オリヴィエ・ブランシャール『21世紀の財政政策』

 現在、欧米は物価上昇に対応するために利上げを続けていますが、それまでは日本を含めた先進国の多くで低金利政策がとられていました。

 そうした中で、財政政策や財政赤字に対する考えを変える必要があるのではないかというのが本書の主張になります。

 

 ローレンス・サマーズ、ベン・バーナンキポール・クルーグマン、アルヴィン・ハンセン著/山形浩生編訳『景気の回復が感じられないのはなぜか』を読んだ人であれば、コロナ前の世界について、低金利で株価も上がっているのに投資は十分に回復していない「長期停滞」の時代だったのではないか?という議論を知っていると思いますが、本書はその「長期停滞」時代の財政論といった形です。

 

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 基本的な考えは、(r(実質安全金利)-g(実質経済成長率))がマイナスであるならば、財政政策や財政赤字には今までとは違った考えが求められるだろうというものです。

 そして、後戻り不能に思えるほどに財政赤字を積み上げてきた日本の財政政策を「ちょうどよかった」と評価しています。

 

 目次は以下の通り。

第1章 本書の概要
第2章 導入
第3章 金利の変遷、過去と未来
第4章 債務の持続可能性
第5章 債務と財政赤字による厚生面のコストとベネフィット
第6章 財政政策の実践
第7章 要約と今後の課題

 

 まず、「(r-g)がマイナス」と聞くと、「ピケティはr>gと言っていなかったっけ?」となる人も多いと思います。

 これについては本書の「r」のピケティの「r」が違うからです。本書の「r」は安全金利国債の利回りなど)であり、ピケティの「r」は株式収益率などを含むリスク金利になります。

 

 本書の基本的な考えは次のようなものです。

 今まで均衡財政を続けてきた政府が何らかの理由で巨額の国債発行を行ったとしましょう。例えば、歳入が100兆円、歳出も100兆円の国が地震から復興のために20兆円の国債を発行したとします。

 増税や歳出削減によって、この20兆円の借金を返さなければならないと考えますが(東日本大震災の時の復興増税がそうだった)、もしも、経済成長率(g)が2%で安全金利(r)が1%ならば、放置していおいても予算に占める借金の減っていくはずです。

 つまり、g>rであるならば、財政政策の余地はかなり大きいはずなのです。

 

 「そんな都合のいい話があるか」と言いたい人も多いでしょうが、日本では20年以上、金利はほぼゼロに貼り付いたままですし、アメリカの10年実質経済成長率予測と10年実質金利の推移を見ると、21世紀に入ってからは金利が経済成長率を下回る状態が続いているのです(68p図3-3参照)。

 

 ちなみに本書では金利について「r*」と表される中立金利というものを導入しています。定義は以下のようなものです。

 中立金利の1つ目の定義は、生産が潜在生産量の水準にあると仮定したときに、貯蓄が投資と一致する実質安全金利である。中立金利の2つ目の定義は、総需要が潜在生産量と一致する場合の実質安全金利である。この2つの定義は確かに同義であるが、中立金利を決定する要因に関する異なる考え方を示唆するもので、後に有用なものとなる。(20p)

 

 この中立金利の低下の要因としては、少子高齢化にみられる人口動態の変化、新興市場国の外貨準備の増大、国内格差の拡大、資本財価格の低下や技術進歩などがあげられています。

 一方、近年の債務比率の増大が中立金利を引き上げる影響を与えてきたとの見方もあります。

 

 総貯蓄率を見ると、2000〜08年にかけて中所得国の貯蓄率が上昇しましたが(主に中国の貯蓄率を反映)、高所得の貯蓄率はリーマン・ショック後に低下した以外は安定しており、世界全体で見ると安定したものになっています(74p図3−4参照)。

 また、S&P500を保有した場合の期待収益率と実質安全金利を比較すると、21世紀になってからそのギャップは拡大しています(76p図3−5参照)。つまり、投資家の安全性への需要の高まり、あるいは流動性への需要の高まりを反映していると考えられます。

 

 一方、世界全体の経済成長が大きく減速しているわけではありません。

 世界銀行のデータによると、世界の平均的な実質経済成長率は1990年代が2.7%、2000年代が2.8%、2010年代が2.9%とほぼ同じです(81p)。

 ですから、経済成長の低下が低金利の要因というわけでもないのです。

 また、人口動態からはこれからの金利低下の圧力がかかると予想されます。

 

 第4章では債務の持続可能性について検討されていますが、ここは数式も多いので実際に本書を読んでみてください。

 大雑把に言うと、(r-g)<0の場合は、債務の持続可能性の問題は存在しません。政府がどれだけの水準のプライマリーバランスの赤字を計上しても、債務は増加こそすれ爆発はしません。

 しかし、実際に(r-g)<0がいつまでもつづくとは限りませんし、財政出動は中立金利を上昇させます。

 

 また、著者は公共投資の重要性を指摘しつつも、公共投資による社会的厚生の改善が直ちに国家への財政的収益をもたらすわけではないので、債務の持続可能性を考慮しながら行うべきだと主張しています。

 このあたりは、例えば、MMTなどの主張とは違うところと言えるでしょう。

 

 債務が爆発する可能性として、例えば国債が安全資産ではなくリスク資産だとみなされることがあげられます。こうしたことは途上国ではたびたび起きますし、ユーロ危機はそれが先進国でも起こりうることを示しました。

 ただし、ユーロ危機をECBのドラギ総裁が収拾できたように、中央銀行によってこうした悪い均衡は防ぐことができるかもしれません。

 

 一方、著者は中央銀行が債務を消滅させるようなやり方には批判的です。直接的な影響はないものの、中央銀行の独立性に疑いをもたせ、中央銀行が財政に従属してしまうことに繋がるだろうといいます。

 

 このように多少なりとも債務のリスクについて触れると、公的債務は将来を担保にする「悪いもの」だと考える人もいるかもしれませんが、公的債務の増加が厚生を増加させる可能性はもちろんあります。

 資本の過剰貯蓄は起こり得ることで、このときに貯蓄を縮小することは基本的にすべての人々の消費と厚生を改善します。そして、公的債務はその役割を果たすというのです。

 確実性の世界であれば、(r-g)<0の場合、債務は良いものであるのです。

 

 もちろん、私たちは確実性の世界にいるわけではないので、常に債務は良いものであるとは言えないわけですが、それでも債務は言われているほど悪いものではないというのが本書の考えになります。

 

 このように「絶対」というものはないわけですが、基本的に中立金利が低いときは財政面でも厚生面でも債務のコストは小さく、また金融政策の余地が少ないので、債務を増加させても財政政策を行うべきだということになるでしょう。

 一方、中立金利が高いときは財政面でも厚生面でも債務のコストは高くなりますが、金融政策の余地は大きくなるので、金融政策が用いられるべきだということになります。

 

 第6章では、ケーススタディとして、財政政策が「少なすぎた」例として世界金融危機リーマン・ショック)後の欧州の緊縮財政、「ちょうどよかった」例として過去30年の日本、「過剰だった」例として2021年にバイデン政権が打ち出した米国救済計画をあげています。

 

 リーマン・ショック後、各国が財政を拡大させますが、2010年に欧州委員会EUの財政ルールを停止しないことを決定し、「出口戦略」に焦点を移します。2011年に景気の回復が鈍化してもこの姿勢は変わらず、2012年、13年と欧州委員会は厳しい緊縮財政を求めました。

 高債務のコストが実際のコストよりも高く認識される一方で、財政再建による生産へのコストは過小評価され、需給ギャップは拡大しました。

 

 一方、一般的に「失敗」とされる日本の財政政策は評価れています。

 過去30年、日本の公的債務は増大した一方で、経済成長は伸び悩んでおり、財政政策は無駄だったと考えられがちです。

 しかし、著者は日本の低成長は人口の問題が主因であり、労働者1人あたりの生産で見た生産性の伸びは0.6%とEU19(EU加盟の先進19カ国)の0.5%とほぼ同じであることを考えると、これを致し方のないことだったと考えているようです。

 

 1990年代、日本政府は引き締めと緩和を交互に繰り返すストップ・アンド・ゴー政策となっていました。2000年代に入ると、プライマリーバランスの改善が目指されるようになりますが、リーマン・ショックとコロナ危機によって中断されました。

 それでも、その2つの危機を除けば、比較的政府が目指した形でプライマリーバランスの改善は進んでいます(220p図6−3参照)。

 

 そして、低い失業率を考えると、「大幅な財政赤字、他方では実行下限成約での金融政策が、慢性的に低迷する民間需要の中で日本の生産を潜在水準近くにまで維持したと捉えることもできるだろう」(223p)と著者は述べています。

 もちろん金利上昇のリスクはありますが、現在のところ日本国債のほとんどを国内の投資家が保有しており、しかも日銀が大量に保有しています。日銀は他の投資家と歩調を合わせて売却せず、逆に買いを入れることもできます。

 また、民間需要の盛り上がりから中立金利が上昇することも考えられますが、経済成長の局面では政府は財政赤字を削減することができます。

 

 むしろ、いつまでも金利が上昇せずに、政府の債務が拡大し続ける局面こそがリスクと言えるかもしれませんが、その場合はグリーン投資や保育の改善など財政政策の出番になります。

 

 最後にアメリカのコロナ対策のための財政支出が検討されています。

 アメリカのコロナ対策としては2020年12月にトランプ政権が打ち出した8700億ドルの「インパクト・エイド・コロナウイルス救済法」と、2021年3月にバイデン政権が打ち出した1.9兆ドルの「米国救済計画」があります。

 しかし、これは過大だったと著者はみています。米国議会予算局は需給ギャップをおよそ9000億ドルと見積もりましたが、これはコロナによる供給制約を考えていないもので、明らかに過大な見積もりだったというのです。

 結果としてインフレが進行し、FRBは利上げへと動かざるを得なくなりました。

 

 このように本書は低金利時代の財政政策について教えてくれる本です。

 現在、アメリカやヨーロッパでは利上げが続いているので、低金利時代が過去のものになったという考えもあるでしょうが、日本の日銀の緩和継続と物価上昇の勢いを見ると、少なくとも日本では一定の低金利が維持されるのではないかと予想します。それを考えると本書の知見は重要でしょう。

 MMTのように「イケイケドンドン」ではありませんが、本書を読めば(r-g)<0の世界では、グリーン投資や子育て投資に対して、必ずしも財源とセットで論じる必要はないということがわかります。

 財務省の人にも読んでほしい本ですね。