パク・ソルメ『もう死んでいる十二人の女たちと』

 ここ最近、多くの作品が翻訳されている韓国文学ですが、個人的には、『ギリシャ語の時間』や『回復する人間』のハン・ガンと、『ピンポン』や『三美スーパースターズ 最後のファンクラブ』のパク・ミンギュがちょっと抜けた存在のだと思っていましたが、このパク・ソルメの作品もすごいですね。

 1985年生まれの女性作家で、ハン・ガン(1970年生まれ)やパク・ミンギュ(1968年生まれ)に比べると若いですが、一種の「凄み」を感じさせます。

 

 まず、冒頭に置かれているが「そのとき俺が何て言ったか」という作品ですが、いきなり理解不能な暴力が描かれています。

 カラオケ店のオーナーと見られる男は客の女性に「一生けんめい」歌うことを要求するのですが、その姿は映画『ノーカントリー』でハビエル・バルデムが演じた殺し屋のシガーを思い起こさせるもので、読み手にも異常な圧力で迫ってきます。

 本書は訳者の斎藤真理子による日本オリジナルの短編集となりますが、いきなりガツンとくる構成になっています。

 

 その後、「海満(へマン)」という作品を挟んで、「じゃあ、何を歌うんだ」が来ますが、これは作者自身と思われる主人公が歴史的事件との向き合い方を問われる作品です。

 パク・ソルメは光州の出身です。光州と言えば、何と言っても映画『タクシー運転手』でもとり上げられた1980年の光州事件が思い出されるわけですが、85年生まれの作者は光州事件を経験してはいません。

 それでも、光州出身だと言えば、出てくる話題は光州事件です。主人公はアメリカでも京都でも光州事件の話を持ち出されます。

 そんな中で、自分と光州事件の埋めがたい距離感がこの小説では描かれています。

 

 「私たちは毎日午後に」という作品は、同棲している男が突然小さくなってしまったことから始まります。

 そして、本書で繰り返し出てくるのが東日本大震災福島第一原発事故のことです。主人公は、テレビなどで震災後も日本の人々が「元気にやっている」ことを理解していますが、同時に震災によって自分の知っている日本が消え去ってしまったようにも感じています。

 ある種の連続性が失われているのですが、これが男が突然小人になったこととシンクロしています。

 

 原発事故に関しては、韓国の古里原発の事故も複数の作品でとり上げられています。 2012年2月9日に古里原発の第1号機で全電源喪失という重大事故が起こりましたが、そのことは3月12日まで隠蔽されていました。

 ここにも作者は連続性の危機を見ていて、「暗い夜に向かってゆらゆらと」では、事故が「起こってしまった」後の釜山の様子(ただし大惨事が起こったようにも見えない)が描かれています。

 

 ラストに置かれている表題作の「もう死んでいる十二人の女たちと」は、キム・サニという5人の女性を強姦殺害した後に交通事故で死んだ男が、その被害者である5人の女と同じような事件で殺された7人の合わせて12人の女たちに改めて殺されるという話。

 主人公はチョハンという昔からの友達でありながら今はホームレスをやっている男に、キム・サニが殺された現場を見せられます。

 幻想的な作品でもあるのですが、同時に女性に対する暴力の遍在を告発するような作品でもあり、現実の社会とリンクしています。

 冒頭の「そのとき俺が何て言ったか」とともに、非常に強い印象を残す作品です。

 

 かなり独特な文体で知られる作家だそうですが、そのあたりも含めて訳者の斎藤真理子が上手く訳しているのではないかとも思います。

 その独特の感覚と文体で、読み手にさまざまなことを考えさせる作家で、他の作品も読んでみたくなりました。

 

 

Cassandra Jenkins / An Overview on Phenomenal Nature

 ニューヨーク出身のシンガーソングライターCassandra Jenkinsの2ndアルバム。

 ジャンル的にはアンビエント・フォークという分類になりますかね。最近、きちんと音楽情報を終えていないのでよくは知らないのですが、ジョシュ・カウフマンという著名な人物がプロデューサーを務めています。

 フォークと言ってもギター1本というサウンでではなく、ピアノやサックスが入ったりして、静謐ながらかなり凝った音作りがされています。

 特に3曲目の"Hard Drive"は素晴らしい。ループするドラムにギターやドラムが絡むサウンドに、Cassandra Jenkinsが「1・2・3」とささやくように歌うカウントダウン。この曲は相当な傑作だと思います。

 他の曲もCassandra Jenkinsのウィスパーボイスは冴えていて、悲しみと透明性が同居しているような印象です。

 7曲入り32分という短いアルバムですが、染み入る1枚という感じでしょうか。

 


Hard Drive

 

 

 

山口慎太郎『子育て支援の経済学』

 『「家族の幸せ」の経済学』光文社新書)でサントリー学芸賞を受賞した著者による、子育て支援の政策を分析した本。 

 『「家族の幸せ」の経済学』も面白かったのですが、個人的にはマッチングサイトや離婚の話などは置いておいて、もっと著者の専門である子育て支援政策の分析に絞ったほうが良かったのでは、という感想も持ちました。そうした意味では個人的には待ち望んでいた本です。

 本書は『経済セミナー』の連載をもとにしたものであり、新書である『「家族の幸せ」の経済学』に比べると、研究の方法・技法の紹介に大きく紙幅を割いています。「この研究によるとこういった効果がありますよ」と紹介するだけではなく、「この研究は問題を明らかにするためにこういった技法が使われており、それによるとこういった効果がある」という形で研究のやり方が妥当であるのかということも含めて検討されています。

 中室牧子・津川友介『「原因と結果」の経済学』や伊藤公一朗『データ分析の力』といった因果分析のやり方を紹介した本にも通じる内容です。

 このように書くと、なかなか難しそうな本に思えるかもしれませんが、テクニカルな部分は巻末の付録に回してありますし、基本的には読みやすいと思います。

 また、日本の子育支援政策、特に保育園をめぐる政策が、その政策による効果が最もあると考えられる低所得・低学歴の母親層に届いていないのではないか? という指摘は非常に重要なものだと思います。

 

 目次は以下の通り。

第1部 子育て支援出生率向上

 第1章 なぜ少子化は社会問題なのか?
 第2章 現金給付で子どもは増える?
 第3章 保育支援で子どもは増える?
 第4章 少子化対策のカギはジェンダーの視点?

第2部 子育て支援は次世代への投資

 第5章 育休政策は子どもを伸ばす?
 第6章 幼児教育にはどんな効果が?
 第7章 保育園は子も親も育てる?

第3部 子育て支援がうながす女性活躍

 第8章 育休で母親は働きやすくなる?
 第9章 長すぎる育休は逆効果?
 第10章 保育改革で母親は働きやすくなる?
 第11章 保育制度の意図せざる帰結とは?

付録 実証分析の理論と作法

 

 まず、第1章では「なぜ少子化は社会問題なのか?」「なぜ政策介入が必要のなのか?」ということが論じられていますが、親は子育ての費用を負担するが、現代の先進国では子どもの稼ぎを自分のものにすることはできないから、子どもが生み出す便益は社会全体で共有されてしまう。子どもが育ち社会の一員になることには正の外部性を持つ(社会全体のプラスになる)ので、政策的介入が正当化されるという議論がなされています。 

 いかにも経済学的な論の運びですね。

 

 第2章では現金給付の効果が検討されています。子育て支援策には現金給付、保育所などを整備する現物給付、税制上の優遇措置などが考えられます。

 その中でも現金給付は一番人びとのインセンティブを刺激しそうではありますが、現実にはそうストレートに効くわけではありません。ゲイリー・ベッカーが言うように子育てには「量」(人数)と「質」のトレードオフがあるかもしれず、経済的な余裕は「質」への投資(習い事をさせるなど)につながり、子どもの人数を増やすことにはならないかもしれないからです。

 

 では、実際にどうやって現金給付の効果を測定するかというと、本書ではカナダのケベック州のケース使って差の差分析(DID)を行った研究が紹介されています。

 カナダのケベック州では1988年に所得制限のない新生児手当が導入されました。これは第1子と第2子には500カナダドル、第3子以降には3000カナダドルを支払うというもので、92年には第2子1000カナダドル、第3子以降には8000カナダドルに増額されています。

 そして、ポイントはカナダの他の州では実施されなかったことです。つまりケベックを介入群、他を対照群とみなせます。もし、ケベック州出生率が他の州に比べて大きく伸びるのであれば、それは現金給付の効果だとみなせるのです。

 その分析の結果を見ると、それまで他の州に比べて低かったケベック出生率がほぼ他の州と並んだことがわかります(26p図2.5参照)。

 

 こうした研究は各国で行われており、多くのケースで現金給付は出生率を引き上げています。ケベックのケースでは給付金に対する出生率の弾力性は0.107、つまり給付金が1%と増えると出生率が0.107%増えると分析されています。また、ケベックでは第3子以降に手厚い給付をしていますが、給付金額あたりの効果では第2子に最も効果が出ているそうです(36−37p)。

 

 では、現物給付、保育所の増設はどうでしょうか?

 2000年代半ばの旧西ドイツ地域における保育改革では、1歳以上の子ども保育所に入所する法的な権利が付与されるようになり、保育所の定員は改革前の3倍に増えました(保育所の整備に関しては旧東ドイツ地域の方が進んでいた)。

 このときに保育所の整備が進んだ地域と遅れた地域を比較することで、保育所の整備が出生率に与える影響を探った研究があります。この研究によると、保育所の定員率が10%ポイント上昇すると、出生率が1.228%ポイント、あるいは2.8%上昇することがわかったそうです(54p)。

 

 では、先程の現金給付と比べて出生率が引き上げる効果が高いかどうかと言うと、多国間データを用いた過去の研究によると、児童手当に対する出生率の弾力性は0.16であり、これがドイツにも当てはまるとすれば、ドイツはおよそ400億ユーロの児童手当を使っているので、4億ユーロで出生率を0.16%引き上げることになります。

 一方、同額を保育所の増設に回すと5万8823人分の保育枠が生まれ、これは出生率を0.82%上げると考えられます。つまり、児童手当と比べて、5倍以上効果的だということです(55p)。さらに保育所の増設は働く女性を増やすことで税収増も望めます。

 ただし、日本だと、児童手当に対する出生率の弾力性を同じく0.16と想定した場合、ドイツほど、保育所の増設との差は出ません。

 

 現金給付にしろ保育所の整備にしろ、子育て費用の低減が少子化対策の1つの手段となるわけですが、子育てのコストが夫婦でどのように分配されるのかも考える必要があります。

 先進国では、男性の家事・育児負担割合が高いほど出生率も高い傾向がありますが(67p図4.1参照)、これはあくまでも相関関係で因果関係を示しているとは言えません。ただし、子どもを持つかどうかで夫婦の考えが一致しておらず、しかも妻が子どもを持ちたくない形で不一致となっている国は出生率も低いとのデータがあり(69p)、さらにこの不一致は男性の家事・育児負担割合が高いほど低くなる傾向にあります。

 

 以上が第1部。つづいて第2部では、子どもの発育という立場から子育て支援策が分析されています。

 まず、最初にとり上げられているのが育休の延長です。育休の延長は子どもの成長にプラスの影響を与えるのでしょうか?

 

 本書では回帰不連続デザイン(RDD)という手法を使った研究を紹介しています。育休の導入や延長はある時期を境に行われますが、その直前と直後を比較することで、育休が子どもの成長に与える影響を測ることができるというわけです。

 ドイツでは大きな育休改革が3度行われています。1979年に行われた育休を2ヶ月から6ヶ月に伸ばすもの、1986年に行われた6ヶ月から10ヶ月に伸ばすもの、1992年に行われた18ヶ月から36ヶ月に伸ばすものです。いずれも29歳時の教育年数や進学高校卒業率は特に大きく変化しておらず(89p図5.4、90p図5.5、図5.6参照)、育休の延長が子どもの長期的な成長に特に影響を及ぼすものではないことがわかります。

 一方、ノルウェーの1977年に行われた育休改革は高校中退率を2%ポイント引き下げ、30歳時点の労働所得を5%上昇させたといいます。これは当時、ノルウェーには2歳未満の子どものための保育所がなく、仕事をする女性は祖父母に子どもを預けざるを得なかったことが原因だと考えられます。

 

 つづいて幼児教育の効果です。ヘックマンの研究などから幼児教育が子どもの非認知能力を高め、それが大人になってもプラスの影響を与えるという話が知られるようになっていますが、実際のところはどうなのでしょう?

 アメリカではランダム化比較試験(RCT)を使った社会実験プログラムが行われています。一番有名なのはペリー幼児教育プロジェクト(PPP)ですが、ここでは1962〜67年にかけて3〜4歳の黒人家庭の子どもたちをランダムに選び、1〜2年の幼児教育と1、2週に1回の家庭訪問を行い、40歳までデータを取り続けました。

 この他、アメリカではいくつかのプログラムが行われています。いずれも5歳時のIQを引き上げましたが、このIQへの効果は小学校入学後2、3年で消えてしまいます。しかし、高校卒業率を20〜50%引き上げ、30〜40歳の就業率や労働所得を増大させました。これはプログラムによって攻撃性や多動性などが改善され、自身の感情や行動をコントロールする非認知能力が高められたためと考えられています。

 ただし、これらのプログラムはいずれも低所得の家庭に対して行われており、すべての子どもに同様の効果を与えるかは不明です。また、PPPの行った1,2週に1回の家庭訪問を全国一律で導入するのはコスト的に相当難しいものでしょう。

 

 幼児教育の一般的な影響を明らかにしようとする研究も行われており、それは保育所の整備が進んだ地域と遅れた地域を比較する差の差分析や、保育所に入れた子どもとぎりぎり入れなかった子どもを比較した回帰不連続デザインなどの手法が使われます。

 各国の研究によると、幼児教育はテストのテストの点数を引き上げ、これは中学頃までつづくとのことです。また、非認知能力の1つである「社会的情緒能力」を改善させるとの研究もあります。一方、イタリアのボローニャでは裕福な家庭の子どもに負の影響を与えたとの研究もあります。恵まれた家庭では、保育所以上の教育を提供できている可能性もあるのです。

 

 第7章では著者の厚生労働省「21世紀出生児縦断調査」を用いた研究が紹介されています。日本において保育所の利用がどのような効果をもたらしているのかを調べた研究です。

 これによると、保育所利用は言語的な発達を促します。また、多動性と攻撃性を減少させる結果も出ていますが、統計的にあまり確かなことは言えないようです。ただし、母親が高卒未満の場合、保育所の利用は多動性と攻撃性を大きく減少させます。

 また、保育所の利用には、高卒未満の母親のしつけの質を改善し、ストレスを減少させ、幸福度を上昇させる効果もあります。これは、恵まれない環境の家庭では母親の余裕がなく、子どもに望ましい環境を提供することが難しいが、保育所の利用によって母親に余裕が生まれ子どもの環境も良くなるということなのでしょう。また、子どもとの接し方を保育士から学んでいるとも考えられます。

 なお、この分析は137pの表7.2と139pの表7.3にまとめられていますが、有意水準を示す星(*)がついていません。著者は「星をつけてしまうと、その視覚的な印象に引きずられ、結果を有意・非有意の2分法で解釈することに陥りがちだからだ」(138p)と述べています。

 

 第3部では働く女性の就業支援という立場から子育て支援策を検討しています。

 まずは育休です。オーストリアでは1990年に育休期間を1年から2年に延長する変更がなされました。この制度変更の時期の前後で比較する回帰不連続デザインの研究が行われていますが、それによると育休の延長は育休の取得期間を伸ばし、3年以内の仕事復帰率を低下させました(148p図8.1、8.2参照)。仕事への復帰のタイミングはやはり遅くなったのです。ただし、中長期的な雇用への影響は少ないようです。

 

 以前、安倍首相が「3年間抱っこし放題」と名付けて育休を最長3年まで伸ばすことを提言していましたが(実現はしなかった)、育休を伸ばせば出生率は上がるのでしょうか? 

 この仮定の問題に構造推定アプローチを使って取り組んだのが第9章です。これを解説するのは難しいので詳しくは本書を読んでいただきたいのですが、出産後に母親が働く確率は育休が1年でも3年でもあまり変わらず、出生率に対する影響もわずかであると分析されています。

 本章では、出産手当金を支給した場合のシミュレーションも行われており、確かに大きな金額を出せば出生率は上がるものの、女性の就業率や所得を低下させることも示されています。

 

 第10章のテーマは保育所の増設が女性の就労を促進するかです。

 日本の女性の末子が6〜14歳時の就業率は72%で、OECD29カ国の平均73%とほぼ同じです。しかし、末子が0〜2歳時の就業率は47%でOECD29カ国平均の53%を大きく下回っています(175p図10.1参照)。

 保育所の増設を中心とした保育改革は、アルゼンチンやカナダのケベック州、スペイン、ドイツなどで大きな就業促進効果をもたらしたとされる一方、スウェーデンやフランス、オランダ、ノルウェーなどでは大きな効果を持たなかったといいます(183p)。前者の国はもともと女性の就業率が低かった国が多く、そうした国では保育所の不足が女性が働く上での制約要因になっていたと考えられるのです。

 

 保育所の増設が単純に女性の就労増加に結びつかないのは、今まで祖父母やベビーシッターなどに子どもを預けて働いていた人が保育所を利用するようになるケースもあるからです。この場合、保育所の定員が増えても女性の就労率はあがりません。

 

 こうしたことを踏まえて最後の第11章では日本の保育制度の問題点が指摘されています。

 日本では親が保育所に入所させたいと考える子どもの数よりも保育所の定員が少ないことが多く、利用調整制度という希望者を順位付けし、絞り込む仕組みがとられています。多くの人はご存知でしょうが、フルタイム勤務や一人親世帯などに高い点数が与えられ、パートや休職中だと点数が低くなります。

 

 都道府県別に母親の就業率と保育所定員率を関係を見ると、きれいな相関が見られます(205p図11.1参照)。これをみると、保育所の整備が母親の就業率向上につながると考えてしまいます。

 ところが、そういった因果関係があるとは言い切れません。例えば、女性が働く気風がある地域では、女性の就労率は高いでしょうし、その前提のもとで保育所の整備も進んでいると考えられるからです。

 実際、2005〜10年の保育所定員の伸び率と母親就業率の伸びをプロットすると明確な相関関係はなくなってしまいます(206p図11.2参照)。これは保育所の整備によって子供の預け先が祖父母から保育所に置き換わる減少が起きているからだと考えられます。公的な保育が私的な保育を押し出してしまうクラウディングアウトが起きているのです。

 

 今まで見てきたように、保育所の利用は、より恵まれない家庭の子どもの能力を引き上げ、母親の子育てやストレスなどを改善します。ただし、恵まれない家庭の母親がフルタイムの正社員であることは少なく、結果的に点数も低く、子どもを保育所に預けられないということが起きています。場合によっては、祖父母の支援も期待できる恵まれた家庭の子どもが恵まれない家庭の子どもを押し出していることも考えられるわけです。

 著者は、複雑ね利用調整の仕組みを改めて、年齢や家計所得によって優先順位を決めるのも一案だとしています(213p)。また、保育無償化よりも家計所得に応じて適切な料金を徴収し、できるだけ多くの家庭が保育所を利用できるようにするべきだとしています。

 

 このように、本書は方法論に注目しながら子育て支援に関するさまざまな研究を紹介しつつ、同時に日本の保育の問題点も指摘するという、学術的でなおかつアクチュアルな本になっていると思います。

  

 

 ちなみに、これは余談ですが、本書と同じようなタイトルで『子育て支援社会学』という本があります。同じ社会科学の本で、タイトルも2文字しか違わないのに、テーマも方法論も何から何まで違う(けど両方とも面白い)本なので、興味が湧いたら以下の紹介記事を読んでみてください。

 

morningrain.hatenablog.com

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』

 

 見てきました。まさに「さよなら、すべてのエヴァンゲリオン」というキャッチコピーが当てはまる作品でした。

 3月8日に公開して以来、別にネット断ちをしていたわけでなくTwitterも普通に見ていたのですが、自分のTLではネタバレは皆無。

 おそらくネタバレしないほうが楽しめると思うので、ネタバレしたくない人は読まないでください。

 

 

 

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郝景芳『人之彼岸』

 短編の「折りたたみ北京」、そして先日読んだ長編の『1984年に生まれて』が非常に面白かった中国の女性作家・郝景芳(ハオ・ジンファ)の短編集。

 「人之彼岸」というタイトルからも想像できるかもしれませんが、AIをテーマにした短編が並んでいます。

 この短編集の大きな特徴は冒頭に、作者によるAIをテーマとしたエッセイ(「スーパー人工知能まであとどのくらい」と「人工知能の時代にいかに学ぶか」)が収録されているところ。どちらも面白く著者の思考や洞察力の確かさを教えてくれるものなのですが、著者のAIに対する考え、つまりSF小説のネタが披露されてしまっているようなものであり、読む前は「この構成はいかがなものか?」と思いました。

 

 ところが、やはり郝景芳は上手い。

 最後の短編「乾坤と亜力」は、乾坤(チェンクン)というAIと亜力(ヤーリー)という3歳半の子供の交流を描いたわずか11ページの短編に、エッセイのエッセンスのほぼ全てが凝縮されているのです。

 エッセイも十分にわかりやすい内容なのですが、それを短編に落とし込むことで、著者の考えるAIのすごさと足りないところが鮮やかに示されています。

 

 他の収録作は「あなたはどこに」、「不死医院」、「愛の問題」、「戦車の中」、「人間の島」。

 「AIロボットが殺人をしたのか?」というミステリーである「愛の問題」、宇宙での長年の探査から地球に帰還してみると、そこはAIが人間を支配しているようなディストピアだったという「人間の島」など、設定時代はオーソドックスなものが多いです。特に「人間の島」などはけっこう古いSFにもありそうなネタですし、驚くようなアイディアはありません。

 

 ところが、そのありふれたネタを小説の形に落とし込むのが上手い。

 特に「不死医院」はその上手さが十分に発揮されている作品。主人公の銭睿(チェン・ルイ)の母親が病に倒れ危篤状態となり、治らないと言われた患者を数多く救ってきた「妙手病院」という病院に入院する。今まで親に冷たい態度をとってきた銭睿は、面会が厳しく制限される中で、せめて親にひと目相対と病院に忍び込むが、そこで目にしたのはチューブに繋がれて生気のはない母親の姿だった。ところが、しばらくして実家を訪ねてみると、まったくもって元気な母親の姿があったという話。

 ここまで読んで、テーマがAIとくればネタは分かると思います。これまたよくあるネタです。基本的には妙手病院の謎を追うという展開になるのですが、同時に郝景芳は、主人公と還ってきた母親の交流を描き出します。当然、主人公は還ってきた母親を怪しみ、その化けの皮をはがそうとするわけですが、母親と完璧に同じ記憶を持つその存在に揺さぶられることになります。ここが上手いですね。

 

 読後感として、『1984年に生まれて』のほうがずっしりとは来ますが、この『人之彼岸』も郝景芳の力量を感じさせてくれる本です。

 

 

morningrain.hatenablog.com

エリカ・フランツ『権威主義』

 ここ最近、民主主義をテーマにした本が数多く出版されていますが、民主主義ではない政治というのは一体どんなものでしょう?

 本書は、その「民主主義ではない政治」である権威主義について語ったものになります。オックスフォード大学出版局の「What Everyone Needs to Know(みなが知る必要のあること)」シリーズの1冊で、「権威主義とはどんなもので、どんな特徴があるのか」ということを総合的に論じています。

 一口に権威主義といっても、プーチンエルドアンのようにわかりやすい「強いリーダー」がいるタイプもあれば、クーデターによって軍政となったタイやミャンマーのようにトップの姿が見えにくいタイプもあります。

 本書は「こういった違いをどう考えればいいのか?」という問いだけでなく、「民主主義はどうやって権威主義体制に移行するのか?」、「権威主義体制はどのように崩壊するのか?」といったさまざまな問いに答えてくれる本です。

 

 目次は以下の通り。

第1章 序論
第2章 権威主義政治を理解する
第3章 権威主義体制の風景
第4章 権威主義リーダーシップ
第5章 権威主義体制のタイプ
第6章 権威主義体制の権力獲得のしかた
第7章 生存戦略
第8章 権威主義体制の崩壊のしかた
第9章 結論

 

  権威主義の特徴の1つがその多様性です。北朝鮮のような独裁者のもとで厳しい統制が敷かれているような国もあれば、シンガポールのようにある程度の自由は認められている国もあります。

 また、権威主義は権力の所在に関して秘密主義的なところがあって、例えば、金正恩が祖父の金日成に比べてどれだけ独裁的な権力を行使しているのかはよくわかりません。また、ロシアでは2008〜12年にかけてメドベージェフが大統領になりましたが、多くの人はプーチンが権力を握り続けていると考えました。このように権威主義の内実は非常に見えづらくなっています。

 

 そこで、本書では以前は「権威主義体制」、「独裁」、「専制」などと呼び分けられていた体制を一括して権威主義体制として扱っています。

 「統治する者が競争的な選挙を通じて選ばれること」を民主主義体制とした上で、それ以外の体制を幅広く権威主義体制として扱うアプローチです(19p)。本書が扱う期間は第2次世界大戦後であり、その時期に関して「権威主義データセット」を構築し、さまざまな分析を行っています。

 

 まず、第2章では権威主義体制の動きは、リーダー、エリート、大衆の3つのアクターの相互作用によって成り立つと書いています。

 リーダーは権力の座にとどまることを望み、自分を支持するエリート集団を構築しますが、同時に自らを権力の座から引きずる下ろす可能性があるのも、このエリートです。軍が権威主義的リーダーを追放して、新たなリーダーを据えるということは、しばしばみられるものです。

 一方、大衆がリーダーを引きずり下ろすケースも、「アラブの春」のようにないことはないですが、どちらかというとまれなことです。

 また、権威主義リーダーと権威主義体制を区別することも重要です。権威主義リーダーが追放されてもすぐに同じようなリーダーが現れることも多いですし、イランでは、1979年のイラン革命でシャー(国王)による権威主義体制が倒れたあとに、全く別のタイプの権威主義体制が確立しました。

 

 第3章では、どのような国や地域で権威主義体制がみられやすいかということが分析されています。

 まず、基本的に貧しい国ほど権威主義体制になりやすい傾向があります。50pの図3−1をみると豊かなのに権威主義体制という例外的な国もポツポツと見られますが、シンガポールを除くといずれも産油国です。

 ハンティントンは民主化の3つの波を指摘しましたが、データから見ると、民主化の数が最も多かったのが1990年代、民主主義の後退の数が最も多かったのが1960年代になります(57p図3−2参照)。

 地域的な動きを見ると、冷戦終結後にラテンアメリカ権威主義体制が減少したのに対して(2014年時点でキューバベネズエラの2カ国のみ)、世界の権威主義体制の1/5が中東・北アフリカ地域に集中し、アジアでも増加が見られます(61p)。

 

 第4章では権威主義リーダーについて分析されています。

 権威主義リーダーは自らの権力の維持を図りますが、その権力は特にエリートによって脅かされています。特に軍のクーデタは最も警戒すべきもので、だからこそ権威主義リーダーは軍の掌握に気を配ります。軍の人事に介入し、軍人を優遇し、ときには親衛隊をつくるなど軍とは別の部隊をつくるのです。

 多くの権威主義リーダーはその権力を「個人化」しようとします。できるだけ多くの権限を個人の手中に収めようとするのです。

 例えば、中国では毛沢東が権力の個人化を進めましたが、毛沢東の死後にはそのレベルは低下し、そして習近平になってから再び個人化が進む兆しが見られます。

 権威主義リーダーは、自らの取り巻きであるエリート集団の範囲を限定し、有力ポストを身内や忠誠心の高いもので固め、ときには新たな政党や政治運動を組織し、また、国民投票を利用し、新たな治安部隊を創設したりして、権力の個人化を推し進めます。

 しかし、こうして確立された個人独裁はあらゆる権威主義体制の中で最も汚職にまみれやすく、国家間紛争もおこしやすいとされています(73p)。個人独裁はイエスマンに取り囲まれているために判断を誤りやすいとも言われます。

 

 さらに厄介なのは個人独裁は崩壊時にもっとも民主化に移行しにくい体制だといいます。サダム・フセインカダフィの退場後に残されたのは大きな混乱でした。

 権威主義リーダーはクーデタなどによって強制的に、あるいは辞任や軍事評議会での合意などによって退出します。また、在任中に死を迎えることもあります。1960年代まではクーデタによる退出が圧倒的多数でしたが、クーデタの減少とともに、辞任などに「通常の」退出が増えています(78p図4−1参照))。

 退出後の権威主義リーダーは殺されたり処罰されたりする可能性が高いですが、この恐れが他国への侵略などのギャンブル的行為を生み出すこともあります。

 そして、意外なのは独裁者の死が体制崩壊をもたらさないことです。チャベスが死んでも、金正日が死んでも権威主義体制が維持されたことはそれを物語っています。

 

 第5章では、権威主義体制のタイプが論じられてます。

 アフリカ南部のジンバブエボツワナはともに権威主義体制ですが(ボツワナに関しては民主主義体制だと捉える人もいるが、本書では選挙の不公正さから権威主義体制と見ている(86p))、ジンバブエムガベの無茶苦茶な政治によって腐敗もひどく、経済も崩壊したのに対して、ボツワナは腐敗が少なく、経済も順調に成長しています。

 ボツワナもそうですが、現在の権威主義体制の多くは、複数政党を認め、選挙を行っています。もちろん、支配政党に有利なように仕組まれているのですが、表面的には民主主義国家と大きく違わないような国も多いです。

 権威主義体制と民主主義体制は連続しており、本書でもポリティ・データセットや、フリーダム・ハウスの政治的権利と市民的自由の指標などを使って、その程度を把握しています。例えば、ベネズエラは05年までは民主主義でそれ以降は権威主義という位置づけになります(90p)。

 

 本書では権威主義の類型として、「軍事独裁」、「支配性党独裁」、「君主独裁」、「個人独裁」とういうタイプをあげています。

 軍事独裁は軍部が支配権を有する権威主義支配であり、リーダー個人よりも軍部という集団が権力を握っています。ですから、本書によるとリビアカダフィ政権はカダフィが軍服を着ていたものの、軍事独裁ではなく個人独裁に分類されます。軍事独裁ラテンアメリカで数多く見られますが、この背景には冷戦の影響があります。

 支配性党独裁は1つの政党がリーダーの選択と政策選択を支配しているスタイルで、シンガポールなどがこれにあたります。

 個人独裁は権力が特定のリーダーの手中にあるタイプです。かつては貧しい国に多いタイプでしたが、かつてのスペインや、近年のトルコ、ロシアなどそこそこ豊かな国でも出現します。

 

 タイプ別の特徴としては、個人独裁は紛争を引き起こしやすく、核開発に投資しやすく、インフレになりやすく、経済成長と投資が低迷しやすいです。しかし、経済危機に直面しても体制が転覆しづらい体制でもあります。これはリーダーを支える集団が小さいので、経済が危機に陥ってもその集団が無事であれば政変が起きにくいのです。

 一方、軍事独裁のリーダーは最も短命で、さらに体制自体も短命に終わることが多いです。

 タイプごとの割合としては、まず君主独裁は中東とスワジランドでしか見られません。そして、冷戦の激化によって増加した軍事独裁は、冷戦終結とともに減りつつあります。支配政党独裁が最も一般的なタイプですが、社会主義の崩壊とともその数は減っています。一方、近年では個人独裁が増え、支配政党独裁と並びつつあります(106p図5−1参照)。

  

 では、権威主義体制はどうやって権力を獲得するのかを分析したのが第6章。その方法には、王族による世襲、クーデタ、反乱、民衆蜂起、権威主義化(現職者による権力奪取など)、支配集団の構成ルールの変更、大国による押し付け、の7つがあるといます。

 例えば、同じ南米でもチリのピノチェト政権はクーデタによるもので、ペルーのフジモリ政権は選挙で勝利し、その後、1992年の「自主クーデタ」で議会を閉鎖し、権威主義化しました。大国による押しつけは、ソ連による東ドイツの建国やアメリカ占領後、1966年にドミニカ共和国で成立したバラゲール政権などがあり、民衆蜂起の例はイラン革命後のイランなどがあります。構成ルールの変更は少しわかりにくいですが、例えばイラクバース党からエリートを排出する体制からフセインの個人独裁へと移行しました。

 

 この割合ですが、冷戦期はクーデタが多かったものの、現在は減少傾向で、代わって権威主義化が増加傾向です(114p図6−1参照)。見方を変えると民主主義の後退が見られるわけで、トルコのように権威主義体制になった国もあれば、フィリピンやポーランドのように権威主義体制に近づいている国もあります。

 この権威主義化の兆候として、本書では現職者に中世が厚いものを高位の権力、特に司法に配置すること、検閲やジャーナリストの逮捕などによるメディアの統制、選挙規定の操作、憲法改正、反対派への訴訟などがあげられます。

 近年ではポピュリズム権威主義の足場になることも多いです。ポピュリストは、リダーのみが国家を救うことができる、伝統的な政治家は腐敗している、メディアや専門家は信用できない、といったメッセージを使って権力を掌握しようとしますが、この道は権威主義化に通じます。 

 

 第7章では、「生存戦略」と題して権威主義体制がいかにして体制存続を図るかということが分析されています。

 わかりやすいのは「抑圧」で、武力を使った弾圧や公開処刑といった高烈度のものから、反対派の監視、訴訟、ジャーナリストなどへの短い期間の拘留といった低烈度のmのまであります。

 この抑圧の手法は進化を遂げており、弾圧のために体制からは名目上独立したアクターを利用したり(2009年の大統領選後のイランでは抗議運動を義勇軍からなる準軍事組織のバスィージが弾圧した)、ジャーナリストや野党を訴訟で黙らせたり、ネットへの監視を強化したりするようになっています。

 

 抑圧以外に使われる手段が「抱き込み」です。これは体制への支持への見返りとして財やサービス、地位などを分配します。

 抱き込みの利点は、これを使って反対派の分断を図れるところであり、また不満がエスカレートするのを防げることです。弾圧は、ときに火に油を注ぎますが、抱き込みはそうした心配が少なくて住みます。

 権威主義体制でも議会が開かれ、選挙が行われるのも、この抱き込み戦略の1つで、選挙では出馬できる者とできない者の分断を図り、議会では反対派の取り込みが行われます。「政党、議会、選挙などの政治制度を有する独裁は、そうでない場と比べてより長期間権力にとどまることが明らかにされ」(144p)ています。この理由として、「人気がある(が離反の可能性もある)体制エリートを監視できたり、反対派人物を国家機関に引き入れ、明るみに出すことができるので、独裁にとってもっとも脅威となる反対者をあぶりだすことが用意になる」(146p)といったことが考えられます。

 こうしたこともあり疑似民主制度をもつ権威主義体制の国は80年代から増加傾向にあります(148p図7−1参照)。

 

 第8章では権威主義体制の崩壊を扱っています。

 権威主義体制の崩壊の仕方は、クーデタ、選挙、民衆蜂起、反乱、支配者集団の構成ルールの変更、大国による押しつけ、国家の解体の7つで、第6章の権威主義体制の権力の獲得の仕方とほぼ同じです。

 構成ルールの変更の例としては、スペインのフランコ政権からの民主化への移行があり、大国による押しつけの例はアメリカのパナマ侵攻によるノリエガ政権の打倒、アフガニスタンタリバン政権の打倒、国家の解体の例は、ソ連の解体や南ヴェトナムの崩壊などがあります。

 

 では、崩壊の仕方のトレンドはというと、以前はクーデタが目立っていましたが、冷戦後では選挙による崩壊が目立つようになっています(153p図8−1参照)。

 権威主義体制のタイプに注目すると、最も崩壊しやすいの軍事独裁です。これは体制エリートが軍部の一員として軍の存続を最優先するためで、そのためにリーダーがすげ替えられますし、また、メンバーも体制崩壊後には軍部に復帰できると考えています。

 一方、支配性党独裁では、支配政党の下野は多くのエリートの失職を意味します。エリートが自らの利益のために体制維持に協力するので、その寿命は長いです。

 また、個人独裁のケースもエリートはリーダーと一蓮托生であるため、軍事独裁よりも長く存続しやすいです。

 権威主義体制が崩壊する引き金としては、経済の低迷や、内戦、国家間紛争などがあげられます。

 

 権威主義体制の崩壊というと、すぐに「民主化」という言葉が頭に浮かびますが、1946〜2014年の間、権威主義体制崩壊後に新たな権威主義体制が発足したのが約半分、民主主義体制への移行が約半分となっています(161p)。

 民主化と政治的自由化は同じような意味で捉えられることが多いですが、著者はこれを混同するのは危険だといいます。政治的自由化、選挙の導入や議会の設置などはしばしば権威主義体制の強化と結びついており、かえって権威主義体制を強化することもあるからです。

 体制の移行の仕方に関しては、体制移行時に暴力があったケースは民主化する確立は40%、非暴力であった場合は54%と、暴力を伴う移行では民主化の可能性が下がります。

 権威主義体制のタイプでは、軍事独裁が最も民主化する確率が高いですが、これは先程も述べたように軍のエリートは身を引きやすいからです。

 

 権威主義体制に与える影響という点から言うと、天然資源は民主化を抑圧するというよりは、その富で取って代わろうとする権威主義集団を抑え込むことにつながるといいます。

 制裁は個人独裁のリーダーシップに打撃を与えますが、民主主義体制への移行の可能性を高めるかは不明です。援助は支配性党独裁に関しては民主化をもたらす可能性が高く、政治的な自由度を高める可能性がありますが、全体的に民主化の見込みを高めるかどうかは不明です。

 

 このように、本書は権威主義を幅広く網羅的に論じています。似たテーマを扱った本にブルーノ・ブエノ・デ・メスキータ&アラスター・スミス『独裁者のためのハンドブック』がありますが、こちらのほうが訳文がわかりやすいこともあって、理論的な理解は進むと思います(『独裁者のためのハンドブック』の方が「読み物」としては面白い面かもしれませんが)。さらに著者と交流のある東島雅昌の解説もついています。

 日本は、周囲に中国、ロシア、北朝鮮という権威主義体制の国を抱えていますし、タイはクーデタで軍事政権となり、フィリピンもドゥテルテのもとで権威主義化が進んでいます。

 ここ最近、民主主義をテーマにした本がいろいろと出版されていますが、その反対物である権威主義を知ることも同じように重要になってくるでしょう。本書は、権威主義を理解する格好の入口となる本です。

 

 

『花束みたいな恋をした』

 数々の良質なドラマの脚本を書いてきた坂元裕二によるオリジナル・ストーリーですが、まずはやはり脚本がうまい。

 主人公は菅田将暉演じる麦と有村架純演じる絹。この2人のまだ学生だった20代前半から5年ほどの彼らの歩みを描いているのですが、彼らはともにいわゆる「サブカル系」で、麦の本棚には大友克洋の『童夢』や松本大洋の『鉄コン筋クリート』が並んでいます。今村夏子をはじめとして好きな小説も重なっています。

 2人は偶然出会い、そして同好の士であることを発見して惹かれ合うのですが、お互いが同好の士であることを知るのは、たまたま終電を逃した者同士4人でカフェ(?)に入ったところで、近くの席に押井守(!)がいることを麦が発見したことからです。

 一緒にいた男は押井守といってもピンとこず、麦に「映画とか見ないんですか?」と言われると、「ちょっとマニアックな映画が好きで『ショーシャンクの空に』が好きだ」といったことを言います。さらに一緒にいた女性は実写版の『魔女の宅急便』の話しをしはじめます。そして絹はもちろん押井守に気づいています。

 ここで、麦が「戦っている」相手を示してそのポジションを明確化するとともに、麦と絹の共犯関係を作り上げて、2人の距離を一気に縮めます。このあたりの脚本は非常にうまくて、とにかく本作では全編にわたって固有名詞の使い方が冴えています。

 

 絹はイラストレーターを目指してイラストを描きつつも、ガスタンクの写真や動画を撮ったりしていますし、絹はラーメンブログを書いたりしています。2人ともクリエイティブな仕事をしたいと思いつつも、何かやりたいこと、自分にしかできないことが定まっていない状況です。麦も絹も「何者かになりたい」といった状態です。

 同好の士を見つけた2人は、好きなものを共有できる幸福の中で同棲を始めます。ただし、その同棲生活は2人が就職をすると徐々に輝きを失っていきます。麦は会社の仕事や「責任」といったものを内面化し始め、サブカルを楽しむ余裕を失っていくのです。そして、そんな麦に絹は不満を覚えるようになっていきます。

 

 ストーリーの説明はこのくらいにしておきますが、未見の人でもある程度の流れを想像できるような話だと思います。「自由」な若い2人の日常が、しだいに「生活」に押しつぶされていくというのは昔からよくある話ではあります。

 ただし、そのあたりを両義的に描いているのが特徴であり、うまさだと思います。

 基本的に本作は、何かクリエイティブに生きたかった若者2人の夢が破れる悲劇ととれます。しかし、同時にそんな2人が悲劇に陥らなかった物語ともとれるのです。

 麦の先輩にクリエイターとして一定程度の成功を収めた先輩がいるのですが、彼は恋人に水商売をさせたり殴ったりもしていました。一方、麦は絹に暴力をふるったりしなかったですし、絹が麦への不満から不倫に走ったりすることもありません。陰惨な悲劇は回避されているのです。

 

 また、ラストに関しても、2人の出会いの「奇跡」は実はありふれたものだった、ととることも可能ですし、自分たちと同じような若いカップルを見ることで、改めて自分たちの出会いの「輝き」(決して「奇跡」ではなかったのかもしれないけど)に気づいたともとれるでしょう。

 

 40代の自分は上記の点で、両方とも後者の解釈をとりますけど、このあたりは世代によって受け止め方は違うのではないかと思います。

 いろいろと考えたり、過去を振り返ってみたくなる映画ですね。