『運び屋』

 毎回水準以上のクリント・イーストウッドの作品ですが、これは良かった!

 クリント・イーストウッドが、実在した90歳の麻薬の運び屋をモデルにし、自ら主演した映画ということで、主人公は『ミリオンダラー・ベイビー』や『グラン・トリノ』の主役に通じるような渋い人物かと思いきや、お調子者で女好きで、人種差別的な発言もポロポロとしてしまうような人物。性格的には高田純次を思わせるような感じで映画の中で何回も笑えるところがあります。

 

 主人公のアールは園芸家で、品評会などに熱心に参加する一方、家庭は顧みない人間で、娘の結婚式をすっぽかしたことによって家族とは絶縁状態になっています。破産して自分の家や園芸畑も手放してしまったアールはひょんなことから麻薬の運び屋の仕事を頼まれてそれにはまっていきます。

 食い詰めて運び屋の仕事に手を出すとなると、悲愴感がでてきそうですが、アールの場合はそれとは無縁です。暴力が支配する麻薬組織のメンバーの中でもどこか超然としていますし、スリルを楽しんでいるような様子も見受けられます。

 品評会などの外からの評価こそが生きがいだったアールにとって、運び屋をやることによって得る報酬や賞賛というものも、自分を気持よくさせてくれるものなのです。

 

 物語はアールの運び屋としての行動とともに、アールと家族の関係、そして麻薬組織を追うブラッドリー・クーパー演じる捜査官の動きを追います。アールとクーパー演じる捜査官が会った時に(まだ運び屋だと気づく前)、アールは「家族が一番だ」という話をし、実際に家族を重視した行動に出るようになります。

 ただ、それはメキシコの麻薬組織のボスに招待されてセクシーなおねえちゃんと遊んでいた人物から出た言葉であって、どこかしら胡散臭くもあります。

 

 最終的にこの話は「家族愛」の話としてまとまっていると考えることも可能ですが、『ミスティック・リバー』や『チェンジリング』で、ある種の「家族の怖さ」を描いてみせたイーストウッドだということを考えると、この映画も、裏社会に入り込み家族から完全に離脱したことによって家族が「外」になり、だからこそ家族に評価されることを喜ぶようになった男の物語とも読めますし、「家族愛」を隠れ蓑にした享楽を描いた映画といえるかもしれません。

 このあたりは人それぞれ違った感想を抱くかもしれませんが、個人的には非常に重層的な映画に思え、素晴らしい映画だと思いました。

 

 

 

 

マット・ヘイグ『トム・ハザードの止まらない時間』

 主人公のトム・ハザードは見た目は40歳ほどの男ですが、実は1581年生まれで400年以上生きているという設定です。こう書くと不老不死の男の物語を想像する人もいるかもしれませんが、少し違います。

 主人公は遅老症(アナジェリア)と呼ばれる病気であり、思春期までは順調に成長しますが、それ以降は極端に年を取るのが遅くなりま。だいたい15年で1歳ほど年をとる感じであり、また、病気に対する免疫力なども高まるために、殺されたり大怪我をしたりしない限り何百年も生き続けることになるのです。

 

 16世紀末にフランスのユグノーの家に生まれた生まれたトム・ハザード(フランス読みだとアザール)は、ユグノーの弾圧を逃れるためにイングランドへと渡り、そこでシェイクスピアと出会い、さらにはクック船長の船に乗り込み、パリではスコット・フィッツジェラルドゼルダと出会い、現在はロンドンで歴史の教師をしています。

 

 こう書くと、さぞかしすごい歴史スペクタクルが展開するのかとも思いますが、この小説ではこれらの有名人との出会いはあくまでもスパイスのようなものであり、本筋は年を取らない人間の抱える困難と孤独です。いつまでも年を取らない人間は当然ながら周りから不信の目で見られますし(特に主人公の生まれたころの魔女狩りがまだ行われていた時代ならなおさら)、たとえ恋愛とをしたとしても相手だけが一方的に年を取っていきます。

 このあたりは高橋留美子の『人魚の森』とかを思い出しました。

 

 こうした狙いが成功しているかというと、十分に成功しているとは言い難い面もあって、途中で出てくる遅老症の人びとの秘密組織「アルバトロス・ソサイエティ」の設定がちょっと雑なんですよね。

 主人公の内面を丁寧に追うのはいいのですが、それによってこの秘密組織の雑さが気になってしまう部分がありました(もっと歴史スペクタクルに寄っていれば気にならなかったのかもしれない)。

 

 ただし、読んで面白いのは確かで、読者を引っ張り込む内容にはないっていると思います。ベネディクト・カンバーバッチ主演で映画化が進行中との話ですが、確かにこれは映画向きの話でもありますし、ベネディクト・カンバーバッチ主演なら見てみたいですね。

 

 

Better Oblivion Community Center/Better Oblivion Community Center

 謎の名前のバンドですが、Bright EyesのConor OberstとLAの女性シンガーソングライター Phoebe Bridgersが組んだユニットで、これが1stアルバムとなります。

 Bright Eyesに関しては2007年の「Cassadaga」あたりまでは聴いていたのですが、そのあたりからやや退屈な感じがしてずっと追っていなくて、Conor Oberstのソロやその他の活動もほとんど聴いていない状態でした。

 ただ、今作は女性ボーカルと組んだということで、それだけで変化が生まれていいいと思います。3曲目の"Dylan Thomas"なんかは冒頭のメロディの良さだけで押していくような歌なのですが、けっこういい感じだと思います。

 曲としてはギターを中心としたフォーク系の曲が多いですが、5曲目の"Exception to the Rule"なんかはBright Eyesが「Digital Ash in a Digital Urn」でやっていたエレクトロニカっぽところもあり、アルバムのなかのアクセントになっていると思います。

 もちろん、以前のような圧倒的なエモさはないのですが、それでも随所にエモさを感じられるところもあり、40分に満たない尺ですがいろいろと楽しめるアルバムになっています。

 


Better Oblivion Community Center Performs 'Dylan Thomas'

 

 

アレクサンダー・トドロフ『第一印象の科学』

 教員という職業柄、人の顔はたくさん見ている方だと思うのですが、たまに兄弟でもないのに「似ている!」と感じる顔があったり、双子で顔のパーツは本当に似ているのに並んでみると少し顔の印象が違ったり、顔というのは本当に不思議なものだと思います。

 

 まずは、下の写真の2つの顔を見て下さい(本書3pの図1)。この2人が選挙にでていたらどちらが勝ちそうでしょうか?

 

f:id:morningrain:20190226211154j:plain


 おそらく、多くの人は左側の人物を選ぶでしょう。なんとなく有能そうに見えます。

 実はこれ、左側は対立候補よりも有能そうだと人びとが感じた顔をモーフィング(合成)したもので、右側は彼らの対立候補の顔をモーフィングしたものです。

 そして、人びとは顔写真を見ただけで勝つ候補を7割程度の確率で予測できるというのです。この実験は各国で行われており、同じような結果が出ています(顔から有能さが推測できるのか? それとも顔で選んでいるのか?)。

 

  この他にも、この本ではさまざまな顔が紹介されており、特にコンピュータでつくり上げた「外向的な顔/内向的な顔」(54p図2−8)、「信用できる顔/できない顔」(57p図2−9)、「支配的な顔/従属的な顔」(150p図6−13)、「無能な顔/有能な顔」(155p図6−17)などは、まさにそのように見えます(「支配的な顔/従属的な顔」は明らかにやり過ぎですが)。

 確かに、人は他人の内面を顔によって推測しており、その判断は多くの人の間で一致するのです。

 

 ということは、顔からその人の隠れた部分がわかるかもしれません。そこで、18世紀になると顔からその人の性格や資質を読み取ろうとする観相学がさかんになります。

 18世紀にはラヴァーターが人気を博し、その本の編集にはゲーテも手を貸しました。さらに19世紀にはのちに優生学で悪い面で名を残すことなるゴールトンが観相学に取り組みました。ゴールトンは合成写真のアイディアによって、例えば犯罪者の顔写真を数多く合成することによって犯罪者に特徴的な顔を取り出そうとしたのです。さらにゴールトンは精神病患者や結核患者、全米科学アカデミーの会員の顔写真などを集め、それらの人びとの特徴を取り出そうとしました。

 しかし、合成された犯罪者の写真はゴールトンの期待に反するものでした。個々の顔は極悪犯に見えるけれども、合成するとその特徴は消えてしまったのです(30ー31p)。

 

 では、この本は最新の知見によって蘇った現代の観相学なのかというと、それは違います。

 このプリンストン大学の心理学部教授によって書かれた本は、顔というよりも第一印象に注目し、そのからくり、信頼のなさ、影響の強さなどを分析しています。以前、L・A・ゼブロウィッツ『顔を読む』という本を読んで、なかなか面白かったのですが、この本ではさらに一歩進んだ研究を見せてくれています。

 

 人間の顔から受ける印象はほんの一瞬で形成されます。その時間は0.1秒に過ぎないそうです。その短時間で人はその顔からさまざまな情報を読み取るのです。そして、この判断は1歳にならないうちの可能になるといいます(57ー59p)。

 

 この第一印象からくる判断についての説明で、著者はカーネマンの『ファスト&スロー』の議論を援用しています。人間には比較的自動的で努力を要しない素早い処理(システム1)と比較的意図的で統制的で遅い処理(システム2)があり、第一印象の形成はシステム1に基づくものなのです。

 この第一印象に対する処理はいわば本能のようなものであり、とりあえずは多くの人の判断を拘束します。人はわずか0.1秒顔を見ただけで、どちらの候補が選挙に勝ちそうかを判断するのです。

 

 顔にはステレオタイプ的なポイントがあり、それに従ってさまざまな判断が下されていると考えられます。

 例えば、実際に犯罪者が特定の顔立ちをしているわけではありませんが、多くの人にとって犯罪者に見えやすい顔というのはあり、この本の87pの図3−8と88pの図3−9でそうしたポイントに従ってつくり出された顔を紹介しています。

 この「犯罪者に見えやすい顔」というのは悪用されることもあって、警察が行う面通しにおいて、警察官は容疑者よりも犯罪者に見えない顔の写真を用意して行う傾向があるというのです(88ー89p)。

 

 では、人間は顔のどこを見て判断を行っているのか? まずは「目」という答えが出てきそうですが、意外に大きいのが眉と口元です。

 例えば、98pの図4−2と図4−3は、それぞれ眉のないニクソンと目のないニクソンですが、眉がない方がニクソンだと当てるのが難しい感じです。

 また、同じ目の画像でも口元が上がっていれば目が微笑んでいるように見えますし、口元が真っ直ぐであれば微笑んでいるようには見えません(105p図4−7参照)。

 

 さらに顔の微妙なコントラストがその人の印象を大きく変えることもあります。まったく同じ顔でもコントラストを変えるだけで男性っぽく見えたり女性っぽく見えたりするのです(111p図4−13、図4−14参照)。目と口の、残りの顔の部分に対するコントラストがポイントで、「この錯視は化粧に人気がある理由」(111p)になります(今まで、「すっぴんでもいいじゃないか」と思っていましたが、間違いでした…)。

 

 著者たちの研究では、より信頼できる顔と信頼できない顔、支配的な顔と従属的な顔などをCGで作成することが可能になっています。極端すぎるものもありますが、それなりにしっくりくるものです。

 また、これらの顔はある種の表情と関連しており、顔の感情表現と顔から読み取る性格が表裏一体のものであることもわかります。

 

 このように人間の顔から受ける第一印象はある程度共通しているのですが、普遍的というわけではありません。人間は馴染みの顔を信用する傾向があり、日本人とイスラエル人の若い女性を合成した顔を作ると(166p図7−4)、日本人は日本人っぽい顔を「信頼できる」と判断しますし、イスラエル人はその逆になります。 

 基本的に人間は馴染みの顔にポジティブな印象を抱きやすいのです。

 

 しかし、第一印象は不正確なものでもあります。

 例えば、下の写真(本書192p図8−9)をみて上段と下段で左右どちらの女性が魅力的か考えてみてください。

 

f:id:morningrain:20190226211559j:plain

 

 多くの人は上段は左側の女性、下段は右側の女性を選んだのではないでしょうか?(と本書には書いてある。自分の場合は上段は左側だけど下段はどちらとも言えない、くらい)

 ところが、この写真、左側の上段下段、右側の上段下段は同一人物です。ライティングや髪型、表情などでその印象は大きく変わります。

 また、先入観というのも大きく、「連続殺人事件の犯人だ」と言われてから写真を見せられれば、その人の顔はいかにも犯罪者っぽく見えてきますし、また、新聞などに掲載される犯罪者の写真にはいかにも犯罪者っぽい写真が選ばれるということもあります。

 

 こうなると、いっそのこと顔を見ないほうがいいという状況も存在します。日本の企業では多くの場合、顔写真付きの履歴書を提出させ、実際の面接で合否を決めていますが、この顔からの判断というのはまったくあてにならないといいます。

 人物証明書は、職業上の成功を推測する手段としては、面接より優れている。なぜなら人物証明書がまとめているのは、見かけの印象以上のものだからだ。面接は職業上の成功を推測するには非常に劣った手段であることが判明している。面接で受けた印象と職務遂行能力との相関関係は0.15を下回る。(226p)

 

 映画『マネーボール』の主人公のビリー・ビーンは顔や体格から受ける印象といったものをできるだけ無視し、データから隠れた才能を発掘しようとしました(ちなみにビーン自体は素晴らしい肉体と顔つきをもちながらプロ野球選手としては大成しなかった)。第一印象を無視したほうがうまくいくケースもあるのです。

 

 この他にも、この本には高齢者の顔にそれまでよく抱いていいた感情が刻印される可能性、喫煙者の顔に現れるスモーカーズ・フェースなど興味深い顔をとり上げ、さらに顔に注目する人間の本能を探っています。

 このあたりはぜひ本書を読んでほしいとして、あと個人的にツボだったのが313pの図14−6のテニス選手の顔だけを並べた写真です。キャプションに「ポイントを得た直後、または失った直後のテニス選手の顔。ポイントを得たのは誰か、失ったのは誰かわかるだろうか? とありますが、これが全然わからない。みんさんもぜひ本書を手に取って考えてみてください。

 

 このように顔と第一印象に関する興味深い知見が詰まった本です。毎日のようにたくさんの顔を見て暮らしていますが、顔にはまだ広大なフロンティアが残っているのだということを教えてくれます。

 

 

 

 ちなみに途中で紹介したL・A・ゼブロウィッツ『顔を読む』もなかなか面白い本です。

 

morningrain.hatenablog.com

『アリータ: バトル・エンジェル』

 今日見てきましたが、なかなか面白かったです。原作は未読なので、原作のファンがどう感じるかはわかりませんが、SFアクションとして楽しめる映画です。 

 まずは監督にロバート・ロドリゲスを起用したのが当たりでしょう。ロバート・ロドリゲスは切れのあるアクションシーンを撮る監督で、『プラネット・テラー in グラインドハウス 』とかは面白く見た記憶がりますが、同時に個人的にはそのグロさについていけないところもあり、そこまで追いかけたいとは思わない監督でもあります。

 ところが、今作はほぼ登場するのがアンドロイドなので、特に「痛さ」のようなものを感じずに済みます。あまりゾワゾワせずに純粋に切れのあるアクションを楽しめました。戦闘シーンもモーターボールのシーンもいずれも良かったです。

 

 あと、予告を見た時は、実写の俳優のなかで主人公だけがCG(女優・ローサ・サラザールに演じさせたのをCG加工しているのかな?)という画面で果たしてうまくいくのかという疑問があったのですが、そこはさすがのジェームズ・キャメロン(映画化権を獲得しプロジェクトを温めつつ最終的にはプロデューサーに回った)。映画の世界にしっかりとはまっています。

 日本の漫画やアニメの十八番でありながら、現実世界に登場させようとするとリアルな存在とはなり難い「戦闘少女」を描くための1つの手法としてうまくいっていると思います。また、CG化することによってグロさを抑えるという効果もあります。

 

 ストーリー的にはけっこう詰め込んでいる感があり展開は忙しいのですが、続編を予告しつつ、それなりに完結感のある形で終わっています。

 日本のマンガのハリウッド実写化の中では、かなりいい線いっていると言っていいのではないでしょうか。

 

キム・グミ『あまりにも真昼の恋愛』

 晶文社の「韓国文学のオクリモノ」シリーズの1冊で、2009年にデビューし、若い世代から人気を得ているキム・グミの短篇集。

 「韓国文学のオクリモノ」シリーズは、パク・ミンギュ『三美スーパースターズ』、ハン・ガン『ギリシャ語の時間』、ファン・ジョンウン『誰でもない』と読んだどれもが面白かったですが、この『あまりにも真昼の恋愛』も面白かったです。

 収録作は「あまりにも真昼の恋愛」、「趙衆均氏の世界」、「セシリア」、「半月」、「肉」、「犬を待つこと」、「私たちがどこかの星で」、「普通の時代」、「猫はどのようにして鍛えられるのか」の9篇。

 

 前半の3篇、「あまりにも真昼の恋愛」、「趙衆均氏の世界」、「セシリア」は今の韓国の姿を切り取った短篇で、特に「あまりにも真昼の恋愛」、「趙衆均氏の世界」は完成度が高いです。

 「あまりにも真昼の恋愛」は会社で左遷された(営業課長から施設管理担当という落差の大きさは韓国ならではのものなのか?)ピリョンという男が、16年前に突然「好きだ」と告白されたヤンヒと2人が通ったマクドナルドのことを思い出し、そこに行ってみることから始まります。

 韓国社会における「成功」の道を歩んできたつもりだった常識的なピリョンと、ピリョンにとってはまったくの謎だったヤンヒ。出世の階段からドロップアウトしたピリョンがヤンヒの謎を探る話になります。

 

 「趙衆均氏の世界」も出版社に勤務する趙衆均(チョジュンギュン)氏の謎を試用期間中の主人公が探る話になります。昼飯を食べない趙衆均氏、どうやら詩を書いているらしい趙衆均氏、不安定な雇用のもとにいる主人公は、趙衆均氏のことが気になり、やがて趙衆均氏の来歴を知ることになります。

 この2つは「短篇小説かくあるべし」という感じで非常に巧いと思います。

 

 ところが、その印象は中盤の「半月」、「肉」、「犬を待つこと」で少し変わります。この3篇はホラーと言っていいものです。

 「半月」は母の借金によって、夏休みの間、島に住む叔母さんのところに身を寄せることになった私の話なのですが、男の子からかかってくる謎の電話、寂れたリゾートホテル、おばあさんが差し出すウサギの死体、たくさんの注射器と、ホラー的要素に満ちています。黒沢清あたりに映像化してもらいたいくらい。

 

 「肉」は、娘を持つ専業主婦が主人公ですが、夫の会社は倒産寸前で、売上金に手を付けており、しかも金持ちの伯母さんのもとで謎の仕事をしています。さらに彼女の前には彼女に謝罪しようとする男がつきまとっています。彼女が買った肉が腐っており、しかもラベルが張り替えられていたことをネットに書き込んだところ、彼女のもとに毎日のように謝罪をするための男が現れるようになったのです。

 韓国における現代と前近代が直結したような話なのですが、これもホラーテイストです。

 

 「犬を待つこと」は犬を探す若い娘が主人公ですが、母親の不注意で逃したために娘は母親に対して高圧的に振る舞います。最初は家族の歪みのような話かと思うのですが、これまたホラーに近づいていきます。

 

 その後の三作品、「私たちがどこかの星で」、「普通の時代」、「猫はどのようにして鍛えられるのか」はもうちょっと普通のテイストに戻りますが、「私たちがどこかの星で」のカフカ的な総合病院の描写や、小説のなかで投げかけられる謎がそのまま宙吊りになる感じは、少し不穏なものを感じさせます。

 ファン・ジョンウン『誰でもない』の「ヤンの未来」も不穏な作品でしたが、今の韓国の気分はこうした不穏なホラーがよくハマるということなのですかね。

 

 

野口雅弘『忖度と官僚制の政治学』

 タイトルからすると、ここ最近の安倍政権を批判した本にも思えますが、そこは『官僚制批判の論理と心理』中公新書)で、ウェーバーをはじめトクヴィルアーレントフーコールーマンなどを参照しながら官僚機構の肥大化と官僚批判のメカニズムを論じてみせた著者、もっと広い視野と長いスパンで官僚制を論じています。

 中身は著者がさまざまな雑誌などに発表してきたものと書き下ろしの「政治学エッセイ」からなっており、現在の官僚制の問題だけではなく、「アイヒマンは本当に『悪の陳腐さ』を表す人間だったのか?」など、いろいろな論点を含んでいます。

 ここでそのすべてを紹介する余裕はないので、一番面白く感じた最後の第11章からさかのぼる形で簡単に内容を紹介していこうと思います。

 

 目次は以下の通り。

序章 今日の文脈
第1章 官僚制と文書―バルザックウェーバー・グレーバー
第2章 脱官僚と決定の負荷―政治的ロマン主義をめぐる考察
第3章 「決められない政治」についての考察―カール・シュミット『政治的ロマン主義』への注釈
第4章 カリスマと官僚制―マックス・ウェーバーの政治理論へのイントロダクション
第5章 合理性と悪
第6章 フォン・トロッタの映画『ハンナ・アーレント』―ドイツの文脈
第7章 五〇年後の『エルサレムアイヒマン』―ベッティーナ・シュタングネトとアイヒマン研究の現在
第8章 テクノクラシーと参加の変容
第9章 「なんちゃらファースト」と悪
第10章 官邸主導のテクノクラシー―キルヒハイマーの「キャッチ・オール・パーティ」再論
第11章 忖度の政治学アカウンタビリティの陥穽
終章 中立的なものこそ政治的である

 

  第11章の「忖度の政治学」では、まず「アカウンタビリティ」(「説明責任」などと訳される)という言葉が取り上げられています。

 日本語の「責任」はかなり幅広い意味を持つ言葉ですが、90年代辺りから「レスポンシビリティ」と「アカウンタビリティ」の差異が指摘されるようになり、政治や行政の面で「アカウンタビリティ」が重視されるようになってきました。

 

 この「アカウンタビリティ」と相性が悪いのが個人的な裁量による決定です。そこで、「アカウンタビリティ」が重視されるようになると、「透明な競争」や「専門家による第三者委員会」といったものを通した決定が好まれるようになります。行政はあくまでも競争の場を提供するだけなのです。

 これによって「アカウンタビリティ」は果たされますが、競争を重視するようになれば、政治は「小さな政府」や新自由主義的と親和的になります。行政への市場原理の導入はある意味で説明を容易にするからです。

 ところが、これによって官僚のもつ権力性がなくなるかというとそうではありません。競争のプラットフォームの設定を行うのは官僚であり、そこに裁量が存在するからです。

   

 本来、政治家と官僚のアカウンタビリティは違います。「なるべく恣意性をなくそうとし、党派性を避けて中立を強調することで説明責任を果たそうとする官僚のアカウンタビリティと、どうしても避けられない価値をめぐる抗争を引き受けたうえで、なぜ自分がその党派的な立場を選ぶのかについて釈明しなければならない政治家の責任とは区別されるべき」(241p)です。

 しかし、実際には政治家も官僚的なアカウンタビリティでもって自らの説明責任を果たそうとする傾向が強く、政治的な決断の領域は狭まっています。

 

 著者は森友学園加計学園の問題の背景には、こうした背景があるのではないかといいます。つまり、「「アカウンタビリティ」が、透明性、フェアな競争、専門家・第三者機関により審査など、非政治的・非論争的な「説明」によってなされる傾向が強くなると、どうしても意見が分かれる、論争的なテーマについての政策論争の機会が失われていく」(244p)のです。

 そして、このような論争の機会が失われる代わりに、論争を避け上層部の意向を「忖度」する役人が出世していくのです。

 だからといって国家権力が縮減しているわけではありません。政治性や権力は見えにくくなっているだけです。「説明責任でなされることが「手続き」に集中すれば、当然、その「実質」的な理由は置き去りにされる」(246p)のです。

 現在の日本では「官僚政治のロジックが優越するなかで、個別官庁の官僚の地位は低下している」(248p)というのが著者の見立てです。

 

 こうした、「一見すると非政治的に見えるものの政治性」は、第8章の「テクノクラシーと参加の変容」でもとり上げられています。

 政治には「参加」と「動員」という言葉があります。「参加」にはポジティブなイメージがあり、「動員」にはネガティブなイメージがありますが、現代においてこれがきれいに2つに分けられるのか? というのが著者の問題意識です。

 近年は、「新しい公共」といった言葉とともに市民の社会活動への「参加」が訴えられています。ここでの「参加」は60年代に盛り上がったテクノクラートへの異議申立てといったものではなく、行政との協働といった形で行われます。「横暴な権力は鳴りをひそめ、人びとに寄り添い、あるいはすり寄るような権力が前景に出てきている」(190p)とも言えるのです。

 

 では、やはり「脱官僚」を進めるべきかというと、そうは言えません。

 第2章の「「脱官僚」と決定の負荷」で、著者は民主党政権の失敗を分析していますが、失敗の要因の1つが安易な「脱官僚」です。もちろん、政策決定の場をより開かれたものにするという方向性はありですが、そのためには政治家が「決定の負荷」を担う必要があります。

 ところが、鳩山首相が掲げたものは「友愛」でした。この「脱官僚」と「友愛」の組み合わせについて著者は次のように分析しています。

 「友愛」が「脱官僚」というスローガンと結びつくとき、その問題性はさらに深刻となる。すでに指摘したように、「脱官僚」によって、政治的な決定の空間は広げられる。それにもかかわらず、多様な立場や利害を排除しないという意味での「友愛」を唱えることは、政治的な決断の負荷を自ら高め、そのハードルを上げながら、(排除や優先順位づけをともなう)決断を回避することにならざるをえない。(59p)

 

 このように、この本は近年の政治状況を題材にしつつ、官僚制と政治の関係、あるいは決定の場をいかに設定するかということを考察しています。

 

 あと、もう一つ読みどころとなるのが、第5章〜第7章のアーレントの『イェルサレムアイヒマン』をめぐる考察です。 

 ご存知のように、アーレントアイヒマン裁判を傍聴し、その小役人ぶりから「悪の陳腐さ」という言葉を生み出しました。しかし、実はアイヒマンはそのような人間ではなかったという話もあります。実際、近年の研究によるとアイヒマンは筋金入りの反ユダヤ主義者であり、法廷での姿は死刑を免れるための演技だったというのです。

 こうしたことは断片的に聞いていましたが、今回、この本の特に第7章を読むことによってそのことが確認できました。アーレントの打ち出した「悪の陳腐さ」というテーゼはともかくとして、その代表としてアイヒマンを持ち出すことは不適当なのです。

 このあたりも非常に勉強になりました。