Oh Wonder / 22 Break

 ロンドンのエレクトロポップ・デュオのOh Wonderの4枚目のアルバム。Oh Wonderは2ndから聴いていてずっといいなと思っていましたが、このアルバムで一段と化けた感じですね。

 まず、2曲目の"Down"は、いかにもOh Wonderらしいポップソングで、ちょっと往年のMorr Musicのアーティストなんかを思い起こさせる牧歌的なメロディが心地よい1曲です。

 

 前からこういう曲は同じだったので、この"Down"がメインとなる曲で、全体もこんな感じで行くのかと思ったら、次の"22 Break"は一転してヒリヒリするような感じで、今までのOh Wonderのイメージを一気に塗り替えます。この曲はいいですね。

 このあとも5曲目の"Don't Let The Neighbourhood Hear"や7曲目の"Rollercoaster Baby"と、今までのOh Wonderに比べるとややダークな感じの曲が並びます。

 

 このダークな感じが抜けるのが8曲目の"Love Me Now"。後半はちょっと祝祭的な感じも出てきて明るさが帰ってきます。

 そして10曲目の"Kicking The Doors Down"で優しさを感じさせ、11曲目の"Twenty Fourteen"で力強くフィニッシュ。

 とにかく構成が見事なアルバムですね。

 

 このサイトの記事によると

 

www.indienative.com

 

 コロナ禍の中で、メンバーの2人、Josephine Vander Gucht と Anthony Westは解散と破局の危機に直面しながらレコーディングを行い、それを乗り越えて結婚したとのことですが、そうしたドラマチックな感じが事情をまったく知らない人間にも伝わってくるようなアルバムです。

 


www.youtube.com

 

 

キャス・サンスティーン『入門・行動科学と公共政策』

 副題は「ナッジからはじまる自由論と幸福論」。著者はノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラーらとともに「ナッジ」を利用した政策を推し進めようとしている人物であり、オバマ政権では行政管理予算局の情報政策及び規制政策担当官も務めています。

 サンスティーンの本は1回読んでおかなければと前々から思っていたのですが、非常に多作な人物であり、「一体どれから読もうか?」などと考えているうちに今に至っていました。

 

 そんな中で手にとったのがこの本。コンパクトな入門書のシリーズであるCambrige Elementsの公共経済学シリーズの1冊であり、本文140ページほどの中にサンスティーンの考えがコンパクトにまとまっています。

 サンスティーンによる、自らの考えへの入門書と言えるでしょう。

 

 目次は以下の通り。

第1章 イントロダクション

第2章 行動科学革命

第3章 自分で選べば幸せになれるのか?

第4章 政 府

第5章 誤 り

第6章 判 断

第7章 理論と実践

第8章 厚 生

第9章 自 由

第10章 進むべき道

 

 「私の主な目的な、本書をコンビニエンスストアにすることである」(9p)とあるように、本書は行動科学がもたらす知見がいかに使えるものであり、どのように実装できるのかということを紹介するものとなっています。

 ここにでてくる行動科学とは認知心理学社会心理学行動経済学という重なり合う3つの分野を指すもので(10p)、これによっていかに人々の厚生を改善できるのかが本書のテーマとなります。

 

 人は理性的ではありますが、同時にめんどくさがり屋でもあります。善いとわかっていることでも、ついつい後回しにしたり、やらずに放置していまいます。

 そこで登場するのがナッジです。ナッジは「肘でそっと押す」といった意味であり、ちょっとした工夫で人々を望ましい行動に誘導します。

 例えば、グリーンエネルギーが善いとわかっていても人々はなかなかそれを選ばないわけですが、例えばドイツでは、最初からグリーンエネルギー計画に加入することにしておき、いやならオプトアウト(=脱退)するようにしたところ、グリーンエネルギーに加入する世帯が飛躍的に増えました。

 

 ここでのポイントはグリーンエネルギーを強制しているわけではないことです。オプトアウトの自由を確保していることがポイントです。

 そこからこのナッジは、リバタリアンパターナリズムとして理解されます。一種のパターナリズムではあるけど、自由は確保してあるというわけです。

 

 ですから、刑罰や税金、補助金等はナッジに含まれないわけですが、人々の「損失回避バイアス」を利用するレジ袋有料化のような少額の負担であれば、著者は自由を排除することにはならないと考えています(19p)。

 そして、このナッジの背景にあるのがダニエル・カーネマンが『ファスト&スロー』で展開した速い思考(システム1)と遅い思考(システム2)の考えです。システム1は速いですが、ときに近視的で衝動的です。これをナッジによって修正しようというのです。

 

 自由主義者は「自分のやりたいことは自分が一番知っている」という理屈で自由を擁護するわけですが、著者によれば、人はしばしば自分の厚生を裏切るような判断をしてしまいます。後悔するのにカロリーの高いものを食べたりするわけです。

 また、物事の一面のみにこだわり、人間が変化に適応するものだということも忘れています。痛みの長さよりもその終わり方によって印象が変わるなど(ピークエンドの法則)、記憶というもの曖昧なものです。

 さらに比較対象によっても、そのものへの評価は変わってきます。ポテトチップはチョコレートの横にあるときよりもイワシの缶詰の横にあるときのほうが魅力的だといいます(42p)。

 ですから、自分の判断というのは当てにならないことも多いのです。

 

 そこでナッジには政府も注目しています。人びとの行動を低コストでそれほど反発を受けずに変えることができる可能性があるからです。

 多額の税金が医療に使われているのであれば、人々が自らの健康に気をつけてタバコや酒を控えたり、野菜を多く摂ったりすることは税金の節約につながります。ナッジにはこれらを後押しする力があるかもしれません。

 

 初期設定をどのようにするかも非常に重要であり、年金やヘルスケアについて初期設定を自動登録にしておくことで(チェックを外せば脱退できる)、加入者を大きく増やすことができます。

 また、政府は情報開示を義務付けることで、消費者の選択を手助けすることもできます。ただし、あまりにも多い情報は人々を賢い選択から遠ざける可能性もあり、情報の出し方のデザインも重要になります。

 

 そうはいっても政府が個人の選択に介入することを問題視する人もいるでしょう。著者がそれに答えているのが第5章以降です。

 「自分のことは自分が一番よく判断できる」というのは説得力のある意見であり、自由を擁護する根拠にも使われてきました。一方で、他人に代わってよかれと思って選択をすることはパターナリズム(父権的温情主義)として批判されていきました。

 

 しかし、著者はパターナリズムを手段パターナリズムと目的パターナリズムに分け、ナッジは前者の手段パターナリズムだとし、これは選択能力を向上させるもので、選択を強制するものではないとしています。

 さまざまな行動バイアスが排除されてはじめて、「自分のことは自分が一番よく判断できる」と言うのです。

 

 ただし、ハードなパターナリズムは選択を強制するのでわかりやすいですが、ナッジのようなソフトなパターナリズムは見えにくく、それが故に濫用される可能性もあります。

 これに対して著者は、まずはすべてを透明化することによって対処できるし、ナッジに対しては従わなかったり、元に戻したりできるということを指摘します。例えば、店の奥に陳列されたチョコレートバーを探すことはできますし、年金の積立を途中でやめることも可能だからです。

 また、ナッジを設計する公職者が誤りを犯すケースも考えられますが、ナッジが誤りに基づいていればそれは無視されたり退けられたりするので、命令よりも危険性はないと考えています。

 

 このように、本書はナッジがどのようなものかを説明しつつ、その正当化を試みています。

 文章はわかりやすいですし、価格、ボリュームともに抑えめなので、サンスティーンの入門書としてはいいのではないかと思います。

 

 一方、やはり最後のほうの議論が引っかかったのも事実で、例えば、ナッジによるパターナリズムはやり直しがきくというけど、一生に何回もないような買い物(車や家)の場合、ナッジに誘導された選択をやり直すことはこんなんですし、ナッジの気付かれにくさと、誤ったナッジは無視されたり退けられたりするだろうという予測がどのように両立するのかということは気になりました。

 

 ただ、とにかく読みやすい本なので、まずは本書を読んでからいろいろと考えてみるといいと思います。

 

呉明益『眠りの航路』

 『歩道橋の魔術師』『自転車泥棒』、そして今年に入って『複眼人』と翻訳が相次いでいる呉明益の長編が白水社の<エクス・リブリス〉シリーズで登場。

 ただし、発表順でいうと本作は呉明益の長編デビュー作であり、一番古い作品になります。

 とっつきにくい作品だから後回しにされたと思いきや、奇妙な眠りの病にかかった現代を生きる主人公と、第2次世界大戦時に少年工として日本に渡ることになった主人公の父親(日本名・三郎)の話が交互に語られ、呉明益の作品には欠かせない台北の中華商場をはじめ、のちの作品にも共通するさまざまなモチーフが出てきます。

 そして、神奈川の現在の大和市にある高座海軍工廠で三郎は平岡君という日本人の青年に出会います。実はこの時期の高座海軍工廠では平岡公威、のちの三島由紀夫が勤労動員で働いており、著者は「父がもし三島と出会っていたら…?」という想像力でもって、若き日の三島のことも描いています。

 

 主人公は友人とホウタクヤダケという竹の花を見に行ったことをきっかけに、眠りのリズムが狂っていきます。眠りが3時間ずつ後ろにずれていき、その時間になると必ず眠ってしまうようになったのです。

 規則性があるとはいえ、決まった時間になると必ず眠ってしまうというのは日常生活を営む上で大きな問題です。

 そのため、主人公は眠りについて研究している先生を訪ね、さらには日本にいる先生と父の足跡をたどります。

 

 一方、日本に行けば白米を食べられると聞いた三郎は少年工に志願し、日本と日本人になることを目指します。

 しかし、戦局は悪化の一途をたどり、三郎はB29の空襲に怯えながらB29を迎撃するための「雷電」戦闘機の生産に励むことになるのです。

 主人公は自分ではコントロールできない眠りの中で、この若き日の父の人生とつながっていきます。

 

 父の日本での体験が父にとってどのようなものであったのか、その後の父の人生にいかなる刻印を残したのかが本書の1つのテーマになります。

 「日本人」になろうとして日本に渡り、終戦とともに「戦勝国」の国民に戻り、台湾へと帰ってきた父。戦争が起こってしまったこと、そして終わってしまったことによって父の人生は大きく変化しました。これは同時に平岡君にとっても同じことであり、その後の平岡君の人生を規定しました。

 

 このようにこの小説は父の人生だけでなく、「帝国としての日本」にも切り込むものとなっています。『自転車泥棒』のときにも感じましたが、呉明益の作品には台湾にとどまらず東アジアに広がっていくような視点があります。

 好みもあるでしょうが、個人的にはややありがちな神話的な話である『複眼人』よりも、少しオカルトめいた眠りの話と具体的な歴史をつなげた『眠りの航路』のほうが面白かったですね。

 文句なしに面白い小説だと思います。

 

 

Little Simz / Sometimes I Might Be Introvert

 UKの女性ラッパーLittle Simz(リトル・シムズ)のアルバム(たぶん4枚目)。すでに前作で高い評価を得ており、女優としても活躍したりしているらしいですが、今回初めて聴きました。

 とりあえずオープニングナンバーの"Introvert"を聴いたほしいのですが、これはかっこいいですね。歌詞の内容はわからないですが、音的にはこのまま007の主題歌になってもおかしくないかっこよさがあります。

 


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 この"Introvert"以外の曲もトラックが非常にいい感じで、リズムだけでなく細かい音の付け方も含めてオシャレな感じです。

 例えば、8曲目の"Speed"の女性ラッパーとしての声質に合わせた浮遊感のあるトラックから、ストリングスを効かせた迫力ある"Standing Ovation"の流れは非常にいいですし、ゲームミュージックぽいトラックの12曲目の"Rollin Stone"からシティ・ポップっぽいトラックの"Protect My Energy"、1曲挟んでアフリカンなイメージの"Point and Kill (feat. Obongjayar)"という流れも変化があって飽きさせないです。

 

 プロデューサーがいいのでしょうが(インフローという人?らしい)、それにしてもなかなかの才能であることは間違いないですね。

 

よりよい床屋政談のために〜2021年衆院選のためのブックガイド〜

 岸田内閣が成立し、衆議院の総選挙が10月31日に決まりました。政治好きとしては「総選挙」と聞くだけでなんとなく盛り上がってしまうのですが、ここ数回の国政選挙に関してはその結果に不満を持っている野党支持者、あるいは無党派の人も少なくないと思います。

 「なぜ自民が勝ってしまうのか?」、「毎回野党に勝ち目がなさそうなのはなぜなのか?」と思う人もいるでしょうが、その理由を何冊かの本と考えてみたいというのがこのエントリーの狙いです。

 

 まず、出発点となるのは谷口将紀現代日本の代表制民主政治』(東京大学出版会)の2pに載っているこのグラフです。

 

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 グラフのちょうど真ん中の山が有権者の左右イデオロギーの分布、少し右にある山が衆議院議員の分布、そしてその頂点より右に引かれた縦の点線が安倍首相のイデオロギー的な位置です。

 有権者イデオロギーよりも、衆議院議員イデオロギーが右側にずれており、さらに安倍元首相はかなり右寄りだったことがわかります。

 このように有権者の考えと安倍元首相の間にはかなりのズレがあったはずなのですが、それでも安倍政権は選挙に勝ち続けました。

 

 本書はここ20年ほどの日本政治を「東京大学谷口研究室・朝日新聞社共同調査」をもとに分析したもので、近年の政治を考えるための材料が詰まった本です。近年の自民党の変化、派閥の問題、民主党の立ち位置の難しさなど、本当にさまざまなことが見えてきます。

 税抜5800円という価格がネックすぎるのですが、とりあえず、本書に載っている先ほど紹介したグラフが日本の政治を考える上での1つの出発点となるでしょう。

 

 

 

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 次に、「自民一強」などと言いますが、これはやや不正確で、近年の自民党政権はずっと自公連立であり、公明党あっての自民党でもあります。

 ですから、与党が強い理由としては公明党というファクターも見逃せないのですが、これを説明してくれるのが中北浩爾『自公政権とは何か』(ちくま新書)です。

 

 政策距離からいうと自民と公明は決して近くはなく、むしろ民主(民進)と公明のほうが近いくらいです(2016年までの「東京大学谷口研究室・朝日新聞社共同調査」をもとにしたデータ)。

 また、1999年以来、公明党が獲得してきた閣僚ポストは常に1で、閣僚に占める割合は5%ほどですが、議席では11〜15%ほどを占めており、本来ならば2か3の閣僚ポストを獲得してもおかしくはないはずです。

 つまり、一見すると自公連立は公明党に大きなメリットがないようにも思われるのです。

 

 しかし、本書では長年の選挙協力がこの関係を支えているといいます。

 この選挙協力で思い浮かべるのは自民党小選挙区の候補者による「比例は公明」の呼びかけかもしれませんが、意外に大きいのが公明党小選挙区選出議員の存在です。

 彼らは小選挙区で勝ち上がるために自民の基盤である地元の自治会や老人会などにも食い込まねばならず、自民の連携は必須です。

 この長年の選挙における補完関係が自公連立を支え、これによって与党は選挙で勝ち続けているのです(著者は2017年の衆議院議員小選挙区において、公明党の協力がなければ自民は44〜62議席を落とした可能性があると推計している)。

 

 

 

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 与党の強さを認識したところで次に問題になるのが野党の弱さです。特に民主党とその後継政党は一時期は政権交代を成し遂げながらも、二大政党の一角とは言えない状態に凋落してしまいました。

 その理由としてはもちろん「民主党政権の失敗」という要素もありますが、それとともに大きいのが二大政党制の成立を難しくしている構造です。

 具体的に言えば、キメラのように複雑化した参議院選挙制度と、相変わらず大(中)選挙区制で行われている地方議会の選挙が二大政党制の確立を阻んでいるのです。

 このことについて、特に地方議会の選挙の問題を指摘したのが、砂原庸介『分裂と統合の日本政治』(千倉書房)です。

 

 自民党は特に地方におけるクライエンタリズム(恩顧主義)によって安定した地盤を築きました。有権者が政治家を支持する代わりに政治家は公共事業による利益誘導などを行うというしくみは日本の政治の一つのスタイルとなり、地方議員や首長も巻き込む形で中央政府からさまざまな利益を引き出すことが目指されたのです。

 しかし、このクライエンタリズムも90年代になるとバブルの崩壊やグローバル化などによって行き詰まり、政治の新たなスタイルが模索されます。衆議院小選挙区比例代表制が導入されて制作中心の選挙が目指され、自民党においてもクライエンタリズムを否定する小泉政権が登場しました。

 そして、クライエンタリズムではなくマニフェストというプログラムを掲げた民主党が2009年に政権交代を果たします。

  

 ところが、国政選挙においては自民党を圧倒したこともあった民主党でしたが、地方政治においてはそうはいきませんでした。地方選挙では引きつづき中選挙区制が行われ、政党ラベルよりも選挙区内での個別的な利益への志向が重視されました。これはプログラムを掲げて戦う民主党には不利です。
 また、地方分権によって力を持つことになった改革派の知事や市長が二元代表制のもとで自民党とも関係を深めていったことも民主党には不利にはたらきましたし、さらに改革派の知事や市長による新党結成の動き(例えば、大阪維新の会減税日本など)は、民主党から「改革」のラベルを奪うことになりました。

 こうして民主党は「地方」という足腰が弱い状態で選挙を戦わざるを得ず、逆風と分裂によってその力を弱めていきました。

 現在の地方議会の選挙制度がつづく限り、自民党に対抗する野党第一党は「風」次第ということが予想されるのです。

 

 

 

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 冒頭の谷口将紀現代日本の代表制民主政治』の紹介で、有権者が右傾化しているわけではないということを述べましたが、「若者の保守化」ついではどうでしょうか?

 実際、国政選挙において20代の若者における自民党の得票率は高く、「若者の保守化」が自民党の強さを支えているようにも見えます。

 

 この問題について答えを示してくれているのが、遠藤晶久/ウィリー・ジョウ『イデオロギーと日本政治』(新泉社)です。

 この本は、若者が維新を「革新」、共産を「保守」と位置づけていることを示したものとして有名ですが、この部分以外にも「若者の保守化」を扱った第8章の議論が非常に面白いです。

 

 まず世界価値観調査をもとに国際比較を行うと、日本の若者は特に右傾化しておらず、2010年代の若者(30代以下)の右派は10.8%と1990年代の10.3%とほとんど変わりません。一方、左派の割合を見ると、予想に反して日本の若者の左派の割合は1990年代の10.3%から2010年代の17.0%へと大きく上昇しています。むしろ若者は左傾化しているのです。

 

 しかし、実は自民党は左派からも票を得ています。日本の若者の中の右派は当然ながら自民に投票するわけですが、左派の3割ほども自民に投票すると答えており、その割合は民主党とほぼ拮抗していることです(2010年と2014年のデータが使用されている)。

 さらに日本の右派の17.5%が支持する政党がないと答えているのに対して、穏健左派では42.7%、左派では50%が支持する政党がないと答えています(224p)。つまり一般的に「左派」と考えられている政党が左派の若者の支持を集めることができていないのです。

 

 若者の選択肢は「自民か野党か」ではなく、「自民か無党派か」であり、投票行動も「自民か野党か」ではなく「自民か棄権か」になっていると考えられます。そして、これが出口調査で若者の自民の得票率が高く出て、「若者の保守化」が進んでいるように見えるからくりなのです。

 

 

 

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 ここまでけっこう難しい問題を扱っている本をとり上げており、なおかつ、それは簡単には解消できない問題でもあるので、最後にもう少し広い形で現在の日本の政治の問題にアプローチしている大山礼子『政治を再建する、いくつかの方法』(日本経済新聞出版社)を紹介します。

 現在の日本の民主政治の行き詰まりに対して、それを一新するラディカルなアイディアを出すのではなく、「まだまだ今の制度の中でも直せるところはたくさんありますよ」と多岐にわたって提言している本です。

 

 第2章の国会審議の話は著者の専門とするところでもあり面白いのですが、選挙関連の話は第3章と第4章で行われています。

 ここでは、世襲議員の多さ、女性議員の少なさなど議員の多様性のなさが指摘されていますが、その要因の1つが現職に有利なさまざまな制度です。

 戸別訪問の禁止をはじめ、日本の公職選挙法は多くの選挙運動を規制しており、著者に言わせると「公職選挙法は「べからず法」あるいは「べからず集」などとよばれるほどだが、実際に規定を読むとけっして「べからず集」ではないことがわかる。逆にすべての選挙運動を禁止したうえで、例外的に許されるものを列挙している」(115p)ものです。

 また、選挙運動期間が短いのも日本の特徴で、当初は国会議員、知事、都道県議会議員の選挙運動期間が30日、その他が20日だったにもかかわらず、現在は衆議院議員12日、参議院議員と知事が17日、都道府県と政令都市の議員が9日、一般市と特別区が7日、町村は5日となっています(119p)。

 選挙に細かい規制が多ければ多いほど、また、選挙期間が短かれば短いほど、新人が有権者にその存在を知ってもらうのは難しく、結果として現職有利になるのです。

 

 

 

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 日本は二院制で、衆議院選挙の結果だけで政治がすべて変わるわけでもないですし、砂原庸介『分裂と統合の日本政治』を読む限り、むしろ地方選挙での足腰こそが重要だったりもするわけですが、それでも衆議院選挙は日本でもっとも影響力のある選挙です。

 ここで紹介した本が、今回の衆議院選挙を考える上で参考になれば幸いです。

 

『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』

 見るちょっと前に上映時間が163分という情報を知って「そんなに長いの?」と思いましたが、見終わってみれば全然飽きずに見れました。

 監督のキャリー・ジョージ・フクナガは初めて聞く名前でしたが、前作までのサム・メンデスのトーンをよく引き継いでいて、冒頭の氷の湖のシーンを含めて非常にきれいな画が撮れていたと思います。

 ストーリーとしても、その冒頭のサイコホラー的なきれいな雪と氷のシーンから、イタリアでの007シリーズならではの派手なカーチェイスキューバで登場するアナ・デ・アルマス演じるパロマのきれいさ、新しい007(ラシャーナ・リンチ演じる黒人女性)の登場など、飽きさせないです。

 

 前作の『スペクター』と同じく、最後の敵のあり方にはやや苦しいものがあるのですが(前作からつながっている話で、スペクターも出てくるので仕方がない)、最後の舞台が北方領土ど思しき島に設定されていることもあって、日本人であればその無理を含めて楽しめる部分はあるかと思います。

 

 ストーリーとしては、今まで常に孤独だったボンドにしがらみができるというのが本作の特徴で、ショーン・コネリーロジャー・ムーアに比べて、格段にシリアスなトーンで描かれているダニエル・クレイグのボンドの最後にふさわしい作品と言えるのかもしれません。

 

 この手のアクション大作を見たのは去年の『TENET テネット』以来で、そういった意味でも久々の「大作」で良かったですね。

 

ジェフリー・ヘニグ『アメリカ教育例外主義の終焉』

 タイトルからはなかなか内容が見えてこない本で、かなりマニアック内容ではないかと想像させますが、意外に日本の教育をめぐる政治を考える時に役に立つ本です。

 

 アメリカでは、教育は伝統的に学区によって運営されてきました。学区は公選の教育委員会などによって運営されますが、基本的には教育行政の専門家や教員組合などの影響力が強いです。

 このためアメリカの教育は通常の政治とはかなりちがった形で運営されてきました。教育は学区という単一目的政府のもとにあり、連邦政府、州、市といった一般目的政府の影響力は限られてきたのです。

 これがタイトルにある「アメリカ教育例外主義」というものです。

 

 しかし、近年になってそれは変わりつつあります。市長、州知事、そして大統領までが熱心に教育改革を口にするようになり、実際に教育の姿を変えています。

 なぜ、どのように教育例外主義に変化し、終わりを告げたのかというのが本書のテーマになります。

 ちょっとイメージがしにくいテーマかもしれませんが、冒頭に政治学者による待鳥聡史による本書の紹介があり、問題意識はつかみやすいでしょう。

 また、監訳者は今年出た新書の『文部科学省』中公新書)が面白かった青木栄一であり、充実した訳注がついているなど、日本の読者にもわかりやすい工夫がしてあります。

 

 目次は以下の通り。

日本語版への序文
多面的な教育政策を多角的に考えるために―政治学の観点から―(待鳥聡史)
第1章 教育と単一目的ガバナンス
第2章 新しい教育首長
第3章 議会と裁判所の役割拡大
第4章 変容するアクター・イシュー・アイデア
第5章 教育例外主義の終焉―将来にむけた含意

 

 アメリカにおいて教育は基本的に地方の事務であり、その中でも学区という非常に小さい単位でその運営が行われていました。

 ところが、1960〜70年代になると、まずは南部の州知事たちが経済発展の手段としての教育に着目しはじめ、これが全国の知事へと広がっていくのです。

 さらに大統領選挙でも教育が重要な争点になっていきます。そして、2002年にブッシュ(子)大統領によって署名された「落ちこぼれ防止教育法」は教育における連邦政府の役割を急拡大させました。

 

 また、この教育改革では、公共部門から民間部門へと流れもあります。アメリカではバウチャーやチャータースクールなどが改革の焦点となりました。

 もともとアメリカの教育は、家庭や宗教団体から教育の権限を奪ってきたという側面もあり、そのことに対する反発が底流のようなものとしてあるのですが、80年代半ば以降になると、この底流が表に出てくることになります。

 

 本書のいうアメリカの単一目的政府には学校以外にも、病院、交通、住宅・地域開発などさまざまなものがありますが、職員数でいうと初等中等教育の学区が圧倒的に多く、こうした大きな部門が州知事や州議会、市長、市議会の監督外にあるということも問題とされるようになってきています。

 一方、単一目的政府を置く理由としては、「教育から「政治は除外されるべきである」という信念」(19p)がありました。

 

 この単一目的政府から一般目的政府へという流れの背景について、著者は次のようにまとめています。

 アメリカの教育例外主義の終焉が意味するものは、教育に関する提言も他の国内政策と協調すべきであるという圧力が強まっているということ、専門的知識を主張する教員に対する敬意が低下していること、教育の擁護者と他の政策アクターの間で競争が強まっていること、そして、就学年齢の児童生徒がいない人々や「どのくらいコストがかかるのか」「それが本当に主張されているとおりに機能するのかどうやってわかるのか」といったことを気ぜわしく訊ねてくる人々に訴えかけて味方につける必要があるということである。(35p)

 

 第2章では教育の分野に介入してきた首長について、その歴史をたどっています。

 まず、初期の段階で教育に介入してきたのが70年代の南部の州知事たちです。それは例えば、ラーマー・アレクサンダー(共和党テネシー州、1979年就任)、ビル・クリントン民主党アーカンソー州、1979年就任)などです。

 知事たちは、教育政策を積極的に語るとともに州教育委員会に対する任命権限を強めるなどして教育への介入を強めました。

 

 遅れて「教育大統領」が現れます。レーガン政権期にアメリカの教育の危機を訴えた『危機に立つ国家』が発表されたことによって、教育における連邦政府の役割に中おm句が集まるようになり、ブッシュ(父)大統領は、1989年に「教育サミット」のために知事を集めるなど、教育について熱心に語りました。

 ビル・クリントン州知事のところでも名前が出たように教育について多くを語りましたし、ブッシュ(子)大統領は「落ちこぼれ防止教育法」を制定しました。

 

 市長も教育に介入し始めます。ボストン、シカゴ、ニューヨークといった市で教育に対する市長の権限が強化されました。

 特に、2002年からのニューヨークのブルームバーグ市政では、教育局長と13人いる市の教育委員のうち8人を市長が任命できるようにするなど、市長の権限を大幅に引き上げる改革が行われました。

 

 こうしたことの背景には、政治家のリーダーシップだけではなく、教育委員会と教育官僚制への反感がありましたし、また、バウチャーやチャータースクールなどの新しいアイディアを持った人々にとって、それを実現する可能性は教育委員会や教育官僚制よりも公選首長に見いだされたということがありました。

 さらに南部で教育に関与しようとする知事があらわれた理由として、南部では人種問題から学校をめぐる問題が政治化していたということもあります。

 

 第3章では議会と裁判所の教育分野における役割の拡大が述べられています。

 まず裁判所ですが、ここでも人種問題が1つのきっかけとなっています。有名なものは人種によって通う学校を区別する「分離すれども平等」という考えは違憲である結論づけた1954年のブラウン判決ですが、ここから裁判所が学区の自治に介入していくことになりました。

 また、ここでは割愛しますが、議会もまた、首長に呼応する形、あるいは首長に抵抗する形で教育への介入を増やしていったのです。

 

 第4章の冒頭では、2011年にオバマ大統領が主宰した教育円卓会議に、コリン・パウエル国務長官や企業経営者などが呼ばれる一方で、教員や教員組合の代表者、教育委員会の委員、大学人が呼ばれなかったことが紹介されています。

 日本でもそうですが、かつて教育について論じていたのは教育の専門家や教員の代表などでしたが、それがすっかりと様変わりしているのです。

 アメリカでは教育に関するアドボカシー団体(政策提言団体)が次々とつくられており、さまざまなアクターが教育というアリーナに参加するようになっています。

 

 アメリカで近年において関心が高まっているのは「卓越性」についてです。今までの教育の専門家や教員は過度に「水平化」にこだわっており、それを新しいアクターが批判し、乗り越えようという構図です。

 160pの図4.2では、「委員会類型別にみた政策課題」として連邦議会の教育関係の委員会と代替的な委員会でどのようなイシューがとり上げられたかが比較されていますが、教育関係の委員会が「貧困」を問題にしているのに対して、代替的な委員会がとり上げるのは「卓越性」となっています。

 

 アメリカの教育を大きく変えるきっかけとなったのがチャータースクールの誕生です。

 1991年にミネソタ州で初めてチャータースクール法が成立し、2011年までに8州を除いてチャータースクール法が制定されています。

 チャータースクールは、新しい政策に対して基本的に敵対的であると考えられる学区を出し抜くことができる制度で、特に共和党知事のもとで広がっていきました。

 チャータースクールの特徴は柔軟性とアウトカムに対するアカウンタビリティで、このアウトカムの測定のためにテスト産業も発展してくことになります。こうした利益も関係するようになると、チャータースクールに関するロビイングも活発になりました。

 

 今まで教育をめぐるアクターは地域限定的でしたが、そこにテスト業者や出版社、あるいはマッキンゼーなどのコンサルタント、ビル&メリンダ・ゲイツ財団などの全国レベルの財団、さまざまなアドボカシー団体が絡んでくるようになったのです。

 そして、資金も今までの学区ではなく、チャータースクールなどの新しい学校にながれこむようになっています。

 

 このように書いていくと、著者は「教育例外主義の終焉」を嘆いているようにも思えるのですが、第5章では著者はこの現象に対して一定の評価しています。

 アメリカの公教育は政治から距離をとり、できるだけローカルなまとまりを維持しようとしましたが、「小さなコミュニティというのは同質化しやすいか、支配的多数派をつくって紛争を沈静化させている可能性が高い」(202p)です。

 

 それでも、著者は教育により柔軟なアイディアが持ち込まれ、学校以外の要因にも注意を払うさまざまなアクターが教育に関わることを歓迎しています。

 確かに専門性の低下や政治の場で不利に扱われている低所得者層やマイノリティが教育の場でも不利に扱われる可能性はあります。また、将来、教育への人々の関心が低下してしまうことも考えられます。

 それでも、教育の場に新しいアイデアエビデンスが持ち込まれ、より包括的なアプローチが可能になるかもしれないのです。

 

 このように本書はあくまでもアメリカの特殊な教育制度とその変化を論じた本ですが、本書で指摘されている首長の教育への介入は日本でも見られることですし、また、教育に対して教育の専門家以外のアクターが発言力を持つようになっている点も同じです。

 そういった意味で日本の教育、教育行政に対してもさまざまな示唆を含んだ本と言えるでしょう。