Ex:Re/Ex:Re

  DaughterのボーカリストElena TonraがEx:Reという名義でリリースしたソロアルバム。昨年の年末に出ていたようですが、今年に入ってから気づきました。

 “Ex:Re” の名前は「Regarding ex (元カレについて)」と「X-Ray (レントゲン)」に由来しているそうで、Elena Tonraの失恋などが影響しているのか、アルバムのトーンは全体的にダークな感じです。

 Daughterというと、Igor HaefeliのギターとElena Tonraの声が売りなわけですが、今回はElena Tonraのソロということで、ギターはそれほど目立ちません。ただ、その分リズムに関してはかなり凝っていて、Daughterとはまた違った魅力的な音をつくり出していると思います。

 特に4曲目の"Romance"は暗めのメロディでありながら、リズムとアレンジで徐々に盛り上がっていくという6分を超える曲で、これはいいと思います。

 全体的に抑制されてはいるのですが、随所にエモさがかいま見えるところがこのアルバムを通しての良い所。6曲目の"Too Sad"なんかも、一定の枠内に閉じ込められたような激しさがあって聴きどころとなっています。

 かなり抑制された曲がつづく中で、エネルギーが解き放たれているのが8曲目の"I Can't Keep You"。ギターもこの曲では目立ってますね。

 全体的になかなかいいアルバムであり、Daughterの次回作も非常に楽しみになってきました。

 


Ex:Re - Romance

 

 

待鳥聡史・宇野重規編著『社会のなかのコモンズ』

 2月28日に東京堂書店で刊行イベントがあり、ちょうどその日に読み終わっていたのですが、仕事が忙しかったりウィルス性の胃腸炎になったりで、読了後1月弱たってからの紹介になります。

 というわけで、以下はやや大雑把な紹介になりますし、また、イベントで聞いた話も受けてのまとめになっています。

 目次は以下の通り

1 歴史のなかのコモンズ

第1章 コモンズ概念は使えるか―起源から現代的用法(宇野重規

第2章 近代日本における「共有地」問題(苅部直

2 空間のなかのコモンズ

第3章 衰退する地方都市とコモンズ―北海道小樽市を事例として(江頭進)

第4章 コモンズとしての住宅は可能だったか―一九七〇年代初頭の公的賃貸住宅をめぐる議論の検証(砂原庸介
第5章 保留地というコモンズの苦悩(田所昌幸)

3 制度のなかのコモンズ

第6章 コモンズとしての政党―新たな可能性の探究(待鳥聡史)

第7章 脱領域的コモンズに社会的コモンズは構築できるか(鈴木一人)
第8章 ミートボールと立憲主義―移民/難民という観点からのコモンズ(谷口功一)

 

 まず、目次を見てもらえばわかるように執筆陣は非常に豪華です。政治学の分野を中心に現在活躍している書き手が揃っています。

 ただ、政治学とコモンズという組み合わせにはあまり馴染みがないかもしれません。コモンズといえば経済学で出てくる「コモンズ(共有地)の悲劇」がまず思い浮かびますし、人によっては法学者としてサイバー空間のルールについて活発な発言をしているレッシグの『コモンズ』を思い出すかもしれませんが、政治学の分野でコモンズという言葉が出てくることはそれほど多くない印象を受けます。

 

 一方、政治学の分野でよく語られる言葉は「公共性」です。実は意外と英語には翻訳しにくい言葉だということですが、政治学ではよく使われる言葉であり、90年代後半以降の1つのキーワードと言えるかもしれません。

 そして、この本の副題は「公共性を超えて」となっています。「「公共性」では捉えられない何かを「コモンズ」という言葉でならばうまく捉えられるのではないだろうか?」というのが本書の狙いと言えるでしょう。

 

 まず、第1章の宇野重規「コモンズ概念は使えるか」では、「コモンズ」の概念を振り返りつつ、レッシグネグリとハート、ジェレミー・リフキンというまったく立場の違う3人の論者が「コモンズ」という言葉を使っていることに注目しています(ネグリとハートは「コモンズ」ではなく「ザ・コモン」と表記してる)。

 「公共性」は人と人との結びつきに焦点を当てていますが、「コモンズ」は具体的なものを介した人間の結びつきを重視しており、そこに1つの可能性があると考えるのです。

 

 日本人が「共有地」と聞いて思い浮かべるのが、入会地でしょう。第2章の苅部直「近代日本における「共有地」問題」では、その入会地の問題をとり上げています。

 村のメンバーによって保全され、村のメンバーが利用できる入会地はまさしく「コモンズ」と言えるかもしれませんが、明治になり共同体としての村が解体され、村が行政区画として再編成されていくと、この入会地の維持は難しくなっていきます。

 この章では、そうした状況に対する柳田國男中田薫、そして戒能通孝の考えと取り組みを紹介しています。特に戒能は入会地をめぐる紛争(小繋事件)に大学教授の職を辞して関わった人物で、彼の議論と行動は「コモンズ」を考える上で参考となるものです。

 

 ここから第4章の砂原庸介「コモンズとしての住宅は可能だったか」にとびますが、住宅が「コモンズ」だというと多くの日本人は首をひねるかもしれません。この章のタイトルが「可能だったか」という疑問形になっているからもわかるように、日本人の感覚では住宅は個人の資産であり、個人が建て、個人が処分するものでしょう。

 ただ、マンション、さらには大規模な団地というと「コモンズ」のイメージが湧いてくるかもしれません。マンションのエレベーターや駐車場などの共有部分、団地の公園などはまさに「コモンズ」だと言えます。これらのものはみんなで維持していくことで、みんなの利益となり、さらに後続の世代へと引き継ぐことができるからです。

 後続の世代へと引き継ぐということからすると、一戸建てなども本来ならば「コモンズ」と考えてもいいのかもしれません。ところが、日本では中古の住宅市場が整備されていないことや新築への補助の手厚さもあって、住宅は新築し、寿命がきたら取り壊すものとなってしまっています(この辺の事情は著者の『新築がお好きですか?』を参照)。

 この章では、70年代初頭に公営住宅に対する応能家賃(住んでいる人の給与に応じて家賃が変化する仕組み)の導入の失敗に注目し、それが公営住宅の住人の入れ替えを阻むとともに、公営住宅建設を抑制していった流れを追っています。公営住宅を多くの人々が利用する「コモンズ」とする可能性はここで一度潰えたのです。

 

  第6章の待鳥聡史「コモンズとしての政党」でとり上げられている政党も、一般的な感覚だと「コモンズ」だとは思わないでしょう。「不偏不党」という言葉があるように、「党」というのは自分たちの私的な利益の実現を目指す集団であり、「党派性」という言葉は公共的なものと対立すると考えられるからです。

 しかし、20世紀末以降、経済的利益の配分を目指すスタイルの政党はその運営が難しくなっており、新たなスタイルが模索されています。著者は今後の政党に求められる機能として、政策についての情報を縮約して伝える機能と政治家をリクルートする機能をあげていますが、この2つの機能が中心であれば政党はコモンズ足りうるかもしれません。

 著者は党員にそれほど忠誠も求めないアメリカ型の政党を1つのモデルと考えていますが、アメリカの政党も現在うまく機能しているとは言い難い面もあります。とりあえず、この章では政党がコモンズとなる「可能性」を指摘していると言えるのでしょう。

 

 第7章の鈴木一人「脱領域的コモンズに社会的コモンズは構築できるか」では宇宙空間とサイバー空間がとり上げられていますが、この章で取り上げられているもの、特に宇宙空間は普通の人にも「コモンズ」と認識されやすいと思います。

 宇宙空間に所有者はいません。一方、各国が無秩序に人工衛星を打ち上げていけば、人工衛星が衝突したり、まだ衛星の残骸などの宇宙デブリによって宇宙空間は今までのように使えなくなってしまうかもしれません。まさに「共有地(コモンズ)の悲劇」が起きかねない状況なのです。また、宇宙開発を行っているアメリカ、ロシア、中国といった国々は全面的とはいえない間でも対立関係にあり、協調は難しく思えます。

 ただ、現在のところデブリを増やさないためのルールなどを各国が基本的には守っています。これは宇宙空間が有望であり、将来のことを考えるとこの空間を台無しにしてしまうことは各国が望まないからです(民間企業の宇宙開発が盛んになった場合はまた違ってくるかもしれませんが)。

 そう考えると、宇宙空間が「コモンズ」として利用される可能性は十分にあるわけです(サイバー空間に関しては攻撃者を特定しにくいという問題を抱えている)。

 

 一方、厳しいのが衰退している場所における「コモンズ」です。第3章江頭進「衰退する地方都市とコモンズ」では、北海道小樽市を事例として地方都市の現状が語られていますが、なかなか厳しいものがあります。

 例えば、商店街は一種の「コモンズ」と考えられます。商店街に人が集まっていれば、そこにビジネスチャンスが生まれますし、地域の人をつなぐ役割も果たします。ところが、ご存知のように地方では商店街の衰退が著しいです。これは大規模店の出店なども要因の1つですが、それ以外にも後継者がいない、あるいは子どもがいても他の職業との比較で継がせようとは思わないといった要因もあります。

 小樽市では1999年に15万人以上いた人口は毎年2000人ほどのペースで減り続け、2018年には12万人を割り込んでいます。こうなると商店街にとどまらず街全体でもンネットワークが形成されなくなり、イベントで出た話によると人びとはますます自己利益に閉じこもりがちになるといいます。

 こうした状況を打開するために「祭り」などのイベントが行われていますが、1992年の暴力団対策法の施行とともに祭りの担い手が市民団体や青年会議所などになった結果、「素人の主催する祭りは面白くない」(89p)と感じる中高年の人もいるそうです。

 

 第5章の田所昌幸「保留地というコモンズの苦悩」はさらに未来が見えない話です。ここではカナダの「インディアン保留地」の問題がとり上げられています。カナダは多文化共生がうまくいっている国の代表例として数えられますが、この先住民の問題に関してはうまくいっていないことがこの章を読むとわかります。

 もともと保留地は、先住民たちを辺境の地に隔離するとともに彼らを「保護」し、「文明化」する目的で設置されました。先住民を白人社会から引き離し、「善導」することで、やがて先住民たちは白人社会に馴染んでいくことができると考えられたのです。

 しかし、先住民の社会では毛皮取引の衰退とともにアルコール依存症が蔓延し、この試みは失敗に終わりました。1969年にピエール・トルドー(ジャスティン・トルドーの父)は、先住民に対する差別を撤廃するとともに保留地の土地の売買などを認めるリベラルな同化主義の路線を打ち出しましたが、先住民に特殊的な権利を与えなければ文化的に抹殺されてしまうのでは? という危惧の声が高まり、この試みは失敗に終わります。

 保留地は部族長と部族評議会によって運営されています。この形態は「コモンズ」に近く、成功している例もあるのですが、その多くはうまくいっているとは言い難い状況にあります。伝統社会が衰退する中で、「コモンズ」はうまく機能していないのです。

 

 最後の第8章の谷口功一「ミートボールと立憲主義」は変わったタイトルですが、移民や難民の問題とそれに伴う文化的な摩擦を扱っています。タイトルの「ミートボール」は、デンマークで学校給食にデンマークではメジャーなメニューであるミートボールの提供を義務付ける立法がいくつかの自治体で行われたことからきています。このミートボールは豚肉であり、背景にはイスラモフォビアがあります。

 少し前まえ、リベラルであることと多文化主義であることは両立すると考えられていましたが、オランダの政治家ピム・フォルタインなどが主張したように、近年のヨーロッパではイスラム文化がリベラルな社会を脅かすという声が高まっています(フォルタインの主張についてはこちらの記事を参照)。

 公的空間と私的空間の区別をつくってきたヨーロッパ流の立憲主義と、そうした区別を認めないイスラムの間には根本的なズレがあり、そのズレはそう簡単には解消されそうにありません。文化が大きく異なる者同士の間で「コモンズ」をつくっていく難しさを示しているといえるかもしれません。

 

 このようになかなかおもしろい論考が並んでいます。イベントでも話されていたことなのですが、「公共性」というと何か崇高なもので損得を持ち込むことは許されないような気がしますが、「コモンズ」というとコストなどが当然ながら視野に入ってきますし、また、「公共性」というとすでにメンバーシップが確立している中で成立するものというイメージがありますが、「コモンズ」に関しては「どこまでがメンバーか?」という問題が浮上します。

 まだ、明確なイメージが打ち立てられているとは言えないかもしれませんが、「公共性」よりも「コモンズ」のほうが「使いやすい」概念になっていく可能性はあるでしょうし、また、「コモンズ」は過度に観念的にならないで政治について考える1つのツールになっていくかもしれません。

 

 

『運び屋』

 毎回水準以上のクリント・イーストウッドの作品ですが、これは良かった!

 クリント・イーストウッドが、実在した90歳の麻薬の運び屋をモデルにし、自ら主演した映画ということで、主人公は『ミリオンダラー・ベイビー』や『グラン・トリノ』の主役に通じるような渋い人物かと思いきや、お調子者で女好きで、人種差別的な発言もポロポロとしてしまうような人物。性格的には高田純次を思わせるような感じで映画の中で何回も笑えるところがあります。

 

 主人公のアールは園芸家で、品評会などに熱心に参加する一方、家庭は顧みない人間で、娘の結婚式をすっぽかしたことによって家族とは絶縁状態になっています。破産して自分の家や園芸畑も手放してしまったアールはひょんなことから麻薬の運び屋の仕事を頼まれてそれにはまっていきます。

 食い詰めて運び屋の仕事に手を出すとなると、悲愴感がでてきそうですが、アールの場合はそれとは無縁です。暴力が支配する麻薬組織のメンバーの中でもどこか超然としていますし、スリルを楽しんでいるような様子も見受けられます。

 品評会などの外からの評価こそが生きがいだったアールにとって、運び屋をやることによって得る報酬や賞賛というものも、自分を気持よくさせてくれるものなのです。

 

 物語はアールの運び屋としての行動とともに、アールと家族の関係、そして麻薬組織を追うブラッドリー・クーパー演じる捜査官の動きを追います。アールとクーパー演じる捜査官が会った時に(まだ運び屋だと気づく前)、アールは「家族が一番だ」という話をし、実際に家族を重視した行動に出るようになります。

 ただ、それはメキシコの麻薬組織のボスに招待されてセクシーなおねえちゃんと遊んでいた人物から出た言葉であって、どこかしら胡散臭くもあります。

 

 最終的にこの話は「家族愛」の話としてまとまっていると考えることも可能ですが、『ミスティック・リバー』や『チェンジリング』で、ある種の「家族の怖さ」を描いてみせたイーストウッドだということを考えると、この映画も、裏社会に入り込み家族から完全に離脱したことによって家族が「外」になり、だからこそ家族に評価されることを喜ぶようになった男の物語とも読めますし、「家族愛」を隠れ蓑にした享楽を描いた映画といえるかもしれません。

 このあたりは人それぞれ違った感想を抱くかもしれませんが、個人的には非常に重層的な映画に思え、素晴らしい映画だと思いました。

 

 

 

 

マット・ヘイグ『トム・ハザードの止まらない時間』

 主人公のトム・ハザードは見た目は40歳ほどの男ですが、実は1581年生まれで400年以上生きているという設定です。こう書くと不老不死の男の物語を想像する人もいるかもしれませんが、少し違います。

 主人公は遅老症(アナジェリア)と呼ばれる病気であり、思春期までは順調に成長しますが、それ以降は極端に年を取るのが遅くなりま。だいたい15年で1歳ほど年をとる感じであり、また、病気に対する免疫力なども高まるために、殺されたり大怪我をしたりしない限り何百年も生き続けることになるのです。

 

 16世紀末にフランスのユグノーの家に生まれた生まれたトム・ハザード(フランス読みだとアザール)は、ユグノーの弾圧を逃れるためにイングランドへと渡り、そこでシェイクスピアと出会い、さらにはクック船長の船に乗り込み、パリではスコット・フィッツジェラルドゼルダと出会い、現在はロンドンで歴史の教師をしています。

 

 こう書くと、さぞかしすごい歴史スペクタクルが展開するのかとも思いますが、この小説ではこれらの有名人との出会いはあくまでもスパイスのようなものであり、本筋は年を取らない人間の抱える困難と孤独です。いつまでも年を取らない人間は当然ながら周りから不信の目で見られますし(特に主人公の生まれたころの魔女狩りがまだ行われていた時代ならなおさら)、たとえ恋愛とをしたとしても相手だけが一方的に年を取っていきます。

 このあたりは高橋留美子の『人魚の森』とかを思い出しました。

 

 こうした狙いが成功しているかというと、十分に成功しているとは言い難い面もあって、途中で出てくる遅老症の人びとの秘密組織「アルバトロス・ソサイエティ」の設定がちょっと雑なんですよね。

 主人公の内面を丁寧に追うのはいいのですが、それによってこの秘密組織の雑さが気になってしまう部分がありました(もっと歴史スペクタクルに寄っていれば気にならなかったのかもしれない)。

 

 ただし、読んで面白いのは確かで、読者を引っ張り込む内容にはないっていると思います。ベネディクト・カンバーバッチ主演で映画化が進行中との話ですが、確かにこれは映画向きの話でもありますし、ベネディクト・カンバーバッチ主演なら見てみたいですね。

 

 

Better Oblivion Community Center/Better Oblivion Community Center

 謎の名前のバンドですが、Bright EyesのConor OberstとLAの女性シンガーソングライター Phoebe Bridgersが組んだユニットで、これが1stアルバムとなります。

 Bright Eyesに関しては2007年の「Cassadaga」あたりまでは聴いていたのですが、そのあたりからやや退屈な感じがしてずっと追っていなくて、Conor Oberstのソロやその他の活動もほとんど聴いていない状態でした。

 ただ、今作は女性ボーカルと組んだということで、それだけで変化が生まれていいいと思います。3曲目の"Dylan Thomas"なんかは冒頭のメロディの良さだけで押していくような歌なのですが、けっこういい感じだと思います。

 曲としてはギターを中心としたフォーク系の曲が多いですが、5曲目の"Exception to the Rule"なんかはBright Eyesが「Digital Ash in a Digital Urn」でやっていたエレクトロニカっぽところもあり、アルバムのなかのアクセントになっていると思います。

 もちろん、以前のような圧倒的なエモさはないのですが、それでも随所にエモさを感じられるところもあり、40分に満たない尺ですがいろいろと楽しめるアルバムになっています。

 


Better Oblivion Community Center Performs 'Dylan Thomas'

 

 

アレクサンダー・トドロフ『第一印象の科学』

 教員という職業柄、人の顔はたくさん見ている方だと思うのですが、たまに兄弟でもないのに「似ている!」と感じる顔があったり、双子で顔のパーツは本当に似ているのに並んでみると少し顔の印象が違ったり、顔というのは本当に不思議なものだと思います。

 

 まずは、下の写真の2つの顔を見て下さい(本書3pの図1)。この2人が選挙にでていたらどちらが勝ちそうでしょうか?

 

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 おそらく、多くの人は左側の人物を選ぶでしょう。なんとなく有能そうに見えます。

 実はこれ、左側は対立候補よりも有能そうだと人びとが感じた顔をモーフィング(合成)したもので、右側は彼らの対立候補の顔をモーフィングしたものです。

 そして、人びとは顔写真を見ただけで勝つ候補を7割程度の確率で予測できるというのです。この実験は各国で行われており、同じような結果が出ています(顔から有能さが推測できるのか? それとも顔で選んでいるのか?)。

 

  この他にも、この本ではさまざまな顔が紹介されており、特にコンピュータでつくり上げた「外向的な顔/内向的な顔」(54p図2−8)、「信用できる顔/できない顔」(57p図2−9)、「支配的な顔/従属的な顔」(150p図6−13)、「無能な顔/有能な顔」(155p図6−17)などは、まさにそのように見えます(「支配的な顔/従属的な顔」は明らかにやり過ぎですが)。

 確かに、人は他人の内面を顔によって推測しており、その判断は多くの人の間で一致するのです。

 

 ということは、顔からその人の隠れた部分がわかるかもしれません。そこで、18世紀になると顔からその人の性格や資質を読み取ろうとする観相学がさかんになります。

 18世紀にはラヴァーターが人気を博し、その本の編集にはゲーテも手を貸しました。さらに19世紀にはのちに優生学で悪い面で名を残すことなるゴールトンが観相学に取り組みました。ゴールトンは合成写真のアイディアによって、例えば犯罪者の顔写真を数多く合成することによって犯罪者に特徴的な顔を取り出そうとしたのです。さらにゴールトンは精神病患者や結核患者、全米科学アカデミーの会員の顔写真などを集め、それらの人びとの特徴を取り出そうとしました。

 しかし、合成された犯罪者の写真はゴールトンの期待に反するものでした。個々の顔は極悪犯に見えるけれども、合成するとその特徴は消えてしまったのです(30ー31p)。

 

 では、この本は最新の知見によって蘇った現代の観相学なのかというと、それは違います。

 このプリンストン大学の心理学部教授によって書かれた本は、顔というよりも第一印象に注目し、そのからくり、信頼のなさ、影響の強さなどを分析しています。以前、L・A・ゼブロウィッツ『顔を読む』という本を読んで、なかなか面白かったのですが、この本ではさらに一歩進んだ研究を見せてくれています。

 

 人間の顔から受ける印象はほんの一瞬で形成されます。その時間は0.1秒に過ぎないそうです。その短時間で人はその顔からさまざまな情報を読み取るのです。そして、この判断は1歳にならないうちの可能になるといいます(57ー59p)。

 

 この第一印象からくる判断についての説明で、著者はカーネマンの『ファスト&スロー』の議論を援用しています。人間には比較的自動的で努力を要しない素早い処理(システム1)と比較的意図的で統制的で遅い処理(システム2)があり、第一印象の形成はシステム1に基づくものなのです。

 この第一印象に対する処理はいわば本能のようなものであり、とりあえずは多くの人の判断を拘束します。人はわずか0.1秒顔を見ただけで、どちらの候補が選挙に勝ちそうかを判断するのです。

 

 顔にはステレオタイプ的なポイントがあり、それに従ってさまざまな判断が下されていると考えられます。

 例えば、実際に犯罪者が特定の顔立ちをしているわけではありませんが、多くの人にとって犯罪者に見えやすい顔というのはあり、この本の87pの図3−8と88pの図3−9でそうしたポイントに従ってつくり出された顔を紹介しています。

 この「犯罪者に見えやすい顔」というのは悪用されることもあって、警察が行う面通しにおいて、警察官は容疑者よりも犯罪者に見えない顔の写真を用意して行う傾向があるというのです(88ー89p)。

 

 では、人間は顔のどこを見て判断を行っているのか? まずは「目」という答えが出てきそうですが、意外に大きいのが眉と口元です。

 例えば、98pの図4−2と図4−3は、それぞれ眉のないニクソンと目のないニクソンですが、眉がない方がニクソンだと当てるのが難しい感じです。

 また、同じ目の画像でも口元が上がっていれば目が微笑んでいるように見えますし、口元が真っ直ぐであれば微笑んでいるようには見えません(105p図4−7参照)。

 

 さらに顔の微妙なコントラストがその人の印象を大きく変えることもあります。まったく同じ顔でもコントラストを変えるだけで男性っぽく見えたり女性っぽく見えたりするのです(111p図4−13、図4−14参照)。目と口の、残りの顔の部分に対するコントラストがポイントで、「この錯視は化粧に人気がある理由」(111p)になります(今まで、「すっぴんでもいいじゃないか」と思っていましたが、間違いでした…)。

 

 著者たちの研究では、より信頼できる顔と信頼できない顔、支配的な顔と従属的な顔などをCGで作成することが可能になっています。極端すぎるものもありますが、それなりにしっくりくるものです。

 また、これらの顔はある種の表情と関連しており、顔の感情表現と顔から読み取る性格が表裏一体のものであることもわかります。

 

 このように人間の顔から受ける第一印象はある程度共通しているのですが、普遍的というわけではありません。人間は馴染みの顔を信用する傾向があり、日本人とイスラエル人の若い女性を合成した顔を作ると(166p図7−4)、日本人は日本人っぽい顔を「信頼できる」と判断しますし、イスラエル人はその逆になります。 

 基本的に人間は馴染みの顔にポジティブな印象を抱きやすいのです。

 

 しかし、第一印象は不正確なものでもあります。

 例えば、下の写真(本書192p図8−9)をみて上段と下段で左右どちらの女性が魅力的か考えてみてください。

 

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 多くの人は上段は左側の女性、下段は右側の女性を選んだのではないでしょうか?(と本書には書いてある。自分の場合は上段は左側だけど下段はどちらとも言えない、くらい)

 ところが、この写真、左側の上段下段、右側の上段下段は同一人物です。ライティングや髪型、表情などでその印象は大きく変わります。

 また、先入観というのも大きく、「連続殺人事件の犯人だ」と言われてから写真を見せられれば、その人の顔はいかにも犯罪者っぽく見えてきますし、また、新聞などに掲載される犯罪者の写真にはいかにも犯罪者っぽい写真が選ばれるということもあります。

 

 こうなると、いっそのこと顔を見ないほうがいいという状況も存在します。日本の企業では多くの場合、顔写真付きの履歴書を提出させ、実際の面接で合否を決めていますが、この顔からの判断というのはまったくあてにならないといいます。

 人物証明書は、職業上の成功を推測する手段としては、面接より優れている。なぜなら人物証明書がまとめているのは、見かけの印象以上のものだからだ。面接は職業上の成功を推測するには非常に劣った手段であることが判明している。面接で受けた印象と職務遂行能力との相関関係は0.15を下回る。(226p)

 

 映画『マネーボール』の主人公のビリー・ビーンは顔や体格から受ける印象といったものをできるだけ無視し、データから隠れた才能を発掘しようとしました(ちなみにビーン自体は素晴らしい肉体と顔つきをもちながらプロ野球選手としては大成しなかった)。第一印象を無視したほうがうまくいくケースもあるのです。

 

 この他にも、この本には高齢者の顔にそれまでよく抱いていいた感情が刻印される可能性、喫煙者の顔に現れるスモーカーズ・フェースなど興味深い顔をとり上げ、さらに顔に注目する人間の本能を探っています。

 このあたりはぜひ本書を読んでほしいとして、あと個人的にツボだったのが313pの図14−6のテニス選手の顔だけを並べた写真です。キャプションに「ポイントを得た直後、または失った直後のテニス選手の顔。ポイントを得たのは誰か、失ったのは誰かわかるだろうか? とありますが、これが全然わからない。みんさんもぜひ本書を手に取って考えてみてください。

 

 このように顔と第一印象に関する興味深い知見が詰まった本です。毎日のようにたくさんの顔を見て暮らしていますが、顔にはまだ広大なフロンティアが残っているのだということを教えてくれます。

 

 

 

 ちなみに途中で紹介したL・A・ゼブロウィッツ『顔を読む』もなかなか面白い本です。

 

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『アリータ: バトル・エンジェル』

 今日見てきましたが、なかなか面白かったです。原作は未読なので、原作のファンがどう感じるかはわかりませんが、SFアクションとして楽しめる映画です。 

 まずは監督にロバート・ロドリゲスを起用したのが当たりでしょう。ロバート・ロドリゲスは切れのあるアクションシーンを撮る監督で、『プラネット・テラー in グラインドハウス 』とかは面白く見た記憶がりますが、同時に個人的にはそのグロさについていけないところもあり、そこまで追いかけたいとは思わない監督でもあります。

 ところが、今作はほぼ登場するのがアンドロイドなので、特に「痛さ」のようなものを感じずに済みます。あまりゾワゾワせずに純粋に切れのあるアクションを楽しめました。戦闘シーンもモーターボールのシーンもいずれも良かったです。

 

 あと、予告を見た時は、実写の俳優のなかで主人公だけがCG(女優・ローサ・サラザールに演じさせたのをCG加工しているのかな?)という画面で果たしてうまくいくのかという疑問があったのですが、そこはさすがのジェームズ・キャメロン(映画化権を獲得しプロジェクトを温めつつ最終的にはプロデューサーに回った)。映画の世界にしっかりとはまっています。

 日本の漫画やアニメの十八番でありながら、現実世界に登場させようとするとリアルな存在とはなり難い「戦闘少女」を描くための1つの手法としてうまくいっていると思います。また、CG化することによってグロさを抑えるという効果もあります。

 

 ストーリー的にはけっこう詰め込んでいる感があり展開は忙しいのですが、続編を予告しつつ、それなりに完結感のある形で終わっています。

 日本のマンガのハリウッド実写化の中では、かなりいい線いっていると言っていいのではないでしょうか。