アイリス・オーウェンス『アフター・クロード』

 国書刊行会<ドーキー・アーカイヴ>シリーズの1冊。

 一風変わったマイナー小説を集めているこのシリーズですが、この『アフター・クロード』はその中でもなかなか強烈な印象を与える作品。

 著者の分身とも言える主人公のハリエットが「捨ててやった、クロードを。あのフランス人のドブネズミ」という出だしから、ひたすら周囲に対して悪態を付き続けるような小説です。

 

 とにかくこの悪態が見事で、冒頭のパゾリーニの『奇跡の丘』への酷評から始まり、ハリエットは出会う人物と周囲に対して速射砲のように悪態をつき続けます。

 ひたすら悪態がつづく小説というと、トーマス・ベルンハルト『消去』が思い出されますが、ベルンハルトが厭世感が突き抜けてユーモアになっていくのに対して、こちらは悪態の瞬発力が見事。

 ベルンハルトは自意識に捕われた滑稽すれすれの深刻さ、あるいは深刻さをはみ出してしまった滑稽さを描いているわけですが、オーウェンスが描くのは自意識にまで至る前に瞬発的に繰り出される悪態です

 相手の欺瞞に電光石火で噛みつき、男を落とすかと思えば次の瞬間にはすがりつく。実際に周囲にこんな女性がいたらうんざりしてしまうかもしれませんが、でも彼女が冴えまくっていることは認めざるを得ない感じです。

 

 ただ、こんな女性と一緒にいたら間違いなく疲れるのも事実で、冒頭ではクロードを捨ててやったことになっていますが、実際にはハリエットが捨てられます。

 そして、彼女の瞬発力は超一級品なのですが、それはあくまでの受け身の反応であって、自ら道を切り拓いていくようなパワーではありません。

 ということもあって、ストーリー自体はある種の転落ですし、当然ながら主人公の改心や成長があるわけでもなく、ストーリーとしては楽しいものではありません。

 でも、ハリエットの悪態の機銃掃射はとても楽しい。

 

 

 

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デイヴィッド・ガーランド『福祉国家』

 ミュデ+カルトワッセル『ポピュリズム』やエリカ・フランツ『権威主義』と同じくオックスフォード大学出版会のA Very Short Introductionsシリーズの一冊で、同じ白水社からの出版になります(『ポピュリズム』はハードカバーで『権威主義』と本書はソフトカバー)。

 著者は、スコットランドに生まれ現在はアメリカのニューヨーク大学で教えている犯罪や刑罰の歴史を研究する社会学者です。

 「なぜ、そのような人が福祉国家について論じるのか?」と思う人も多いでしょうが、本書を読むと、著者が福祉国家をかなり広いもの、現代の社会を安定させる上で必要不可欠なものだと考えていることがわかり、その疑問もとけてくると思います。

 

 目次は以下の通り。

第1章 福祉国家とは何か
第2章 福祉国家以前
第3章 福祉国家の誕生
第4章 福祉国家1.0
第5章 多様性
第6章 問題点
第7章 新自由主義福祉国家2.0
第8章 ポスト工業社会への移行―福祉国家3.0へ
第9章 なくてはならない福祉国家

 

 福祉国家というと福祉が手厚いスウェーデンなどの北欧諸国が思い浮かぶかもしれませんが、著者に言わせればアメリカもミニマリズム的で市場指向的であるとしても福祉国家です。

 著者は福祉国家を資本主義を操縦するための装置とみなしており、現在の先進国において福祉国家でない国家は存在しないというスタンスです。

 

 福祉国家は19世紀末の西欧諸国に出現し、20世紀なかばの数十年で確立されました。

 教会やチャリティに頼った弱者を保護する政策が、市場資本主義の進展によって崩れていき、新たに社会保険などのしくみが導入されることになりました。さらに世界恐慌の経験がさまざまな社会保障の導入へとつながりました。

 自助だけではもちろん、相互扶助や友愛組合でも対処できないようなリスクが実際に現れるようになってきたからです。

 また、戦争や復員兵への支援の必要性などもこうした動きを後押しすることになります。

 そして、それぞれの国や地域で独自の展開を見せたものの。福祉国家は「資本主義下の民主主義に等しく当てはまる普遍的特性」(68p)でした。

 

 著者は20世紀半ばに確立した福祉国家を「福祉国家1.0」と名付けています。

 福祉国家は、社会保険、社会扶助、公的資金によるソーシャルサービス、ソーシャルワークとパーソナル・ソーシャル・サービス、経済のガバナンスという5つの制度セクターからなっているといいます。4つ目のソーシャルワークとパーソナル・ソーシャル・サービスというのが少しわかりにくいかもししれませんが、これは家族や、児童、高齢者対象のさまざまなサービスやケア、心の病を持つ人へのケア、犯罪者の保護観察など、幅広いものが入ります。

 

 19世紀までは社会的保護といったものは経済によっての足かせであり、救貧事業は勤労意欲を削ぐと考えられていました。

 しかし、ケインズの影響などを受けて、社会的保護や弱者の救済が経済をかえって強くするという考えが広まり、それが福祉国家のさまざまなプログラムを促進したのです。

 そして、この福祉国家貧困層だけでなく、中間層や富裕層にも利益をもたらしました。高等教育や住宅ローン課税控除のような政策で恩恵を受けるのは中間層や富裕層です。

 

 本書の第5章では福祉国家の多様性を示すために。エスピン=アンデルセンの3つのレジームが紹介されていますが(G・エスピン‐アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』参照)、著者はそれ以外にも「福祉国家」はあるとして、ファシズム国家や東欧の旧社会主義国家、シンガポールなどのアジアの都市国家、中東の石油国家などもあげています。これらの「福祉国家」は問題をはらんだものかもしれませんが、それでも福祉国家の要素を含んでいるのです。

 

 ただし、福祉国家は大きな批判にもさらされました。特に1970年代になるとスタグフレーションによってその行き詰まりが指摘されたのです。

 経済成長が停滞すると、不正受給や「タカリ屋」の問題がクローズアップされ、レーガン大統領が演説の中で持ち出した年15万ドルを受給する「福祉女王」の話などが広まります(ほぼ架空の神話なのですが)。

 一方で、申請の手続きがあまりにも難解で、本当に必要な人に福祉が届かないといった批判も起きてきます。

 また、政府が経済を管理することについても、それは無益でかえって成長を阻害しているという批判が強まります。

 

 この福祉国家への批判を牽引したのが新自由主義です。

 ただし、サッチャーレーガンが目指したのは「大きな政府」の縮小であるとともに、軍事的にはパワフルな国家の建設でありました。

 市場競争を重視する政策がとられますたが、同時にイギリスでは公営住宅の払い下げで恩恵を受けた人も多く、失業保険の縮小アドによって安定した雇用の労働者と不安定な雇用の労働者の間を分断させました。

 

 これを受けて、福祉国家もより効率や成果を重視する制度を導入するようになります。「福祉国家2.0」です。

 イギリスのブレア政権の政策がその代表例ですが、福祉の分野にも民間企業が参入するようになり、受けての選択がより重視されるようになりました。

 しかし、同時に著者は、年金、疾病保険、失業保険といった福祉国家の柱となる制度が、新自由主義の攻撃がありながらもしっかりと維持されたことを指摘しています。

 

 さらに著者はポスト工業化とともに福祉国家も「福祉国家3.0」に移行しつつあると言います。

 雇用市場では、経済のサービス化とともに労働組合後からは弱くなり、短期雇用やワーキングプアが増えています。また、男性稼ぎ手モデルは時代に合わなくなり、家族の形は流動化しています。

 また、少子高齢化や移民の増加などもあり、「工場で働く家族を養う男性」のニーズに応えるようなやり方では、時代の変化についていけなくなっています。

 

 こうした状況に対して、今までの「労働市場を活性化させる」といった政策に代わって、人的資本を増やし、ワーキングプア貧困状態からすくい上げるような政策が求められています。また、年金制度や家族政策などももっと柔軟なものになる必要があるのです。

 

 著者は最後の第9章で次のように述べています。

 福祉国家は、わたしたちが好きなように採用したり拒絶したりしてよい政策オプションではない。いまや時代遅れになりつつある戦後史の一段階でもない、そうではなく、福祉国家は近代的統治の根本的な一面であり、資本主義社会の経済のはたらきや社会の健康に欠かせないものである。福祉レジームはさまざまに異なった形態をとりうるし、その実効性には幅があるものの、何かしら実態のある福祉国家は、いかなる近代国家にとっても、生死にかかわる部分である。(193p)

 

 この部分が本書の肝とも言うべき部分でしょう。福祉国家は時代遅れになっているわけではなく、もはや必要不可欠なものとして現代の社会に埋め込まれているわけです。

 

 このように本書は福祉国家をより幅広く捉えることでその必要性を訴えています。

 「福祉国家」をどこまで広くとるのかということに関しては意見が分かれるところでしょうが、市場のみのむき出しの資本主義で社会がうまく回るはずはなく、「福祉国家的なもの」が必要なのだということに関しては多くの人が同意するのではないかと思います。

 欲を言えば、グローバル化が進む中での福祉国家ナショナリズムの関係のようなものにも触れてほしかったですけど、福祉国家というものを改めて考え直すことができる1冊になっています。

 

 

NAS / King's Disease

 NASの去年出たアルバム。NASは2012年の「Life Is Good」以来ちゃんと聴いていなかったのですが(2013〜17年はアルバムをリリースしなかった)、今回、けっこういいという話を聞いて聴いてみたらけっこうよかったです。

 

 NASくらいの大物になれば、どんどん豪華に重厚になっていってもおかしくないのですが、今作は何と言っても軽快で気持ちが良くてサラッと終わる。

 タイトルが「King's Disease=王の病気」ということでコロナを受けた重々しいものを想像しましたけど、冒頭の"King's Disease"〜"Car #85 [feat. Charlie Wilson]"〜"Ultra Black [feat. Hit-Boy]"と、最初からテンポよく気持ちよく入っていきます。

 7曲目の"Til The War Is Won  [feat. Lil Durk]"では客演のLil Durkのコーラスもあって少ししんみりさせる感じですが、全体はあくまでもポジティブな印象です。

 

 今作はHit-Boy が全曲のプロデュースを担当しているそうですが、これがハマった感じですね。ヒップホップのアーティストの場合、プロデューサー次第でベテランが一気に勢いを取り戻したりできるのが面白いと思います。

 12曲目の"The Cure"では、大団円感を出しながら、そこからNASのラップを聴かせにくる展開とかも面白いですし、トラックは全体的にいいですね。

 ちなみにノーチェックでしたけど、NASはこのアルバムでグラミー賞も初受賞しています(遅すぎたくらいですが)。

 


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宝樹『時間の王』

 中国のSF作家であり、あの『三体』の続編を書いて劉慈欣に認められたことでも知られている宝樹(バオシュー)の短編集になります。1980年生まれで、郝景芳や陳楸帆らと同世代になります。

 ちなみに宝樹という名前は苗字+名前というわけではなく、ひとまとまりのペンネームだそうです。

 

 宝珠の名前を知ったのはケン・リュウ『月の光』所収の「金色昔日」。

 主人公の北京オリンピックの記憶から始まり、SARSの流行で学校が休校になり、不景気で技術の進歩は停滞するどころかむしろ後退し、20年前(!)に起草された零八憲章が学生の間でひそかに回覧され、そして天安門事件らしくものが起こり…という中国史を逆転再生していく作品で非常に面白いものでした。

 そして、本短編集もタイムトラベルをテーマにした作品ばかりを集めたものになります。

 

 宝樹の魅力はアイディアのスケールの大きさと、それでいて軽妙なユーモアがあるところなのですが、その両方があるのが「三国献麺記」と「九百九十九本のばら」になります。

 

 「三国献麺記」は以下のような話です。

 「『三国志』の曹操赤壁の戦いの敗北後に食べた魚介麺」とのいわれをでっち上げて大成功した<郝の味>というレストランチェーン。その娘がタイムトラベルについて研究している主人公のもとに現れ、でっち上げであるいわれを現実にしたい、つまり曹操に魚介麺を食べさせたいというのです。

 歴史を改変すれば大変なことになりますが、大金と女性の魅力に負けて「麺を食べさせるくらいなら…」と主人公は、赤壁の戦いで負けて敗走する曹操に当時の人々に化けて麺を食べさせる計画をスタートさせます。

 ところが、さまざまなアクシデントに見舞われて、いかに歴史を改変せずに帰ってこられるかという話になっていきます。

 

 「九百九十九本のばら」は、主人公の友人で苦学生であるダーヨンが、大学のマドンナのシェンチーに恋をして、「デートしたかったら九百九十九本のばらを持ってきて」と言われるところから話が始まります。

 ダーヨンにはもちろん花を買うお金はないわけですが、ダーヨンは「未来にはさまざまな分岐があり、自分がシェンチーと結婚している未来もあるはず。そして、未来にタイムマシンが発明されていれば自分とシェンチーの子孫がその未来を実現するために九百九十九本のばらを用意してくれるに違いない」との謎理論を思いつき、それを信じて運命の日を待ちます。

 ドタバタ的な恋愛とタイムパラドックス的なアイディアが合わさって面白いですね。

 

 ユーモアはないものの、圧倒的なスケール感を持つのがラストに置かれた「暗黒へ」。

 文字通り「人類最後の1人」になってしまった主人公がブラックホールに捕まって万事休すとなるわけですが、そこから抜け出すために主人公は最後の賭けに出ます。

 『三体3』的、あるいは手塚治虫の『火の鳥』的なスケール感のある作品で、これも面白いですね。

 

 冒頭の「穴居するものたち」はそれほど面白くなかったのですが、それ以外はどれもアイディアとユーモアがあり、とにかく面白く読める短編集ですね。

 郝景芳や陳楸帆に比べると「軽い」感じですが、軽やかに大それたアイディアを見せてくれるところがこの宝樹の魅力でしょう。

 

アダム・プシェヴォスキ『それでも選挙に行く理由』

 日本でも先日、衆議院議員の総選挙が行われ、その結果に満足した人も不満を覚えた人もいるでしょうが、冒頭の「日本語版によせて」の中で、著者は「選挙の最大の価値は、社会のあらゆる対立を暴力に頼ることなく、自由と平和のうちに処理する点にあるというものだ」(7p)と述べています。

 日本に住んでいると、この言葉にピンとこないかもしれませんが、著者は選挙の歴史や国際比較を通じて、この言葉に説得力を与えていきます。本書の帯にある「選挙とは「紙でできた石つぶて」である」との言葉も本書を最後まで読むと納得できるでしょう。

 

 著者は1940年にポーランドで生まれた比較政治学者で、1960年代にアメリカに留学して以来、主にアメリカの大学で教鞭をとっています。

 このポーランド生まれというところが、ありきたりな民主主義論とは違う、一風変わった民主主義と選挙についての考えのバックボーンにあるのかもしれません。

 

 目次は以下の通り。

第1章 序論
第1部 選挙の機能

第2章 政府を選ぶということ

第3章 所有権の保護

第4章 与党にとどまるための攻防

第5章 第1部の結論 選挙の本質とは
第2部 選挙に何を期待できるのか

第6章 第2部への序論

第7章 合理性

第8章 代表、アカウンタビリティ、政府のコントロール

第9章 経済パフォーマンス

第10章 経済的・社会的な平等

第11章 平和的な紛争処理

第12章 結論 

 

 近年、ポピュリズムが問題となり、民主政治の危機が叫ばれていますが、かつてのファシストと違って、ポピュリストは選挙で指導者を選ぶことに反対しているわけではありません。選挙はやはり重要な位置を占めているのです。

 

 歴史を紐解けば選挙による政権交代というのは珍しいもので、1788〜2008年にかけて選挙で政府が代わったのは544回、クーデタで代わったのは577回だといいます(21p)(ちなみに1788年はアメリカで歴史上初めて、すべての成年男子が選挙権を持って代表者を選ぶ国政レベルの選挙が行われた年)。

 そもそも中国とロシアの2つの大国を含む68カ国では選挙の結果として政権交代が起こったことはなく、歴史上ありふれたこととは言えないのです。

 

 著者は「選挙は次善の策である」と言います。「たしかに、個人としては他人の意志に屈しなければならない」ですし、「一定期間気に入らない政府のもとで暮らさざるを得ない人は少なくない」(33p)わけですが、それでも定期的な意思表示ができます。

 

 代表を選ぶやり方には、選挙以外にもくじ引きが考えられますが、著者は人びとの間に統治に関する能力の差があるためにくじ引きは退けられたと考えています。

 現在では、政党は登録制であることが多く、政治家も階層的に組織されており、政治家は何年もかけて有力な政治家となっていきます。また、選挙に勝つには資金力が必要であり、政治家になれるのはさまざまな面で選ばれた人々が中心になります。

 

 一方、投票する側に関しても、誰でも参加できる選挙というものは歴史的にずっと警戒されてきました。貧乏人が選挙に参加すれば少数派である金持ちから財産を奪うような政治がなされると考えられたからです。

 これに対して、一つの防波堤となっているのが「法の支配」です。ただし、「法の支配」といっても法律が支配できるわけはなく、支配するのはあくまでも人間である裁判官だと著者は言います。

 

 選挙においては現職が圧倒的に有利です。1788〜2008年までの2949回の選挙のうち、2315回、つまり79%の確率で現職が勝っています(69p)。

 与党現職は立法府の多数派を握っており、官僚機構を指揮できるために優位に立つことができます。さらに現職は支持の見返りとして政治的な優遇を与えることもできます。

 さらには選挙制度をいじったり、区割りを変更したり(ゲリマンダリング)、選挙運動を規制したり、メディアを統制したりすることもできるかもしれません。さらに最終手段としては不正もあります。選挙自体を歪めてしまうのです。

 

 こうした中で私たちは選挙に何を期待すべきなのか?

 有権者集団が大きくなれば個人の一票は限りなく軽くなり、「個人の視点からすれば、選挙結果はコインを指ではじいた結果のようなもので、行動と結果の間に因果関係がない」(108p)ことになります。

 それでも著者は、次のように述べます。

 選挙の価値とは、「統治者と非統治者の双方が選挙を『意思表示』手続きであると認識し、指令伝達であるとみなし、政府はその指令を当然のこととして実施する」ことができていれば十分なのである。

 私たちが選挙を評価するのは、一人ひとりが何をするにも自由であるという、私たちが本来望むものの次に良いものだからである。誰もが、やりたくないことをやれと命令されたり、やりたいことの実行を禁じられるのは好きではないが、それでも私たちは統治されなければならない。そして、すべての人が同時に統治者にはなれないので、せめてもの次善の策は、誰によってどのように統治されるかを選択することができ、好ましくない政府を排除する権利を持つことなのである。これが、選挙が可能にすることである。(109p)

 

 選挙によって合理的な政策が実現されるのかどうは不明なところがあります。

 まず、誰にとっても合理的な選択というのはないかもしれませんし、熟議を重ねることで合理的な結論に至ることができるとしてもすべての選挙でそれを期待できるわけではありません。

 「共通の利益」「共通の善」を強調することはナショナリズムを鼓舞するだけになるかもしれません。また、陪審の結論と違って選挙結果が正しかったかどうかを後から判定することも困難です。しかも、選挙で争われる争点は1つではありません。

 

 選挙の争点が1つではないこと、また、政治を取り巻く環境が刻々と変化することから、選挙で選ばれた代表者は必ずしも選挙で掲げた公約を忠実に実行するわけではなくなります。

 有権者は代表者のとった政策が有権者にとって良いものだったどうかを判断する必要があり、代表者にはそのためにアカウンタビリティが課せられます。

 

 現在、有権者の多くは経済的な利益を望んでいます。そのため選挙で選ばれた政府は経済的繁栄のための政策を追求すると考えられます。

 ただし、貧しい国では有権者が消費を求めるために投資が進みにくく、独裁の方が経済成長に有利であるとの議論もあります。

 このように選挙が経済的なパフォーマンスを高めるのかどうかはよくわからないところですが、少なくとも民主主義体制では社会保障制度をいきなり撤回するようなことは起こらないと考えられます。ある意味で、社会の安定をもたらすものと言えるでしょう。

 

 普通選挙は平等を促進することが期待されます。貧しい多数派は格差を縮小するような政策を望むだろうと考えられるからです。

 しかし、データを見てみると所得が不平等である程度は政治体制が違ってもそれほど差がありません。また、民主体制の国でもすでに不平等のレベルが高い国では、かえって再分配が少なくなる傾向もあります(142p)。

 貧乏人はなぜか金持ちから財産を奪い取ろうとしないわけですが、これにはさまざまな要因が考えられます。例えば、金持ちのほうが再分配によって失うものが多いので政治に金をかけて熱心に働きかけるということもあるでしょう。

 

 このように選挙が多くの問題を自動的に解決するわけではありませんし、負けた側には不満が残ります。それでも民主主義がうまくいっている国では、敗者は退場し、勝者が統治者となります。

 著者は「投票は「力こぶ」をつくることと同じ、つまり、起こりうる戦争の勝率を予測できることに匹敵する」(155p)と述べています。実際に内戦をしなくても、投票の数で各勢力の戦力が予測できるのです。

 このために選挙を行うことは暴力的な紛争の頻度を下げることに繋がります。まさに「投票用紙は「紙でできた石つぶて」」(157p)なのです。

 

 このように本書で展開される選挙と民主主義の話はかなり独特なものだと思います。

 多くの論者は民主主義のさまざまな良い面をアピールしようとしますが、プシェヴォスキは「平和的な政権交代の可能性」という1点を推している感じです。

 民主主義を前提として選挙を考えると、「もっと国民の意思をきめ細かく吸い上げられないものか?」とか「もっと有権者の啓蒙が進むようなしくみはできないものか?」などと、いろいろなことを思ってしまいますが、そうした中でこのシンプルな主張には力強さがあると思いますし、改めて何が重要なのかということを考えさせる内容になっています。

 

『DUNE/デューン 砂の惑星』

 原作も未読ですし、デヴィッド・リンチの『デューン/砂の惑星』もリンチ好きのくせに見ていないのですが、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督ということもあり、ハズレはないだろうということで見てきました。

 

 映像はさすがドゥニ・ヴィルヌーヴで言うことはないです。

 砂漠の惑星アラキスの景色、そこで動く巨大なメカ、砂漠に潜むサンドワームの迫力、主人公が最初にいる惑星カラダンの風景、怪しげな敵であるハルコンネン家の面々など、すべてが決まっています。

 この手のSF映画だと、どこかでしょぼかったり無理があったりしてしらけるところがあるものですが、そういってものが全くなくて画作りとしては完璧です。

 

 あと、主人公のポールを演じたティモシー・シャラメもいいですね。『レディ・バード』で見たときから、びっくりするほどナルシスティックな存在感を放っていて、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』でもいい感じでしたが、本作では「選ばれた人間」である主人公の役にはまっています。

 

 惑星アラキスの砂漠のみでとれる「スパイス」と呼ばれる不思議で貴重な物質があり、その惑星の支配権が皇帝から主人公のポールの父であるレト・アトレイデス公爵に与えられます。このアラキスにはフレーメンと呼ばれる砂漠の民も住んでおり、主人公のポールはなぜか彼らの夢を見ます。

 それまで惑星アラキスを支配していた前任者であるハルコンネン家も、打倒アトレイデスと惑星アラキスの奪還を狙っており、ここに対立が生じます。

 一方、ポールの母のジェシカは他人を従わせる声を出せる不思議な能力を持つ女性のみで結成された秘密結社ベネ・ゲゼリットのメンバーでもあり、ポールにもその能力の一端を授けています。

 ここに謎めいている皇帝の意向なども絡んできて…という非常に複雑なストーリーとなっています。

 さらに、本作は2部構想の第1部であり、話は主人公のポールが大きな物語の第一歩を踏み出すところで終わっています。つまり、壮大な大河ドラマの序章といった感じなのです。

 

 ですから、ストーリーとしては不完全燃焼ではあるのですが、最初にも書いたようにドゥニ・ヴィルヌーヴのつくる画を見ていればそれで十分に満足といったところです。

 ただし、『ブレードランナー 2049』でも感じましたが、ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画は上映時間も長いですし、その上映時間以上に長く感じます。別に退屈というわけではないんですが、メジャーなヒット作を生み出すには、もう少しテンポが必要な気もします。

 でも、とにかく大きな画面でこれだけの映像を楽しめれば、それで十分とも言えるでしょう。

 

ジェスミン・ウォード『骨を引き上げろ』

 アメリカの黒人女性作家による2011年の全米図書賞受賞作。ミシシッピ州の架空の街ボア・ソバージュを舞台にハリケーンカトリーナに襲われた黒人の一家を描いた作品。

 南部の架空の街を舞台にした家族の物語となると、当然、思い起こすのがフォークナーで、作家自身も『死の床に横たわりて』の影響を非常に強く受けていることを本書の収録されているインタビューの中でも述べています。

 

 というわけで、フォークナー好きとしてはそれを期待して読み始めましたが、個人的にはフォークナーっぽい感じはしませんでした。

 フォークナーは比較的単純な筋立てであっても非常に複雑な構成をとったり、複雑な文章で書きましたが、この『骨を引き上げろ』にはそういった複雑さはありません。

 主人公の15歳の少女エシュを語り手として、彼女の周りにいる家族、父、長兄のランドール、次兄のスキータ、弟のジュニアの様子が描かれています。

 

 そして何よりも、この小説はけっこうな部分が次兄のスキータとその飼い犬のチャイナの異常なまでの絆の描写にあてられています。人間と犬の愛の物語と言った感じです。

 カトリーナの接近は比較的最初の方に知らされるので、読み手はカトリーナの襲来がもたらすドラマを期待するわけですが、冒頭のチャイナの出産シーンから始まり、常にスキータとチャイナが物語の大きな部分を占めています。

 もちろん、エシュの妊娠が発覚したり、その他のドラマもあるのですが、犬を異常なまでに愛するスキータとチャイナの存在感は別格です。

 

 このチャイナは闘犬用の犬でもあり、物語の半ば過ぎに闘犬のシーンがあるのですが、ここがすごい! ここの暴力描写は圧倒的でなんとも言えない迫力があります。

 というわけで、個人的にこのジェスミン・ウォードはフォークナーではなく、コーマック・マッカーシーですね。この闘犬のシーンを読んで、コーマック・マッカーシーの『すべての美しい馬』とかを思い出しました。

 

 期待したものとはちょっと違ったのですが、間違いなく鮮烈な小説でしたね。