オリヴィエ・ブランシャール/ダニ・ロドリック編『格差と闘え』

 2019年10月にピーターソン国債経済研究所で格差をテーマとして開かれた大規模なカンファレンスをもとにした本。目次を見ていただければわかりますが、とにかく豪華な執筆陣でして、編者以外にも、マンキュー、サマーズ、アセモグルといった有名どころに、ピケティと共同研究を行ってきたサエズやズックマンといった人々もいます。

 

 そして、時代が変わったなと思うのは、「格差は是か非か」「政府の介入は是か非か」という原則論が戦わされているわけではなく、格差の是正の必要性重、政府の介入の必要性を認識を共有しつつ、「では、どのような原因があり、どのような政策対応が可能なのか?」といった点で議論が進んでいる点です。

 例えば、サマーズとサエズの論説は対立していますが、それは資産税という方法の是非をめぐるもので、政府の介入の是非をめぐるものではありません。

 「格差の是正策として、労働市場規制緩和社会福祉の削減によって市場の自由に任せよ、と提案した人は1人もいなかった」(xii p)とあるように、一定のコンセンサスの上に立っており、その分中身のある議論になっています。

 

 目次は以下の通り。

 

序章 格差拡大を逆転させる手段はある(オリヴィエ・ブランシャール&ダニ・ロドリック)

 第Ⅰ部 状況の展望
第1章 先進国の格差をめぐる10の事実(ルカ・シャンセル)
第2章 状況についての議論(ピーター・ダイアモンド)

 第Ⅱ部 倫理と哲学の元
第3章 経済理論に新たな哲学的基盤が求められる時代か?(ダニエル・アレン)
第4章 経済学者が対処すべきはどんな格差か?(フィリップ・ヴァン・パリース)
第5章 なぜ格差が問題なのか?(T・M・スキャンロン)

 第Ⅲ部 政治の次元
第6章 資産格差と政治(ベン・アンセル)
第7章 格差への対処に必要な政治的条件(シェリ・バーマン)
第8章 アメリカで経済格差に取り組む際の政治的な障害(ノーラン・マッカーティ)

 第Ⅳ部 人的資本の分配
第9章 現代のセーフティーネットジェシー・ロススタイン、ローレンス・F・カッツ、マイケル・スタインズ)
第10章 教育の未開拓の可能性(ターマン・シャンムガラトナム)

 第Ⅴ部 貿易、アウトソーシング、海外投資に対する政策
第11章 なぜ「チャイナショック」は衝撃だったのか、政策にとって何を意味するのか (デヴィッド・オーター)
第12章 貿易、労働市場、チャイナショック――ドイツの経験から何が学べるか(クリスチャン・ダストマン)
第13章 格差との戦い――先進国の格差縮小政策を再考する(キャロライン・フロイント)

 第Ⅵ部 金融資本の(再)分配
第14章 (するべきなら)富裕層に増税する方法(N・グリゴリー・マンキュー)
第15章 資産税は格差との戦いに役立つか?(ローレンス・H・サマーズ)
第16章 資産に税を課すべきか?(エマニュエル・サエズ)

 第Ⅶ部 技術変化のスピードと方向性に影響を与える政策
第17章 (過度な)自動化を後戻りさせられるか、させるべきか(ダロン・アセモグル)
第18章 イノベーションと格差(フィリップ・アギオン
第19章 技術変化、所得格差、優良な仕事(ローラ・ダンドレア・タイソン)

 第Ⅷ部 労働市場についての政策、制度、社会規範
第20章 ジェンダー格差(マリアンヌ・ベルトラン)
第21章 所有権による格差の解消策(リチャード・B・フリーマン)

 第Ⅸ部 労働市場ツール
第22章 万人への雇用保障(ウィリアム・ダリティ・ジュニア)
第23章 仕事を底上げする(デビット・T・エルウッド)
第24章 労働市場における効果的な政策手段を設計する際の法的執行力の重要性(ハイディ・シアホルツ)

 第Ⅹ部 社会的セーフティネット
第25章 社会的セーフティネットの向上を基盤にミクロとマクロのレジリエンスを高める (ジェイソン・ファーマン)
第26章 子供のいる世帯向けの社会的セーフティネット――何が有効か、さらに効果を上げるにはどうするか?(ヒラリー・ホインズ)

 第Ⅺ部 累進税制
第27章 再分配政策を支援する税制についての考察(ヴォイチェフ・コプチュク)
第28章 私たちはなぜ再分配の増加を支持しないのか?――経済学的調査からの新しい説明(ステファニー・スタンチェヴァ)
第29章 資産税に効果はあるか?(ガブリエル・ズックマン)

『格差と闘え』解説(吉原直毅)

 

 たくさんの章があるの、ここではいくつか面白かった章の紹介に留めますが、まずは第1章の「先進国の格差をめぐる10の事実」(ルカ・シャンセル)が、格差の現状についてまとめています。

 

 最初に指摘されているのが格差を捉えることの難しさです。ピケティは税のデータをもとにして格差の動きを追いましたが、税法は国ごとに異なり、時とともに変更されるために国や時代を横断した比較は難しくなっています。そしてもちろん、脱税の問題もあります。

 それでも20世紀のはじめから1980年代まで縮小傾向にあった格差が、それ以降は国ごとの差はあっても基本的は拡大してきたことは確認できます(7p図1.1参照)。

 地域差で言えば、EU圏に比べてアメリカでの下位50%の所得の低迷ぶりが際立っています(8p図1.2参照)。

 

 富裕国での経済成長は続いていますが、90年頃から公的資本の価値は減少しつつあります(10p図1.3参照)。

 国内では富裕層に富が集中しつつありますが、特にアメリカでは上位0.1%への集中が大きく、1979年に7%だった彼らの資産シェアは現在は約20%に拡大しています。

 一方、アメリカでは下位90%の資産シェアが低下しましたが、これは下位90%の貯蓄率が1970代から2010年代にかけて10%から0%になったからです。

 

 国内の格差よりも国同士の格差のほうが問題だという見方もありますが、近年は国内の格差が大きな影響力を持ちつつあります(16p図1.5参照)。

 また、格差の大きさは社会移動の少なさと相関しており、アメリカでは過去20年にわたってこの社会移動が低水準にあると言います(18p図1.6参照)。

 ジェンダー間の格差は、男女の税引前所得比で1960年代の350%超から2014年には180%と大きく改善しましたが、それでも差があるのが現状です。

 人種による格差も改善しましたが依然として残っていますし、資産格差については拡大の傾向が見られます。

 

 格差の拡大を防ぐ方法としては課税が注目されますが、アメリカとヨーロッパを比較すると、ヨーロッパの下位層のほうが早く所得増を達成できたのは、課税による再分配ではなく、高等教育へのアクセスや職業訓練の違いの影響が大きかったと分析されています。また、保健医療制度や労働市場の違いも影響を与えています。 

 

 次に第6章「資産格差と政治」(ベン・アンセル)をとり上げます。

 経済格差が政治の分極化を進めるといいますが、本章では資産格差、特に住宅価格に注目しながらそれを論じています。

 1990年代以降、先進国では前例のない規模で住宅価格が上昇しました。この影響もあって「住宅を保有していたか/していなかったか」で大きな資産価格が生まれたはずです。

 住宅保有者は、これに伴って固定資産税や相続税の減税を望むようになったり、社会保障政策への支持を弱めるかもしれません、

 

 実際、イギリスでのパネル調査によると、住宅価格の10万ポンドの上昇は完全雇用政策への支持を約10%低下させたといいますし、アメリカの調査でも住宅価格の上昇がソーシャルセキュリティ支出への支持を低下させているそうです(74p)。

 ただし、同時にこの効果は中道右派有権者に偏っており、左派の有権者は住宅資産に関係なく再分配に好意的です。

 

 さらに住宅価格の低下はポピュリズム支持と強い相関があるといいます。ブレグジットを問う住民投票において、イングランドウェールズの各地域の住宅価格と残留支持の割合はかなりきれいに相関しています(77p図6.1参照)。

 こうした傾向はデンマークにおける、デンマーク国民党(DPP)支持との関係にも見られます。住宅価格が上がると、ポピュリズム政党とされるDPPへの支持が下がるのです。

 本章はこのように非常に興味深い材料を提供しています。

 

 第10章「教育の未開拓の可能性」(ターマン・シャンムガラトナム)では、教育の問題がとり上げられていますが、国全体の教育のパフォーマンスを高めるには、うまく機能している公立学校のシステムがあり、教師の質と適正なカリキュラム基準を確保するために政府が大きな役割を果たしているという指摘は興味深いです。

 スウェーデンでは1992年に教育制度の分権化し、学校運営を民間セクターに移管する決定をしました。全国バウチャーシステムによる学校間の競争と親の選択により教育水準が上がると期待されましたが、2000年から2012年の間にスウェーデンではPISA参加国のどこよりも成績が急降下しました。

 著者は「公立校の運営は個別ではなくシステムとして行うという考えを、私たちはおろそかにしてはならない」(109p)と述べています。

 また、高等教育を学問志向から実学志向へと転換することも主張しています。

 

 第11章「なぜ「チャイナショック」は衝撃だったのか、政策にとって何を意味するのか」(デヴィッド・オーター)は、タイトルからもわかるように、アメリカにおける「チャイナショック」を分析したものです。

 アメリカでは製造業の雇用は第2次世界大戦以来、一貫して減少してきたと思われていますが、これは雇用シェアと製造業の労働者数を混同した議論だといいます。アメリカの製造業の雇用者数は1945年後半の1250万人から1979年後半には1930万人まで増え、80年代から減少に転じ、1999年までに200万人縮小しました。

 ただし、2000年までは、労働組合が弱く教育水準が引く地域では比較優位を生かして労働集約的な製造業が生き残っていました。

 

 しかし、2000年(中国のWTO加盟)〜07年にかけて製造業で雇用されていた非大卒成人は大幅に減少し、労働集約的な製造業が強かった地域が大きな影響を受けました。

 その結果、非大卒の賃金は低迷し、それまでつづいていた地域間格差の収斂の動きも止まってしまったといいます。

 

 一方、ドイツでは製造している製品の違い、労使関係や職業教育制度の違いなどもあってアメリカのようなチャイナショックが起きなかったことが、第12章「貿易、労働市場、チャイナショック――ドイツの経験から何が学べるか」(クリスチャン・ダストマン)で指摘されています。

 

 第13章「格差との戦い――先進国の格差縮小政策を再考する」(キャロライン・フロイント)では、チャイナショックにうまく適応できた国としてドイツと日本、適応できなかった国としてアメリカとイギリスが俎上に上がっています。

 ドイツや日本の特徴として、①貿易黒字を維持した、②特に数学と科学において中等教育の質が高かった、③労働者を構造変化に適用させやすくする放出弁が、雇用調整ないし地域雇用創造事業という形で備わっていた、という3点があげられています。

 日本は積極的な労働市場政策は十分ではないが、自治体が雇用創出に取り組む地域雇用創造事業がうまくいったという評価です。

 

 第14章「(するべきなら)富裕層に増税する方法」(N・グリゴリー・マンキュー)は、マンキューが登場ですが、「(するべきなら)」とあるように本人的には金持ちへの課税へ乗り気ではないのですが、「するべきなら」アンドリュー・アンの提唱する付加価値税+月1000ドルのベーシックインカムという政策に魅力を感じるとのことです。

 

 第15章「資産税は格差との戦いに役立つか?(ローレンス・H・サマーズ)」では、サマーズがサエズとズックマンの資産課税の提案に対して反対しています。

 サエズとズックマンはアメリカの税システムの累進性の低下と格差の拡大を誇張しており、資産税による税収も過大に見積もっていると言います。

 それよりも租税回避の穴を塞ぐことや、キャピタル・ゲイン税の改正、トランプ減税の廃止などをすべきだというのがサマーズの主張です。

 これに対して、次の16章ではサエズが資産課税について説明しています。

 

 第17章「(過度な)自動化を後戻りさせられるか、させるべきか」(ダロン・アセモグル)では、自動化について分析しています。

 今まで、基本的に自動化は生産性を上げる「良いもの」として捉えられてきました。自動化には「離職促進効果」がありますが、自動化は別のタスクを生む、より高い生産性をもった仕事を労働者に提供する「復職促進効果がはたらくと考えられていたからです。

 ところが、アセモグルらの研究では、1987年以降は離職が加速する一方で復職の効果が弱まったと言います。税政策で資本投資に補助金が出されていること、巨大なテック企業が自動化を強力に推進していること、政府の研究開発支援が弱まっていることなどを理由に、取り立てて生産性の向上をもたらさない過度の自動化が起きていた可能性があるというのです。

 

 第18章「イノベーションと格差」(フィリップ・アギオン)では、イノベーション(特許件数)が上位1%の所得シェアを引き上げるものの(186p図18.1参照)、ジニ係数は拡大させないことを示した上で(187p図18.2参照)、ロビイングも上位1%の所得シェアを引き上げることを指摘しています。

 巨大IT企業が引き起こしたイノベーションアメリカの総生産性を引き上げましたが、ロビイングや巨大IT企業が築いた参入障壁はかえって総生産性にブレーキをかけていると言います。

 

 第20章「ジェンダー格差」(マリアンヌ・ベルトラン)はタイトル通りに縮まってはきたもののまだ残るジェンダー格差について論じたものですが、女性が数学関連の分野に進まないのは数学分野が苦手だからではなく、言語の能力が高いからかもしれないという研究を紹介したあとの次の文章はいろいろと考えさせられる。

 ブレダとナップ(Breda and Napp 2019)は、数学の勉強を志すかどうかの男女差は、若者が特定の分野で成功するために必要な能力が自分にあるかどうかより、好きかどうかで進学先と職業を決めているという事実によって主に説明できることを示している。もしこれが正しいなら、若い女性(と男性)が進学先について後戻りしにくい決断をする前に、教育の選択が所得と職業に影響するという広い視野を持たせるため、高校での教育とキャリアカウンセリングの役割が重要ということだ。(211p)

 

 第24章「労働市場における効果的な政策手段を設計する際の法的執行力の重要性」(ハイディ・シアホルツ)がとり上げるのは、最低賃金以下の時給、労働時間外の労働、違法な天引き、チップの召し上げなどの「給料窃盗」の問題です。

 本章によると、アメリカではこれらの給料窃盗を合計すると低賃金労働者は年間およそ500億ドルを失っていると言います。一方、強盗、侵入強盗、窃盗、車上荒らしによる総被害額は年間130億ドルです(246p)。

 このような給料窃盗が放置されているのは、労働組合が弱体化したり、アウトソーシングが進んだりしているからですが、これを政府の力によって正していくべきだというのが著者の主張です。

 

 第28章「私たちはなぜ再分配の増加を支持しないのか?――経済学的調査からの新しい説明」(ステファニー・スタンチェヴァ)では、格差が拡大しているのにアメリカでは再分配政策が支持されないのはなぜかということがとり上げられています。

 問題は政府が「解決策」ではなく「問題」とみなされていることで、著者は次のように述べています。

 本章で取り上げたすべての調査で、アメリカにおける政府への信頼は総じて極端に低い。回答者の89%が「ワシントンにいる政治家たちは自分たちと選挙資金の最大献金者を豊かにするために働いており、大多数の国民のために働いていない」に同意している。また、回答者にまず政府について気に入らない点を考えさせると(ロビイストや金融機関救済についての意見をたずねるなど)、この実験に反応して政府への信頼が低下する。ほとんどの再分配政策への支持はこれによって大幅に減少し、政府の政策よりも優れた格差縮小の手段として「民間の慈善事業」の支持が増える。(289p)

 

 この「本章で取り上げたすべての調査」というのは著者らの調査であって、メジャーな調査ではアメリカの政府への信頼は必ずしも極端に低いわけではないそうですが、後半のロビイストや金融機関救済を想起させると再分配政策への支持が下がるというのは政治の機能不全とともに、再分配を否定するグループの宣伝が簡単に通りやすい現状を示しているのかもしれません。

 

 このように本書では格差をめぐるさまざまな議論が行われています。基本的にアメリカの話なので日本の参考になりにくものもありますが、これだけの一流の学者たちが一定の前提を共有した上で提言を行っているので、興味深い論考がたくさんあります。

 ここでとり上げたもの以外でも面白い提言はいろいろありますし、今までになかった意外な切り口をもった論考もあります。

 格差とその対策を考えていく上で、間違いなく有益な本だと言えるでしょう。

 

 

 

ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』

 2019年のTwitter文学賞の海外編1位など、さまざまなところで評判を読んでいた本がこの度文庫化されたので読んでみました(それにしても本屋大賞の翻訳小説部門第2位とTwitter文学賞が帯で並んで紹介されているのは熱いですね)。

 

 全部で24篇の短編が収録されており、全部が基本的には短いです。基本的には「最低」な人生の一コマがさまざまな形で切り取られており、そういった意味では『ジーザス・サン』『海の乙女の惜しみなさ』デニス・ジョンソン『奪い尽くされ、焼き尽くされ』のウェルズ・タワーあたりの近年のアメリカ文学の流れを思い出させるのですが、読み進めていくと、それらとは少し違います。

 

 著者のルシア・ベルリンは1936年にアラスカに生まれた女性で、鉱山技師だった父親の仕事の関係で各地を転々としつつ、チリなどでも過ごした経験を持ちます。

 3回の結婚と離婚をしながらシングルマザーとして4人の息子を育て、学校教師や看護助手、掃除婦、電話交換手などの職を転々としたといいます。

 アルコール中毒になりながらも小説を書くようになり、90年代には刑務所の創作クラスで教えたりもしていました。

 1985年に本作にも収録されている「私の騎手(ジョッキー)」でジャック・ロンドン賞を受賞していますが、その名声が高まったの晩年になってからになります。

 

 このように著者は非常に波乱に富んだ人生を送ってきており、小説も自身の人生の一部を切り取ったものになります。

 それは子ども時代の学校の思い出であったり、イカれた親戚の話だったり、掃除婦として働いていた頃の話だったり、いろいろで、本当にいろいろすぎて、「一体何をしたらこんなにさまざまな境遇になるのか?」と思うほどです。

 

 そこで最初は、このありえないほどのさまざまな体験が本書の面白さをつくり上げているように感じるのですが、「どうにもならない」を読んで、それだけではないことを思い知らせれました。

 

 「どうにもならない」はアル中の主人公が、子どもたちに酒をとり上げられたものの、夜中に酒がないことに耐えられなくなり、家からけっこうな距離がある店まで深夜に酒を買いに行くという話です。

 わずか6ページほどの作品なのですが、過去にアル中の人間の状況をここまで切迫感をもって書いた文章は読んだことがなかったです。とにかく酒がないとまともに動くことすらできない状況で、それゆえにほとんど命がけのような形で酒を求めるアル中の姿が鮮烈に描かれています。

 アル中の作家は今までもたくさんしましたが、自らのアル中の状態をここまで冷静に、そして切迫感をもって書ける作家はなかなかいないと思います。

 

 「さあ土曜日だ」は、著者が刑務所の創作クラスで教えていた経験を生かして書かれた作品ですが、主人公は著者の分身ではなく、受刑者になっています。

 CDという一目置かれる人物が創作クラスでもその才能を発揮して…という作品なのですが、この作品は構成が決まっていて、短編をつくるテクニックも十分にあったことがわかります。

 

 ただ、それでもやはり著者の真骨頂は、短編をうまく組み上げる力よりも、自らの経験を鮮度を保ったままに切り取る力なのだと思います。

 各短編は短いながらも、とにかくその切り取り方が鮮烈なので、1篇読むと結構満足してしまうというのも本書の特徴かもしれません。

 

 

岡田憲治『政治学者、PTA会長になる』

 近年、さまざまな場所で批判的に語られることが多いPTA。どんな事情があってもやらされるかもしれない恐怖の役員決め、非効率の権化のように言われてるベルマーク集めなど、PTAについてのネガティブな話を聞いたという人は多いと思います。

 また、PTAをなくした学校についての記事なども出てくるようになり、まさにPTAの存在意義が問われているとも言えます。

 

 そんな中、政治学者である著者が他薦によってPTA会長になり、改革のために悪戦苦闘を重ねた記録が本書になります。

 外で働いている人とPTAの常識の乖離といったものは多くの人が指摘していることではありますが、本書は、著者がその「PTAの常識」なるものがいかなる理由で生まれてきたものかを見極めようとしている点が面白いです。

 慣習的につづいてきた制度というものは、いかに非合理に見えるものであっても何らかの来歴があり、存続してきただけの理由があるのです。

 そして、本書は同時にそうした慣習の「改革」を試みた本でもあります。なかなか一筋縄では行かないものが多いのですが、一方であっさりと廃止できた行事もあります。慣習に染まっていたために見えなくなっているものもあるのです。

 

 PTAに興味がある人はもちろん、教育現場、さらに組織一般に興味がある人にとっても面白い本だと思います。

 

 目次は以下の通り。

はじめに 千差万別だけど「自治」としてのPTA
第1章 手荒い歓迎
第2章 「変える」がもたらすもの
第3章 現場という偉大なる磁場
第4章 自分たちで決めるということ
第5章 コロナ禍になって見えたこと
おわりに 僕たち持つ力を思い出す

 

 最初に著者も断っていますが、一口にPTAと言っても地域や学校によって千差万別で、それぞれが抱える問題は異なっています。

 その上で、著者はPTAをまずは「自治」のための組織だと捉えています。PTAはParentとTeacherのAssociationであり、親と先生のつくる任意団体です。

 しかし、現在のPTAで先生の存在感は薄いですし、「任意団体」という性格も隠れてしまっています。親がよくわからないもののために動員されるといったイメージが強いでしょう。

 そうした中で、著者は本書について「これは自治(自分たちで決める)話なんです」(9p)と述べています。

 

 著者は息子が小学校のサッカークラブに入ったことから子どもの活動に関わり始め、その流れでPTA活動のいくつかにも参加することになります。

 そんなことをしていたら、「選考委員」なるものに目をつけられてPTA会長に推されたというのが著者のPTA会長就任の経緯です。

 

 このあたりのディティールも面白いのでぜひ本を読んでほしいのですが、著者は「PTAを改革してくれそうな人」として期待されています。男性の大学教授という「異物」だからこそ、従来のPTAのやり方を変えてくれそうだと白羽の矢を立てられたのです。

 しかし、「異物」に期待する人もいれば、「異物」を警戒する人もいます。著者は内定者の懇談会でいきなり就任の経緯について強烈な抗議を受けています。

 基本的に会長選出の手続きは選考委員に任されており、手続き的には問題ないのですが、「異物」への不安感と「聞いていない」ということが一部の役員から大きな反発を呼ぶことになったのです。

 

 著者が最初に直面したのは、他の女性役員たちの「不安」です。とにかく彼女たちは「不安」に陥っており、結果的に非常に細かい部分や必要性の感じられない部分まで前例が踏襲されています。

 著者などは、そのときの役員が必要だと思う活動を、役員がやりやすいようにやれば良いと考えているわけですが、他の役員たちは「不安」なので、膨大の引き継ぎ書類が受け渡されていくのです。

 

 そんな中で、著者が問題だと思いつつもなかなか動かせなかったのが「ポイント制」です。

 多くのPTAで取り入れられている制度ですが、子どものいる6年間に一定のポイントを獲得しなければならないという仕組みで(別に義務ではなく目安でしかないけど大きなプレッシャーになっている)、著者の学校では12ポイントが目安になっています。

 庶務役員をやると15ポイント、教員の送別会の準備委員をやると2ポイントといったように負担の重さとポイントが連動しており、PTA活動のインセンティブともなっています。

 もともとは希望の多かったPTA活動への参加を抑制するための仕組みだったそうですが、現在では果たさなければならない義務と認識されています。

 

 このポイント制が著者の行おうとする改革を阻みます。

 例えば、「月1回の古紙回収は負担ばかり大きくて収入はほとんどないのだから廃止しよう」と言うと、「それでは月1の古紙回収への参加でポイントを稼ごうと思っている人が困る」となるわけです。

 保護者たちは入学のときからいかにして12ポイントを稼ぐかを計画しており、行事の廃止やスリム化はそうした計画を壊すことにもつながるからです。

 

 そういった中でも、著者は運動会のお茶出しシフトの廃止や(ペットボトルのお茶を配る)、PTAの役員会を月イチの土曜の登校日の午前中のみにする、地域の人々との「お月見会」の廃止などをやっていきます(「お月見会」という地域の人々(長老)との懇談会を防災懇話会に発展的に解消した)。

 こうしたこともあって2年目の役員は立候補と他薦であっさりと決まり、男性の役員も増えました。

 

 著者はPTA活動をボランティアに喩え、「「平等なボランティア」などという物言いは、あたかも「秩序ある想像力」みたいな矛盾するものであって、日本語として成立するかどうかも怪しい」(151p)と言います。

 ポイント制に代表されるような日本のPTAにおける「平等志向」は本来のボランティアの考えと相容れないものです。やりたい人がやるのだから不平等であって当然だというのが著者の考えになります。

 

 ただ、「PTAのスリム化」というのもそう簡単にはいかないことも著者には見えてきます。

 例えば、無駄の象徴のように言われるベルマーク集めですが、ベルマークを切り貼りしながら何時間もママたちでしゃべるのを楽しみにしている人もいるわけであり、費用対効果が悪いからといって単純に廃止すべきかというとそうでもありません(廃止に傾いていた著者は残すことにした)。

 

 古紙回収に関してもやめようと考えますが、手一杯でPTAの活動に参加できずに、せめてこれくらいはと思って参加している人もいると聞いて著者は逡巡します。

 ここで再びポイント制の話に戻ってくるのですが、著者はポイント制がさまざまな問題の根源にあると認識しながらも、同時にポイント制があるからこそPTA活動に関わってみた、ポイントは自分が頑張った証だといった話を聞いて揺れ動きます。

 PTAや地域の活動に「居場所」を見出している人がおり、そこは「合理性」では突破できない局面なのです。

 

 そして、著者の会長任期最後の年にコロナがやってきます。コロナによって臨時休校となり、当然ながらPTAの活動も止まりました。

 それによって数々の会合もなくなりましたが、それは同時にそれらの会合が特に意味がなかったということを教えてくれるものでもあったといいます。

 

 さらに著者はこのコロナ禍によって「学校は地域社会の弱者の立場にある」(235p)という認識を決定的にしたといいます。児童数800人の学校に電話回線は2本しかなく

だから連絡帳で欠席を伝えるしかない)、教員は個人のメールアドレスをもたず、Youtubeも見れないし、Zoomも使えない、教育委員会がつくった動画さえ教員が学校で見ることができなかったといいます。

 

 ここまでざっと本書の内容を紹介してきましたけど、本書の面白さは著者と関係者のさまざまなやり取りのディティールにもあります。著者は何度も関係者と衝突したり、止められたりするわけですが、その経験が反省的に捉え返されており、とても「政治的」と言えるかもしれません。

 

 最初にも述べたように、PTAに関心がある人はもちろんですが、学校、あるいは組織について興味のある人であれば、きっと面白く感じるのではないかと思います。

 

 

 

Christian Lee Hutson / Quitters

 Phoebe Bridgersが来日した際にギタリスト、そして前座を務めていたLAを拠点にするフォーク・シンガーの2ndアルバム。

 ギター中心の非常にオーソドックスなフォークかと思いきや、1曲目の"Strawberry Lemonade"も最後で少し変化をつけてきますし、3曲目の"Rubberneckers"はちょっとPhoebe Bridgersを思い起こさせるようなポップさがあります。

 全体的にこのポップさが絶妙で、この手のアーティストはきれいな歌とメロディだけどいまいち起伏がないということになりがちですが、それを回避しています。印象は強くないけど気持ちがいいので、何回も聴ける感じですね。

 

 6曲目の"Blank Check"は静かにきれいに始まるのですが、曲の最後は結構ノリノリのアウトロで、このあたりも良いアクセントになっています。

 8曲目の"Black Cat"は静謐で高尚な感じの曲なんだけど、サビであえてうるさ目にドラムを入れてきていて、それがここでも良い感じになっている。そして次の"Creature Feature"は一転して疾走感のある曲で、曲の配列でもメリハリが付いてます。

 

 何か忘れられようなインパクトを残すアルバムではないですけど、45分ちょいをさらっと気持ちよく楽しめるアルバムですね。

 ちなみに、下の"Rubberneckers"のPVを見ると、PVの安っぽさもPhoebe Bridgers譲りですかね?

 


www.youtube.com

 

 

渡邉有希乃 『競争入札は合理的か』

 公共事業では、それを施工する業者を入札で決めることが一般的です。多くの業者が参加して、その中で最安を提示した業者がその工事を落札するわけです。

 ところが、日本の公共事業では指名競争入札という形で、発注側が入札できる業者をあらかじめ指定したり、地方自治体では最低制限価格制度という形で一定以下の価格を示した業者を失格にするしくみもあります。

 

 なぜ、このような制度があるのでしょうか?

 すぐに思いつくのは「利権」の存在です。一般競争入札よりもメンバーが限られている指名競争入札の方が談合などはしやすいでしょうし、最低制限価格制度もそれを教えて業者から賄賂を得るといったことが考えられます。

 実際、90年代にはいわゆる「ゼネコンの汚職」が明るみに出て、入札制度の改革が行われたわけですが、それでも指名競争入札や最低制限価格制度はいまだに残っています。

 

 本書は、こうした考えに対して、指名競争入札や最低制限価格制度にはある種の「合理性」があるのだということを、ハーバート・サイモンの「限定的合理性」の考えから明らかにしようとした本になります。

 公共事業の工事は「低価格」と「高品質」を同時に満たさなければなりませんが、そのための情報処理のコストを引き下げるための工夫が、指名競争入札や最低制限価格制度だというのです。

 

 実は2019年に成蹊大学で行われた日本政治学会の分科会で著者の報告を聞いたことがあり、膨大なデータセットをつくって分析していた姿が印象的だったのですが、本書でも数多くのデータを用いて、発注側の意図というブラックボックスを実証的に明らかにしようとしています。

 

 目次は以下の通り。

序章 日本の公共工事調達と「競争」

第1章 日本における公共調達制度改革とその背景

第2章 先行研究の検討──これまでの研究は何をどう論じてきたのか

第3章 公共工事調達を分析する枠組み
第4章 落札価格に対する上下限基準の設定──競争をめぐる「ダブルスタンダード」はどのように説明されるのか

第5章 参入要件設定による応札数の抑制──顕在的競争性の低さは何を意味しているのか

第6章 地方自治体における最低制限価格制の利用──ローアーリミット制はなぜ二種類あるのか

終章 競争制限の「合理性」とは何なのか

 

 日本では1889年の会計法の整備に伴って一般競争入札が導入されましたが、適切な施工能力を持たないのに安値で落札するケースが相次ぎ、1900年に勅令で例外として指名競争入札が認められました。

 1921年会計法の改正で指名競争入札が明記され、戦後になってもそれが引き継がれることになります。

 

 しかし、このしくみは1993年に発覚したゼネコン汚職事件で問題視されます。公共事業をめぐって政治家と大手ゼネコンの間で多額の贈収賄があることが明らかになり、指名競争入札こそが談合の温床になっていると批判されました。

 指名競争入札と談合と予定価格制の3点セットは、業者に一定の価格を保障しつつ、予定価格を超えるような高値の落札は許さないという点で発注側にもメリットがあり、維持され続けていたのです。

 

 ゼネコン汚職の発覚によってこの3点セットは問題とされ、94年には原則として一般競争入札が行われることとなりますが、そこで問題となったのは工事の品質をどのように確保するかです。

 公共事業の落札率(落札価格/予定価格(%))は下がっていきましたが(14p図1.2参照)、それとともに品質への不安が生じることになります。

 こうしたことを受けて、価格以外の要素も加味して事業者選定を行う「総合評価落札方式」が導入されます。会計法では「例外中の例外」(15p)と見なされていた方法が国土交通省の事業における標準的な方法となっていったのです。

 

 こうした日本の競争制限的な姿勢に対して、基本的には政治・行政・業者の「鉄のトライアングル」や発注側(行政)の都合といったことで説明されてきました。土木建築部門の利益が優先される中で、工事に高い金が払われ、市民全体の利益が毀損されてきたというわけです。

 一方、品質や事務コストの点などから、こうした競争の制限を説明しようとする試みもありました。

 

 本書ではこうした説明に対して、発注側の合理性の限界といった角度から迫っていきます。

 ロナルド・コースは「なぜすべてが市場で取引されるのではなく企業が存在するのか?」という問いに対して、「取引費用があるからだ」という答えを提示しましたが(ロナルド・H・コース『企業・市場・法』)、オリヴァー・ウィリアムソンはこれを発展させて取引の当事者の認知能力の限界や取引当事者の機会主義のインセンティブなどから企業の必要性を説明しました(O・E・ウィリアムソン『市場と企業組織』)。

 

 このウィリアムソンの認知能力の限界という考えは、ハーバート・サイモンの「限定合理性」の考えからきています。人間は合理的ではあるのですが、すべての要素を考慮に入れて意思決定を行うことはできず、どこかでその認知能力を節約する必要が出てくるのです。

 本書では、サイモンとウィリアムソン、そしてカーネマンやトベルスキーの合理性の捉え方の違いも指摘して、そこも面白いのですが、とりあえずここでは著者がサイモンの考えを採用していることだけを指摘しておきます。

 

 本書は行政組織の負担する取引費用に注目して議論を進めていきます。 

 この取引費用の中で大きなものを占めていると考えられるのが意思決定に必要な情報コストです。

 公共事業は、「品質」と「価格」の両方を満たした上で、「タイムリー」に行われる必要があります。例えば、業者の選定に何年もかかるようでは公共事業によって得られる便益は大きく減少してしまいます。

 

 一般競争入札では、業者は参加を表明した業者に絞られ、価格において競争が行われるために、業者側が発注側を騙して利益を得るといったことが難しくなります。

 しかし、一般競争入札において「品質」の保証を求めることは困難です。業者が適正な施工能力を持っているかを調べたり、施工の過程をチェックするのにはそれなりのコストがかかるのです。

 このような状況の中で、総合評価落札方式は「品質」を考慮に入れるための方策と言えます。ただし、総合評価落札方式によって「品質」と「価格」のトレードオフの中で最適解を見つけられるというわけではないでしょう。ここでも最適解を見出すための情報コストが膨大だからです。

 

 こうした理論立てをし、それを第4章以降で実証的に分析していきます。

 第4章では、まず落札価格の上限となる「予定価格」と下限となる「ローアーリミテッド」の問題がとり上げられています。

 日本の入札において上限となる予定価格は非公開であり、これを超えた入札は無効になります。一方、下限となる価格は、地方自治体では「最低制限価格」が設定されていて、これを下回る落札が無効になりますが、国の事業では「低入札価格調査制」が導入されており、落札価格が基準以下の場合は発注者が落札予定者がが十分な能力を持っているかを調査することになっています。本書では、最低制限価格と低入札価格調査制をひっくるめて「ローアーリミテッド」と呼んでいます。

 

 この2つのうち、予定価格の存在理由としては予算管理上の理由が思い浮かぶでしょう。10億円の予算を組んでいた工事を15億円で落札されたら、計画は大きく狂ってしまいます。

 一方、楠茂樹は落札価格以外に別の基準価格を設定すること自体を「競争原理を正面に掲げておきながら、競争を信じない『官の無謬制』に支配されたダブルスタンダードの発想」(69−70p)であるとしています。

 

 これに対して、本書はまず、予定価格とローアーリミテッドの間で入札が行われれば、そこでそれ以上の調査が行われないということに注目します。

 サイモンは最適な意思決定ではなくても、一定の水準が保たれればそこで決定がなされるという「満足化」という戦略を打ち出しましたが、この上限・下限の価格もその戦略の一環だといいます。

 

 つまり、「品質」と「価格」の両面で最適と考えられるバランスは想定できるものの、発注者がそれを探り当てるのは困難であり、だから、予定価格とローアーリミテッドの間の落札であれば、一定の「満足」できる状態だとしてそれを受け入れるというのです、

 具体的に言えば、予定価格より低ければ「価格」の最低基準をクリアーしたことになりますし、ローアーリミテッドより高ければ「品質」の最低基準をクリアーしたと想定するわけです。

 

 この意思決定を実証したいわけですが、日本の公共工事では基本的に予定価格とローアーリミテッドが指定されており、基準価格が設定されていない場合との比較はできません。

 そこで本書では、国の機関及び地方自治体の担当部局課に対するアンケート調査を行なっています(国の機関からの回収率が6%と非常に低いのですが、これは地方整備局から「管内の全ての事務所を代表して回答する」という形で返答があったとのこと(76p))。

 このアンケートでは現在の入札に対する評価を聞くとともに、仮想的な状況を示して、それが実現した場合にどのような影響があるかを尋ねています。

 

 具体的には「公正」「良質」「低廉な価格」「タイムリー」という4つの評価軸を置き、これにそれぞれの制度がどのように貢献しているのかを調べています。

 例えば、総合評価落札方式と最低制限価格制は「公正」と「良質」に貢献していると考えられており、これらの2つの方式と比較すると、予定価格制と低入札価格調査制は「低廉」に貢献しています(80p図4.2参照)。

 これにさらに仮想的なケースを聞いているのですが、例えば「予定価格制が存在しない場合(CaseA)」では「公正」と「低廉」が悪化し、「タイムリー」が向上し、「最低制限価格制が存在しない場合(CaseB)」では「良質」が悪化し、「低廉」が向上します(81p図4.3参照)。

 総合的に見ると、予定価格制は「低価格」、ローアーリミテッドは「高品質」を追求するための基準として認識されています。

 

 本書では予定価格制やローアーリミテッドが発注側の情報コストを下げることを証明したいわけですが、ここでは「タイムリー」という評価軸に注目しています。

 これによると予定価格制と最低制限価格制は「タイムリー」に貢献していますが、低入札価格調査制はマイナスの影響を与えています(85p図4.6参照)。低入札価格調査制は基準を下回った場合に追加の調査が必要になるからです。

 

 低入札価格調査制で実施される施工能力調査は品質面の適切性を発注側が自ら確認する制度といえます。

 そこで本書では「ローアーリミテッド+施工能力調査(CaseD)」「全案件で施工能力調査(CaseE)」「予定価格+支出適正性調査(CaseF)」「全案件で支出適正性調査(CaseG)」という架空の設定についても聞いています(「支出適正性調査」とは入札価格が予定価格を上回っても支出の適切性が説明できれば落札できるしくみ)。

 

 CaseD〜Gのいずれにおいても、「タイムリー」は悪化するとみられており、CaseF,Gでは「低廉」も悪化します。そしてCaseDよりもE、CaseFよりもGでより悪化が確認されます(89p図4.8参照)。

 実際の業務量に関しても、施工能力調査にしろ支出適正性調査にしろ、その業務量は増加するとの回答が多く(92p図4.9参照)、予定価格制や最低制限価格制が業務量の増加を抑え、タイムリーな公共事業を可能していることが確認できます。

 ここから著者は発注側が、まず一定の価格で探索の範囲を絞り込む「満足化」戦略をとっているもんとみなします(ここの実証の部分は筋道としてはわかるのですが、道具立てとしては分かりにくいと思う)。

 

 第5章では応札数の抑制について分析されています。

 国土交通省が発注する事業に関しては改革が進み、2005年ごろには一般競争入札への移行と、総合評価落札方式の導入が完了しています。しかし、05年以降、入札一件あたりの応札数(入札参加者数)は減少傾向にあります。

 この背景には発注側がそれなりに厳しい入札参入要件を課していることがあります。応札数が増えるほど競争が激しくなって価格の低下が見込まれるわけですが、「なぜ、厳しい入札参入要件を課して応札数を絞っているのか?」が本章の問いになります。

 

 本書の仮説は、限定合理性のもとで「問題の逐次的処理」が行われているというものです。公共事業では「品質」と「価格」の両方を追求することが必要ですが、まずは参入要件を厳しめにすることで「品質」を確保し、その後で「価格」面での競争を行わせるという二段階の選抜を行ってるというのです。

 

 実際にこれを確かめるために、本章では、①応札数の抑制が参入要件の結果として生じていること、②応札数が抑制されているときは再度入札、増大しているときは低入札価格調査が発生する確率が高くなること、③再度入札が事業者選定にかかる取引費用を増加させる効果が低入札価格調査よりも小さいこと、の3つを示そうとします。

 

 国土交通省地方整備局発注工事の入札データ(港湾・空港を除く)を分析すると、①と②の仮説は確認できます(111p表5.2、112p表5.3参照)。

 ③については、応札数の増加が再度入札の発生を回避して所要日数を節約する効果よりも、低入札価格調査を誘発して所要日数を増加させる効果が大きいことを示すことで、この仮説を確認しています(113p表5.4、114p表5.5参照)。

 

 第6章では地方自治体が最低制限価格制を採用しているのはなぜか? という問題をとり上げています。

 本書のいうローアーリミテッドには、入札価格が基準価格を下回った場合にその事業者の施工能力を調査する低入札価格調査制と、基準価格を下回った事業者が除外される最低制限価格制の2つがあります。そして、国の事業は前者のみが採用されていますが、地方自治体の事業では後者も採用されています。

 経済性の観点から言えば、低入札価格調査制の方が優れているはずですが、地方自治体においては最低制限価格制が採用されていることが多いのです。

 

 こうした状況が生まれたのには歴史的な経緯もあるのですが、本書はここでも情報コストの問題に注目します。

 低入札価格調査制の場合、想定以上の安い価格で一定の品質を保った工事を行える事業者を見つけ出すことができるかもしれませんが、同時に施工能力を調べるコストがかかります。

 一方、最低価格制限制では想定以上の安い価格をあきらめる代わりに、施工能力を調べるコストを負担しなくて済みます。

 

 ここから、本書は①「金額規模の大きな案件ほど低入札価格調査制になり、小さい案件には最低制限価格制が適用される」、②「発注者のリソースの規模が小さいほど最低価格制限制が採用される」という2つの仮説を立て、それを検証しています。

 

 地方自治体には、A・低入札価格調査制導入+最低制限価格制導入せず(岩手県宮城県広島県)、B・低入札価格調査制導入+最低制限価格制導入(大部分の自治体、これには数値的な基準があるケースとないケースがある)、C・低入札価格調査制導入せず+最低価格制限制導入(熊本市いわき市横須賀市長崎市など)の3つのパターンがあります。

 

 本書では、まずBの自治体に着目して仮説①を検証し、それを確かめています。

 さらに仮説②についても、各発注者の一般行政職員数、土木部門職員数、土木・建築技師数(国家資格保有者)、工事契約担当課の職員数に着目し、いずれも人的リソースが乏しいほど、高い基準価格の工事でも最低価格制限制が導入されてることを確かめています。

 

 加えて、最低価格制限制が土木部門の個別的な利益追求でないことを示すために、首長の直前の選挙の得票率と主張与党議席占有率との関係も調べています。首長のプレゼンスが弱ければ、それだけ個別的な利益を背負った地方議員の影響力が大きくなり、部分的な利益が追求されるだろうという想定です。

 この分析結果は、負の関係が見られるが有意ではないというもので、最低制限価格制の存在理由を土木部門の個別的な利益の追求で説明しつくすことはできないとしています。

 

 このように本書は日本の競争制限的な入札制度に一定の合理性があることをサイモンの限定合理性の考えを使って示しているわけですが、著者が終章で「しかしそれでも、「日本の競争制限的な調達制度運用のあり方が、公共工事をめぐる癒着と腐敗の温床になってきた」という社会的認識が覆されることはおそらくない」(152p)と述べるように、現在の制度が「正しい」といったことを示したわけではありません。

 あくまでも発注側の手続合理性にもとづいたしくみが、他のアクターの支持も受けて制度として定着していることを示したということになります。一方、こうして成立した制度のもとでなんらかのレントが発生しやすくなる、発生している、ということは否定できないということでもあります。

 

 この結論にやや物足りなさを感じる人もいるかもしれませんが、この限定合理性や情報コストを使った分析は、慢性的な人員不足に陥っている日本の行政を分析していく上で非常に有用なのではないかと思います。今後の研究の展開にも期待したいところです。

 あと学問的な業績にはなりにくいのかもしれませんが、1冊の本として見た場合、国土交通省自治体で実際に業務経験のある人のインタビューなどがあるとよりわかりやすかったと思いますし、エビデンスとは別の次元での説得力が出たと思います。

 

スタニスワフ・レム『地球の平和』

 第2期の刊行が始まった国書刊行会の「スタニスワフ・レム・コレクション」の第2弾は〈泰平ヨン〉シリーズの最終作にして、レムにとって最後から2番目の小説になります。

 カバー見返しの内容紹介は次のようになります。

自動機械の自立性向上に特化された近未来の軍事的進歩は、効果的かつ高価になり、その状況を解決する方法として人類は軍備をそっくり月へ移すことを考案、地球非軍事化と月軍事化の計画が承認される。こうして軍拡競争をAI任せにした人類であったが、立入禁止ゾーンとなった月面で兵器の進化がその後どうなっているのか皆目わからない。月の無人軍が地球を攻撃するのでは? 恐怖と混乱に駆られパニックに陥った人類の声を受けて月に送られた偵察機は、月面に潜ってしまったかのように、一台も帰還することがなかったばかりか、何の連絡も映像も送ってこなかった。かくて泰平ヨンに白羽の矢が立ち、月に向けて極秘の偵察に赴くが、例によってとんでもないトラブルに巻き込まれる羽目に……《事の発端から話した方がいいだろう。その発端がどうだったか私は知らない、というのは別の話。なぜなら私は主に右大脳半球で記憶しなくてはならなかったのに、右半球への通路が遮断されていて、考えることができないからだ》レムの最後から二番目の小説にして、〈泰平ヨン〉シリーズ最終話の待望の邦訳。

 

 いろいろな要素が詰め込まれた小説なのですが、まず最初に前面に出てくるのが分離脳の問題です。

 これはガザニガなどが研究していたものですが、てんかんの治療などで右脳と左脳をつなぐ脳梁を切断する手術を受けると出現する状態です。こうなると自分の左半身で起こったことは右脳で処理されるので、言語をつかさどる左脳はその状況を知ることができずにうまく経験を言葉に表せない状態になります。

 

 レムはこれに興味を持ったようで、ヨンは月で脳梁切断(カロトミー)を受けたという設定になっています。

 レムはあたかも一人の中に二つの人格があるかのうようにこの状況を描き、右脳の人格を「彼女」という代名詞で読んだりしています。そして、左手は勝手に女性のお尻をつねったります。

 

 実際にはこのようにはならないはずですが、本書の1つのポイントはヨンの右脳に重要な記憶が埋まっているという設定です。

 ヨンは月面で何かを見ており、その記憶は右脳にあって、ヨンの左脳もそれが何かを認識できません。そして、秘密をめぐってさまざまな人物が暗躍するのですが、その記憶は、例えばヨンを捕えて拷問にかけても取り出せないものなのです。

 

 このように前半は分離脳をめぐるドタバタという感じなのですが、中盤からはもう1つのテーマである兵器開発競争、そして月面での進化したAIとのコンタクトが中心になり、話はシリアスになっていきます。

 このあたりは『ソラリス』や『砂漠の惑星(インヴィンシブル)』を思い起こさせる内容で、レムならではの想像力と描写で読ませます。

 

 人類は地球に平和をもたらすために、各国が月面で兵器を開発して争い合うというアイディアを生み出したわけですが、人類の預かり知らぬところで進む競争は、当然ながら人類が想像のつかない進化をもたらしていくのです。

 

 レムは『砂漠の惑星』で究極の兵器として虫のような機械の大群を描いたわけですが、本書の結末で登場するのはさらに一歩進んだものになります。

 本書は1984年に書かれたものですが、この最終兵器の在り方に関しては、21世紀の実態を先取りしており、「さすがはレム」といったものです。

 時代を感じさせる描写もありますが、大元となるアイディアはまったく古びてはいないですね。

 

 

『コーダ あいのうた』

 今年のアカデミー賞の作品賞と助演男優賞(トロイ・コッツァー)、脚色賞を獲った作品。

 

 冒頭は漁船のシーンで、主人公のルビーが歌いながら漁を手伝っていますが、一緒に乗っている父と兄は気にしていません。なぜなら、二人とも耳の聞こえない聾唖者だからです。

 さらに母親も聾唖者であり、一家の中でルビーだけが耳が聞こえ、手話以外の言葉を話すことができます。

 ルビーは高校生で、かっこいいと思っていたマイルズが合唱クラブに入ることを知り、自分も合唱クラブに入ります。そこでルビーは音楽教師のベルナルド・ヴィラロボス(V先生)に才能を見出され、マイルズも目標としているバークリー音楽大学の受験を進められます。

 ルビーは、家族からは外部とのコミュニケーションを取るために必要とされており、自分の夢と家族の間で引き裂かれます。

 

 という筋立てで、ストーリー的にはありきたりです。音楽との向き合い方にしろ、マイルズとの恋にしろ、基本的にはどこかでみたような内容です。

 ただ、聾唖者である家族の描き方は今までのパターンとは違います。まず、家族を聾唖者の役者が演じていますし、「つつましく善良」といったパターン化された姿からは一線を画しています。かなり奔放で明け透けな姿は今までになかったものでしょう。

 また、ルビーを演じたエミリア・ジョーンズも非常にいいです。

 

 ただし、それでもルビーが学校での発表会で家族たちを前に歌うシーンまでは「手堅い佳作」という感じです。

 ところが、この発表会での演出が素晴らしく、その後に続くルビーと父親のシーンも素晴らしい。ここで一気に強い印象を残してラストへと向かっていきます。

 「聾唖者であるとはどのようなことか?」というのは、それ以外の人にはなかなかわからないことですが、それをわからせようとする演出があることがこの映画の最大の長所なのではないかと思います。