専門職というプロがいながら、家族が介護の中心にならざるを得ない状況を社会学者が解き明かした本になります。

 本書は専門書であり、イアン・ハッキングや「概念分析」の考えを援用しながら認知症と介護について分析したりもしています。ただし、多くは分析は当事者の実際の声を拾いながら行われており、社会学の難しい概念がわからなくても介護経験者などには「わかる」部分が多いのではないかと思います。介護問題が身近になくても、対人援助職についている人などは「わかる」と感じる部分が多いのではないでしょうか。

 また章と章の間にはコラムも挟まれており、実際に介護問題に直面している人はそこから読んでみてもいいかもしれません。

 

 目次は以下の通り。

はじめに

序章 新しい介護、新しい問題

1章 認知症の概念分析へ――本書が問うもの

2章 認知症に気づく――何が、なぜ「おかしい」のか

3章 患者にはたらきかける――「より良い介護」を目指して

4章 悩みを抱える/相談する――規範を再構築する

5章 他の介護者に憤る――介護家族による「特権的知識のクレイム」

終章 新しい認知症ケア時代を生きる――悩みが映し出すもの

 

 認知症は、以前は「ボケ」「痴呆」などと呼ばれており、医療支援の対象ではあったものの、きちんとした支援を受けられるのは運がよい場合に限られており、自宅であるいは精神病院で監禁されているケースも少なくありませんでした。

 こうした状況は2000年代に入ると大きく代わってきます。2000年には介護保険制度がスタートし、01年には厚生労働省が『身体拘束ゼロへの手引き』と題した対策を発表しました。04年には「痴呆」という用語が「認知症」に変更され、「痴呆になると何もわからなくなってしまう」(11p)というイメージの刷新が図られました。

 同時に患者を個人として尊重しようとする動きも強まります。認知症患者は退行しつづけ子どもに帰っていくというような見方は退けられ、認知症患者のその人らしさを尊重し、その人の個性や今までの人生に応じたはたらきかけが重視されるようになります。

 

 これは基本的には良い流れなのでしょうが、そこでは新しい問題も登場します。

 認知症のケアのあり方の変化に大きな影響を与えた精神科医小澤勲は「患者の人生が透けて見えるようなかかわり」を求めましたが、このようなかかわりをすることができるのは誰なのか? という問題です。

 

 日本では家族による介護が広く行われています。この背景として、例えば介護保険の不十分さ、家族規範の強さ、あるいは遺産相続との関係などがあるのかもしれません。「家族規範の強さが介護保険の利用を手控えさせている」(施設よりも自宅が幸せ)という見立てはそれなりに説得力のあるものでしょう。 

 ただし、いくら介護保険を利用したとしても、介護における判断を行わなければならない「ケア責任」は残ります。「本書が明らかにするのは、私たちが新しい認知症ケア時代にあるからこそ、家族のケア責任が強化されるという事態」(27p)です。

 患者本人に寄り添った介護が理想ですが、認知症患者の意思を聞くことはしばしば困難を伴います。そこで頼りにされるのが患者の一番近くにいたと考えられる家族です。患者に寄り添うためには家族の持つ知識が必要になるのです。

 

 そして、患者本人についての知識だけではなく、家族の持つ認知症についての知識が、患者への見方や、家族の振る舞いを変えていきます。例えば、「年をとって目立ってきた怒りっぽい性格」は「認知症の症状」として理解し直されるのです。

 また、認知症を知ることで、家族は患者に対して「やって良いことと悪いこと」を知ります。この知識は規範となり、介護は道徳性を帯びてきます。

 本書では、熱心で意識の高い(新しい介護の流れを受け入れている)家族や家族会へのフィールドワークやインタビューを通じて、このメカニズムを明らかにしようとしています(第1章では理論的背景についてハッキングや概念分析の考えを使って説明されています)。

 

 第2章は「認知症に気づく」と題されていますが、実は同居している家族であってもすぐには気づかないケースも多いです。家族は「何かがおかしい」と思うのですが、その出来事の1つ1つはたいしたものではないですし、正常範囲の老化と見られることも多いです。

 

 本章では80代の認知症の女性患者Kが認知症だと気づかれる過程を追い、「何かがおかしい」が「認知症ではないか」という考えに変わる様子を分析しています。

 Kには長女と次女がおり、長女はホームヘルパー1級を持ち、次女は義母が認知症になるなど、2人とも認知症に対する知識はあるはずでした。

 Kが文字が書けなくなっていること、家のバリアフリー化に強硬に反対したことなど、それなりにおかしい兆候はあったのですが、文字が書けないのは入院による環境の変化、バリアフリー化への反対は長女が言い出したからではないか? などと解釈され、なかなか「認知症だ」との判断には至りませんでした。ここでは相手をよく知っているからこそ、おかしい行動にも説明がつけられてしまうという形になっています。

 結局、次女が説得したにもかかわらずバリアフリー化を受け入れなかった(説明したのに説明をどんどん忘れているようだった)ことから、認知症の診断を受けさせようという合意がなされます。

 そして、認知症という診断が下ると、改めて過去の出来事(例えば、夫を亡くした後に台所にゴミが散乱し始めた)も、夫の死というショックや本人の性格ではなく、認知症が原因ではないかと捉え直されるようになります。いわば過去が遡及的に構成されるのです。

 

 第3章の冒頭では、認知症になった母親の食事の介助をしている息子がやたらに大根の話をしていたエピソードが紹介されています。他にもさまざまなメニューが並んでいるにもかかわらずです。

 このエピソードの背景には「できなくなったと思っていたら、能力が眠っていたりする」(95p)という認知症患者への理解があります。この母親は施設に入所しているのですが、家族は月に1回程度の訪問で、なんとかして眠っている能力にはたらきかけようとします。そこで、息子は母親がかつてよく畑で作っていた大根に注目し、大根を使って眠っている能力を引き出そうとしているのです。

 

 こうした患者の今までの人生に着目したはたらきかけというのは他の家族の間でもよくなされています。お金を稼ぐことが好きだった夫に簡単な作業をさせてお金を渡す妻、毎日化粧をして出かけていた妻に化粧を施す夫など、過去のライフスタイルに沿ったはたらきかけがなされています。

 注目すべきはこうした患者の人生についての知識は家族にとって「特権的知識」(102p)であることです。認知症患者本人からその人の人生や好物などを聞き出すことは難しく、患者の家族に頼ることになります。専門職も患者の行動を家族の話から解釈し、また家族からの情報を元にはたらきかけを行うことになるのです。

 

 しかし、家族だからすべてにおいて適切な判断ができるわけではありません。先程の食事の介助のケースでは、昔好きだったカボチャを食べさせようとしたものの食べてくれず、職員に介助を代わってもらってから食べさせようとさせた部分が繊維質で飲み込めなかったかもしれないということに気づきます。ときには専門的な知識や技術が良い反応を引き出すこともあります。

 また、人生におけるイベントに対して患者がポジティブな印象を持っているのか、ネガティブな印象を持っているのか、といったことは家族にもわからないことがあります。家族は患者にはたらきかけながら、いわば患者の人生を再構築していくことになるのです。介護というのはこのように反省的なプロセスでもあります。

 

 第4章の冒頭では、家族会において、ある介護者が夫が夜中に「[外を]タイヤが転がってきたので見に行く」というから「それは夢やから」となだめたという話をしたところ、ベテランの介護者が「それは絶対に言うたらアカン」と注意したエピソードが紹介されています(126p)。

 認知症患者を介護する人々の間では家族会がつくられてきました。家族は患者の過去を参照しながら介護を行いますが、ときにそれは患者の過去、あるいはそのイメージに縛られたものになります。一方、家族会のメンバーは患者の過去をそれほど知りません。そこで、家族会には思い込みを相対化し、自分たちの介護を批判的に振り返る役割が期待できます。

 

 この家族会でのアドバイスは自らの経験だけではなく、一種の規範に基づいて行われます。典型的なものは「相手は認知症なのだから」と言って、トラブルの原因を患者本人の性格などにではなく、認知症という病気に求めるものです。

 そしてここから「否定しない」という規範が生まれてきます。冒頭のタイヤの話も、「妄想だと否定しても意味がない」という認識と「否定しない」という規範のもと、やや強めの口調でアドバイスが送られているのです。

 逆に感情面では「患者はわかっている」と認識されることもあります。例えば、表情などは患者もよく認識していると考えられ、「ニコニコ方式」での介護が良いとされています。

 患者の突飛な行動につい怒ってしまったり、あるいは以前の自分と患者の関係を重ねて思い悩んでしまうケースもあるのですが、家族会では「悪意のない患者」というイメージのもとで患者を受容することが求められます。ただし、これは言うは易し行うは難しで 、わかっているのについ怒ってしまいます。ここで、家族は今までにはなかった(認知症についての認識が深まらなければ内面化されなかった規範からくる)「罪」を抱え込むことになるのです。

 

  こうして介護をつづける患者の家族は新たな規範を身につけるわけですが、それゆえに周囲と衝突することもあります。そのことについて分析したのが第5章です。

 介護に熱心な家族は新たな規範を身につけるだけではなく、患者の今までの人生に対してはたらきかけるような介護を行い、患者の人生を再構成していきます。患者の人生についての知識は家族が持つ「特権的知識」であり、だからこそ専門職に対しても「わかっていない」と憤ることがあります。

 さらに他の家族に対して憤ることもあります。例えば、面会の頻度が少ない家族や親戚が認知症患者のもとを訪れたとき、意外にシャキッとしたり、昔の出来事をいきいきと語ったりすることがあります。そこで「意外と元気」「大丈夫そう」といった判断が出てくるわけですが、こうした判断は普段から介護している家族のメンバーからは「認知症にはそういうところがある」として却下されます。普段介護に関わっていない家族や親戚は、患者の人生に対する知識はあるかもしれませんが、認知症を知らないのです。

 

 終章では今までの知見が次のようにまとめられています。

 では、なぜこうした事態が生じるのか。

 それは、私たちが新しい認知症ケアの時代に生きているからだ。新しい認知症ケアの考え方のもとでは、患者たちは、介護者たちの「はたらきかけ」次第で、患者たちの症状が改善することが強調される。そしてそのはたらきかけの際に重視されるのが、患者の「その人らしさ(personhood)」を徹底的に重視することだった。患者個々人のライフヒストリー、すなわち人生は、介護に関与する多数のアクターの中でも、特に介護家族が知っていると想定される。

 つまり患者の人生は、介護家族にとって一種の「特権的知識」となる。だからこそ、介護家族は「患者が何を望んでいるのか」「現在が過去と比べてどういった状態か」「介護サービスはどのように提供されるべきなのか」などを、しばしば判断することになる。介護における重要な責任を、いわば自ら背負い込んでいくのだ。(187p)

  これがタイトルの「家族はなぜ介護してしまうのか」に対する答えです。

 

 こうなると、「じゃあ、どうすればいいのか?」という声があがると思いますが、この処方箋はなかなか難しいです。患者の個性に応じてはたらきかけるような介護をやめれば問題は解決するのかもしれませんが、そう割り切れる人は多くないでしょう。

 著者は最後に家族に「このスタイルの介護の理想を完全に実現するのは不可能だということ」、「他の介護者と意見がしょうとするのはしょうがないということ」という2つのメッセージを送っています。

 答えとしてやや物足りなく感じる人もいるかも知れませんが、問題の構造を考えると妥当な答えなのでしょう。

 

 このように、本書は介護をしている家族へのメッセージを持った本ですが、同時に、問題解決のための新たな概念の獲得が新たな認識と新たな問題を呼び込む項王を分析した本としても面白く読めると思います。ここでの紹介では理論的な考察や先行研究への言及についてはそれほど触れませんでしたが、そうした部分もきちんと書かれています。  

 ページ数(240ページほど)も価格(2300円+税)も手頃ですし、介護問題に興味がある人、対人援助職の人、社会学に興味がある人、そして介護に直面している人にと、多くの人に薦めることができる本です。

 

 

『名もなき生涯』

 テレンス・マリックオーストリア出身で第二次世界大戦中に良心的兵役拒否を行ったフランツ・イエーガーシュテッターについて描いた映画。自分はこの映画までイエーガーシュテッターのことを知りませんでしたけど、殉教者としてカトリック教会から列福された有名な人なのですね。

 

 テレンス・マリックの戦争をテーマとして映画といえば、何と言っても『シン・レッド・ライン』なわけですが、『シン・レッド・ライン』のような戦場は描かれませんし、映画としてもあまり似てはいません(ヒトラーを写したフィルムが使われているんだけど、ヒトラーと山荘から見える自然の風景が交互に流される部分とかは『シン・レッド・ライン』っぽかったですが)。

 似ているのは『ツリー・オブ・ライフ』ですね。

 

 『ツリー・オブ・ライフ』は、神の許可を受けたサタンによって財産を奪われ重い病気にもされたヨブについて書かれた旧約聖書の「ヨブ記」をモチーフにした映画で、神の恩寵が届かない世界でも神を信じることができるのか? といったことが問われていましたが、本作もまさにそれがテーマになっています。

 普通、イエーガーシュテッターのような人物を描く場合、「なぜ彼はそのような考えい至ったのか?」という部分が注目されるのではないかと思いますが、テレンス・マリックはそこをほぼ描かず、周囲からの説得や迫害に動じず、頑なに善を貫こうとするイエーガーシュテッターと苦悩する妻の姿を追います。

 途中、「神についていけない」、「世界は変わらない」といったセリフが登場し、第2次世界大戦中のオーストリア(ドイツに併合されている)が恩寵から見放された場所であることがしばしば示されるのですが、それでもイエーガーシュテッターは自分が正しいと思う道を進もうと思うのです。

 

 第2次世界大戦における良心的兵役拒否者を描いた映画としてはメル・ギブソンの『ハクソー・リッジ』がありますが、『ハクソー・リッジ』の主人公のデズモンドは神の恩寵を疑っていないですし、監督自身も神の恩寵を信じているのだと思います。

 一方、本作は「神の恩寵はないのかもしれない」という疑いが常に差し挟まれています。イエスは十字架上で「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか」と叫んだとのことですが、それに通じるような「恩寵の不在」に対する切迫した叫びのようなものが映画の通低音となっています。

 

 映像は相変わらずきれいですし、テーマ的にも面白かったですが、テレンス・マリックらしくストーリーを追うタイプの映画ではないので見る人を選ぶでしょう。

 あと、主人公は英語を話すんですけど、ドイツ語も使われていて、それはだいたい主人公を罵倒するときに使われていて字幕もつかない。これはちょっと問題があるようにも思えました(英語かドイツ語に統一すべきだったと思います)。

 

佐藤卓己『『キング』の時代』

 『キング』というと関東大震災以後の大衆文化を代表するものとして日本史の教科書にも登場しています。ただし、100万部を売ったということが紹介されているだけど、その具体的な中身や人気の秘訣については知らない人も多いと思います。

 そんな『キング』について、『言論統制』『ファシスト的公共性』などで知られる佐藤卓己が持ち前の調査力を発揮して論じた本。原著は2002年の出版ですが、今回岩波現代文庫に入りました。

 

 「はじめに」に、

 たしかに「政治的正しさ」のアリバイ作りとなるファシズム研究=批判は量産されたが、自らがファシストになる可能性まで念頭においた研究はどれほど存在するのだろうか。(xii p)

 国民国家批判をつきつめれば「一億遭難民化のススメ」に行く着くが、幸福な難民はおそらく一部の強者にすぎない。弱さの糾弾は、強者のみを正当化する政治に至る。それこそが、ファシズムとは言えまいか。(xii〜xiii p)

といった言葉が並んでいることからもわかるように、非常に力のこもった本です。

 

 目次は以下の通り。

1 講談社文化と大衆的公共圏

第1章 マス・メディア誕生
第2章 講談社文化と岩波文化
第3章 「大衆」の争奪戦

2 『キング』の二つの身体

第1章 野間清治の立身出世主義

第2章 『キング』への道
第3章 「雑誌報国」か「積悪の雑誌王」

3 「ラジオ的雑誌」の同調機能 

第1章 「くち・コミュニケーション」の企業化

第2章 「ラジオ読者」の利用と満足
第3章 『キング』レコード

4 「トーキー的雑誌」と劇場的公共性 

第1章 「ラジオ的雑誌」のトーキー化
第2章 「雑誌報国」と「映画国策」
第3章 「日刊キング」と戦争ジャーナリズム
5 『キング=富士』のファシスト的公共性 

第1章 雑誌の黄金時代?
第2章 「読書の大衆化」と「大衆の国民化」
第3章 「精神弾薬」と思想戦

結 国民雑誌の戦後 一九四五-一九五七年

第1章 「戦犯雑誌」のサバイバル

第2章 国民雑誌の限界
おわりに―国民雑誌の終焉

 

  このように5部仕立て500ページを超える本なので、ざっくりと紹介していきたいと思います。

 

 第1部の冒頭に1924年に創刊された『キング』の発売前の宣伝の広告文が載っていますが、とにかく大げさで、最初から「国民雑誌」を狙っていたことがわかります。『キング』は新聞広告をはじめとしてポスターやちんどん屋なども使って徹底的な宣伝が行われました。

 宣伝では「面白い」という要素とともに「此の国に生まれ、この国に育ち、限りなく恵まれたる生の喜びを享受せしめようとする道義的観念を含ませてゐる」(4p)と書かれており、面白さと道徳性の両立が図られました。

 また、当時は「大衆」という言葉が使われだし、その存在に注目が集まった時期とも重なっており、『キング』はまさに「大衆」をターゲットに創刊されました。

 

 この『キング』の下地にあったと考えられるのが、当時多くの部数を誇っていた婦人誌でした。絵などを使った表紙、附録、実用的知識といった要素は婦人誌から『キング』へと受け継がれていきます。

 階層的には今までの読者層よりも「下」を狙っており、安価であると同時に総ルビであるなど読みやすさが追求されました。地域的にも都市部よりも郡部に広がりを見せており、朝鮮半島などの植民地でも広く読まれました。

 

 『キング』を刊行した講談社文化と対置されたのが岩波文化ですが、岩波書店は婦人誌や少年誌を持ちませんでした。そのために岩波は知識層には強くても大衆に弱かったわけですが、一方、『キング』は大学生にも浸透しており、『キング』のイデオロギーとも言える立身出世主義は大衆だけではなく、知識層にも通じるものでした。ここから著者は「講談社文化(大衆)VS岩波文化(知識人)の図式に疑問を呈しています。ちないに野間清治岩波茂雄も元教師であり、「教化」という点では共通しているといいます(74p)。

 

 新しく登場した「大衆」に対して、プロレタリア文化運動もその獲得を目指します。総合雑誌の『改造』は「左翼バネを使って部数を急上昇」(76p)させました。しかし、知識人の間では流行したプロレタリア文化運動も大衆への浸透では『キング』に遅れを取りました。

 『ゴー・ストップ』というプロレタリア大衆小説を書いた貴司山治は、小林多喜二の『蟹工船』について、「小説中に描かれているやうな漁夫や水夫の間に持込んだら果たして読むだらうか? 恐らく読まないだらう。理解することができないだらう」(86p)と述べ、キング的な大衆化の必要性を訴えましたが、蔵原惟人は「所謂大衆文学、通俗小説の形式と、封建的町人及びブルジヨア的小市民の世界観、或ひは世界観であるところの英雄崇拝、安価なるヒロイズム、義理人情、伝奇的趣味、物事に対する非論理的な態度等と切り離して考へることはできない」(91p)と、貴司の主張を切って捨てました。

 結局、左翼陣営は「大衆か? 芸術か?」という問いに答えを出せないままに、大衆の獲得に失敗するのです。

 

 第2部では講談社をつくった野間清治の人生とともに『キング』の性格が検討されています。

 荒木武行『人物評伝 野間清治論』には「日本には文部省が二ツある。一ツは大手町にあり、一ツは駒込坂下町にある。一は官立であり、他は私設である。(中略)野間大臣は政変なく、永劫に保証せられたる大臣の椅子によりて新聞と雑誌王国を統制してゐる」(111p)との記述があるそうでうが、メディアの世界においてそれほどまでの影響力を持った人物でした。

 

 野間清治1878年群馬県に生まれ、小学校の臨時雇代用教員となりました。そこから前橋の師範学校に通い、1902年には東京帝国大学文科大学臨時教員養成所に入り、中等教員国語漢文科免状を受けました。

 その後、月給が高いということで沖縄に赴任しましが、ここでは遊郭から毎日酔っ払って出勤するような堕落した生活を送っていたようです(教えを受けた徳田球一の回想がある(118p))。この生活を改めるために野間は妻として服部左衛子を迎え、東京帝国大学法科大学首席書紀のポストに就きます。

 

 野間が出版の世界に入るにあたってまず手掛けたのが1910年に創刊された演説雑誌『雄弁』でした。この『雄弁』には東京帝国大学法科大学首席書紀のポストになったことで得た人脈が活かされていますが、逆に言うと学歴重視の雑誌でもありました。著者は「しかし、日本の雄弁会が一人の「ヒットラー」を生まなかった理由は、あるいは『雄弁』にも見られた学歴主義の限界から説明できるのではあるまいか」(137p)と述べています。

 さらに1911年、野間は講談社の看板を掲げ、『講談倶楽部』を創刊します。当初は返品の山となりますが、小説家を動員して講談の題材を文章化する「書き講談」のスタイルが確立すると、部数を伸ばしていきます。吉川英治もこの『講談倶楽部』の懸賞で一等を獲り(189p最初は吉川雉子郎名義)、後に国民的な作家となりました。

 さらに野間は『少年倶楽部』、『面白倶楽部』、『婦人倶楽部』、『現代』、『少女倶楽部』といった雑誌を創刊させていきます。学生からはじまった講談社(大日本雄弁会)の読者層は、階層的にも下へ、そして年齢的にも下へと拡大していくのです。 

 

 このように各年齢層への雑誌を出した後、「階級、年齢、性別を超越した国民統合メディア」(164p)として『キング』は構想されます。野間は各雑誌の読者を引っ張ってくることができるのあらば75万人程度の読者が獲得可能だと考えていました(165p)。

 この構想に関して、著者はゲッベルスの「〜ためのラジオ」はありえず「ラジオは常にただ一つ、ドイツ国民のために存在する」(166p)という言葉を引きながら、『キング』の特性を「ラジオ的」と位置づけています。

 『キング』創刊後、講談社は『幼年倶楽部』を創刊し、キングに迫る部数を発行しました。

 

  『キング』の成功とともに、野間は多くの自己宣伝本を出版します。『キング』を貫く思想の1つが立身出世主義でしたが、野間は自らこそがそれを体現する人物だとして自らを売り出したのです。

 こうした野間を、宮本外骨は「ヤシ的人物」として厳しく批判しましたし、右翼的なスタンスをとる野依秀市からも厳しく攻撃されました。

 一方、野間は自らの立身出世を再生産するかのごとく講談社少年部をつくり、小学校を卒業した少年たちを入社させました。野間は彼らをヒトラー・ユーゲントのような分隊に分け、勉強と剣道を日課にさせるとともに、書店への宣伝などに当たらせました。松浦総三は野間の姿を創価学会池田大作に重ね合わせています(218p)。

 

  第3部では、『キング』をラジオと重ね合わせながら分析がなされています。

 『キング』の創刊とラジオ放送の開始はほぼ同時でした(ラジオ放送の開始は1925年)。当時のラジオは少し前までのインターネットと同じように大きな期待がかけられており、ラジオによって新聞はなくなり、大学の講義もラジオに置き換わるとの予想もありました(このあたりに関しては佐藤卓己『ファシスト的公共性』のレビューで詳しく紹介しました)。

  著者はこうした『キング』の「ラジオ的雑誌」の側面を、「音読文化の現代化」あるいは「くち・コミュニケーションの企業化」として考察しています。雑誌を音読するというのは今からするとあまり想像できませんが、投書には老人や子どもに『キング』を読み聞かせているというものがいくつもあります。

 また、『雄弁』から始まったことからもわかるように野間は演説を重視しており、常に大衆的な公共性を志向していました。そして、『キング』と同じく大衆的な公共性をつくり上げるメディアがラジオだったのです。

 

 ラジオが「ながら聴取」が可能だったように、『キング』も気晴らし的に読まれました。1932年にラジオの受信契約数は100万件を超え『キング』に肩を並べます。そうした中でラジオ放送で人気を得たのが浪花節でした。そして、『キング』の誌面でも同じように浪花節は大きな存在感を占めていました。

 また、ラジオは視聴者に対して一方的にメッセージを送るメディアでありながら「参加の感覚」がありました。『キング』もまた、この「参加の感覚」を重視し、寄稿欄や投書欄、懸賞を充実させていました。

 さらに野間はキングレコードをつくり、レコードの世界にも進出します(当時、レコードは出版物だった)。はじめのうちは「健全なる歌」を強調する路線は受けませんでしたが、満州事変が勃発して時代の雰囲気が変わるとキングレコードは黒字化し、雑誌、レコード、映画などのメディアミックス戦略を取るようになります。

 

 1930年代はトーキー映画が普及し人気を博した時代でもありました。第4部ではこのトーキー映画と『キング』の関係、そして戦争とのかかわりを見ていきます。

 映画が人気を得るようになると、映画会社は『キング』に連載されていた読み物にその原作を求めます。挿絵をふんだんに使っていた『キング』の読み物は映画の原作として最適だったのです。一方、映画(活動写真)の観客を『キング』が奪ったという面もあるようで、投書などからは『キング』が活動写真よりもよいものとみなされる風潮があったことも見えてきます。

 

 映画の普及とともに、『キング』の誌面には「映画小説」あるいは「誌上映画」と呼ばれるものも登場します。これは小説や浪曲の一場面を映画スタッフが撮影するものです。

  こうした映画、特に剣戟映画の流行について、著者はそれが知識人をも惹きつけたことに注意を向け、こうした剣戟映画による精神的解放と全体主義による精神的解放を重ねた中谷博の議論などを紹介しています(304−305p)。

 1931年になると講談社に巡回映画班が組織され、全国での教育映画の無料公開などを行うようになります。さらに講談社は野間の死後の1940年にトーキー映画の制作を行っています。

 この映画について触れた第4部第2章に関しては、野間清治小林一三の対比なども行われており、そこも興味深いです。小林は雑誌の対談の中で野間に対して「さうすると、浪花節を利用して、教育をやるのと同じことですね」(316p)と述べるなど、両者の方向性は随分と違うのですが、二人とも1937年に設置された内閣情報局の参与となるなど、この時期の国家とメデイアを考える上のでのキーパーソンとなります。

 

 野間は1930年から『報知新聞』の経営にも取り組んでいます。『報知新聞』は伝統ある新聞でしたが、『東京朝日』、『東京日日』の東京進出、『讀賣新聞』の台頭により部数を減らしていました。その劣勢を跳ね返すために迎え入れられたのが野間です。 

 野間は『キング』と同じように「安心して家庭に入れ得る新聞」(331p)を目指して、センセーショナルに陥らないような紙面づくりを目指しましたが、満州事変以降の時局の変化の中でこの路線は失敗します。

 一方、『キング』でも戦争報道、戦争についての報道写真が増え、国際情勢をあらわした附録の地図などがつくようになります。また、国策に沿った誌面づくりをしていた『キング』は出征中の兵士の間でも広く読まれていました。

 日中戦争が始まっても『キング』は500頁以上を維持しており絶好調でしたが、そうした最中の1938年10月に野間清治は亡くなります。1ヶ月後に息子の恒も急死し、講談社は報知新聞の経営から身を引くなど組織改革を行うのです。

 

 しかし、野間清治の死によっても『キング』は失速しませんでした。第5部では1940〜45年の『キング』(途中で『富士』に雑誌名を変更)がとり上げられていますが、戦時中でも『キング』は好調でした。

 一般的に、二・二六事件や盧溝橋事件の頃から言論や出版の自由は逼塞したようなイメージがありますが、1937〜40年にかけて出版物の刊行点数はうなぎのぼりに増えています(375−376p)。日中戦争とともに雑誌の臨時増刊号も相次いで発行され、「出版バブル」ともいうべき状況だったのです。

 『キング』(『富士』)も1943年まで100万部を維持しており、しかも定期購読が普及したことから経営もより安定しました。1944年という敗戦色が強まった時期でさえ、講談社は193万円以上の利益を上げ、90万円を株主配当に当てていました(385p)。

 

 内容面では『キング』も国策職を強め、総合雑誌化していきました。「大衆雑誌は修身の教科書ではない筈だ」(400p)との批判も出ましたが、それでも『キング』は売れ続けました。講談社雑誌の年間発行部数の戦前ピークは1942年です。

 1941年の『キング』の目次を見ていきながら、著者は「この目次を年表を横に眺めれば、あたかも日米開戦へ向けた一連のシナリオが出来ていたかのごとき感想さえ抱くだろう」(407p)と述べています。

 1943年の3月号からは『キング』は『富士』に改名されますが、これは当局の支持ではなく自主的なものと見られます。このころから誌面も変わり始めます。紙不足や輸送力不足などによりページ数が減り、小説欄や広告欄が縮小されます。

 1945年4月号の論説では「名誉欲権勢欲」「金銭欲出世欲」を捨て、「正宗の名刀一本に帰へれ」と書かれていますが、これに対して著者は「ここで否定された「名誉欲権勢欲」「金銭欲出世欲」、つまり立身出世主義こそ、野間イズム、「キングの精神」であったとすれば、ここに『キング』の魂は玉砕したと言えよう」(423−424p)と述べています。

 

 さらに第5部では『ファシスト的公共性』でもとり上げられていた、「公共性」の問題がとり上げられています。「公共性」という言葉に関しては、ハーバーマスが打ち出した「市民的公共性」というユートピア的な「規範」が「あたかも歴史的「実体」概念」であったかの如く論じられることが多い」(425p)のですが、著者が注目するのは「市民」の枠には入らなかった「大衆」の「公共性」です。民主主義において参加が重要なのであれば、ファシズムもまさに「参加」を重視しており、「ヒトラーは「黙れ」といったのではなく「叫べ」といった」(426p)のです。

 著者は戦前の日本において、「大衆的公共圏」が「市民的公共圏」を飲み込んで「国民的公共圏」を形成する過程を『キング=富士』の中に見出しています。

 

 最後の「結」では戦後の『キング』が描かれています。国策雑誌の様相だった『富士』ですが、1946年新年号からは再び『キング KING』となり(アルファベットが入った)、発行は続けられました。1945年12月号でも『富士』は50万部を維持しており、著者はGHQも「占領政策に不可欠な大衆メディアとして「意図的な見逃し」が行われた可能性も否定できない」(453p)と述べています。

 誌面から軍人は消えましたが、作家たちは戦前・戦中から連続していましたが、軍人の評伝に代わってマッカーサーの評伝が連載されました。

 

 しかし、講談社の雑誌は徐々に細分化していき、またテレビの普及はメディア環境を決定的に変えていきます。そうした中で読者層は地方の義務教育だけを受けた層、つまり創刊当初の層へと限定されていきます。高学歴者の興味を引きつけることはできなくなっていったのです。

 そして1957年の12月号で『キング』は終刊となります。後継誌の『日本』も失敗し、「国民的雑誌」は姿を消すのです。

 

 ざっとまとめる予定だったのでうが、けっこうなボリュームになってしまいました。それだけ中身の詰まった本です。

 ここで書かなかった部分以外にもさまざまなメディアの動向についての目配せがあり、『キング』の歴史だけにとどまらず、戦前・戦中・戦後のメディア史としても面白く読めると思います。

 2022年度から始まる高校の「歴史総合」の科目では、「近代化」「大衆化」「グローバル化」の3つがキーワードとしてあがっていますが、個人的に一番とらえどころがないと思うのが「大衆化」。実際に授業でどう消化されるべきなのかはわかりませんが、日本における「大衆化」を考える上で本書は非常に有益な本であるとも感じました。

  

ルーシャス・シェパード『タボリンの鱗』

 一昨年に刊行されて面白かった『竜のグリオールに絵を描いた男』と同じく、全長1マイルにも及ぶ巨竜グリオールを舞台にした連作の続編。今作では「タボリンの鱗」と「スカル」の2篇を収録しており、どちらも中篇といっていいボリュームです。

 グリオールは魔法使いによって長い眠りについているのですが、まだ死んではいません。そして、眠りながらも周囲に住む人々に大きな影響を与えているという設定で、そのグリオールに運命を翻弄される人びとの姿を描いています。

 

 まず「タボリンの鱗」ですが、ジョージ・タボリンという貨幣学者がふとしたことで手に入れた竜の鱗によって娼婦のシルヴィアとともに、その不思議な力によってタイムスリップ(?)します。

 そこにはまだ小さい若きグリオールが飛び回っていて人びとを追い立て、ジョージとシルヴィアにも原始的な生活を強制させます。前作では不思議な力によって人びとの運命が歪められていましたは、この「タボリンの鱗」では物理的な力で追い立てられています。

 この作品はラスト近くのグリオールの復活劇が圧巻で、まさにクライマックスという感じです。そして、その後のエピローグ的部分で妙に舞台設定が現代世界に近づくので、「なぜ?」と思ったら、その謎はつづく「スカル」で解けます。

 

 「スカル」はグリオールが死んだ、というか完全に解体された後の世界。

 そして、舞台はほぼ現実世界であり、時間的にも現代に近いです。テマラグアという中米の架空の国が舞台ですが、著者が「作品に関する覚え書き」で書いているように、ニカラグアをモデルにしています。

 アメリカ人の青年スノーは、この国で不思議な魅力を持つヤーラに出会います。ヤーラはグリオールの頭蓋骨と言われているものを中心に集めっている新興宗教の教祖の幼な顔も持っており、恐怖心を覚えたスノーは一旦そこを抜け出し、テマラグアからも出国します。

 

 数年後、テマラグアではPVOと呼ばれる政治組織が進出し、反対する人びとを拷問し、暗殺するなどのテロルを行い、権力を掌握しつつありました。スノーはたまたま目にしたテマラグアで新興宗教の集団が姿を消したという記事から、ヤーラを思い出し、再びテマラグアへと向かいます。

 そこでスノーは形を変えたグリオールの災いのようなものを経験するわけですが、ここで著者がグリオールを使って描きたかったものが見えてきます。

 著者のルーシャス・シェパードは作家としてデビューするまでにフリージャーナリストとしてエルサルバドル内戦などを取材したもしており、中米でのさまざまな残虐行為を肌で感じ、それが何故起こってしまうのか? ということに疑問を持っていたのでしょう。本作では、その人びとや社会が狂っていく様子がグリオールという架空の存在を使って描かれています。

 ファンタジーというジャンルに分類されるであろうこの連作ですが、本作に関してはかなり毛色が違っています。

 

 前作から面白く読み進めてきたシリーズですが、まさかこんな形になるとは思いませんでした。このジャンル的なお約束を打ち破って展開するストーリーのドライブ感は魅力的ですね。

 このシリーズにはもう1篇「Beautiful Blood」という作品があるそうなのですが、それもぜひ読んでみたいですね。