ケン・リュウ編『月の光』

 『折りたたみ北京』につづく、ケン・リュウ編の現代中国SFアンソロジーの第2弾。2段組で500ページ近くあり、しかもSF作品だけでなく、現在の中国のSFの状況を伝えるエッセイなども収録されており、盛りだくさんの内容となっています。

 

 まず、多くの人にとってとっつきやすくて面白いのは『三体』の劉慈欣が書いている表題作の「月の光」でしょう。

 中秋節、ウェブ署名によって屋外のイルミネーションを消すことが行われ、主人公が満月を眺めていると、そこに未来からの電話がかかってきます。2123年の自分だとの名乗る人物は、地球温暖化によって多くの都市が水没した未来を知らされます。そして、その男からその未来を救うための技術の概要を教えられるのですが…。

 アイディアとしてはありがちなものかもしませんが、ダイナミックな展開が上手いし、面白い。20ページほどの短さですし、まず読んでみるのにもってこいかもしれません。

 

 同じく短くて面白いのが、馬伯庸「始皇帝の休日」。

 中国統一を果たして時間的な余裕ができた始皇帝はゲームを所望します。そこで諸子百家は自らが推薦するゲームを始皇帝のもとに持ち寄るのですが、ここから現代と古代を結びつけたパロディが展開します。

 法家の李斯は『シヴィライゼーション』を披露し、孔子の孫は『ザ・シムズ』を披露します。孔子の孫は隣人を訪問して好感度を上げることを説きますが、始皇帝に怒りに触れ、儒家のゲームが摘発される「焚盤坑ゲ」が起こります。こんな具合に進んでいくおかしな話で、ゲームの知識があれば更に楽しめるのでしょう(自分にはよくわからないのもあったけど面白かった)。

 

 一方、ホラー風味もあってゾクゾクさせるのが、糖匪「壊れた星」。

 女子高生の唐嘉茗(タンジアミン)は放課後の補習中に(といっても彼女は模試の成績が良かった特別授業からは排除されて放置されている)、強風と雨の中に立っている男子生徒の姿を見かけます。まるで、日本の少女漫画にでもありそうな物語の出だしです。嘉茗は成績も容姿も比較的平凡な女子ですが、夢の中でよく青白い女に出会い会話をしています。

 最初は、平凡な女子高生が不思議な少年に導かれるという話かと思ったのですが、最後のホラー的な展開はそうした予想をひっくり返します。SF味は薄いかもしれませんが、これは優れた短編小説だと思います。

 

 他にも面白い作品はいろいろあるのですが、個人的に一番面白く、そしてすごいと感じたのが宝樹(バオシュー)の「金色昔日」。

 これは中国の歴史を逆回転させるという野心作になります。出だしは主人公の北京オリンピックの記憶から始まりますが、その後、SARSの流行で学校は休校になり、不景気で技術の進歩は停滞するどころかむしろ後退し、20年前(!)に起草された零八憲章が学生の間でひそかに回覧され、そして天安門事件らしくものが起こります。

 さらに鄧小平の代わりに華国鋒が現れ、ついには毛沢東が登場し文革が起こります。さらに朝鮮半島ではアメリカとの戦争が起こり、台湾の蒋介石が中国本土に上陸していきます。

 

 この逆さ回しの歴史の中で翻弄される主人公を描いたのが本作です。タイムトリップでもなく、『ベンジャミン・バトン』のように自分だけが若返っていくのでもなく、周囲の状況が反転していくというアイディアは秀逸ですし、何よりも中国を舞台にしているからこそ、荒唐無稽だけでは片付けられないリアリティがあります。

 歴史が同じように繰り返すことはないにしろ、やはり現在の政治制度のもとでは文革的なことが起きる可能性は排除できないと思うからです。

 ちなみに中国では出せなかったようですが、鄧小平や毛沢東はそのままでも劉暁波が劉小波趙紫陽が趙子陽になっているあたりには、中国においてどのあたりがタブーなのかということをうかがわせるものがあります。

 本作に関しては、SFに興味がなくても中国現代史に興味があれば、非常に面白く読めるのではないかと思います。

 

 他にも『折りたたみ北京』でもおなじみの陳楸帆、夏笳、郝景芳といった作家の作品も収録されており、充実した1冊となっています。

 

 

宮本浩次 / 宮本、独歩。

 けっこう前にNHKの「うたコン」で聴いた"冬の花"が良かったこともあってアルバムを買いましたが、やはりなかなかいいですね。

 このアルバムの魅力は何と言っても宮本浩次の歌唱力。エレファントカシマシ時代から良かったわけですけど、このソロアルバムではさまざまなジャンルに挑戦して、そしてすべてを歌いこなしている。

 そして、何と言ってもポテンシャルが圧倒的なんですよね。例えば、5曲目の"Do you remember?"、ギターに横山健が参加していて、いかにも一時期に流行ったパンクを思い出させる曲です。良い曲ではありますが、同時に平凡な曲でもあると思います。

 ところが、宮本浩次が歌えば、平凡な曲に迫力と起伏が出てくる。自動車教習所の周回コースであってもF1マシンが走れば「すげぇ」となるのでしょうが、そんな感じです。

 これはラストの"昇る太陽"にも言えることで、平凡な歌い手で歌えばきっと平凡に聴こえるのではないかという曲なのですが、高音をガンガン攻めていく歌い方は実にエモい。それでいて音程は外さないし、さすがです。

 

 4曲目の"きみに会いたい -Dance with you-"は高橋一生に書かれた曲らしく、曲の感じは今の高橋一生に合わせたものとなっています。ところが、やはりこれも雰囲気に頼らず、圧倒的歌唱力で歌いこなしてしまう感じでいいんですよね。

 6曲目の"獣ゆく細道"は椎名林檎との共演で、椎名林檎のアルバムですでに聴いている人も多いと思いますが、ここでもどんなに派手なアレンジをしても負けない宮本浩次の歌は際立ってますね。一方、東京スカパラダイスオーケストラの10曲目"明日以外すべて燃やせ"は、もうちょっとめちゃくちゃやっても良かったんじゃないかと思わなくもない。

 そして、2曲目の"冬の花"。今の演歌に足りないのはこういうエモいところだよなと思わせる曲で良い。「うたコン」のパフォーマンスは素晴らしかったと思うので、この曲でぜひ紅白に出てほしいところ。こういう歌もできるのであれば、森進一のカヴァーアルバムとかも出してほしいですね。

 


宮本浩次-Do you remember?

 

谷口将紀『現代日本の代表制民主政治』

 本書では1ページ目にいきなり下のようなグラフが掲げられており、「この図が、本書の到達点、そして出発点である」(2p)と述べられています。

 グラフのちょうど真ん中の山が有権者の左右イデオロギーの分布、少し右にある山が衆議院議員の分布、そしてその頂点より右に引かれた縦の点線が安倍首相のイデオロギー的な位置です。

 

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 これをみると、国民の代表である衆議院議員は、国民のスタンスよりもやや右に位置しており、衆議院議員から選出された安倍首相はさらに右に位置しています。

 どうしてこのようなズレがあるにもかかわらず、安倍政権は安定しているのか? それが本書が答えようとする問いです。

 

 本書は、著者と朝日新聞社衆議院選挙や参議院選挙のたびに共同で行っている「東京大学谷口研究室・朝日新聞社共同調査」をもとに、各政党、各議員のイデオロギー位置を推定し、さらに有権者への調査を重ねていくことで、「小泉以降」の日本の政治の変遷を分析しています。

 

 目次は以下の通り。

 

第1章 目的と方法

第2章 政治状況

第3章 有権者と政治家のイデオロギー

第4章 左右イデオロギー争点

第5章 経済争点

第6章 候補者の政策位置

第7章 議員・党首・内閣

第8章 有権者と政党

第9章 党首選挙と派閥

第10章 政党の戦略

第11章 結論

 

  最初にあげた図を見直すと、有権者イデオロギー位置と2017年の衆議院議員イデオロギー位置はずれています。もし、議員が有権者イデオロギーを鏡のように反映するのが理想と考えるのであれば、少し問題のある状況です。

 ただし、「代表」というのは難しい概念でもあります。自分の意思を完全に代表しているような人物に投票した経験のある人は少ないでしょう。有権者はあくまで立候補者の中から一番良いと思う人物を選ぶことしかできません。

 

 こうした中で、現代の政治学では次の4つの代表観が提示されています。

 1つ目は「約束的代表」で、代表を代理人とみなし、選挙の時点で有権者と政治家の乖離が小さいほど望ましいと考えるものです。

 2つ目は「予測的代表」で、有権者は前回の選挙から今までの政治家の業績が自分自身の利益にかなっているかどうかを判断するので、政治家はこれを見越して次の選挙までに有権者が満足するように行動すると考えるものです。

 3つ目は「独楽(こま)的代表」で、政治家は自らの信念や所属政党の綱領からブレずに行動し、有権者はこの政治家の軸を見て、自らの利益と近いかどうかを判断します。

 4つ目は「代用的代表」で、個々の選挙区よりも議会全体として多種多様な選好(例えば性的マイノリティやエスニックなど)が代表されているかどうかを重視し、議会の決定において各利益が熟考されているかどうかをポイントにします。

 このうち、冒頭の図からは、1つ目の「約束的代表」が成り立ってないのは明らかです。そこで、本書は残り3つの代表観を中心に検討がなされています。

 

 こうした問題設定を受けて、第2章では2003年〜2019年の政治状況が概観されています。

 2005年の衆院選からは、有権者がどのように判断を変えたのかがわかるデータも載っています。2005年の衆院選では2004年の参院選民主党の投票した有権者のなかから一定数が自民党に投票先を変えていますし(35p図2−3)、2007年の参院選では2終刊前に自民支持だった有権者の一定数が直前で民主党に投票先を変更していることがわかります(36p図2−4)、この自民から民主への流出は2009年の衆院選でも確認できます(37p図2−5)。

 2010年の参院選では、直前に菅直人首相が消費税の10%へのアップを打ち出しましたが、本書の39p図2−6を見ると、特に1人区において自民候補が消費税アップに反対する有権者の支持を集めていたことがわかります。消費税アップに対する批判票が一人区では自民に集まってしまったのです。菅首相の動きはやはり大きな失策であったことがうかがえます。

 

 2012年の選挙では前回民主党を支持した層のかなりの部分が、自民党、あるいは維新やみんなの党といった第三極に流出し民主党は大敗。自民党が政権に復帰し第2次安倍内閣が成立しました。

 2016年の参院選では野党共闘が実現し、野党は1人区で11議席を獲得しましたが、42p図2−8を見ると、共産党候補の民進党への感情温度は上がったものの、民進党候補の共産党への感情温度はそれほど上がっておらず、野党共闘が難しいこともわかります。

 そこで、というわけかどうかはわかりませんが、2017年の衆院選の直前に小池百合子を党首として希望の党が結成されますが、結党から排除されて勢力が立憲民主党を結成するなどして、分裂、失速します。

 43p図2−9を見ると、憲法改正に消極的な有権者立憲民主党に投票しており、分裂劇によって野党第一党はやや「左」に寄りました。

 また、「長い目で見ると「何党寄り」か」との質問に対しては、09年の政権交代時であっても自民が一番支持を集めており、「長期的党派性」からは一貫して自民が強かったこともわかります(45p図2−10参照)。

 

 第3章では有権者イデオロギーを推定する方法と、実際のイデオロギー位置を紹介しています。

 この左右のイデオロギーに関しては、若者の間では「保守」と「革新」のねじれているという遠藤晶久/ウィリー・ジョウ『イデオロギーと日本政治』の指摘などもあり、なかなか難しい問題も抱えているのですが、本書では自己申告ではなく、さまざまな質問に対する有権者のデータと政治家のデータを重ねて分析することで、イデオロギー位置を推定しています。このあたりの詳しい方法論については解説する能力がないので本書を読んでみてください。

 

 分析の結果、日本において左右イデオロギーの識別力が高い質問は、「憲法改正」、「自衛隊の意義と役割を加憲」、「原発再稼働」、「防衛力強化」といった項目です。経済面では「経済競争力優先/格差是正優先」にはそれなりの識別能力がありますが、「小さな政府」という項目の識別力は低いです(58p表3−1参照)。

 一般的に「右」の立場と新自由主義が結びつくように思えますが、「むしろ左寄りの方が相対的に累積債務問題への危機感が強く、景気対策のための財政出動や雇用確保のための公共事業に慎重であるなど、論理一貫性を欠いている部分がある」(57−58p)のです。

 

 61p図3−2では冒頭の図の衆議院議員小選挙区当選者と比例代表当選者に分解していますが、これをみると比例代表制のほうが分布の幅が広く、特に左側に小さな山(共産党の議員のもの)が出現しています。比例代表選出議員をみても、自民党議員は有権者よりも右、立憲民主党議員や共産党議員は有権者よりも左になっており、「代用的代表」とは少し違う形になっています。

 62p図3−3では衆議院議員参議院議員の左右イデオロギーが表示されていますが、参議院議員の方が衆議院議員よりも左寄りで、有権者の分布に近いです。これは自民党の議員の割合が衆議院よりも低いことと、設問の違いなどが影響していると考えられます。

 

 次に政党別に左右イデオロギーの分布を見ていくと、自民党に投票した有権者は中道のあたりに頂点があり、そこから左よりも右に裾が広がっています。自民党の議員は中道よりも右に大きな山があり、安倍首相はその山よりも右に位置します(64p図3−4参照)。

 一方、民主党系では、立憲民主党の議員は明らかに左によった山となっています。それに対して立憲民主に投票した有権者の山はもう少し中道に寄っており、自民にしろ立憲民主にしろ有権者よりも議員たちは左右にずれています。枝野代表は立憲民主の議員の中では右、そして希望の党の党首だった小池都知事の位置は(2014年の調査)、かなりの右寄りで、希望の党の議員や希望の党に投票した有権者ともずれています(65p図3−5参照)。これを見ると、民進党の分裂や希望の党の瓦解は仕方のない現象にも見えてきます。

 その他、本章では公明党共産党日本維新の会についても分析がなされています。

 

 さらに本章ではイデオロギー位置の推移も追っています。

 09年の総選挙では民主党が圧勝したために衆議院議員イデオロギー位置は大きく左にシフトしました。しかし、12年の総選挙では自民党が圧勝したために今度は衆議院議員の位置は大きく右にシフトしています。そして、注目すべきは有権者イデオロギー位置は中道からほとんど変化していない点です。

 73p図3−10の「自民党投票者・当選者の左右尺度値推移」を見ても、05年に比べて09年、12年と自民党の右傾化が進んだのに対して、投票者のイデオロギーはほとんど変化していません。

 一方、民主党に関しては、09年から12年、14年と投票者が左に動いていることがわかります(74p図3−11参照)。民主党が中道〜穏健右派の票を失ったことが見て取れます。

 この他、公明党共産党日本維新の会についても分析がなされています。維新は12年の段階では「右」ですが、次世代の党が分離した14年には中道に近い位置になっています。

 

 本章の最後では、安倍首相の周辺が言ったとされる「日本人は右が3割、左が2割、中道5割」という言葉から、左の2割を固めて中道の2割ほどを取れば政権交代が可能か? ということを分析しています。しかし、本書の分析では中道のマジョリティは棄権層であり、政党でいえば自民が第一党です(82p図3−15参照)。このため政権交代には中道右派の切り崩し、または彼らを棄権させることが必要になります

 また、若者の「右傾化」についても触れられています。確かに84p図3−16を見ると14年、17年の調査ではやや「右傾化」しているともとれますが、しかし、外交・安全保障や治安に関しては保守的ながらも、同性婚夫婦別姓に関してはリベラルな面も見られ、「脱イデオロギー化」という見方が当てはまるとも言えます。

 

 第4章では各争点を見ています。とり上げられているのは、「憲法」、「外交・安全保障」、「原発・エネルギー」、「社会問題」の4分野です。すべてを見ていくと大変なので、ここでは興味を引いたいくつかの点だけをあげます。

 まず、「憲法」ですが、憲法改正に関して有権者自民党公明党民主党のどの議員よりも消極的です(90p図4−2)。また、自民支持者に限って見ても自民党議員との距離がかなりあります(93p図4−4)。

 「社会問題」の分野で興味深いのが、「道徳教育に対する賛否」「家族の形」「夫婦別姓」などの項目で民主党議員と公明党議員のポジションが近いことです。一方、自民と公明の距離は大きく、自公連立が政策距離とは別の要因で成り立っていることがうかがえます。

 

 第5章では経済争点が分析されています。欧米諸国などでは左右の対立が「大きな政府」と「小さな対立」と重なることが多いですが、日本では自民党が「大きな政府」を志向しているような政策をとっていたこともあり、この軸に関してはそれほどはっきりしていなかったと言っていいでしょう。

 確かに、129p図5−2の「小さな政府に対する賛否」を見ても、05年にかなり「小さな政府」に寄った自民党議員は09年になると、かなり「大きな政府」方向に動いています(いずれの時期も民主党議員のほうが「大きな政府」寄りではありますが)。さらに「終身雇用制度に対する賛否」においても05年には反対気味だった自民党議員は、09年には賛成寄りへと動いています(131p図5−4)。

 「財政出動に関する賛否」でも、有権者の賛否が比較的安定しているに対して、自民・公明の議員の賛否は05年の反対から09年の酸性へと大きく動いています。

 もちろん、経済政策は経済状況によって変化して当然ではありますが、日本の政党に関しては経済政策に関してはイデオロギー的な一貫性は弱いと考えられます。

 

 長期的な分析でも2003〜09年頃までは新自由主義社会民主主義の対立軸が現れるものの、それ以降に関しては経済的な対立軸が見出しにくくなっています。

 なお、有権者の政策位置に近いのは民主党ですが、選挙の結果を見ると、有権者は政策の近さで投票しているとは言えない形になっています。

 

 第6章では候補者ごとの政策位置が分析されています。同じ自民党内でも候補者によってそのイデオロギー位置には差があり、場合によっては変化します。

 この章に関しては、結論の知見をいくつか紹介するにとどめますが、面白い部分もあります。

 まず、都市部の選挙区の候補者ほど左右イデオロギーが右寄りになりやすく、競争が激しい選挙区ほどこの傾向が見られます。経済イデオロギーにおいても都市部の候補者ほど新自由主義/小さな政府志向になりやすく、競争が激しい選挙区ほどこの傾向が顕著です。また、05年から09年にかけて自民党は右寄りにシフトしましたが、その中で党内左派から右派に転じた候補は他の候補に比べて大きく得票率を減少させました。

 こうした分析結果を見ると、「右傾化」「新自由主義」が議員に一種のラディカルさの証として認識されているのかな? とも感じます。得票率の現象も右傾化したから得票が減ったというよりは選挙が厳しいから右傾化して活路を見出そうとしたのだと考えられます。

 

 第7章では、党首と議員、そして大臣に関して分析されています。

 174〜178pの表7−1〜表7−7を見ると、安倍晋三憲法改正や防衛力強化などではかなり一貫した態度が見られるものの、内政ではゆらぎがあり、特に「財政再建より財政出動」では03年「やや賛成」→05年「やや反対」→09年「賛成」と揺らいでいます。

 たたし、こうしたゆらぎに関して民主党の党首だった菅直人小沢一郎などにも見られるもので、特に前原誠司は「先制攻撃」に関して、09年は「賛成」、12年は「反対」とその立場を大きく転換させています。一方、岡田克也野田佳彦は「財政再建より財政出動」に対して09年こそ「中立」としているものの、他は一貫して「反対」、あるいは「やや反対」でなかなか筋金入りの財政再建論者だとわかります。

 そんな中で、全政策に関してかなり一貫した態度を示しているのが枝野幸男で、外交・安全保障、内政ともブレがありません。「財政再建より財政出動」の項目に関して05年と09年で同じ答えを返しているのは枝野幸男のみです(ちなみに答えは「反対」。17年で「中立」に転じている)。

 言うまでもないですが、共産党志位和夫憲法・外交・安保に関してはゆらぎがありません。一方、公明党にはこの分野でもゆらぎが見られます。

 

 政党内における党首のイデオロギー的な位置ですが、自民党では、第1次安倍以降、歴代の党首は福田康夫を除いて、党内の右派的な立場から出ています(180p図7−1、本書の分析では谷垣禎一も党内左派ではない)。

 一方、民主党には振り子的な減少も見られ、左派的な岡田→右派的な前原→中央値に近い小沢・鳩山→左派的な菅→右派的な野田→中央値に近い海江田といった具合に、党首交代がイデオロギー的な位置変更を伴っているようにも見えます(181p図7−2)。

 

 大臣に関しては、第1次安倍内閣はそれまでの小泉内閣に比べて閣僚のイデオロギーのばらつきが小さく、イデオロギーから見ても「お友達内閣」の傾向を観察することができます。第2次安倍内閣においても、安倍首相に近い位置からの起用が目立っています。第2次安倍内閣のキーパーソンとして「3A1S(安倍・麻生・甘利・菅)」ということが言われましたが、2014年に麻生と菅の位置が離れたときも甘利は安倍のポジションと近く、甘利がバランサーになっていたことがうかがえます(187p)。

 

 第8章では有権者と政党の関係を検討しています。

 最初に示した図からもわかるように有権者イデオロギー分布と衆議院議員イデオロギー分布はズレています。そこで本章の分析では、まず、有権者に政治について自分は知っている方かどうかを尋ね、そこで「よく知っている」「どちらかと言えばよく知っている」と答えた有権者を「洗練された有権者」として取り出します。そうすると、イデオロギーの山はやや右に寄ります。その山に比例代表で選出された衆議院議員イデオロギー分布を重ねると、かなり似た形になります。

 こうなると、野党支持者からは「有権者の知識不足と小選挙区制が選挙結果を歪めているのだ!」との声があがりそうですが、「洗練された有権者」のほうが「洗練されていない有権者」よりも右に寄っていることに注意が必要です。

 

 さらに本章で注目したいのは、自民党民主党のちょうど中間に位置する無党派の人はどこに投票するのか? という分析です。単純にイデオロギーの近さを重視しているのであれば、自民と民主に投票する確率は半々になるはずです。

 ところが、09年では自民党に投票する割合が2割台だった一方、17年は6割台になっています(199p図8−5、8−6参照)。つまり09年は自民に「ハンデ」がありましたが、17年には「下駄」を履いているような状態となっています。

 

 ここでポイントになるのが政党に対する「信用度」です。本書の調査では有権者に自分が重視する政策についてどの政党が最も上手くハンドリングできそうかということを聞いていますが、これを自民党と応える有権者は、自民党イデオロギー位置が多少離れていても自民党に投票する傾向があります。

 またイデオロギー位置が自民党に近くない人でも、「財政・金融」、「教育・子育て」、「年金・医療」などの分野について、自民が上手くやると考えており、自民党はこうした分野を重視する有権者の支持を獲得していると考えられます(203p図8−8参照)。

 「自民党は左右イデオロギーの主な構成要素ではない争点に関する政策信用度を以て、幅広い支持を調達しているという構図が浮かび上がる」(203p)のです。

 

 第9章では党首選挙と派閥が分析されています。本章の冒頭にあげられているのは自民党内の「疑似」政権交代論であり、現在においてこの「疑似」政権交代論が成り立つのかということを分析しています。

 マスコミや識者の中には、自民党の「リベラル」な流れとして、池田勇人大平正芳宮沢喜一宏池会を持ち上げる向きもあります。ただし、そもそも小泉首相以降、派閥の長として首相になったのは当時は弱小派閥の為公会を率いていた麻生太郎のみですし、実は宏池会の流れをくむ麻生太郎自民党議員の中でも突出して右に位置する政治家で、「大宏池会」が成立したとして、「疑似」政権交代がなされるのかというと本書の分析からは疑問符が付きます。

 

 実際、派閥自体に関しても以前のイメージとは異なってきた様子が225pの図9−21からはうかがえます。03年には最右翼にいた志帥会郵政民営化法案で平沼赳夫亀井静香が受け、二階派となってからは特にイデオロギー的な特徴は薄れましたし、03年には最左翼にいた大勇会河野洋平のグループ)は、麻生太郎がリーダーとなり、為公会志公会となっていく中で、そのポジションを右寄りに変えてきました。

 各派閥の特徴はやや右傾化しながら収斂しつつあります。

 

 この他、本章で興味深いのは分裂劇の中身を分析している点です。例えば、郵政民営化のときの反対に回った議員と「刺客」議員の間には明らかな経済イデオロギーの差がありました(228p図9−24)。一方、2012年の民主党の分裂劇では民主党と分裂した日本未来の党の間に左右イデオロギーの差はほとんどありません(239p図9−25)。

 2014年、日本維新の会は維新の党と次世代の党に分裂しますが、これは両者の左右イデオロギーの違いを見れば分裂は必然だとわかります(230p図9−26)。また、2017年の民進党の分裂も、希望の党立憲民主党の左右イデオロギーの違いを見れば、やはりそれなりの考えの違いはあったと見るべきでしょう(231p図9−27)。

 

 第10章では政党の戦略が分析されていますが、ここで力を入れて分析されているのが民主党の「左傾化」です。

 民主党は2012年の衆院選で大敗した後に、イデオロギー位置をやや左に移動させました。これは単に左派の議員が生き残ったというわけではなく、今まで右寄りだった議員も立ち位置をやや左にシフトさせたことで起こっています。

 241p図10−5に民主党に対する感情温度の変化が載っていますが、これを見ると中道〜右派における感情温度の低下が起こっているとともに、もっとも左の部分でも感情温度の低下が顕著に起こっています。民主党は中道の票を日本維新の会などによって侵食されるとともに、左の票も共産党に侵食されたと見られます。この共産党による切り崩しを防止するために左に寄ったというのが本書の分析です。

 しかし、左を固めれば政権交代に近づくというのは疑問符の戦略であり、09年から急落した「政権担当能力」に関する評価を引き上げることが必要になってくると見られます。

 

 と、個人的に興味を引いたところを中心にまとめてみましたが、最初にあげた4つの代表観が成り立っているか否かに関してはほとんど触れていませんでしたね。最後まで書いて気づきました。結論としては、どれも成り立っているとは言い難いとなっていますが、詳しい議論については、ぜひ本書をあたってみていください。

 このように、著者の問題設定から少しズレてしまっているまとめになってしまいますたが、非常に面白いネタが詰まっていることはわかっていただけたのではないかと思います。

 

 個人的に印象に残ったのは、日本政治における経済政策のイデオロギーの弱さ。

 「左寄りの方が累積債務問題への危機感が強く、景気対策のための財政出動や雇用確保のための公共事業に慎重」という知見と、日本では「小さな政府」を支持するかという項目のイデオロギー識別能力が非常に低いという知見を紹介しましたが、日本では、右寄りの人ほど「公共事業による雇用確保」に賛成となっており、欧米の標準から見るとねじれた関係になっています。

 これは経済政策が「従来の自民党政治に賛成か否か」という次元で決まっており、特にイデオロギー的な背景がなかったということなのでしょう。そして、この経済政策の対立軸がはっきりしないところが民主党とその後継政党の苦戦にもつながっているのではないかと思いました(「反自民」の経済政策では自民が適切な経済政策をすれば終わってしまう)。

 

 日本における政治家と有権者、政治家と政治家は「義理人情」のようなものでつながっていると話もあながち間違いではないかもしれませんが、やはりマクロ的なデータを取ると見えてくる風景、そして変化があります。

 「00年代の激しい政治の動きが10年代になって奇妙な安定を見せているのはなぜか?」、「なぜ安倍政権はこんなに続いているのか?」、「なぜ野党はまとまれないのか?」など、ここ20年ほどの政治に関して、多くの人がさまざまな疑問を持っていることと思います。

 本書は上記の問いにずばり答えるようなものではありませんが、間違いなく問題を考える足がかりを与えてくれます。政治に興味がある人には是非一読を勧めたい本です。

 

 ただし、税抜5800円という価格はやはり高い。著者が「あとがき」で「図表をふんだんに用いた本書は、出版社にとっては採算が取れる見込みが薄く、ご購入いただいた方には高い定価で負担を掛け、著者自身も大幅赤字と、三方一両損であるにもかかわらず」(312p)と書いているので、このような指摘をするのは心苦しいのですが、5000円を超える価格では読む読者が限られてしまうと思う。

 出版の内情には詳しくないので、本のコストに関してはわからないのですが、ソフトカバーにするなり、紙質を落とすなりしてもう少し価格を下げられなかったものかとは思います。

 もっとも、自分にとっては税込み6000円超えでも十分にもとが取れたと感じられる本でしたし、幅広く読まれてほしい本です。

 

 *この手のイデオロギー分析の本を読んだことがない人は、途中で紹介した遠藤晶久/ウィリー・ジョウ『イデオロギーと日本政治』が税抜2800円と本書の半額以下なので、そちらを読んで面白いと感じたら本書を購入してみてもいいかもしれません(もちろん図書館で借りるのもありですが、本書は手元においておくと便利じゃないかと思う)。

 

 

 

 

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陳楸帆『荒潮』

 劉慈欣『三体』を筆頭に近年盛り上がりを見せている中華SFですが、この作品もその1つ。著者はチェン・チウファンと読みます(英名はスタンリー・チェン)。すでにケン・リュウ『折りたたみ北京』を読んだ人は、そこに「鼠年」、「麗江の魚」、「沙嘴の花」という三作品が収録されていたのでお馴染みでしょう。

 『折りたたみ北京』に収録された三作品は、比較的オーソドックスなアイディアを、うまく中国の社会問題と絡めながら、視覚的なイメージを換気するかたちで書かれていましたが、長編になってもその基本的な性格は変わりません。

 『三体』のような突き抜けたアイディアはありませんが、社会問題の組み込み方や、ストーリーの展開は上手いです。

 

 舞台は近未来の中国。南東部のシリコン島という場所には先進国からさまざまな

電子ゴミが持ち込まれており、そのゴミから資源になるものを取り出して暮らしているのが「ゴミ人」と呼ばれる貧しい人々です。環境は最悪であり、病気いなったり命を落とす者も少なくありませんが、仕事を求めて他の地域から貧民が集まってきています。

 そこにテラグリーン・リサイクリング社というアメリカの大企業のスコット・ブランドルという男が陳開宗という通訳を伴って現れたところから物語は始まります。

 島に君臨する羅家、陳家、林家という3つの一族と、羅家の配下のチンピラから追われている米米(ミーミー)。この米米と通訳の陳開宗は恋に落ちますが、同時に米米には不思議な能力が覚醒していきます。そして、その背後には「荒潮計画」と呼ばれる秘密が隠れていました(この「荒潮」は日本の駆逐艦「荒潮」からきている)。

 

 この「荒潮計画」のネーミングやアイディアなどからもわかるように、お話としては日本のSFアニメなどにもよく見られるようなもおであり、ハイテクとニューエイジの混淆のような話でもあります。最初にも書いたように『三体』のような多くの読者を驚かせるような展開はありません。

 ただし、驚くべきアイディアはなくても、中国の巨大な格差や、中国社会と欧米社会の対比などを上手く物語に組み込むことで、物語にリアリティをもたせ、読者を物語に引き込ませます。中国に存在する「古い伝統」と「ハイテク」という道具を非常に上手く使っていて、小説としては上手くできていると思います。

 

 

  

 

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ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『自由の命運』

 『国家はなぜ衰退するのか』のコンビが再び放つ大作本。「なぜ豊かな国と貧しい国が存在するのか?」という問題について、さまざまな地域の歴史を紐解きながら考察しています。

 と、ここまで聞くと前著を読んだ人は「『国家はなぜ衰退するのか』もそういう話じゃなかったっけ?」と感じると思いますが、本書は分析の道具立てが違っています。

 

 前著では「包括的制度/収奪的制度」という形で国の制度を2つに分けて分析することで、経済成長ができるか否かを提示していました。「包括的制度」であれば持続的な経済成長が可能で、「収奪的制度」であれば一時的な成長はあっても持続的な経済成長は難しいというものです。

 ただし、この理論にはいくつかの欠点もあって、「収奪的制度」という同じカテゴリーに、アフリカの失敗した国家からかなりしっかりとした統治システムを持つ中国までが一緒くたに入ってしまう点です。「どちらにせよ支配者が富を奪ってしまっているのだ」という議論もできるかもしれませんが、やや乱暴に思えます。

 

 そこで、本書では少し違った分析枠組みが使われています。まずは上巻126pの以下の図を見てください。

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 縦軸が国家の力、横軸が社会の力で、そのバランスが取れているところに「狭い回廊(The Narrow Corridor)」(本書の原題は『The Narrow Corridor』)と呼ばれる帯状の場所があり、ここに入ることが経済成長の鍵だとされています。

 つまり、経済成長は国家の力と社会の力がバランスが取れたところに生まれ、国家と社会が互いに能力を高め合うことでそれが安定していくという考えです。

 

 上の図の下の方に見える「ティヴ」はナイジェリアの民族集団です。この集団ではハエ払いを持つ占い師が力を持つ者を「人肉を食べた人間」だと名指しし、名指された者が殺されるということがありました。ティヴでは、このような呪術的な方法によって飛び抜けた権威や権力者の出現を阻み、集団を維持してきましたが、そのような中で、部族の枠を超えた大きな集団が生まれ、経済が成長するということは考えにくいです。

 著者らはこのような国家が存在していないような社会を「不在のリヴァイアサン」という言葉で表しています。

 

 左の真ん中あたりには「中国」の文字が見えます。著者らによると、中国は国家はしっかりと存在するが、それに対抗する社会の力が弱く、国家が社会を圧倒しているような世界です。

 著者らは中国のような国家が社会を圧倒し、人々の自由を抑圧しているような社会を「専横のリヴァイアサン」と呼んでいます。ホッブズの「リヴァイアサン」の概念を考えれば、これが「正しいリヴァイアサン」のような気もしますが、自由の観点からすると、「国家がもたらす自由に関して、ホッブズはあまりにも楽観的だった」(48p)というのが著者らの見立てです。

 ちなみに『国家はなぜ衰退するのか』に比べると、宋代の成長を評価するなど、やや中国の経済成長を評価する姿勢も見られますが、全体的にはやはり辛く。第7章の文献改題では『大分岐』で知られるポメランツの議論をほぼ否定しています。

 

 一方、真ん中にある「足枷のリヴァイアサン」というのが理想的な状態ということになります。

 ティヴのような国家が存在していないわけでも、中国のように国家が社会を圧倒しているわけでもありません。国家と社会が拮抗しているような状態です。この両者が拮抗している本書では「赤の女王効果」と呼んでいます。『鏡の国のアリス』に「同じ場所にとどまるには思いっきり走らなくてはならない」という話が出てきますが、社会と国家がお互いに力を高め合うことが、「足枷のリヴァイアサン」、そしてそれがもたらす自由を生み出すことができるのです。

 

 図にもあるように「足枷のリヴァイアサン」に入る国としてはイギリスやアメリカなどがあげられています。

 『国家はなぜ衰退するのか』でもイギリスは1つのフロントランナーとしてとり上げられていましたが、本書でもそれは同じです。ただし、西欧諸国が「足枷のリヴァイアサン」の状態となった理由として、ゲルマン人の集会政治に重きをおいているのが1つの特徴です。

 西欧諸国が「足枷のリヴァイアサン」となったのは、ローマ帝国由来の国家制度とゲルマン人由来の参加型の規範と制度がうまく結合したからです。後者がなかったビザンティン帝国では「専横のリヴァイアサン」しか生まれませんでしたし、前者がなかったアイスランドでは政治的な発展はほとんど見られませんでした。

 

 基本的な分析の枠組みはこのようなものですが、本書の魅力は『国家はなぜ衰退するのか』と同じく、古今東西のさまざまな事例をあげながら分析を進めている点です。この豊富な事例については、「読んでみてください」としか言えないのですが、個人的に興味深かったのがインドと南米の事例です。

 

 本書においてインドは「社会が強すぎる」状態として捉えられてます。インドでは独立以来選挙が実施されており、「世界最大の民主主義国家」とも言われていますが、カースト制度をはじめとした因習的な制度が社会全体を覆っています。経済的取引においても、バラモンなどの上位カーストが優遇されるなど、社会の因習が効率的な取り引きを阻害しています。

 基本的には上位カーストが下位カーストを搾取しているのですが、北部のビハール州では下位カースト出身のプラサード・ヤダヴが州知事となると、カーストに属さいないムスリムと連携し、公職などから高位カーストを追い出しました。結果、技師などの高スキルの職に欠員が生じ、州政府の能力は大きく下がりました。

 インドではカースト制度という強すぎる社会の因習が効率的な政治権力の成長を妨げているのです。

 

 南米の国、例えば、アルゼンチンやコロンビアは本書では「張り子のリヴァイアサン」と呼ばれています。

 これは一見すると中国のような「専横のリヴァイアサン」に見えますが、官僚機構は多くのコネで任命された幽霊公務員によって占められており(給料小切手をもらうときにだけ現れる彼らは「ニョッキ」とも呼ばれる)、首都でこそそれなりの統治が行われているように見えますが、辺境の地においては国家はほとんど不在です。

 こうした国では、政府は政治家が自らや友人、支援者を満足させるための道具に過ぎず、仲間を富ませることができれば後は無関心という形になります。

 当然、インフラ整備などにも資金は回らず、コロンビアでは各都市をつなぐ道路がほとんど整備されていません。

 

 この「張り子のリヴァイアサン」はアフリカでもよく見られる形態になります。アフリカでも、政府は自分の支持者や部族を満足させるための道具に過ぎず、しばしば非効率な開発や、非効率な政府機構を生み出します。下巻198pに1960年当時のリベリアの主な公職の血縁関係を示した図が載っていますが、大統領、副大統領、中央銀行総裁、各国の大使といったさまざまな公職が血縁関係で辿れることがわかります。

 「張り子のリヴァイアサン」は「支配者である政治エリートを富ませる以外の能力をほとんどもたない」(下巻207p)のです。

 

  では、理想的な状態である「狭い回廊」に出たり入ったりすることはあるのかというと、それはあります。

 「狭い回廊」から出てしまった例の1つがナチ・ドイツです。ご存知のようにナチ党は民主的なヴァイマル憲法のもとで権力の階段を駆け上がりました。この背景として、著者らはヴァイマル期のドイツには政治エリートと社会民主党や労働者運動との間に妥協の寄りのない分裂があったことをあげています。

 ドイツのエリートは地主貴族であり、彼らは土地と権力を失うことを恐れ、労働者運動よりもナチ党を好んだのです。もし政治的エリートが商工業者であれば、労働者の生活改善は自分たちにとってもプラスだったかもしれませんが、地主たちはひたすらに自分たちの土地と権力が奪われるとこに怯えました。

 

 一方、「狭い回廊」に入ったのが戦後の日本です。著者らは戦前の日本を「専横のリヴァイアサン」と見ています。まずは国家がGHQ民主化され、さらにそこから生まれたリベラルな勢力と岸信介に代表される古い官僚エリートが連合することによって、安定した体制が築かれました。

 日本については簡単にしか触れられていないのですが、先ほどのドイツの例を考えれば農地改革による地主階級の没落というのも大きいのかもしれません。

 このあたりの説明はバリントン・ムーアJr『独裁と民主政治の社会的起源』に近いものがあるなと思いました。

 

 この他にもとにかく面白い事例がたくさん紹介されているので、相当なボリュームのある本ではありますが、スラスラと読めるのではないかと思います。理論的な枠組みも『国家はなぜ衰退するのか』の二分法よりも進展しており、『国家はなぜ衰退するのか』を読んでいたら読む必要はないという本ではないです。

 

 その上で、個人的に疑問に思ったのが本書の言う「社会の力」、あるいは「社会」がいかなるものなのかということ(これは「解説」で稲葉振一郎も触れている)。

 中国の社会が「弱く」、西欧の社会が「強い」というのは、何となく納得してしまうような説明ではありますが、具体的に考えようとするとなかなか難しいものがあります。それこそ、日本を含めて「封建制」を経由したことを重視する議論とも親和性がありそうですが、「封建制」由来の「社会の力」のようなものを重視すると、今度は韓国の民主化などが説明しづらくなります。

 もちろん、「封建制」などを持ち出さなくても、労働組合などの中間団体の活動などをもって「社会の力」とすることもできそうですが、そのあたりの説明はまだ詰める余地があるのではないかと思いました。

 

 ただ、先程も述べたようにとにかく面白い事例をいろいろと紹介してくれるので面白く読める本ではありますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考

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Ásgeir / Bury The Moon

 アイスランド出身のシンガーソングライターÁsgeirの3rdアルバム。

 前作の「Afterglow」は曲調が広がったぶん、Ásgeirらしい浮遊感のようなものが後退してしまっていて、何回か聴くにつれ「やっぱ1stの「In the Silence」のほうが良かったなあ」などと思っていました。

 1st>2ndだったので、この3rdアルバムへの期待もそこそこという感じだったのですが、これは前作よりもいいかもしれません。

 前半はいかにもÁsgeirっぽい曲が並んでいて、2曲目の"Youth"とかは特にいい感じだと思います。

 そんな中で今までのイメージからするとポップなのが6曲目の"Overlay"。短い曲なのですが、暖かさを感じさせる曲でノリも良い。アルバム全体の良いアクセントになっています。 

 そして、ラストの"Bury The Moon"。この曲もちょっと毛色が違っていて、Ásgeirにしては切迫感を感じさせるような曲なんだけど、これも良い曲。これがラストにあることでアルバム全体の締りがいいです。

 全体として、2ndよりは1stに近い印象で、1stが好きだった人は気にいるのではないでしょうか。

 


Ásgeir - Youth (Official Music Video)

 

外山文子『タイ民主化と憲法改革』

 ここ数年、欧米ではポピュリズムの嵐が吹き荒れています。「ポピュリズム」がいかなるものかということに関してさまざまな議論がありますが、「法の支配」や「司法の独立」といった概念への攻撃がその特徴としてあげられることがあります。

 これはリベラル・デモクラシーを、国民の意志を反映するという「民主主義」要素と、エリート間の相互抑制を重視する「自由主義」要素の結合と考える見方からすると(この考えについては待鳥聡史『代議制民主主義』中公新書)が説明している)、ポピュリズムにおいては「民主主義」が肥大化して「自由主義」を圧迫していると見ることができるかもしれません(ハンガリーのオルバン政権やポーランドの与党「法と正義」などはその典型)。

 しかし、一方で途上国、あるいは新興の民主主義国では、政治化した司法が民主主義を抑え込むという展開も見られます。「アラブの春」で成立したムルシー(モルシ)政権を引きずり下ろしたエジプトや本書が取り上げるタイがそうです(この辺の経緯は鈴木恵美『エジプト革命』中公新書)が詳しい)。

 

 2001年にタックシン政権が成立して以降、タイの政治はタックシン派vs反タックシン派の図式で動いていきましたが、注目すべきは選挙で勝利したタックシン派を軍部と司法が引きずり下ろすという展開がつづいていることです。

 先ほどの図式でいえば、「自由主義」が「民主主義」を抑圧するような展開です。もちろんタイの司法を「自由主義」の保護者などとは言えませんが、この図式の逆転は興味深いと思います。

 また、路上の抗議運動にクーデターと政治が大混乱しているにもかかわらず、タイの経済は順調にまわっており、日系企業の一大集積地になっているというのも興味深い点です。

 本書は、90年代以降、数次にわたって形成されてきた憲法に注目し、タイの政治のメカニズムを分析しつつ、新興民主主義国に幅広く見られる「政治の司法化」についても考えさせる内容となっています。

 

 目次は以下の通り。

プロローグ 民主主義への不信感は民主主義の限界なのか?
序章 タイ民主化を問う意義
第1部 1990年代以降の憲法改革:契機と意図

第1章 二つの憲法―1997年憲法と2007年憲法
第2章 政治改革運動再考―タイ「立憲主義」とは何か
第2部 憲法改革と民選権力

第3章 憲法改革と執政権―タイ憲法における“国の基本政策方針”の政治的意味
第4章 憲法改革と立法権―抑え込まれるタイ立法権 選挙制度改革の分析)
第3部 憲法改革と非民選権力

第5章 憲法改革と汚職取締り―汚職の創造:法規定と政治家批判
第6章 憲法改革と司法権憲法裁判所と憲法に基づく独立機関の制度的問題
第7章 憲法改革と「非民選立法権―2007年憲法と上院 その新たなる使命
終章 タイ民主化憲法改革
エピローグ 2017年憲法を巡る攻防とタイ民主化の未来

 

 タイでは1950年代と70年代にクーデタが頻発しましたが、91年のクーデタをきっかけに92年に民主的な政権が成立すると、民主主義は安定するかと思われました。

 ところが、その後2006年、14年と2回のクーデタが起き、2014年以降軍事政権となっています。このような民主化の逆転がなぜ起きたのかということが本書が解明する1つのポイントです。

 

 もう1つのポイントが「政治の司法化」と呼ばれる現象です。これは政治の重要問題が司法の場に持ち込まれ、その結果として裁判所が活発な政治アクターとなるというものになります。

 政治の重要問題が司法の場に持ち込まれるというのはアメリカなどでも見られることなのですが、近年の新興民主主義国においては「立憲主義」の名の下に、司法が多数派を抑圧するという流れが見られます。そして、この司法による多数派の抑圧がもっとも先鋭的に見られる国の1つがタイと言えるでしょう。

 

 1991年のクーデタと92年の総選挙後、クーデタの主導者で議員ではないスチンダ−が首相になると、野党や学生から辞任を求める声が上がります。この運動が1992年5月流血事件に発展し、スチンダ−は退陣、首相は民選の下院議員に限られることになります。タイの民主主義体制はここに確立したかに見えました。

 ただし、タイでは政治家の汚職や選挙における「票買い」の問題も根強く指摘されており、政治家よりもテクノクラート出身の内閣が好まれる傾向もありました。

 

 その後、タイでは1997年憲法が制定され、タックシン政権が登場し、2006年のクーデタを機に2007年憲法が制定されます。

 タックシンに関しては毀誉褒貶がありますが、最初に反タックシン運動を開始したのは1997年憲法による政治改革を主張した「人民民主主義のためのキャンペーン」と名乗るグループでした。その後、反タックシン運動は、人権運動家や大学生、労働者、NGOなどにも広がり、反タックシンのデモが繰り返されます。そして06年の軍のクーデタによってタックシンは追放され、2007年の憲法が制定されるのです。

 

 1997年憲法は強い政権を生み出すための制度設計を持っていました。選挙制度中選挙区制から小選挙区制400名と比例代表制100名に変更され、比例代表には5%の阻止条項が付きました。議員の所属政党の変更も難しくなり、大政党とその指導部に大きな力を与えるものとなっていました。

 一方、2007年憲法では、強力なタックシン政権への反省から、中選挙区制400名+比例代表制80名として比例代表制は全国を8区に分けました。不信任の提出のハードルも下げ、大政党を抑制する内容としたのです。

 また、上院に関したは、1997年憲法では200名全員が民選でしたが、2007年憲法では上院議員150名のうち約半数が任命議員になっています。

 

 一方で共通点もあります。「政治家は自らの権限に対して制約を課すような憲法改正を行うことはできない」(82p)との認識のもとで政治家は憲法起草過程から排除され、政治家の汚職取締にも力点が置かれました。この2つの憲法は、「ともに政治改革運動の精神を受け継ぐ憲法」(86p)なのです。

 

 その「政治改革運動とは何だったのか?」ということが分析されているのが第2章です。

 この運動を主導した法学者にアモーン・チャンタラソムブーンがいます。本書におけるキーパーソンの一人と言っていいでしょう。

 アモーンは議会制民主主義を批判する際に「国会独裁」という言葉をしばしば使い、「立憲主義」と対置させています。アモーンは以前のタイの議院内閣制は国王の選んだ内閣と、国民が選んだ国会による二元的統治であったが、国王の権力が制限されてからは国会で多数派となった政党が政府を樹立する一元的統治に変わったと考えています。

 この一元的統治というのは議院内閣制の性格からして妥当だと思われますが、政治家と有権者に根強い不信をもつアモーンはこれを問題視します。アモーンは特に地方の選挙区で当選した下院議員に不信感を持っており、「票買いの温床である地方が、より多くの人口を抱えることに苛立ちを感じて」(101p)いました。

 そこで、「立憲主義」によって下院議員と与党の権力を統制し、民主主義を国民全体の利益と調和するようなものにすべきだと考えるのです。

 一方でアモーンは首相のリーダーシップには期待しており、強い指導者やエリートによる上からの支配に関しては肯定的でした。 

 そして、国家権力を規制する機関として期待されたのが司法機関、あるいは準司法的な機関です。これらは実際にタイの憲法に取り入れられ、重要な役割を果たしていきます。

 

 こうした考えはアモーンだけのものではなくタイの他の法学者にも見られることで、憲法の起草過程に影響を与えました。1997年憲法と2007年憲法の起草過程において、内部の委員の中には「常に、1992年5月流血事件後の1991年憲法改正「前」の状態に戻そうとする意向が存在していた」(137p)のです。

 1997年憲法では憲法擁護規定が設けられ、2007年憲法ではそれに違反した政党に対して憲法裁判所が解散命令を出すことができるようになりました。さらに準司法的な役割を果たす独立機関も、一種の危機管理システムのような形で構築されました。人々の人権や公正さの確保よりも、大衆の暴走を止める役割が期待されたのです。

 

 第3章と第4章では憲法と執政権、憲法立法権の関係が分析されています。

 現在のタイの憲法の構成は「国王」「人権」「国の基本政策方針」「統治」「独立機関」となっています。この中で日本の憲法からは想像しにくいのが「国の基本政策方針」でしょう。日本国憲法にはそのような内容はないからです(あえて言えば平和主義か?)

 タイでは1949年の憲法から「国の基本政策方針」が盛り込まれています。「独立および領土の維持」「教育の推進」などの内容ですが、タイでは憲法改正ごとにここにさまざまな要素が盛り込まれるようになっています(155表3−1参照)。

 特に1997年憲法と2007年憲法では、政治改革および行政改革に関する条文が多数追加されました。政治職者および公務員等の倫理基準の設定、政治発展計画の作成および実施を監視するための独立した政治発展評議会の設立など、具体的な政策を拘束するものも増えているのです。

 

 さらにこの「国の基本政策方針」は1991年憲法までは方針として掲げられているだけであり、「国を訴える権利を生じない」と法規範性および裁判規範性が否定されていましたが、1997年憲法ではこの「国を訴える権利を生じない」との文言が削除され、2007年憲法では「本章の規定は、国が国政において立法および政策を決定するための意志である」とされ、裁判規範性を生み出す余地を残しています(157p)。

 内閣の施政方針についても、「国の基本政策」と対照表を添付して公表することが義務付けられ(162p)、内閣の政策を憲法の枠内に拘束する力が加わることとなりました。さらに2007年憲法では立法または修正すべき法律の一覧表が添付されました(165p表3-3参照)。タイでは憲法が権力を制限するだけでなく、具体的な政策にもたがをはめているのです。これがタイの「立憲主義」です。

 

 立法府に関しては、選挙制度の改正によって多数派の形勢が困難にされ、また司法機関や独立機関による取締の対象とされました。選挙制度に関しては、前の部分で簡単に触れましたので、ここでは政党法と選挙法の変遷について紹介します。

 1981年政党法では政党の設立などに関しての規定があっただけですが、1998年政党法では政党の設立要件が厳格化され、資金面に関する政党への規制が強まりました。また、政党の解党事由が増加しています。

 2007年政党法では条文数が1998年政党法の1.5倍となり、党幹部の職務分担や任期についても法律で規定されるようになりました。政党名やイニシャルが過去に解党された政党と類似してはならないという規定も盛り込まれるなど、タックシン派の復活を阻止するような条項もあります。政党党首や幹部の党員や候補者に対する監督責任も増し、党首や幹部の責任を問いやすくなりました(解党しやすくなったことを意味する)。

 

 選挙法も2007年の改正で条文が1.5倍になりましたが、最大の特徴は密告の奨励です。選挙活動の禁止行為に抵触して有罪になった場合、密告者に違反者が支払った罰金の半額までが支払われます。また、有権者が投票と引き換えに利益を受け取ることは禁止されていますが、選挙前、選挙中、選挙後7日以内に選挙管理委員会に届け出れば罰則を受けません(200-201p)。

 こうした法により、2008年にはタックシン派の当時の与党・人民の力党が解党されており、党首および幹部も5年間の選挙権剥奪となりました。与党以外でもタイでは1999年から2012年上半期の間で、93政党が憲法裁判所から解党命令を受けており、政党および立法府はその活動を大きく制限されることとなりました。

 

 第5章では汚職の取締りに絞って分析されています。タイでは政治家の汚職が長年問題視されており、クーデタの理由にもなってきました。1991年憲法では、下院議員の被選挙権の行使を禁止する理由として、「異常に富裕または異常な資産増加」「資産負債虚偽申告」の2つが規定されています(217p)。

 こうした規定は1997年憲法でさらに精緻化され、2007年憲法ではさらに「政治職にある者は、新聞、ラジオ放送、テレビ放送または通信事業の所有者また株式の保有者となることはできない」とされ、さらに「直接的であるか間接的であるかを問わず、かかる事業を所有者または株式保有者と変わらない形で管理運営できる場合であってもならない」とされ(220p)、政治家がマスメディアの経営に携わることが禁止されました。しかもこの細かい規定は憲法に書き込まれているのです。

 

 政治家が自らの資産について報告することは権力をチェックする上でも必要なことですが、タイではその罰則が非常に重いのが特徴です。2007年憲法では5年間の政治職就任禁止、政党の役職への就任も禁止、事実上次の選挙に出馬できないことになっています。

 タックシン政権とタックシン派がつくったサマック政権は、ともにこの汚職取締りの規定によって打倒されており(サマック政権に関しては首相が料理番組の司会をしたことが憲法の兼業禁止の規定に違反するとされた)、「利益相反」という曖昧な規定によって政権は倒されています。

 

 第6章では司法権がとり上げられています。裁判所には多数の専制から少数派を守る役割があります。しかし、タイの裁判所は、少数派(エリート)が多数(議会の多数派)を抑圧する役割を果たしていると言えるかもしれません。

 まず、1997年憲法で導入された憲法裁判所ですが、「政党決議または政党規則の合憲性審査」「下院議員または上院議員の資格審査」「政治家および高官が提出した資産負債報告書の審理裁定」など(255−256p)、憲法裁判所というネーミングからは想像がつきにくいような権限を持っています。また先述のように政党に解党を命令することもできます。

 1997年憲法では、この他にも選挙委員会、国家汚職防止取締委員会などが独立機関として政治を監視する権限を持っています。

 さらに2007年憲法ではこうした機関の権限が強化され、人事権も強まりました。

 

 しかも、1997年憲法と2007年憲法には、「国王を元首とする民主主義政体または国の形態を変える憲法改正動議はできない」という規定があり(263p)、民選政権が憲法改正を行うのは困難です。憲法改正をしようとすれば、憲法裁判所から解党を命じられるかもしれず、民選政権が司法や独立機関の権限を抑制することが難しくなっています。

 1997年憲法はタックシン政権成立前に制定されていますが、著者は「1997年憲法起草を担った知識人らが、将来「問題だ」と感じる民選政権を打倒しうる道具を用意していた可能性は高い」(272p)と分析しています。「タイでは、独立機関パッケージによる行き過ぎた法の支配が、「法による独裁」となり、議会制民主主義を破壊しかねないという逆説的な状況となっている」(273p)のです。

 

 第7章では上院がとり上げられています。1997年憲法では上院が民選になりましたが、2007年憲法では上院は「半民選、半任命制」に移行しました。一般的には以前の制度への「半先祖返り」(277p)であると認識されています。

 しかし、それだけではないと著者は言います。上院の任命制の議員の選考は裁判所および独立機関が独占して行っており、公務員経験者、軍に近い人物などが選ばれる傾向にあります。2007年憲法で上院にも法案提出権が認められるようになっており、先ほどの任命過程と併せて考えれば、司法機関が立法にも影響力を行使できる状況となっていると言えるでしょう。

 前述のサマック首相が兼職で失職に追いやられた裁判の原告は選挙委員会と30名の上院議員であり、上院議員が司法と結託して民選政権を打倒する構図が浮かび上がります。2007年憲法の任命上院議員は以前の官選上院議員よりも民主主義にとってより危険な存在だと著者は分析しています。

 

 では、こうした民主主義の後退をタイの人々はどのようにみているのか?

 終章ではタイの研究所が2001年から2014年にかけて実施したタイ国民の意識調査が紹介されています(308−310p)。タイ全国で見ると、2010年には軍事政権やテクノクラート政府に対する不支持が高まり、民主主義に対する支持があがりましたが、2014年には逆に軍事政権やテクノクラート政府への不支持が減り、民主主義に対する支持が減っています、地域別に見るとバンコクや北部で民主主義への支持の低下が目立ちます。

 

 1990年代の民主化運動では中間層がその担い手とされましたが、90年代後半〜00年代にかけてのタイの中間層は民主主義を守ろうと動いたわけではなく、「メディアの顧客」(319p)とも言える受け身の存在であり、一連の憲法改正を担ったのは軍や保守派の知識人、そして国王とその周辺でした(国王がイニシアティブをとったのではないにせよ、一連の憲法改正で国王の地位は強化された)。

 著者は「タイでは、国王、軍、官僚が長く権力を掌握してきた。タイ式「立憲主義」や「法の支配」は、旧政治勢力復権のための、現代的手段として生み出された装置なのではないだろうか」(326p)と述べています。

 

 さらにエピローグでは2017年憲法の制定過程と内容に関しても簡単に触れられています。この憲法は非民選首相を認めており、タイの政治は1991年憲法の状態まで戻ってしまったとも言えます。

 

 本書は以上のような興味深い内容を扱っています。ここ30年ほどのタイの政治の変化を憲法の内容を中心に立法、行政、司法とった分野ごとに見ていくスタイルなので、ややわかりにくく感じる面もあるでしょうが、「憲法」という民主主義の土台となるはずのものが、逆に民主主義を圧迫している状況を、憲法の変遷から精緻に描き出しています。

 タイの政治、あるいは新興国の政治に興味がある人にとってはもちろん興味深い内容だと思いますが、戦前の日本政治に興味がある人などにとっても、独立機関による政党政治の妨害という点で戦前の日本の制度と通じる面があり、興味深く読めるのではないでしょうか。

 また、「政治の司法化」は、例えばお隣の韓国などでも観察できる現象であり、本書はその1つのかなり極端なあり方を見せてくれています。