ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』

 民間企業だけでなく、学校でも病院でも警察でも、そのパフォーマンスを上げるためにさまざまな指標が測定され、その指標に応じて報酬が上下し、出世が決まったりしています。

 もちろん、こうしたことによってより良いパフォーマンスが期待されているわけですが、実際に中で働いてみると、「こんな指標に意味があるのか?」とか「無駄な仕事が増えただけ」と思っている人も多いでしょうし、さらには数値目標を達成するために不正が行われることもあります。

 この現代の組織における測定基準への執着の問題点と病理を分析したのが本書になります。著者は『資本主義の思想史』などの著作がある歴史学部の教授で、大学の学科長を務めた時の経験からこのテーマに関心をもつことになったそうです。本文190ページほどの短めの本ですが、問題を的確に捉えていますし、紹介される事例も豊富です。さらに、現在「新自由主義」という曖昧模糊とした用語で批判されている現象に対して、一つの輪郭を与えるような内容にもなっており、非常に刺激的です。

 

 目次は以下の通り。

はじめに

Part I 議論
1 簡単な要旨
2 繰り返す欠陥

Part II 背景
3 測定および能力給の成り立ち
4 なぜ測定基準がこれほど人気になったのか
5 プリンシパル、エージェント、動機づけ
6 哲学的批判

Part III あらゆるものの誤測定?――ケーススタディ
7 大学
8 学校
9 医療
10 警察
11 軍
12 ビジネスと金融
13 慈善事業と対外援助
補説
14 透明性が実績の敵になるとき――政治、外交、防諜、結婚

Part IV 結論
15 意図せぬ、だが予測可能な悪影響
16 いつどうやって測定基準を用いるべきか――チェックリスト

 

 「説明責任(アカウンタビリティ)」という言葉が、良いものとしてさかんに使われるようになりましたが、著者に言わせれば、この中には「責任を取る」という意味と、「カウントできる」、つまり測定できるという暗黙の意味が含まれています。ここから以下の特徴を持つ、「測定執着」なる態度が生まれてきます。

 

・ 個人的経験と才能に基づいておこなわれる判断を、標準化されたデータ(測定基準)に基づく相対的実績という数値指標に置き換えることが可能であり、望ましいという信念

・ そのような測定基準を公開する(透明化する)ことで、組織が実際にその目的を達成していると保証できる(説明責任を果たしている)のだという信念

・ それらの組織に属する人々への最善の動機づけは、測定実績に報酬や懲罰を紐づけることであり、報酬は金銭(能力給)または評判(ランキング)であるという信念(19p)

 

  「測定執着」というとかなり病的な態度を想像しますが、上記の3点は現代において至って普通の考えではないでしょうか。3番目の報酬についての部分はともかくとして、1番目と2番目の態度は多くの人々が共有している信念でしょう。

 1975年にアメリカの社会心理学者ドナルド・T・キャンベルは「定量的な社会指標が社会的意思決定に使われれば使われるほど、汚職の圧力にさらされやすくなり、本来監視するはずの社会プロセスをねじまげ、腐敗させやすくなる」(キャンベルの法則)と述べ、イギリス人の経済学者のグッドハートは「管理のために用いられる測定はすべて、信頼できない」(グッドハートの法則)と述べたそうですが、数値による管理は、近年ますます盛んになっていると言えるでしょう。

 

 しかし、こうした風潮はさまざまな機能不全を招いています。「一番簡単に測定できるものしか測定しない」、「成果ではなくインプットを測定する」、「標準化によって情報の質を落とす」、上澄みすくいによる改竄」、「基準を下げることで数字を改善する」、「データを抜いたり、ゆがめたりして数字を改善する」、「不正行為」(24−26p)といった事態がしばしば引き起こされているのです。

 

 測定した実績に応じて報酬を決めるという政策の歴史は古く、1862年にイギリスの自由党の議員ロバート・ロウが提案した政府から学校への財政援助を結果に応じて支払うべきだというものにさかのぼります。

 この計画に異を唱えたのが、文化評論家のマシュー・アーノルドで、彼は年1回のテストの時に貧困層の生徒が不在になってリ、貧困層の多い学校への資金が減らされるだろうと述べました。こうした試みが登場したときから、その問題点は明らかだったのです。

 

 こうしたやり方を軍に持ち込んだのがロバート・マクナマラでした。ベトナム戦争時に国防長官だった彼は、空軍は空爆の出撃回数、砲兵部隊は発射した弾の数、歩兵部隊では死者数を測定し、これを基準にしようとしましたが、うまくいったとは言い難いでしょう。

 

 それでもこうした測定基準は支持され続けてきました。このあたりの事情について著者は次のように述べています。

 説明責任の数値的測定基準の探求は、社会的信頼が低いことが特徴の文化では特に魅力的に映る。そして権力に対する不信感は、1960年代以来ずっとアメリカ文化の基調であり続けた。したがって政治、行政、その他多くの分野において数字が重視されるのはまさに、権力者の主観的で経験に基づく判断に対する信頼に数字が取って代わってくれるからだ。説明のための測定基準の探求は、政治的左翼と右翼、どちらの側にも魔力を発揮する。ポピュリスト的なものであれ、平等主義的なものであれ、階級、専門性、血統に基づいた権力に対する疑念と、説明責任のための測定基準の間には親和力があるのだ。(41p)

 

 右派は公的機関への不信感から数字による測定を支持し、左派は権力者に対する不信感から数字による測定を支持しました。

 さらにアメリカでは訴訟の頻発と賠償額の高額化がこうした状況に拍車をかけます。また、教育や医療などにおけるコストの高止まりが問題視され、複雑な組織の上に立つ経営者もこうした数字を求めました。特に複数の組織を渡り歩くCEOなどにはこうした数字こそが組織を把握する術になるからです。

 加えて、表計算ソフトの普及がこうした測定を容易にしました。スティーヴン・レヴィによれば「スプレッドシートはツールだが、世界観でもある」(47p)のです。

 

 また、学術的にもプリンシパル=エージェント理論がこうした傾向を後押ししました。エージェントを動機づける方法として成功報酬が重視され、その成功を測るために測定基準が導入されました。

 この動きは民間企業にとどまらず、ニュー・パブリック・マネジメントとして公的機関にも広がっていきます。こうした動きに対しては、医療や教育などで成功報酬(外的報酬)を用いることは内的な動機づけを傷つけることになるという批判もありましたが、それでもこうした動きは続いています。

 

 Part IIIでは、さまざまなケースにおける問題点が指摘されていますが、ここではいくつかの分野の失敗を簡単に紹介したいと思います。

 まずは大学ですが、現在、各国で大学の「教育の質」を評価しようという試みが盛んに行われており、また、大学のランキングに注目が集まっています。

 しかし、大学のランキングを上げるために行われていることの中には、豪華なパンフレットの作成や教育雑誌への広告、測定基準のごまかしなど、「教育の質」には関わりのないようなことも多いです。

 増えていく測定基準に対応するため、ランキングを上げるために、急増しているのは大学の事務職員です。そして、この人件費は学費となって学生にのしかかっています。大学を稼げるところにするための試みが、学生の負担を重くしているのです。

 

 次は学校です。アメリカではクリントン政権、ブッシュ(子)政権のもとで学校の成績と学校への資金をリンクさせる試みが行われてきました。

 生徒の成績はテストで評価され、それが学校の評価へもつながるわけですが、この結果、テストへに向けた勉強が重視されるようになり、テストにない科目は軽視されました。また、長文読解など、テストで問われない能力についても低下したとも言われています。

 さらに学力の低い生徒を「障害者」に分類したり、答案を捨てたり、答案に手を加えたりといった不正行為までが行われるようになっています。

 一部の州では教師の報酬をテストの成績と連動させていますが、それでも学力の格差は埋まっておらず、1992年と2013年を比べると白人と黒人の差は逆に広がっています(99p)。また、こうした測定基準の重視は独創的なカリキュラムを難しくさせており、一部の教員が私立学校へ流出する動きもあります。

 

 医療に関しては、グリーヴランド・クリニックやガイシンガー・ヘルス・システムといった輝かしい成功例もあるのですが、問題がないわけではありません。例えば、術後30日間の生存率を重視すれば、医師は難しい手術をしたがらなくなるかもしれませんし、30日間は無理にでも延命させようとするかもしれません。データによって一部の能力の低い医師をあぶり出すことはできますが、それだけですべてを評価しようすれば様々な問題が生まれてくるのです。

 

 警察はこの測定基準の重視が厄介な問題を引き起こす部門かもしれません。アメリカのFBIは各都市からの報告に基づき、主要な凶悪犯罪や主要な窃盗罪のデータを集めて公開していますが、これによって起きたのは警察官が犯罪の程度を引き下げて報告することです。例えば、侵入窃盗は不法侵入に格下げされてデータから外されます。

 さらに例えば、長年の捜査の末に麻薬組織のボスを逮捕するよりも、街角で麻薬を売っているティーンエージャーを何人も逮捕するほうがデータの見栄えは良くなります。警察のリソースは解決しやすい事件のみに振り分けられてしまうかもしれないのです。

 

 ビジネスの世界においても、報酬を数値と過度に連動させることはいろいろな問題を引き起こすと考えられるようになりました。例えば、経営者の報酬を短期的な業績や株価で決めてしまうと、経営者は会社の長期的な評判を無視して経営を行うかもしれません。特に四半期の業績を重視する昨今の経営では長期的な視点は失われやすいのです。

 

 以上のような測定基準のケーススタディからもたらされる教訓として、著者は「測定されるものに労力を割くことで、目標がずれる」、「短期主義の促進」、「従業員の時間にかかるコスト」、「効用の逓減」、「規則の滝」、「運に報酬を与える」、「リスクを取る勇気の阻害」、「イノベーションの阻害」、「協力と共通の目標の阻害」、「仕事の劣化」、「生産性のコスト」といったものをあげています(172−176p)。

  

  かと言って、著者も数値による測定は全部悪いとか、廃止すべきだといっているわけでありません。測定基準との上手い付き合い方が必要なのです。

 そこで最後に測定基準の使用法を使う上での次の10個のチェックリストをあげています。

1 どういう種類の情報を測定しようと思っているのか?

2 情報はどのくらい有益なのか?

3 測定を増やすことはどれほど有益か?

4 標準化された測定に依存しないことで生じるコストはどんなものか? 実績についてほかの情報源があるか?(顧客や患者、生徒の保護者などの経験と判断に基づくもの)

5 測定はどのような目的のために使われるのか、言い換えるのなら、その情報は誰に公開されるのか?

6 測定実績を得る際にかかるコストは?

7 組織のトップがなぜ実績測定を求めているのかきいてみる。

8 実績の測定方法は誰が、どのようにして開発したのか?

9 もっともすぐれた測定でさえ、汚職や目標のずれを生む恐れがあることを覚えておく。

10 ときには何が可能かの限界を認識することが、叡智の始まるとなる場合もある。

 

 このように、この本は組織で働いたことのある人であれば多くの頷く内容を含んでいると思いますし、組織を運営する立場の人にも注意すべき点を教えてくれる本です。この数値により測定というものは、企業だけでなく教育、医療、行政とあらゆる部門に浸透しているので、まさに今という時代に広く読まれるべき本だと思います。

 

 さらに個人的には、近年の「新自由主義」なるものを考える上でも示唆に富んだ本だと思いました。

 現代社会の生きづらさを語る時に、「ミルトン・フリードマンの理論を背景とした新自由主義サッチャーレーガンらの右派によって導入されたことが云々」といったことが盛んに言われますが、この「右派による新自由主義」が根本的な問題であるのならば、それを修正する機会はあったはずです。アメリカではクリントンオバマ民主党政権期、イギリスではブレア、ブラウンの労働党政権期はそれなりの長さであり、右派の政策を修正できたはずなのです(日本の民主党政権は短すぎたと言えるかもしれませんが)。

 

 もちろん、「クリントンオバマもブレアもブラウンもみんな新自由主義者なのだ!」という物言いも可能でしょうが、それではよほどの左翼以外はみんな新自由主義者ということになりかねません。

 このあたりをウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』では、新自由主義の問題点は、本来政治の言葉で語られるべきことが経済の言葉で語られてしまうことなのだとして、経済的な用語に満ちたオバマの演説などを批判していましたが、本書を読むとこの問題がもう少しはっきりとしてくるのではないでしょうか。

 

 つまり、現代の社会において、「実績を数値で測定し、それを公開して説明責任を果たし、さらにその数値にインセンティブをもたせる」というのは右派も左派も正しいと考えている政策であり、だから政権が交代してもこうした政策は変わらない。

 ところが、こうした政策は支持を集める割には同時に人々の生きづらさをもたらすような政策でもあり、この手法が広まったのが新自由主義が広まったのと同じような時期でもあるので(正確に言えば、本書に書かれているマクナマラの例にもあるようにこの手法の導入時期は新自由主義の流行よりも古い)、人々はこの生きづらさの原因を新自由主義に求めている、という感じなのではないでしょうか。

 

 では、どうすればいいか? というと、これは難しい問題で、もちろん数字を使った管理の有効性を完全に否定するわけには行きません。「データが単純な理論を支持しているように見えても、常に複雑な理論がある可能性を保持し続ける」、「経験知や保守的な態度に注意を払う」といった態度や、本書のチェックリストを見返して、常に数値目標といったものを疑っていくということしかないのかとも思いますが、こうした現代社会の問題を考える上でも本書は興味深いものとなっていると思います。

 

 

 

 こちらの記事も参考に

morningrain.hatenablog.com

グレッグ・イーガン『ビット・プレイヤー』

 最近、非常にハードなSF長編を世に送り出していたイーガンの久々の短編集。ここ最近の長編に関して、自分にはちょっと難しすぎるなと感じていて、〈直交〉三部作はスルーしていたのですが(『白熱光』まで読んだ)、今回は短編集と聞いて久々に読んでみました。

 収録作は、「七色覚」、「不気味の谷」、「ビット・プレイヤー」、「失われた大陸」、「鰐乗り」、「孤児惑星」の6篇。後半の「鰐乗り」、「孤児惑星」は近年の長編に通じるようなややハード目の内容ですが、前半の3作は初期のイーガンの短編に通じる、テクノロジーが人間の生き方を変えてしまう様子を描いた作品です。そして、「失われた大陸」はSF風でありながら、社会問題を正面から扱った異色作になります。

 

 「七色覚」は網膜インプラントのテクノロジーによって「ものの見え方」が変わった子どもたちの話。他の人々とは違ったものの見え方が手に入った当初のキラキラとして感覚と、やや苦味のある結末の落差が印象的です。

 

 「不気味の谷」は、ある人気テレビ脚本家の脳をスキャンして移植されたアンドロイドの話。こうしたアンドロイドが遺産相続をしてもいいのかといった問題がメインテーマと思いきや、そこから移植時に消去されたと思われる記憶の欠落部分をめぐるミステリーになってきます。そしてまたアンドロイドのアイデンティティの問題に戻ってくるあたりが上手いですね。

 

 「ビット・プレイヤー」は、冒頭、いきなり奇妙な物理法則が働いている世界が描かれ、読者は何がなんだかという気になりますが、そこはイーガン、その奇妙な物理法則から主人公が置かれた世界を説明し、物語に引き込んでいきます。ここでは仮想空間やAIをどう扱うべきなのかという倫理性のようなものも問われています。

 

 「失われた大陸」は、中東を思わせる地域に出現した〈学者たち〉と呼ばれる謎の集団が現れ、主人公のアリの村も襲われます。そこからタイムスリップが入り、異世界ものになるのかと思いきや、タイムスリップなどはたんなるSF的な装飾のようなもので、本丸は現在行われているオーストラリアの難民政策を描き出すことだということが見えてきます。

 実はオーストラリアは自国に来た難民をパプアニューギニアナウルの収容所に収容しており、その扱いは非人道的だとして国際的な避難を浴びています(例えば、このニューズウィークの記事「オーストラリアの難民政策は「人道に対する罪」、ICCに告発」を参照)。

 イーガンは以前からこの問題を批判しており、難民支援や抗議活動に関わってきたとのことで、難民への非人道的な待遇を告発する物語となっています。

 

 「鰐乗り」、「孤児惑星」は誰か詳しい人にお任せとして、前半の3篇は『しあわせの理由』あたりのイーガンが好きな人に向いている作品で、テクノロジーと人間のアイデンティティの問題が密接に結びついます。

 「失われた大陸」は、イーガンが理系オタクではないことを示した1篇で、個人的には高く評価したいですね。

 

 

ダニ・ロドリック『貿易戦争の政治経済学』

 『グローバリゼーション・パラドクス』で、グローバリゼーションのさらなる拡大(ハイパーグローバリゼーション)、国家主権、民主主義の三つのうち二つしか選び取ることができないとする考えを打ち出したトルコ生まれの経済学者の新著。

 タイトルからはトランプ政権誕生以降の貿易戦争を扱った本を想像しますが、それ以外にも発展途上国の経済成長の行方、経済学の変化、金融の問題などを扱っており、著者の一般読者に向けた時事的な論説を集めたものとなっています。

 

 目次は以下の通り。

第一章 より良いバランスを取り戻す
第二章 国家の仕組み
第三章 欧州の苦闘
第四章 仕事、産業化、民主主義
第五章 経済学者と経済モデル
第六章 経済学上のコンセンサスの危機
第七章 経済学者、政治、アイデア
第八章 政策イノベーションとしての経済学
第九章 何がうまくいかないのか
第十章 グローバル経済の新たなルール
第十一章 将来に向けた成長政策
第十二章 政治こそが重要なのだ、愚か者!

 

 まず、第1章と第2章で論じられているのが、グローバリゼーションの行き詰まりと、国家の重要性の指摘です。

 グローバリゼーションは多くの国に恩恵をもたらすと考えられてきました。発展途上国も、このグローバリゼーションに加わることで経済発展が可能になると主張する人も少なくありませんでした。

 しかし、日本、韓国、台湾といった国は今よりも輸入関税が高かった時代に輸出主導の経済成長を成し遂げましたし(日本についてはいうほど輸出主導ではないですが)、また、中国についても著者は以下のように述べています。

 他国の経済開放によって最大の利益を享受したのはもちろん、最も歴史に残る貧困削減と経済成長を成し遂げた中国だった。一方、自国の側では広範囲にわたる産業政策を導入し、輸入自由化の遅延や局所的な実施、資本規制の導入も行うなど、極めて注意深い戦略を遂行した。中国がグローバリゼーションのゲームの中で従ったのは、ハイパーグローバリゼーションのルールではなくブレトンウッズ体制のルールだったのだ」(44p)

 

 1980年代前半、日本の集中豪雨的輸出などによって保護貿易の機運が高まりましたが、90年代以降、世界の貿易は爆発的に拡大しました。しかし、現在、トランプ大統領をはじめとして自由貿易を攻撃するポピュリスト政党が多くの国に勢力を拡大しています。

 同時にもはや「古い」と考えられていた国民国家の重要性がまし、撤廃すべきだと考えられていた国境の壁は、むしろ高くなりつつあります。

 

 著者はこうした動きを肯定するわけではありませんが、国家の重要性は今一度考え直されるべきだとしています。市場はさまざまなルールや制度に支えられており、国民国家がそういったルールや制度を提供してきたからです。

 もちろん、グローバリゼーションの時代にはルールや制度を作る主体もグローバルであるべきかもしれませんが、グローバル・ガバナンスは未だに十分に整備されておらず、また、地域の違い、市場を支える制度が一つの形だけではないことなどから、このグローバル・ガバナンスはそう簡単には成立しないと考えられます。

 また、著者は市場を支える制度が多様であることは必ずしも悪いことではなく、さまざまな実験が行われているという点ではむしろ良いことでもあります。

 著者に言わせれば、「国民国家を必要としているのは誰なのか? 答えは我々全員だ」(63p)というわけなのです。

 

 第3章はギリシャへの処方箋や欧州の経済政策を批判したものですが、その中で全面的な自由化を行わなくても経済は発展に得るとして次のように書いています。

 インドのケースから学べる教訓は、複数の市場の歪みに苛まれている経済においては、小さな変化でも大きな成果を生み出すことができるということだ。1978年以降の中国の成長の加速は、まさにこのことを裏付けている。中国経済の離陸は、経済全体の改革や抜本的な自由化によってもたらされたものではなかった。集団農業のルールを緩和し、農家に(政府に課されたノルマを上回った)過剰生産物を管理されていない市場価格で売ることを認めた具体的な改革によってもたらされたものだ。(74p)

  このあとアフリカのモーリシャスの輸出加工特区の例もとり上げられていますが、経済発展を促すのは経済の全面的な自由化ではなく、成長を阻害しているものをピンポイントで取り除くことだと著者は主張します。

 EUIMFギリシャに強いたような「ビッグバン」ではなく、制約要因を順々に克服していくような経済政策こそが安定した離陸をもたらすのです。

 

  EUの経済統合をある意味で行き過ぎたものだったと考える著者は、マクロンの当選に触れながら次のように述べています。

 マクロンがドイツに向けて発しているメッセージは明確だ。我が国を助けて、共に真の統合(経済、財政、そしてゆくゆくは政治も)を構築するか、もしくは過激主義の台頭に欧州が乗っ取られるかだ。

 マクロンの考え方は、ほぼ確実に間違っていない(私の議論の延長線上にある第三の選択肢は、経済統合の規模を計画的に縮小させることだろう)。(93p)

 

 第4章は発展途上国の経済成長について論じたものですが、この部分は非常に面白いです。

 21世紀初頭、発展途上国は今後力強い経済成長を見せると考えられていましたが、近年は悲観論が強まっています。それは著者によれば次のような理由があるといいます。  

 東アジアの成功の秘訣に関して誰もが口をそろえることが一つあるとしたら、日本、韓国、シンガポール、台湾、中国、いずれの国も田舎の(もしくは非公式活動に従事していた)労働者を組織化された製造業に従事させることに、非常に長けていたということだ」(98p)

 

 ところが今日では、その構図が大きく変わった。若者は引き続き田舎から都市部へと大挙して移動しているものの、彼らが従事する仕事は工場労働ではなくほとんどが生産性の低い非公式の[国の経済統計にカウントされないような]サービス業だ(100p)

 

  日本の高度成長は農村にいた余剰労働力が都市に移動し工場などで働いたことが大きな要因だったと言われますし、中国の経済成長のかなりの部分も同じような形で説明ができます。

 しかし、現在の途上国にこのような状況はないといいます。しかも、零細なサービス業では製造業のように労働者の組織化が難しく、労働条件の向上を訴えることも難しくなっています。

 日本もそうだったように製造業で雇用される割合は一定のところでピークを迎えて低下していくことになるのですが、現在のラテンアメリカやアフリカでは早すぎる脱工業化を迎えており、製造業の発展が東アジアにもたらした社会全体の底上げを望むことが難しくなっています。「人的資本や制度の機能を十分に蓄積する前に早期にサービス経済に移行したことで、先進国でさえ対応に苦しんでいる労働市場における格差や排除の問題をさらに悪化させた」(109p)のです。

 

 第5章から第8章にかけては現在の経済学について論じられています。

 著者によれば、経済学は一定の条件下におけるモデルを提供する学問であり、普遍的な理論を提供する学問ではありません。しかし、経済学ではその主張があたかも普遍的な理論のように論じられることが度々あります。

 例えば、自由貿易は基本的に多くの人々の利益になるとはいえ、一部の人には打撃を与えますし、社会を不安定にさせる可能性もあります。ところが、そういった負の部分についてはあまり触れられず、自由貿易の「正しさ」だけが強調されてきたのです。

 

 第6章の冒頭では、マンキューが2009年にまとめた経済学者の9割が支持を得ている命題のリストがとり上げられています。ここには「輸入関税や輸入割り当ては全体の経済厚生を引き下げる」、「家賃統制は住宅の供給を減らす」、「完全雇用が達成されていないとき、財政政策は経済を刺激する」といったものがありますが(161−162p)、こういった命題もあくまでも一定の前提条件に基づいたもので、このようなわかりやすいコンセンサスが揺らいでいるというのが著者の見立てです。例えば、最低賃金の引き上げは雇用にマイナスの影響があると信じられてきましたが、最近の研究は結果がまちまちであることを示しています。

 

 ケインズは「最も実務に通じた人でさえ、ずいぶん前に亡くなった経済学者のアイディアの奴隷であるのが常である」と述べましたが(187p)、この「アイディア」について論じたのが第7章です。

 経済学は選考や制約、選択変数といった数値化可能な客観的なものに基づいていると考えられていますが、それらのものは暗黙のアイディアに左右されています。

 

 著者は、なぜ経済エリートの好む政策が実行され、一般的な有権者の望む政策が実行されないのかという問題をとり上げ、経済エリートに有利な政治システムの仕組みとともに問題視するのが、選好に入り込むナショナリズムアイデンティティといった問題です。

 カール・マルクスが、宗教は「人民の阿片だ」と述べたことは有名だ。宗教感情の力を借りて、労働者など搾取される人々は日々の生活で経験する物質的な欠乏をごまかせると彼は言いたかったのだ同様に、宗教右派の台頭とそれに伴う「家族の価値」をめぐる文化的争い、その他の大きく意見の分かれる問題(例えば移民など)が、1970年代後半以降の経済格差の急速な拡大から米国の有権者の目を逸らすのに一役買った。(197p)

  

 このようにしてつくられた価値観が、中産階級貧困層の利益に反するようなことをしても支持を失わない構図をつくりあげたのです。

 一方、第8章で著者は、アイディアがうまく政治と結びつくことが社会をより良くする可能性についても触れています。

 

 第9章から第12章にかけては現在の問題にどのようなスタンスで向き合うべきかということが論じられています。 

 著者の基本的スタンスは第10章で紹介されている。次の7つの原則にまとめられます。「市場をガバナンスのシステムに深く組み込まなければならない」、「民主的なガバナンスや政治コミュニティは主に国民国家の内側で形成されるものであり、近い将来もそうであり続けるだろう」、「繁栄に通じる「唯一の道」はない」、「いずれの国も自国の規制や制度を保護する権利を有する」、「いずれの国も他国に自分たちの制度を押し付ける権利を有しない」、「国際経済の取り決めの目的は、各国の制度の境界面を管理する交通規則を策定することでなければならない」、民主主義でない国は、国際経済秩序において民主国家と同じ権利や特権を期待することはできない」(253−257p)の7つです。

 

 国民国家の多様性を尊重しつつも、国民国家を重視する立場からその意思決定過程も問題にしているのが特徴と言えるかもしれません。

 その上でグローバルな問題に関しては、「国民国家が中心であり、グローバル・ガバナンスは役に立たないという認識に立てば、時間をかけて国家の利益をよりグローバルな方向に仕向けやすくなる」(269p)と書くように、やや迂遠な道をとっています。

 こうした方向性が国民の利益の感覚をよるグローバルなものとし、結果として地球温暖化をはじめとするグローバルな問題を解決しようとする気運を高めるだろうというのです。

 

 他にも、エチオピアボリビアを例にあげて発展途上国における公共投資の重要性を指摘する部分(284−288p)や、国際経済においてドイツの責任を厳しく指摘している次の部分などが印象的です。

 まず、「近隣窮乏化」政策はグローバルなレベルで規制する必要がある。現在において最も重要な事例は、システム上重要な国が過剰な貿易黒字を抱え、他国が完全雇用を維持するのが難しくなっているケースだ。中国が最近まではその象徴的な国だったが、ここ数年は対外黒字が縮小している。経常黒字がGDPの9パーセント近いドイツが、現在では最大の違反国だ。(250p)

 

 このようになかなか刺激的な提言や指摘に満ちた本だと思います。著者が主張するグローバル・ガバナンスの改革の方向性については、その実現性を含めて何とも判断しかねるところがありますが、問題点の指摘という点では非常に面白いです。

 最初にも書いたように発展途上国の経済成長を論じた部分や、近年の経済学の変化について論じた部分も面白く、経済に関するさまざまな問題を考える上でいろいろなヒントが得られる本です。

 

 

The National/I Am Easy To Find

 前作「Sleep Well Beast」が素晴らしかったThe Nationalのニューアルバム。前作はここ20年ほどのロックの到達点といった感じで、複雑なドラムと緻密で切れのあるギターが融合した傑作でした。グラミー賞も受賞しましたし、少なくともインディー・ロックの世界では頂点に立ったといってもいいでしょう。

 「頂点」と書いたように、ここまでレベルの高いものをつくると次はどうするんだ? となりますが、今回はさらに緻密な曲を用意すると同時に、多くの女性ボーカルをゲストに迎えることで、もはや変える余地のないほど高度化したギターとドラムではなく、「ボーカル」の部分を変えてきました。また、インストの曲が途中に挟み込まれているのも今までのアルバムとは違う点です。

 まあ、このあたりは賛否の分かれるところでしょう。

 

 まずは冒頭の"You Had Your Soul With You"、これは今まで以上に緻密な曲で、特に冒頭のギターとかはライブで再現できるのか? と思うほど。ただし、かっこいい曲であることでは間違いなく、本アルバムの中でも最も良い曲かと。

 4曲目の"Oblivions"はいかにもThe Nationalっぽい曲ですが、女性ボーカルとしてMina Tindleがゲストに迎えられており、変化をつけてきています。

 5曲目の"The Pull Of You"も女性ボーカルをゲストに迎えていますが、この曲や後半の曲でゲストとして歌っているLisa HanniganはDamien Riceと一緒に歌っていた人ですね。Matt Berningerのボーカルもドラマチックに盛り上がっています。

 7曲目の"I Am Easy To Find"もいかにもThe Nationalっぽい曲で女性ボーカルを入れてきている"The Pull Of You"と似たパターンの曲。こちらのゲストはKate Stablesで、落ち着いた感じに仕上がっています。

 9曲目の"Where Is Her Head"がこのアルバムの中盤の聴きどころでしょうか。切迫感のあるドラムにMatt BerningerとゲストボーカルのEve Owenの声が絡んでいって盛り上がります。

  あと、後半で良いのは14曲目の"Rylan"あたりでしょうか。

 

 16曲入りと曲数も多く、後半はやや弱い気もします。また、やはり女性ボーカルが入ったことで変化はあるのですが、前作のように新しい境地に到達した感じはないですね。あくまでも今までの骨組みに変化をつけてきた感じです。

 というわけで、前作には及ばず解いたところですが、それは前作があまりにもハイレベルだったことの裏返しでもあり、本作も年間の上位に入ってくる出来だとは思います。

 


The National - 'You Had Your Soul With You' (Official Audio)

 

 

青木栄一編著『文部科学省の解剖』

 一部の人にとっては興味をそそるタイトルでしょうが、さらに執筆者に『現代日本の官僚制』『日本の地方政府』の曽我謙悟、『政令指定都市』の北村亘、『戦後行政の構造とディレンマ』の手塚洋輔と豪華なメンツが揃っており、精緻な分析が披露されています。

 ただ、今あげた名前からもわかるように執筆者はいずれも政治学者で、特に行政学を専門とする人物です。ですから、あくまでも行政学の立場から文部科学省の官僚制に対してアプローチがなされています。「文部科学省を貫く思想が知りたい」というような人の期待に答えるものではありません。

 基本となるのは2016年に行われた文部科学省の本省課長以上へのサーベイ調査(アンケートのこと)です。過去に村松岐夫が中心となって行った官僚サーベイ村松サーベイ)を参考に、文部科学省の官僚にその仕事の進め方や意識を聞くことで、文部科学省の仕事の進め方や文部科学省を取り巻く構造、そして、現在直面している問題点などをあぶり出そうとしています。

 基本的にマニアックな本だとは思いますが、明らかにされる文部科学省の実態には興味深いものがありますし、また、各章のごとのアプローチの仕方にも面白いものがあります。

 

 目次は以下の通り。

第1 章 官僚制研究に文部科学省を位置づける(青木栄一)
第2 章 サーベイにみる文部科学省官僚の認識と行動(曽我謙悟)
第3 章 文部科学省格差是正志向と地方自治観(北村 亘)
第4 章 組織間関係からみた文部科学省(伊藤正次)
第5 章 文部科学省と官邸権力(河合晃一)
第6 章 配置図からみる文部科学省統合の実相(手塚洋輔)
第7 章 旧科学技術庁の省庁再編後の行方(村上裕一)
第8 章 文部科学省設置後の幹部職員省内人事と地方出向人事の変容(青木栄一)

 

 第1章ではこの本の位置づけやサーベイの概要が語られています。村松サーベイは1976、1985、2001と過去3回行われましたが、実はその対象に文部科学省(文部省)は入っていませんでした。旧内務省系、経済官庁系が優先されたのです。

 これには文部科学省(文部省)が「三流官庁」と認識されていたことも大きいかもしれません。実際、文部科学省の官僚であった寺脇研も自著の中で文部省を「三流官庁」だったと述べています(寺脇研『文部科学省』中公新書ラクレ)参照)。

 しかし、文部科学省の一般歳出に占めるシェアは厚生労働省国土交通省に次ぐ第三位であり、教育、そして科学技術の分野に対して大きな影響力を持っています。

 

 この章ではサーベイの結果についても簡単に触れられていますが、それによると「首相」や「首相秘書官」「官房長官」といった官邸のアクターに対する接触率が低い一方で、与党国会議員との接触率が高く、また与党議員(族議員)については理解と協力が得られやすいと考えているのに対して、財務省に関しては、政策形成や執行に大きな影響力を持ちつつ調整が困難との見方を持っているとのことです。

 

 第2章は文部科学省へのサーベイがさらに精緻に分析されています。

 具体的には過去の村松サーベイとの比較を通じて文部科学省の官僚の意識や行動を明らかにしようとしているのですが、ここには注意すべき点もあって、著者も述べているように村松サーベイは過去の調査であり文部科学省(文部省)を含んでいませんし、今回の調査は文部科学省以外の省庁に対しては行われていません。つまり、村松サーベイと今回のサーベイの差は、省庁間の違いなのか、それとも調査時期による違いなのかわからないのです。

 こうした問題点を把握しつつ、ここではいくつかの特徴が取り出されています。

 

 まずは、日本にとって最重要課題は何か選択肢の中から3つあげるという問いに対して、「教育」や「科学技術」をあげた文部科学省の官僚が意外に少ないことがあげられます。これらを所管する官庁でありながら、2001年に他省庁に対して行われた村松サーベイにおける重要度の水準とほぼ変わらないのです(もちろん、今回の文部科学省サーベイで値の高かった「外交・安全保障」、「福祉・医療」は2001年以降に重みを増してきている課題なので、文部科学省の特徴というよりは現在を取り巻く状況の影響が大きいのかもしれない)。

 ちなみに、文部科学省サーベイでは「経済成長」、「国際経済」の値は低いです。

 

 次に政策の決定は誰が主導すべきかという問いに対しては、「官僚」、「関連団体」の値が01年の村松サーベイの平均よりも高くなっています。

 また、「行政裁量は減らすべき」という問いに対する値は、過去3回の村松サーベイの平均的な値よりも低く、政策形成において官僚が一定の役割を果たすべきだと考えていることがわかります。

 

 省の政策決定に影響を持つアクターとしては、先程も述べたように与党と財務省の値が高いです。一方で財務省は政策形成において調整が困難なアクターとして認識されており、毎年の予算編成において苦労している様子が伺えます。

 また、首相の影響力については高く評価していますが、接触頻度は低く、官邸主導の政治に対応しきれていない様子も伺えます。その代りに与党議員との接触頻度は高めとなっています。

 

 ただし、これらの結果は、文部科学省の特徴ではなく、例えば、過去のサーベイ対象との世代的な違い、キャリアとノンキャリアの比率の違い、官僚個人の出身地の違いなどが影響しているのかもしれません。

 この本の後半ではこうした可能性を考慮に入れた分析がなされています。今回の文部科学省サーベイは面白い結果を示していますが、それがすなわち文部科学省の特殊性を表しているというわけではないのです。

 

  第3章は文部科学省サーベイを通じて文部科学省格差是正志向と地方自治体に関する認識が分析されています。教育行政では地方自治体との協働が求められます。一方、文部科学省サーベイからは、文部科学省の幹部職員が教育を経済や雇用との関わりというよりも機会平等を達成する手段として捉える傾向が強いです。この2つの関係を明らかにしようとしたのがこの章です。

 

 まず、格差の是正を図ろうとする場合、地方政府に対しては次の4つのアプローチがあるといいます。中央政府による租税や材の移転を通じて直接個人間の格差是正を図ろうとする「集権的アプローチ」、地域間の格差是正を重視するために地方政府への財源保障を重視する「分権主義アプローチ」、地域間格差も個人格差も是正しようとする「介入主義アプローチ」、政府による介入ではなく市場に委ねる「放任主義アプローチ」の4つです。

 

 サーベイの結果、対象となった75人の中で最も多かったのは「介入主義アプローチ」(34名)、ついで「放任主義アプローチ」(20名)、「分権主義アプローチ」(18名)、「集権主義アプローチ」(3名)となります(60p表3−1)。

 2001年の村松サーベイと比較すると、その分布は旧農林水産省と旧厚生省に似ています(61p図3−1)。

 また、これらの傾向は出身地などとは特に関係なく、入省庁との関係でいうと、文部系で介入主義が多く、科学技術系で放任主義の割合がやや高くなっています(64p表3−3)。

 

 一方地方との関係ですが、地方財源に関しては、文部科学省全体が国庫補助負担金を重視している一方で、分権主義が地方交付税地方税などの自主財源を重視していないという謎の関係があります。

 さらに地方自治体の仕事ぶりに関しても、介入主義がやや地方自治体への評価が高いのに対して、分権主義と放任主義ではやや評価が低くなっています。また、今後の関係についても介入主義は前向きですが、放任主義はやや後ろ向きです。市場重視の放任主義がやや後ろ向きなのは当然かも知れませんが、注目すべきは分権主義においてもそれほど前向きではない点です。

 さらに地方自治体関係者との接触放任主義が最も高く、接触が高いながらも評価は低いという結果になっています。一方で介入主義は接触も高く、評価も高いです。

  

 こうした結果からは、全体的に地方自治体への評価はあまり高くなく、その関係にも積極的ではない文部科学省の姿が見えてきます。文科省では政治家の介入に対する警戒が強かったといいますが、それには地方自治体も含まれているとも推測されるのです。

  著者は結論の部分で「概していえば、文科省の幹部職員たちは、格差是正という政策目標を達成する手段として地方自治体を活用することにそれほど熱心ではなく、政策実現のパートナーとしてではなく、あくまで規制対象としか考えていないのではないかと思われる」(71p)と述べています。

 

 第4章には「「三流官庁」論・再考」という副題がついています。

 文科省は2000年代以降、教育振興基本計画の策定過程で財務省に敗北し、もんじゅ廃炉をめぐって経産省に敗北しました。確かに政策面からいうと「三流官庁」と言えるかもしれません。

 しかし、人事交流の面を見れば、他府省への出向率は高く、「三流官庁」とは違う姿が見えてきます。文部系は内閣官房内閣府に、科技系は内閣府原子力規制委員会に多くの職員を出向させており、他組織からの出向受け入れ率の高い「植民地型」官庁というよりは、他組織への出向率が高い「宗主国型」官庁なのです。

 また、ここでは文科省に出向している民間人の出身企業も表で紹介されているのですが(93p表4−6)、スポーツ庁に、JTBコミュニケーションデザインアサツーディ・ケイ、ミズノ、綜合警備保障大塚製薬などいかにもな会社に混じってサニーサイドアップの名前があるのが興味を引きますね。

 

  第5章は官邸との関係について。90年代以降の政治・行政改革の結果として官邸の権力は強まっています。文科省においてもそのことについての意識はいるようなのですが、第1章でも紹介したように官邸との接触頻度は低いです。この理由を考えていくのが本章になります。

 

 現在、内閣官房は官邸主導の政策形成に大きな役割を果たしており、各省はエース級の人材を送り込んでいます。文科省も例外ではありません。しかし、首相、首相秘書官、官房長官といったアクターへの接触率は低く(109p図5−3参照)、協調できる相手は相変わらず与党議員という状況になっています(111p図5−4参照)。

 この理由として、本章では文教族議員の世代交代のタイミングをあげています。小泉政権期、族議員はその発言力を低下させ、世代交代が進みましたが、文教族は今まで票や政治資金の面で恵まれていなかったとうこともあって、この時期には世代交代が行われませんでした(森喜朗などがこの時期も影響力を持っていたことなどを想起するとよい)。

 官邸主導の政策決定に移行しつつある中でも、文部行政に関しては相変わらず与党議員が幅を効かせていたのです(一方、農水省小泉政権期にすでに農業政策共同体の内部変化が生じていた)。いわば、権力構造の変化に対する適応に文科省は乗り遅れたと言えるかもしれません。

 

 第6章は本書において最もマニアックな章であり、この本の読みどころと言えるかもしれません。

 文部科学省は文部省と科学技術庁が統合した省であり、統合当初は庁舎も別々でした。 2004年からは文部省の仮移転に伴い同一庁舎となり、2008年の霞が関コモンゲート完成以降はそこに入居しています。

 こうした中で文部省と科学技術庁の統合がどの程度進んだかを探ろうとしたものです。

 

 ジャーナリストであれば官僚や元官僚に取材をして、その雰囲気などを記事にまとめるのでしょうが、この章の執筆者である手塚洋輔は、官僚が執務するフロアの配置図と机の配席図を、さらには電話番号(内線番号)を手がかりにしてそれを探ります(電話番号は混乱を避けるために追加が基本で、割当をやり直すことはほぼなく、その職が鋳つ追加されたかがわかり、さらに職名が変わった場合でも同一番号であれば継続性が高いと判断できる)。

 これらの情報に関しては『霞が関官庁フロア&ダイヤルガイド』、『文部科学省ひとりあるき』といった本が存在し、そこからわかるそうです(もちろん民間が発行しているもので必ずしも正確とは限らないそうですが)。

 

 詳しくは本書を見てほしいのですが、例えば人事課の配席図をみると(148−153p)、文部系と科技系できれいに分かれており、執務する空間自体が隔たっています。これは会計課の配席図(156−160p)を見ても同じです。

 このように、配席図からは文部系と科技系が十分に統合されていないことがうかがえます。

 

 第7章は省庁統合後の旧科学技術庁の変化を追っています。

 科学技術庁原子力基本法とともに成立した省庁で、原子力政策を中心に科学政策を所管してきました。ところが、90年代んになると、もんじゅの事故や東海村での臨界事故などに不祥事が相次ぎ、2011年の福島第一原発事故を機に、原子力政策を所管する官庁としての権限を失っていきます。また、宇宙政策に関しても主導権を内閣官房内閣府に明け渡します。これらからは科学技術庁の地位が「低下」したことがうかがえます。

 

 しかし、一方で文科省サーベイをみると、科技系の官僚のほうが文部系の官僚よりも内閣府や他省庁官僚との接触頻度は高く(169p表7−2、170p表7−4参照)、一定の存在感を持っていることもうかがえます。

 科技庁の科学技術会議は省庁統合後に総合科学技術会議(CSTP)になりましたが、2000年代後半以降、その「司令塔」機能は強化されています。2013年の『日本再興戦略:JAPAN is BACK』には「CSTPの司令塔機能を強化し、省庁縦割りを廃し、戦略分野に政策資源を集中投入する」との文言があり(196p)ます。ただし、この司令塔機能は科技庁が独占しているわけではなく、第二次以降の安倍政権のもとでの経産省の影響力の増大とともに、科技庁の発言力は弱まっているともいえます。

 

 第8章は文部科学省の幹部人事と地方出向について。

 2001〜16年にかけての文科省の幹部職員とその職員が文部系か科技系か(あるいは他象徴出身か)を一覧にした表8−1(218−219p)はなかなか壮観ですが、ここから見えてくるのは科技系の高いプレゼンスです。枢要ポストは完全な「たすき掛け」人事となっており、高等教育の官房審議官ポストにも進出しています。

 地方出向に関しては文部系がポストを守っていますが、これは出向先の多くが教育委員会が多くを占めるからです。科技系の地方出向は少ないですが、つくば市東海村に出向している点が注目すべきところでしょうか(228p)。

 

 このように、この本は徹頭徹尾行政学の本です。

 ですから、ある程度読者を選ぶ本ということになるでしょう。ただし、組織や人事に興味がある人には面白く読めると思いますし、また、省庁再編後の省庁の変化や、官僚(文科省の官僚に限りますが)の行動や意識というものも垣間見えて、興味深いです。サーベイからは、文科省の官僚はやや省庁再編後の流れについていけていない感じがしますね。

 あと、ジャーナリストとは違う研究所のアプローチがはっきりとわかるという点で面白い本だと思います。

 

 

  

デボラ・フォーゲル『アカシアは花咲く―モンタージュ』

 松籟社〈東欧の想像力〉シリーズの1冊で、ポーランド(当時はオーストリア領)の同化ユダヤ人の家に生まれた女性作家デボラ・フォーゲルの中短編集。

 〈東欧の想像力〉シリーズの前回配本はイヴォ・アンドリッチの『宰相の象の物語』というノーベル賞作家のものでしたが、今回のフォーゲルについては知っている人はあまりいないでしょう。僕も初耳でした。

 解説によると、ブルーノ・シュルツと交流があり、シュルツの『肉桂色の店』の原型はこのフォーゲルとの文通から生まれたそうです。さらに近年、アメリカのイディッシュ語雑誌に寄稿していたことも明らかになり、注目を集めているとのことです。

 

 この本には代表作の「アカシアは花咲く」をはじめとしていくつかの作品が収録されていますが、その実験的な文体は共通しています。

 例えば、「アカシアは花咲く」の冒頭はこんな感じです。

 始まりはこうだった。突然、何の前触れもなく、恋しさというバネで震えるマネキン人形のメカニズムが暴き出された。このバネこそが、安っぽくて粗悪な出来事(「人生」・・・・・・)を甘い運命のように、そして平凡な出会いを彩り豊かでかけがえのない冒険であるかのように見せていた。(73-74p)

 

 これを読んで、シュルレアリスムを思い浮かべた人もいるかも知れませんが、この本の収められている公開書簡の中で、フォーゲルは自分の作品がシュルレアリスムであることを否定しています。

 確かにシュルレアリスムのようなフロイト的な無意識の重視はなく、既存の言葉に似つかわしくないような形容詞を付けたり、あまり関連性のないような言葉を組み合わせながら、詩と散文の間のような文章が続いています。

 著者はこれを「モンタージュ」の技法だとしています。それは、さまざまな異なる要素を組み合わせることで新しい意味を作り出そうとするものです。

 

 正直、自分にはこの技法がどの程度成功しているのかはわからないのですが、時々混じってくるプロレタリア文学っぽいところと、時代の不穏な空気には惹かれるものがあります(『アカシアは花咲く』がポーランド語で刊行されたのは1936年)。

 ちなみにフォーゲルは1942年8月のゲットー内で行われたユダヤ人一掃作戦により家族とともに射殺されたそうです。

 

 

Nilüfer Yanya/Miss Universe

 Nilüfer Yanya(読み方はニルファー・ヤンヤらしい)はUKで活動する23歳のソウルシンガー。ただし、このデビューアルバムの実質的なオープニング曲"In Your Head"はロックナンバーで、これが良い。

 ソウルというジャンルはものによってはやや単調に聞こえがちですが、このアルバムは最初にガツンときます。

 このあともトラックに遊び心やおしゃれ感があるのがこのアルバムの特徴ではないかと思います。歌も上手いのですが、その歌の上手さを全面に押し出すのではなく、バックお音楽を聴かせることにも気を配っています。特に前半のトラックはギターが効いています。

 後半になると、10曲目の"Melt"の最後のサックスの入れ方とかもおしゃれだと思いますし、最後の"Heavyweight Champion Of The Year"のトラックもアクセントが効いていると思います。

 Jorja Smithとかもそうでしたが、最近のUKの女性シンガーはバックのトラックが非常におしゃれで凝ってますね。

 


Nilüfer Yanya - Heavyweight Champion Of The Year (Official Video)