瀧井一博『大久保利通』

 副題は「「知」を結ぶ指導者」。

 以前著者の書いた『伊藤博文』(中公新書)の副題が「知の政治家」だったことを覚えている人は「また知なのか?」と思うかもしれませんし、大久保をそれなりに知っている人からしても大久保に「知」という特徴を当てはめることに違和感を感じるかもしれまえん。

 かつて岩倉具視は大久保について木戸孝允と比較しながら「大久保は才なし、史記なし、只確乎と動かぬが長所なり」(8p)と述べたと言われていますが、この評にもあるように、大久保は木戸や西郷に比べて、「知」の面で優れていたとは言えないからです。

 

 ところが、本書を読み進めていくと、「知」の部分よりも、むしろ「結ぶ」の部分に本書の力点があることがわかってきます。

 大久保自らは深い「知」の持ち主ではなかったかもしれませんが、明治新政府の始動にあたって、大久保はできるだけ多くの「知」を集めようとしたのです。

 大久保と言えば、「冷徹」で「孤高」というイメージが強いかもしれませんが、本書はそのイメージとは違った大久保のリーダーシップに光を当てています。

 

 目次は以下の通り。

はじめに

第一章 理の人
I 志士への道
II 弛緩する朝幕体制
III 好敵手・慶喜
IV 連携する薩長――「共和」の国へ
Ⅴ 倒幕、そして王政復古
第二章 建てる人
I 東京遷都――一君万民の国造りへ
II 廃藩置県
III 政体調査としての欧米回覧の旅
第三章 断つ人
I 征韓論政変
II 立憲政体の構想と内務省の設立
III 佐賀の乱
IV 台湾出兵と北京談判
第四章 結ぶ人
I 立憲政体の漸次樹立
II 衆智としての殖産興業――東北への勧業の旅
III 西南戦争
IV 勧業の夢――第一回内国勧業博覧会
終章
あとがき

 

 本書は大久保の誕生から死までを扱っていますが、特にオリジナリティがあるは後半部だと思いますので、ここでの紹介も第2章から始めたいと思います。

 第1章では、王政復古の大号令に向けて、大久保が倒幕とともに古い朝廷の体制を一新せねばと考えていたのが印象的で、慶応3(1867)年11月の時点で、薩摩藩士の伊地知正治が大久保に遷都について書き送っているように(142p)、大久保の周辺ではすでに遷都も頭に入っていたこともわかります。

 

 第2章では明治政府の成立後の大久保の活躍が描かれていますが、まずは岩倉とともに取り組んだ東京遷都です。最後の最後で岩倉は東京遷都に抵抗を示すようになりますが、ここは大久保が押し切りました。

 さらに大久保は旧幕臣の登用を進めようとし、徳川慶喜の宥免を唱えます。これには三条実美が反対しますが、大久保がこれを説得し、慶喜の謹慎免除にこぎつけました。

 大久保は、この後も、旧幕臣、あるいは身分にとらわれずに有能な人材の発掘と抜擢に熱心に取り組みます。

 

 ただし、この時期に重要な政策をリードしたのは木戸でした。版籍奉還廃藩置県もより積極的だったのは木戸です(ただし、松沢裕作『日本近代社会史』によれば、版籍奉還は姫路酒井潘、、廃藩置県熊本藩知事・細川護久の建白に薩長が乗っかったと説明されている)。

 もっとも、大久保の上には保守的な立場を持つ島津久光の存在があり、木戸ほど自由に動けなかったという面もあります。

 

 積極主義の木戸のもとで、新政府の積極的な政策を行っていたのが大蔵省と民部省が合併してできた大隈重信率いる民蔵省でした。あまりに性急なやり方に危惧を覚えた大久保は、民蔵両省の分離をはかり、これを成し遂げます。

 後にも触れますが、大久保は一貫して漸進主義者であり、急進的な改革にブレーキを掛ける役割でした。

 廃藩置県に関しても大久保は慎重な姿勢でしたが、木戸と政府に復帰した西郷の間で話がまとまったことから、これを受け入れます。

 

 さらに大蔵省と民部省の合併も決まり、大久保の構想は木戸によって押し流される形になりました。ただし、井上馨が大久保に対して大蔵卿への就任を強く要望したこともあって、大久保が政府中枢から去ることはありませんでした。

 

 この後に岩倉使節団の一員として大久保は洋行しますが、当初、大久保は自分と木戸が共に洋行に出ることに慎重でした。

 ところが、大久保は洋行を決意します。岩倉に対しては、再び民部省を取り込んだ大蔵省の活動を抑止するためには卿である自分がいないほうがよいという理由をあげていますが、他にも関税についての条約改正の必要性を感じていたことなどがあげられます。

 

 岩倉使節団において大久保は工場を熱心に見学したことが知られています。この経験がのちの内務卿への就任と殖産興業の推進へつながっていくわけですが、本書を読むと、大久保がいわゆる先進的な工業だけではなく、国産化できそうなものに注目していたことも見えてきます。

 

 例えば、大久保はパリ滞在中に大倉喜八郎の訪問を受け、大倉が兵隊の軍服を羅紗製に変えるために毛織事業を興そうとしていることを知ります。これに対して、大久保は初めての事業で失敗するよりは、まずは政府がやってみて、うまくいったら貴公に払い下げたいと提案しています。

 そして、随行していた留学生に毛織事業を学ばせ、下総に牧羊場を開かせるのです。

 

 また、最後に訪れたドイツではビスマルクと会い、弱肉強食のリアル・ポリティークの現実を教えられています。

 

 しかし、外遊は帰国命令によって打ち切られます。留守政府において、財政規律を守ろうとする井上馨と積極的な政策を求めるその他の省庁の対立が調停不能なところまできたことと、征韓問題の浮上がその理由です。

 また、大久保らが留守の間に、江藤新平大木喬任後藤象二郎が参議に就任しますが、これとともに正院が強化され、「内閣」という言葉も使われるようになりました。参議らが各省を従える体制ができあがったのです。

 

 明治6(1873)年の5月26日に帰国した大久保はしばらく参議になることを渋っていましたが、10月になると参議に就任します。

 一度は西郷の朝鮮への派遣が決まりますが、最終的には大久保と岩倉が押し返し、西郷、江藤、板垣、後藤、副島が政府を去ります。

 

 明治6年の政変後、大久保は「立憲政体に関する意見書」を出していますが、その試案である「政体論」では、「君主専制」、「農本主義」、「漸進主義」の3つが打ち出されていました。一方、「立憲政体に関する意見書」では、将来的な「君民共治」が打ち出されました。

 これは「君主専制」といっても天皇親政を求めるものではなく、大臣・参議の補佐を重視しているという点から実質的には同じようなものだともとれますし、「君主専制」→「君民共治」という漸進主義が打ち出されているとも言えます。 

 なお、「政体論」にあった「農本主義」は内務省の設立につながっていきます。

 

 大久保は大蔵省が徴税と撫育治産の事業を兼ねていることをかつてから問題視しており、伊地知正治や宮島誠一郎のはたらきかけもあって内務省の設立が決まり、大久保が内務卿に就任することが決まります。

 大久保は内務省前島密や杉浦譲といった旧幕臣を含めた人材を集め、勧業、郵便、治山治水、戸籍といった職務に取り組んでいくことになります。

 ここでの勧業の中心は農業とその周辺の産業であり、鉄道や鉱業はできるだけ民間に任せようとしていたのも大久保の特徴的なスタンスと言えます。 

 

 ただし、大久保は内務省の業務だけに専念することは許されませんでした。

 1874年2月には内務卿の職を輝度に任せて佐賀の乱の鎮圧のために佐賀に赴いています。大久保は江藤を晒し首にし、「江藤の醜態は笑止である」(319p)と言い放っています。

 さらに台湾出兵の問題が持ち上がります。出兵を止められなかった大久保は、8月に北京に渡って交渉を行います。ボワソナードの助言などから戦争の大義がないと考えた大久保は粘り強く交渉を重ね、駐清イギリス公使のウェードの助けも得ながら交渉をまとめ上げました。

 

 帰国した大久保は横浜港で多くの人々から歓迎を受けますが、すぐに台湾出兵に反対して政府を去った木戸の復帰のために動き出します。

 両者の話し合いはなかなか進みませんでしたが、伊藤博文の周旋もあって木戸と板垣の政府への復帰が決まります。木戸が求めた政府機構の改革に対しては岩倉の反対がありましたが、大久保は木戸の復帰を優先して岩倉を押し切っています。

 政府に復帰した板垣は、島津久光と組み、参議省卿分離(各省の卿と参議を分離すべきだという論)を持ち出して政府に揺さぶりをかけますが、これに失敗し、板垣と久光は政府を離れます。

 

 1876年5月、大久保は三条実美に「本省事業ノ目的ヲ定ムルノ議」と題した建議書を提出しています。

 本省とはもちろん内務省ですが、ここで「内務の現に着手の先務緊要とする処」として、①樹芸・牧畜・農工商を奨励するの道、②山林保存・樹木栽培、③地方の取締の整備、④開運の道を開くこと、の4項目があげられています(366p)。

 それぞれ内務省のセクションである勧業寮、地理寮、警保寮、駅逓寮に係る案件です。

 

 これについては小幡圭祐・松沢裕作「『本省事業ノ目的ヲ定ムルノ議』の別紙について」というその成立過程を研究した論文があり、この各案件がそれぞれ単独につくられたことを明らかにしています。

 ここから大久保の政策上の主導性を疑問視する考えも出てくるのですが、著者は大久保のリーダーシップをプロデューサー的なものと見ています。まさに「結ぶ」人というわけです。

 

 明治9年5月から2ヶ月にわたって大久保は東北地方の巡察に出ます。

 大久保は各県の県政の状況や、道路や水運の交通状況、産業の様子を知ろうとし、さらに各地で殖産に努める有為の士を発掘しようとしました。このあたりにも大久保のプロデューサー的な性格がうかがえるかもしれません。

 さらに東北の沃野の開拓に意欲を示し、安積疎水の整備による開拓事業が始まりました。

 

 しかし、大久保は士族反乱にも向き合わなければなりませんでした。特に1877年に勃発した西南戦争では同志であった西郷と戦うことになりました。

 西南戦争の最中に木戸も亡くなり、また、腹心だった杉浦譲も亡くなるなど、大久保にかかる負担はますます大きくなりました。

 

 西南戦争が集結する前に上野で始まった第一回内国勧業博覧会は、大久保の構想の1つの集大成となりました。

 大久保は殖産興業のためには、人々がさまざまな技術やアイディアを見て触発されることが必要だと考えていました。

 万国博覧会はこの時代の世界的な流行でしたが、大久保が考えたのはあくまでも国内向きのもので、日本国内に眠っているアイディアや人材を発掘しようとしたものでした。多くの人の目が海外に向いていた中で、大久保の目は国内にも向いていたと言えます。

 実際、この博覧会では日本の陶磁器の技術などが改めて注目され、臥雲辰致のガラ紡機が見いだされ、1位を受賞しました。

 そして、翌年の5月に大久保は紀尾井坂で暗殺されています。

 

 以上、興味を引いた点を中心にまとめてみましたが、本書を読むと、大久保の強みが佐賀の乱西南戦争で見せた「鋼の意志」だけではなく、人々のアイディアを活かそうとする柔軟性にもあったことが見えてきます。

 台湾出兵における清との交渉においても、「意志」だけではなく、ボワソナードの助言を取り入れた交渉をしたことが成功につながったことがわかります。

 そういった意味で大久保は「結ぶ」人であり、本書は大久保のプロデューサー的な側面を掘り起こすことに成功しています。