マイケル・オンダーチェ『ディビザデロ通り』読了

 読み終えたときに、静かな感動と「つづきはないの!?」という欲求不満の2つを抱く小説。
 詩と小説の中間のような文章で、コラージュのような形でストーリーを進めていくオンダーチェの作品。ところが、この作品は途中まではオンダーチェにしてはめずらしく、かなりふつうに進んでいく小説なのです。
 田舎の農場で暮らすクープとアンナとクレアの兄妹。ところがこの3人に血の繋がりはなく、クープは幼い頃に親を殺され引き取られた少年、そしてアンナは生まれると同時に母を失い、その代わりなのか父親は同じように出産で命を落とした母親の娘・クレアを引き取ります。
 人里離れた農場での父、クープ、アンナ、クレアの生活はやがて暴力的な破局を迎え、クープは天才的ないかさまを行うギャンブラーとなり、クレアは弁護士の調査員、そしてアンナはフランスに渡りリュシアン・セグーラという作家の研究を行うようになります。
 この3人の話、特にさすらいのギャンブラーとなるクープと、偶然の再会を果たすクレアの話は、まるでポール・オースターのように大きく展開する話で、少し『偶然の音楽』なんかを思い出しました。


 ところが、このものすごく面白い話は途中で放り出されてしまうのです。
 代わりに語られるのが、アンナが調べていたリュシアン・セグーラという晩年をフランスの片田舎で隠遁していた作家の話。リュシアンの晩年の放浪、子供時代、隣に住んでいたロマンとマリ=ネージュの話。
 正直、最初は「早くクープの話に戻らないか」と思っていたのですが、読み進めるにつれ、クープとアンナとクレアの関係とリュシアンとロマンとマリ=ネージュの関係が重なり、前半と後半が共振しはじめます。形としては三角関係ですが、いわゆる愛と嫉妬のようなものとはちがい記憶の中に折り込まれていく関係といったものが語られていくのです。
 なかなか、一筋縄ではいかない小説ですが、次の2つの文章はこの小説のテーマのようなものを表していると言えるでしょう。

 わたしたちのなかには他人が隠れている。短期間しか知らなかった人でさえ隠れていて、わたしたちは死ぬまでそれを抱えつづける。国境を越えるたびに、それを自分の中に封じ込める。(22p)

 「人が真実によって滅ぼされないように」とニーチェは言った。「われわれには芸術がある」なぜなら、ひとつの出来事が起きたという事実そのものは、けっして消え去ることがないからである。(316ー317p)


ディビザデロ通り (新潮クレスト・ブックス)
Michael Ondaatje 村松
4105900730