コロナと読書

 タイトルからするとコロナ禍の中での読書生活の記録みたいに思えますが、そうではなくて、1学期も終わって少し落ち着いたところで、新型コロナウイルス問題を考える上で参考になった本をいくつかあげておこうというエントリーです。

 とは言っても、医学的な問題には疎いですし、ウイルスや感染症についての本を読み込んでいるわけもないです。正直、新型コロナウイルスがどうなるかどうかはわからないですし、「コロナ後」の世界についても何か見通しを持っているわけでもありません(ニュースになり始めた段階では2009年の新型インフルエンザのことを思い出して、「これはどこかで2週間位の休校があるか?」と思っていた程度でしたが、2週間じゃすみませんでしたね)。

 ここで紹介するのは新型コロナウイルスが引き起こしたさまざまな問題の文脈を考えるための本が中心になります。新型コロナウイルスに関する知識は今まさに生まれつつあるところですが、問題が起こった社会に関しては、何らかの知識の蓄積がすでにあり、それが本に書かれているからです。

 

 ただし、最初にあげるの山本太郎感染症と文明』(岩波新書)という、ずばり感染症についての本です。

 この本は『図書』の増刊号の「はじめての新書」に寄稿した際にもおすすめの本としてあげた本ですが、感染症の特質と感染症が文明に与える影響をダイナミックに描き出した本です。 

 今回の新型コロナウイルスでは、よく第一次世界大戦時のスペイン風邪と重ねられましたが、そのスペイン風邪が弱毒→強毒→弱毒と変化したこととその背景、「ウイルスとの共生」といった考えは、今後の新型コロナウイルス問題を考えていく上でも示唆に富むものでしょう。

 

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 新型コロナウイルスが拡散されるにつれて、日本で問題となったのはマスクの不足でした。マスク不足は世界的に起きた問題でしたが、台湾では国民が持つ番号ごとに買える日を指定したりしてマスクの需要をコントロールしていました。

 このニュースを聞いたときに「日本も同じようなことはできないものか?」と思った人もいるでしょうが、これを行うには国民総背番号制のインフラが必要であり、日本はこの制度の導入に長年失敗し続けてきました。

 その歴史的な経緯に迫ったのが羅芝賢『番号を創る権力』(東京大学出版会)です。本書を読むと、日本で導入が遅れた理由が「プライバシー意識」といった単純なものではないことが分かりますし、、逆に台湾や韓国で国民総背番号制が導入されているのは、戦時や戒厳令下という特殊な状況の後押しがあったことが分かります(スウェーデンはまた違った背景から制度が導入されていますが)。

 日本政府の取り組みの鈍さに苛立った人も多いでしょうが、使える制度が歴史的な経緯によって決まっているという点は重要だと思います。

 

 

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 もう1つ、日本の新型コロナウイルス対応で印象に残ったのが、成田空港と羽田空港PCR検査した帰国者を宿泊施設に移動させるために、自衛隊が派遣されたというニュース。前々から日本の公的機関に冗長性がないことは知っていましたけど、「緊急時に人が出せる組織はいまや自衛隊くらいしかないんだな」と強く感じたニュースでした。

 この日本の公務員の少なさを指摘し、それが「小泉内閣新自由主義的改革」とかのせいではなく、ずっと以前からのものであるということを教えてくるのが前田健太郎『市民を雇わない国家』(東京大学出版会)。日本以外の先進各国の公務員数の伸びがストップするのは1980年代前後なのですが、日本ではそれが1960年代であり、それが日本の公務員の少なさ(労働力人口に占める割合が5%ほど、ノルウェースウェーデンで30%近く、イギリスで20%近く、アメリカでも15%近く)につながっているのです。

 

 

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 というわけで、政府の使える人的な資源はかなり制約されていたわけですが、それでも以前だったらもう少しはましだった気もします。

 以前との違いというとやはり地方分権が進んだということにあるでしょう。待鳥聡史『政治改革再考』(新潮選書)を読むと、平成という時代は小選挙区比例代表並立制の導入と省庁再編によって首相に権力が集まる集権的改革が実施されると同時に、地方分権という分権的な改革も同時に行われました。

 確かに人事制度の改革もあって、首相はより強力に官僚を統制できるようになりましたが、地方に対する統制力は逆に弱まっています。特に地方分権によって大きな力を持つようになった知事が独自に政策を打ち出し、政府以上のアピール力を発揮するケースも目立ちました。

 詳しいことはわかりませんが、厚生労働省と地方の保健所のつながりも、やはり以前よりは弱まっているのではないでしょうか。

 

 

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 また、感染拡大局面では「都道府県をまたいだ移動の自粛」が呼びかけられましたが、多くの勤め人にとって都道府県の越境というのは日常であって、自粛を要請されても困ると感じた人も多かったと思います。

 今回の新型コロナウイルス問題では、保健所の設置者が都道府県(または政令市や中核市など)ということもあって、都道府県の枠組みが強く意識されました。ただし、東京の人口が1400万に迫る一方で、鳥取の人口は57万で世田谷区や練馬区江戸川区などにも劣るという具合に、同じ都道府県と言ってもその規模には大きな違いがあります。

 それでも、47都道府県という枠組みが変わらないことと、その安定の背景を教えてくれるのが、曽我謙悟『日本の地方政府』(中公新書)です。福祉など近年その役割が拡大してきた分野に関しては基本的に市町村が担っており、都道府県は新たな行政需要に応えるために合併する必要がないというのが理由の1つなのですが、もし新型コロナウイルスの流行が収まらなければ、都道府県同士の新たな連携が模索されるかもしれませんし、大都市の周辺の県(例えば、東京に隣接する神奈川、埼玉、千葉)は、県境での人の流れを止めるわけにもいかず、難しい局面が続くと思います。

 

 

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 日本から離れてこの問題を考えた場合に、やはり注目すべきは発生国であった中国における初動の失敗と、その後の対応の強力さです。

 対応の強力さに関しては、何といっても中国が権威主義国家であり、末端まで政府の指令が届く体制になっていたという点が大きいですが、近年、中国で急速に発展しつつある情報テクノロジーが威力を発揮した点も見逃せません。

 感染症の抑え込みには、患者の把握と統制が必要なわけですが、中国では個人を把握するしくみが急速に整えられていました。そのあたりを教えてくれるのが梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書)です。

 中国では一人っ子政策のもとで子どもの誘拐事件が多発していましたが、監視カメラシステムによって未解決事件は激減し、人々に安心感を与えました。そうした利点が人々に監視社会を受け入れさせているわけですが、今回の問題でその傾向はさらに進むかもしれません。

 

 

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 ただし、一方で中国が新型コロナウイルスの抑え込みに失敗したのも事実です。この失敗について、アマルティア・センの考えを用いて説明するならば、その理由は「民主主義の不在」ということになるでしょう。

 アマルティア・セン、ジャン・ドレーズ『開発なき成長の限界』(明石書店)はインド経済に関して分析した本ですが、「中国に比べて、インドはその民主主義が経済成長を妨げている」との批判に対して、民主主義が不在の中国では情報が上にいかないことで上層部が判断ミスをし、それが大きな問題を引き起こす可能性を指摘しています。

 本書では、改革開放政策の中で「農村合作医療制度」が打ち切られ、寿命の伸びが鈍ったケースを紹介しています。農村向けの公的医療制度は2004年前後から「新型合作医療制度」として再び導入されますが、著者たちは民主主義ならこう簡単に制度を打ち切れなかっただろうと述べ、中国の統治システムの問題点を指摘していますが、今回も同じ医療・公衆衛生の分野で問題が起きたと言えます。

 

 

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 最後に気になるのは新型コロナウイルス問題で加速した間のある米中対立の行方ですが、詫摩佳代『人類と病』(中公新書)を読むと、冷戦下の米ソでさえ感染症対策に関しては一定の協力をしていたことがわかります。

 この背景には自陣営の正しさを証明したいという動機もあったわけですが、逆に言うと、今の米中には正しさを証明したいイデオロギーのようなものがないために、国際的な危機を救おうという考えが出てこないのかもしれませんね。もちろん、それでは困るのですが…。

 

 

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