『TENET テネット』

 クリストファー・ノーランの新作は時間の逆行というアイディアを取り入れたSFもの。映画の中にありえない世界を作り上げるという点では『インセプション』に似ていますが、やろうとしていることはさらにややこしいです。

 緻密なんだか大ボラなんだにわかには判別できない世界を作り上げ、それを『ボーン』シリーズ並みのアクションで、常に緊迫感を与え続けることでそれを押し通すのがノーランの力技ですね。

 以下、多少のネタバレありです(個人的にはあんまりにもややこしい映画なのでそんなにネタバレは気にならないのではないかと思う)。

 

 ジョン・デヴィッド・ワシントン演じる主人公は、CIAのスパイでキエフでのオペラ劇場襲撃テロの現場で逆行する銃弾に生命を救われますが、敵に捕まって拷問を受け薬物で自殺を図ります。

 ところが、それは睡眠薬で、救助された主人公は、謎の組織から第3次世界大戦を防ぐという任務を与えられます。どうやら未来から時間を逆行することのできる兵器のようなものがこの現代に送り込まれてきたらしいのです。

 主人公はニールという男の助けを得ながらも、基本的には単独で秘密を知ると思われるロシア出身の武器商人セイターとその妻のキャサリンに接近します。

 

 ここまでずっと主人公を書いてきましたが、この主人公には名前がないのですよね。映画を見ている途中で、「そういえば名前は?」と思って、帰ってからネットで確認したら名前は最初から設定されていないようです。

 基本、この映画の中で主人公がどんな男なのかということはよくわかりません。とにかく身体能力が抜群に良いということは見ていればわかるのですが(ジョン・デヴィッド・ワシントンはプロのアメフト選手だったとのこと)、性格もバックボーンもよくわからない男がひたすら危機を切り抜けるという展開は『ボーン』シリーズのジェイソン・ボーンを思い起こさせます。

 

 ただ、『ボーン』シリーズと大きく違うのは時間の逆行です。この映画では時間を遡行するだけではなく、時間を逆行する物体や人間が登場します。一方にしか流れない時間の矢を逆行するものが画面上に登場するのです。

 時間の逆行自体はSFでよくあるアイディアですが、それを実際に見せるのは大変です。時間の逆行を描いた小説としてはジョー・ホールドマン『ヘミングウェイごっこ』での描写が圧巻だと思いますが、この映画では時間を未来から過去に向かって動く人間が描かれるだけでなく、過去→未来と未来→過去の流れを1つの画面で見せるという意味不明な荒業を試みています。

 本当にあんなふうに見えるのかはまったくもって謎なのですが、それを押し通すのがノーランの凄さ。とにかく「すごいものを見た」という気にさせます。

 そして、見終わった後に、「あのシーンをもう1度!」となる映画ですね。面白いです。

 

morningrain.hatenablog.com

駒村圭吾・待鳥聡史編『統治のデザイン』

 憲法というと、どうしても日本では9条と人権をめぐる条項に注目が集まりがちですが、国会、内閣、裁判所、地方自治といった日本の統治のしくみを決めているのも憲法です。

 ケネス・盛・マッケルウェインは日本国憲法が他国の憲法に比べて条文数も文字数も少なく、規律密度が低いことを明らかにしましたが、そのせいもあって、90年代以降の、選挙制度改革、省庁再編、司法改革などは、憲法改正を行わずに可能になりました。

 しかし、参議院改革などを行おうとすれば憲法の規定が問題になります。ある意味で、憲法に具体的な規定のあるぶんが改革されずに残ったという面もあるのです。

 

 そんな憲法をめぐる問題に対して、政治学者と憲法学者が挑んだのが本書になります。構成としては、まずは政治学者が憲法の規定にとらわれずに各分野の改革について分析した後、それへのリプライという形で憲法学者憲法上の位置づけや課題を論じる形になっています。

 

 目次は以下の通りですが、執筆陣もなかなか豪華です。

はじめに(待鳥聡史)
第1章 安全保障
 Ⅰ 「事態」主義の効用と限界(楠 綾子)
 Ⅱ 安全保障のデザイン——憲法の視点(富井幸雄)
第2章 代表
 Ⅰ 選挙制度と統治のデザイン——政治学の視点から(大村華子)
 Ⅱ 選挙制度と統治のデザイン——憲法学の視点から(吉川智志)
第3章 議会
 Ⅰ 国会に関する改憲論と実態論(松浦淳介)
 Ⅱ 両院制にとどまらない国会の憲法問題(村西良太)
第4章 内閣
 Ⅰ 日本の議院内閣制の変容の方向性——権力分立論再考(竹中治堅)
 Ⅱ 議院内閣制の改革と憲法論(横大道聡)
第5章 司法
 Ⅰ 司法を政治学する(浅羽祐樹)
 Ⅱ 最高裁判所の二重機能の問題性(櫻井智章)
第6章 財政
 Ⅰ 財政政策と制度改革(上川龍之進)
 Ⅱ 統治システムとしての財政とその憲法的デザイン(片桐直人)
第7章 地方自治
 Ⅰ 入れ子の基幹的政治制度——中央地方関係と地方政治(砂原庸介
 Ⅱ 憲法学からみた地方自治保障の可能性(芦田 淳)
おわりに(駒村圭吾

 

 第1章では安全保障が扱われていますが、本のタイトル通り「統治」という視点から問題が分析されているのが本章の特徴です。

 安全保障というと自衛隊の位置づけや集団的自衛権の行使、PKO多国籍軍への参加などが論点になりやすいですが、本章の楠綾子のパートでは、自衛隊に対する司法からの制約の可能性、自衛隊に対して国会がどの程度統制に関わるべきか、軍法会議の設置など、統治の観点からいくつかの問題が提起されています。

 これに対して富井幸雄で検討が加えられているのですが、9条の改正の必要性に関して、自衛権の明記は自衛権国際法で規定されているものだから憲法に書き込むのはなじまない、自衛隊の明記に関しては「自衛隊は合憲・適法に存在し、国民に定着しているから、あえてこうした改憲をする必要をみない」(45p)と述べるところが、いかにも憲法学者だなと思いました。

 

 第2章は「代表」と題し、選挙制度が論じられています。

 日本国憲法は43条の1項で「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と述べていますが、具体的な選挙制度に関してはほぼ法律に任せています。中選挙区制から小選挙区比例代表並立制への転換のような大きな変化も憲法改正無しで可能なわけです。

 そこで、今まで選挙と憲法をめぐる問題というともっぱら「一票の格差」の問題に集中していきました。この問題については何度も訴訟が起こされ、衆議院では格差は2倍未満に縮まってきました。

 これに対して、大村華子パートでは「平等」だけでなく、「代表」の内実を問うような議論があるべきではないかという考えが紹介されています。現在の状況を見ると、「憲法には選挙制度に対して、投票価値の平等を保障しその実現を追求させる力がある一方で、応答の平等を保障し、政治家に利益分配の平等を実現させるだけのプレッシャーはもち得ていないのではないか、というコントラストが見えてくる」(80−81p)と述べています。

 この代表性における「応答」の問題を考えるときに、ポイントになるのが政党であり、この政党に関して日本国憲法は何も述べていません。

 

 吉川智志のパートでは、まず、選挙制度に対する憲法学者の見方(例えば小選挙区制は死票が多いから違憲、15条を考えれば小選挙区が要請されるといった少数意見もあるそうです(93p注4))が紹介されています。

 さらに、参議院の独自性と「一票の格差」問題の衝突という問題がとり上げられ、「一票の格差」が優勢になりつつあることが指摘されています。このあたりは憲法参議院の性格が書き込まれていないということが大きいのでしょう。

 

 第3章の「議会」でも中心的にとり上げられているのは参議院のあり方です。

 松浦淳介のパートでは、なぜ二院制なのか? という問題が検討されています。参議院は以前から衆議院の「カーボンコピー」になっていると批判されています。確かに現在では選挙制度も似てきており(参議院の一人区であれば、小選挙区比例代表という点で衆議院と同じ)、議員の顔ぶれを見ても違いは感じられないかもしれません。ただし、女性議員の割合に関しては一貫して参議院衆議院を上回っており、参議院のほうが多様性が高いと言えます。

 また、参議院に関しては実質的に法律の拒否権を持っており、その権限が強すぎるという議論もあります。前章の選挙の議論と絡めれば、参議院に「一票の格差」から外れる選挙制度(例えば完全に都道府県の代表にする)を導入するのであれば、参議院の権限を弱めることが必要になるでしょう。

 他にも、内閣が国会の審議の介入できない状況が国会審議の形骸化をもたらしているという問題なども指摘されています。

 

 村西良太による応答では、まず日本の議院内閣制が権力分立型なのか、権力融合型なのかということが検討され、憲法学の観点から権力融合型と見ることの問題点が指摘されています。

 また、参議院の拒否権についても、参議院は内閣の進退を左右する地位から外されており、参議院が立法においても補助的な立場にとどまるべきだという説が紹介されています。

 

 第4章の「内閣」では、竹中治堅が日本の議院内閣制は「権力融合型」であると言い切って議論を行っています。

 日本の議院内閣制は90年代から行われた選挙制度改革、省庁再編などによってより首相に権力が集中する形になりました。議院内閣制の中でもイギリス流のウェストミンスター型に近づいたと言えるでしょう。

 その上で著者は内閣が国会の審議にもっと関与できるようにすべきだと主張します。日程面への関与や副大臣大臣政務官が委員会理事を兼務することで、法案審議に内閣が関わるようにすべきだというのです。

 これに対しては三権分立の立場からの批判が予想されますが、著者はバジョットなどを引きながら、日本の議院内閣制を三権分立で捉えることは難しいとして、こうした批判を退けています。

 

 横大道聡のリプライでは、これに真っ向から批判すると言うよりは、権力分立といってもさまざまな形態があり、国会の審議に対する内閣の関与も権力分立の観点の中から考えられるという主張を行っています。

 

 第5章の「司法」では、浅羽祐樹(韓国政治の専門家として知られていると思いますがここでは「政治の司法化」を研究する立場から日本の司法について論じています)が問題提起を行っていますが、最初に提起されるのは2013年8月に内閣法制長官から最高裁判事に転出した山本庸幸が「栄転」ではなく「左遷」とみなされたのはなぜかという問題です。

 司法のトップにいる15人の最高裁判事は非常に重要な役職なはずですが、日本ではあまり注目されていませんし、そもそも選ばれ方もあまり意識されていません。アメリカの連邦最高裁判事の人事が党派的な争いの場になるのとは対照的です。

 アメリカでは、自陣営に有利な構成狙って若い判事を任命して影響の長期化を狙いますが、日本では自民党政権が長かったこともあり最高裁判事は完全に「上がり」のポストとなっていますし、細川・羽田内閣や民主党政権でも特に若い判事を任命しようとした動きはありません(著者は社会党が与党のときに憲法学者土井たか子最高裁判事に送りんでいたら…という話を出している(247p))。

 

 日本の政権交代の少なさは違憲審査にも影響を与えていると考えられます。長期政権の場合、裁判所は政治部門からの報復を恐れて謙抑的になると考えれますし、政権交代がたびたび起こるのであれば是々非々で望むでしょう。

 韓国ではこうした状況の下、違憲判決が増えていますが、こうなると司法が「国のかたち」を最終決定するような状況も生まれてきます。「政治の司法化」と「司法の政治化」が同時進行するのです。

 

 櫻井智章のリプライでは、最高裁判所の二重機能、すなわち終審裁判所と違憲審査機関としての機能が中心的に論じられています。

 政治的に注目されるのは違憲審査ですが、最高裁が軸足を置いてきたのは終審裁判所の機能でした。ドイツでは終審裁判所とは別に憲法裁判所を設けており、しかも300人を超える裁判官が事件を処理しています。一方、日本の最高裁判事はわずか15人であり、この人数であらゆるタイプの事件を取り扱っています。これはやはり過剰な負担と言えるでしょう。

 この負担の解消策としては、アメリカ連邦最高裁のように上告の可否を完全に最高裁に委ねる、上級審違憲審査機関を切り離すといった方策が考えられますが、新たな違憲審査機関をつくるとなると憲法改正が必要です。

 

 一方、最高裁の人事に関して現在のところ一定の慣行に従っており、党派的な人事が行われているとは言えませんが、あくまでも慣行であり制度的な裏付けがあるわけではありません。

 また、最高裁判事が「上がり」のポストになることで判事の年齢は高齢化しており、これが年齢構成の多様性を失わせているとも言えます。

 あと、違憲審査に謙抑的な理由として、最高裁の判事が必ずしも憲法問題の専門家ではないという点があげられていて、これは興味深い視点だと思いました。

  

 第6章は「財政」。実は財政に関して、特に財政健全化みたいな話を憲法に盛り込むのは大反対で、その手の議論に対しては「財政赤字になって25条の保障する「最低限度の生活」が保障できなくなったら、財政条項を理由に25条を諦めるのか?」と常々思っていました。

 というわけで、憲法に「財政」を盛り込むことに関してはまったく興味がなかったのですが、上川龍之進が最後に「しかしながら、財政政策が対象とするマクロ経済の動向は不安定であり、硬直的な法的ルールで政策運営を円滑に行うことは困難である。財政健全化については、安易な立憲主義的ないし法律主義的な解決は望めず、究極的には世論の良識に期待せざるを得ないのである」(306−307p)と書いていることには安心しました。

 片桐直人のリプライでは25条の問題にも簡単に触れており、また、こちらも憲法で財政を縛ることには否定的です。

 

 第7章は「地方自治」。日本国憲法における地方自治に関する規定は非常に少なく、しかも内容も曖昧で法律任せになっているところが特徴です(いつも「地方自治の本旨」は「団体自治」と「住民自治」のことだと教えながら、これって誰が決めたんだろう? と思っていました)。

 砂原庸介のパートでは、まず、この「地方自治の本旨」が法律を判断するときの根拠としては使いにくいことを指摘し、さらに現在の憲法だと「道州制」や新たな大都市制度なども憲法改正を経ずにできてしまうことを指摘しています。

 地方自治体内の政治に関しては、憲法は議会を設置することを求めていますが、地方自治法の94条では特例として住民総会を設置することを認めています。また、憲法95条では地方自治特別法制定時の住民投票を規定していますが、現在各地で行われている住民投票は各自治体が条例に基づいて独自に行なっているものが基本です。

 

 地方自治制度は二元代表制をとっていますが、地方議会は多くが大選挙区の単記非移譲式投票(SNTV)であり、責任のある政党が生まれにくい構造になっています。

 政党は地方と国の調整に関しても重要な役割を果たす可能性を持っていますが、ここでも地方で議員の正当化がなされにくいという構造がネックになっています。

 

 芦田淳のリプライでは、「地方自治の本旨」についての憲法学からの理解の仕方が提示されるとともに、さまざまな問題が憲法の観点から検討されています。個人的には、憲法地方公共団体の二層制を要請しているかという問題を興味深く感じました。言われてみれば歴史的に二層制が続いているとしても、憲法には何も書いていないですよね。

 

 このように本書は憲法を軸に日本の政治のさまざまな問題を論じています。政治学者と憲法学者の見方・考え方の違いというものも面白いですし、また、本書を読むと、日本国憲法の規律密度が低いこともあって、多くの改革が憲法改正なしに可能であることもわかります(憲法改正がどうしても必要なのはやはり参議院改革か)。

 日本政治は、長らく「護憲/改憲」という軸で語られてきましたが、「憲法を変えなくても大きな改革ができる」という日本国憲法の特徴を見据えながら政治を考えていくべきだということを、本書を読んで感じました。

  

ファトス・コンゴリ『敗残者』

 松籟社<東欧の想像力>シリーズの最新刊。今回はアルバニアの最重要作家とされるファトス・コンゴリのデビュー作になります。

 この小説は主人公のセサルが、1991年にアルバニアからイタリアへと脱出する船に乗りながら、土壇場で船降りて故郷に戻ってしまう場面から始まります。

 90年代前半にテレビのニュースを見ていた人は、アルバニア人が船に乗ってアドリア海の対岸のイタリアへと渡る映像を見た記憶があるかもしれませんが、まさにその光景です。

 その91年の時点から過去を振り返る形で小説は進んでいきます。校長のヂョダに殴られた主人公のセサルは復讐を決意し、ヂョダの娘のヴィルマの飼っていた犬を毒殺する計画を立てます。

 

 のっけから暗い感じする小説ですが、この暗い感じは小説の終わりまで変わりません。

 アルバニアというと、スターリン批判以降ソ連と距離をとり社会主義国の中でも孤立し、ほとんど鎖国状態だったことや、社会主義体制が崩壊した後はねずみ講が流行してそれが破綻して大きなダメージを受けたとか、あまり明るいイメージがないのですが、この小説にも明るさはありません。

 主人公は大学で党の幹部の息子のラディと知り合って友情を結び、さらにその従姉妹のソニャとのロマンスに落ちます。このあたりは高揚感がある展開ではあるのですが、全体のトーンはやはり陰鬱です。

 

 タイトルの「敗残者」は主人公を指していますが、主人公は戦って敗れたというよりは、本書の帯にあるように「戦うこともできずに、敗れた男」です。

 本人にもわからないような出自や、よくわからないコネと、よくわからない権力闘争の影響で人生が変わっていく状況であり、その匿名的で、それでいて精巧でもなんでもないシステムと戦うことは困難であり、結局は不合理なシステムの中で流されていくしかありません。

 しかもシステムと言ってもゆるゆるであり、権力が隅々までを統制できていないので、街には酒と暴力が蔓延しているというこれまた陰鬱な状況です。

 そして、その陰鬱さを最初から最後まで描ききったのがこの小説の売りなのだと思います。

 正直なところ、アルバニアに関しては上記のニュースと、『死者の軍隊の将軍』のイスマイル・カダレくらいしか思い浮かばないのですが(これも陰鬱な小説だった)、社会主義下のアルバニアについてのイメージをもたせてくる小説ですね。

 

 

Yves Tumor / Heaven To A Tortured Mind

 一昨年に出たアルバム「Safe In The Hands Of Love」がなかなか面白かったイヴ・トゥモアのニューアルバム。

 より複雑なことをやってやろうというアーティストが目立たなくなったような気がするこのごろですが、このYves Tumorはひたすら複雑で変態的なことをやろうとしています。ただし、前作の感想を書いたときに「変態の中のポップ」と書いたように、ノイズやわざと気持ち悪さを加味したような声で歌っていてもその奥にはきれいなメロディの片鱗を感じさせるのがこのYves Tumorの面白いところ。

 2曲目の"Medicine Burn"なんかもゲロ吐くような感じで歌っていますけど、どこかしら聴きやすさがありますし、女性ボーカルを入れた4曲目の"Kerosene!"なんかでは明らかにギターに綺麗さが出ています。6曲目の"Romanticist"も短い曲ながら、ポップセンスを感じさせるメロディで、このアルバムの後半では変態的な部分は後退し、オシャレと言えるような展開も見せています。

 ただ、前作に比べて変態性が薄れたぶん、アルバム全体の印象もやや薄れてしまった感はあります。難しいですね。

 


Yves Tumor - Romanticist / Dream Palette (Official Audio)

 

 

藤田覚『日本の開国と多摩』

 『勘定奉行の江戸時代』ちくま新書)など、江戸時代の政治史を中心に数々の著作を発表してきた著者が開国が東京の多摩地域に与えた影響をまとめた本。「あとがき」によると、八王子市の市史編纂事業に関わるようになったことがきっかけで本書をまとめたとのことです。

 吉川弘文館の「歴史文化ライブラリー」の1冊で比較的コンパクトな本ですが、開国が多摩の人々の生活や経済にどのような影響を与えたのかが分かりますし、当時の村の様子も見えてきて興味深いです。

 もちろん、多摩地域に住んでいる人におすすめですが、生糸関係を中心に埼玉や群馬への言及もあり、開国が日本の養蚕に与えた影響なども知ることができます。

 

 目次は以下の通り。

幕末の多摩―プロローグ
幕末の歴史と多摩
際限のない負担増
治安の悪化
開港と地域社会の変容
慶応二年武州一揆と多摩
幕末の変革期に生きた多摩の人びと―エピローグ

 

 多摩地域は特定の大名が治めているわけではなく、幕府領、旗本領、寺社領などが複雑に入り組んだ地域でした。江戸時代の初期に書かれたものには、総石高7万3782石という記載があり、田畑の石高比は1:2で畑作が主流の地域です(23p)。

 1つの村を幕府と旗本が支配するような地域も多く、多くの地域で領主権力が目に見える形で存在しないのも特徴でした。

 また、開港した横浜にも意外と近く、八王子は通商条約で外国人が旅行を許された10里以内の範囲に入っています。文久元年(1861)に八王子宿に初めて外国人がやってきたとの記録があります(ちなみに、トロイア遺跡の発掘で有名なシュリーマンも八王子を訪れている(72p)。

 

 開国とともに、まず多摩地域に求められたのは金銭的な負担です。ペリー来航後の海防強化、将軍の上洛、長州征討などのたびに献金が求められました。表向きは自発的な献金ですが、当然ながら半ば強制されたものです。

 さらに幕府から軍備の強化を求められた旗本からもさまざまな負担を求められました。事実上の年貢の増徴を求められるケースもあり、負担に耐えかねた農民らが老中に駕籠訴(老中が駕籠で登城する際などに直接訴える)を行ったりしています。

 一方で、こうした負担に協力したことと引き換えに苗字帯刀を許される村役人なども生まれています。

 

 さらに多摩地域の農民は兵士としても動員されています。幕府は文久2年(1862)に軍政改革を行い西洋式陸軍を創設しますが。ここで問題となったのが兵卒の確保で、幕府はこれを農民に求めました。今までも農民は陣夫として動員されることがありましたが、今回は戦闘員として旗本たちに知行に応じて兵卒を出させました。ただし、金納で済ませた旗本も多く、また、兵卒を出すように求められた村でも金を出して江戸で人を雇うことがあったようです。そして、やがてこの負担は金納化し、幕府が雇う傭兵という形に落ち着いていきます。

 

 18世紀半ばから多摩地域の治安は悪化していましたが、開港とともに治安はさらに悪化しました。

 村々は浪人に対して銭を渡して立ち去ってもらうというやり方をとっていますたが、ペリー来航後は幕府からは犯罪者の捕縛や切り捨てを求める指示が出ており、文久元年には鉄砲の仕様を許可する通達も出しています。

 

 文久2年には幕府は江戸で武芸に堪能な浪士を募って上洛させますが、その多くは呼び戻されて新徴組として庄内藩の指揮下で江戸市中の取締に当たります(京都に残ったのが新選組)。しかし、新徴組の隊員にはゆすりやたかりを働く者もいて、多摩地域まで来て押し込み強盗をする者もいました。  

 元治元年(1864年)には天狗党の乱が起こり、その残党が箱根ヶ崎から横浜に向かうという噂が流れたことから八王子に川越藩兵や幕府歩兵隊が出陣しています。

 

 治安の悪化を受け、多摩地域の農民の中から自衛のために剣術稽古などに打ち込むものも出てきます。日野宿名主の佐藤彦五郎は天然理心流の近藤周助を招いて剣術修行を始め、後には農兵を指揮して武州一揆の鎮圧などに活躍しています。そして、ここから近藤勇土方歳三沖田総司らがでてくるわけです。

 一方で、幕府は武術の稽古を禁止する命令を度々出しつつも、犯罪者の捕縛を農民たちに命じるという矛盾した行動をとっています。

 

 代官・江川太郎左衛門英龍は1839年のモリソン号事件にあたって農兵の創設を幕府に建議していましたが、この農兵が文久3年(1863年)に実現します。江川代官支配地では、男の人数に応じて農兵が取り立てられました。八王子宿では50人、拝島宿では64人といた具合になっています(91p表1参照)。

 鉄砲こそ貸与されましたが、制服や火薬は農民が自分で用意する必要があり、主に村役人の子弟などが集められました。

 この農兵を幕府は第2次幕長戦争で動員しようとしましたが、農民側が本来の趣旨と違うと言って抵抗したことと、武州一揆が起こったことから立ち消えになっています。

 なお、後に幕府は八王子宿に陣屋をつくり、この地域を統一的に支配しようとしますが、多くの村が江川代官支配のほうが良いと言って抵抗しました。農兵も一方的な負担ではなく、地域のニーズを汲んだものであったと言えるのかもしれません。

 

 ここまで読んでいくと、いろいろと負担がありながらも食い詰めてはいない感じですが、それはやはり開港によって生糸産業の景気が良くなったことが大きいです。

 八王子近辺での米の価格は慶応元年(1865年)には天保の大飢饉の頃よりも高騰しましたが、餓死する者は見かけなかったといいます(120−121p)。米の価格だけでなく、さまざまなもの、例えば薪や日雇いの労賃なども上がったことで、高い米を買うことができたのです。

 この物価高騰の背景には開港後の金流出を抑えるための貨幣改鋳の影響があるのですが、やはり生糸の輸出による影響も無視できません。

 

 ただし、やはり生活に困窮した農民もいるようで、文久元年や慶応2年、3年には困窮した村民への施しも行われています。では、誰が施しを行ったのかというと、裕福な村民で、例えば、八王子の遣水村では生糸商人などが中心となってお金を出し合っています(144p)。

 ここでも生糸がポイントになっています。生糸の輸出額は万延元年(1860年)に259万ドルだったものでが、5年後の慶応元年には1461万ドルと5.6倍増加しています(152p)。この伸びの背景にはフランスで蚕の病気が流行ったことや、そもそも日本の生糸の価格が安かったことがありますが、安いと言えども今までの国内価格を上回る価格でした。

 当然のように桑の栽培もさかんになり、畑どころか田をつぶして桑を植える動きも出てきたそうです。

 

 しかし、一方で絹織物産業は大きな打撃を受けました。上州桐生では「糸飢饉」と呼ばれるほどの打撃を受けたそうです(167p)。八王子でも生糸価格の上昇とともに織り賃は低迷しています。

 ただし、慶応2年には低温の影響で桑の発育が悪く、養蚕の大不作となりました。養蚕は開始から糸を取るまで50日ほどという短い期間でできるのが特徴で、利益を得るために借金をして養蚕を行う者も少なくありませんでした。

 

 この養蚕の不作を背景として慶応2年6月に起こったのが武州一揆です。秩父郡名栗村から始まった一揆はまたたく間に広がり、青梅村、福生村、中神村、宮沢村などで打ちこわしが起きています。

 一揆勢は上州に向かう勢力と、武蔵国の南部に向かう勢力に分かれますが、この南部に向かった一揆勢を迎え討ったのが多摩の農兵でした。府中宿方面に向かった一揆勢は今の東久留米あたりで田無村の農兵に鉄砲などで攻撃されて阻止されます。八王子宿に向かった勢力も佐藤彦五郎らの率いる農兵に打ち破られています。

 もともと武士の存在が希薄だった地域とはいえ、一揆勢をほぼ農兵だけで蹴散らしたところに身分制の終焉といったものを感じます。

 

 以上、内容のざっとした紹介ですが、ここからもわかるように多摩地域の地名が頻出するので、多摩に住んでいたり、住んでいたことがある人は面白く読めると思います。

 また、多摩に縁がなくても、江戸時代末期の村の様子や、社会変化を知りたい人にも得ることの多い本だと思います。

 

 

 

ケイト・ウィルヘルム『鳥の歌いまは絶え』

 60〜70年代に活躍した女性SF作家の代表作が創元SF文庫で復刊されたので読んでみました。

 3部仕立てになっており、第1部は終末もの、第2部は終末+ディストピア、第3部になるとほぼディストピアものといった感じになります。

 

 ヴァージニア州の渓谷に住むサムナー一族は辺り一帯を支配している金持ちの一族ですが、徐々に地球の生態系がおかしくなっていることに気づきます。核実験による放射能汚染などにより、人間の生殖能力が失われつつあったのです。一族の若者であるデイヴィッドは、おじたちとクローンの研究に打ち込み、クローンによる生殖に成功しますが、彼らには兄弟姉妹同士(クローン同士)の間でテレパシーのような特殊な能力が使えました。

 第1部はこういった展開の中でデイヴィッドの恋や、世界の破局、古い世代の葛藤が描かれます。

 

 第2部ではずいぶんと時間が経っていて、外の文明は崩壊しています。そんな中で、選抜されたクローンたちが廃墟となったワシントンDCなどの都市の探検に向かいますが、厳しい過程の中でその探検に参加したモリーにある変化が生まれます。

 ここではクローンを増やすために一部の女性が生殖員として活用されていたりして、ディストピア的な要素がせり出してきます。

 

 第3部に関しては、ネタバレになるので詳しくは書きませんが、「孤立した文明が生き残ることができるのか?」「人間とは何か?」「文明を生み出すものは何か?」といった問題が扱われています。

 

 ここまで読んで、「けっこうよくありそうな話だな」と思った人もいると思いますが、確かにSFではよくある話だと思います。生殖員の話などは発表当時はそれなりにインパクトがあったかもしれませんが、現在では何度か耳にしたことがあるようなアイディアです。

 

 では、この小説の何か良いかというと、それは自然描写を中心としたしっかりとした描写だと思います。SFではアイディアが先行して、わかりやすいイメージを借りてくることも多いですが、本書は非常に丁寧に描写を積み重ねています。モリーの変化を追う心理描写もよく書けていますし、何よりも孤立している谷の住人(クローン)たちを取り囲む森の描写が見事です。

 SFとしてのインパクトはともかくとして良い小説ですね。

 

 

コロナと読書

 タイトルからするとコロナ禍の中での読書生活の記録みたいに思えますが、そうではなくて、1学期も終わって少し落ち着いたところで、新型コロナウイルス問題を考える上で参考になった本をいくつかあげておこうというエントリーです。

 とは言っても、医学的な問題には疎いですし、ウイルスや感染症についての本を読み込んでいるわけもないです。正直、新型コロナウイルスがどうなるかどうかはわからないですし、「コロナ後」の世界についても何か見通しを持っているわけでもありません(ニュースになり始めた段階では2009年の新型インフルエンザのことを思い出して、「これはどこかで2週間位の休校があるか?」と思っていた程度でしたが、2週間じゃすみませんでしたね)。

 ここで紹介するのは新型コロナウイルスが引き起こしたさまざまな問題の文脈を考えるための本が中心になります。新型コロナウイルスに関する知識は今まさに生まれつつあるところですが、問題が起こった社会に関しては、何らかの知識の蓄積がすでにあり、それが本に書かれているからです。

 

 ただし、最初にあげるの山本太郎感染症と文明』(岩波新書)という、ずばり感染症についての本です。

 この本は『図書』の増刊号の「はじめての新書」に寄稿した際にもおすすめの本としてあげた本ですが、感染症の特質と感染症が文明に与える影響をダイナミックに描き出した本です。 

 今回の新型コロナウイルスでは、よく第一次世界大戦時のスペイン風邪と重ねられましたが、そのスペイン風邪が弱毒→強毒→弱毒と変化したこととその背景、「ウイルスとの共生」といった考えは、今後の新型コロナウイルス問題を考えていく上でも示唆に富むものでしょう。

 

blog.livedoor.jp

 

 新型コロナウイルスが拡散されるにつれて、日本で問題となったのはマスクの不足でした。マスク不足は世界的に起きた問題でしたが、台湾では国民が持つ番号ごとに買える日を指定したりしてマスクの需要をコントロールしていました。

 このニュースを聞いたときに「日本も同じようなことはできないものか?」と思った人もいるでしょうが、これを行うには国民総背番号制のインフラが必要であり、日本はこの制度の導入に長年失敗し続けてきました。

 その歴史的な経緯に迫ったのが羅芝賢『番号を創る権力』(東京大学出版会)です。本書を読むと、日本で導入が遅れた理由が「プライバシー意識」といった単純なものではないことが分かりますし、、逆に台湾や韓国で国民総背番号制が導入されているのは、戦時や戒厳令下という特殊な状況の後押しがあったことが分かります(スウェーデンはまた違った背景から制度が導入されていますが)。

 日本政府の取り組みの鈍さに苛立った人も多いでしょうが、使える制度が歴史的な経緯によって決まっているという点は重要だと思います。

 

 

morningrain.hatenablog.com

 

 もう1つ、日本の新型コロナウイルス対応で印象に残ったのが、成田空港と羽田空港PCR検査した帰国者を宿泊施設に移動させるために、自衛隊が派遣されたというニュース。前々から日本の公的機関に冗長性がないことは知っていましたけど、「緊急時に人が出せる組織はいまや自衛隊くらいしかないんだな」と強く感じたニュースでした。

 この日本の公務員の少なさを指摘し、それが「小泉内閣新自由主義的改革」とかのせいではなく、ずっと以前からのものであるということを教えてくるのが前田健太郎『市民を雇わない国家』(東京大学出版会)。日本以外の先進各国の公務員数の伸びがストップするのは1980年代前後なのですが、日本ではそれが1960年代であり、それが日本の公務員の少なさ(労働力人口に占める割合が5%ほど、ノルウェースウェーデンで30%近く、イギリスで20%近く、アメリカでも15%近く)につながっているのです。

 

 

morningrain.hatenablog.com

 

 というわけで、政府の使える人的な資源はかなり制約されていたわけですが、それでも以前だったらもう少しはましだった気もします。

 以前との違いというとやはり地方分権が進んだということにあるでしょう。待鳥聡史『政治改革再考』(新潮選書)を読むと、平成という時代は小選挙区比例代表並立制の導入と省庁再編によって首相に権力が集まる集権的改革が実施されると同時に、地方分権という分権的な改革も同時に行われました。

 確かに人事制度の改革もあって、首相はより強力に官僚を統制できるようになりましたが、地方に対する統制力は逆に弱まっています。特に地方分権によって大きな力を持つようになった知事が独自に政策を打ち出し、政府以上のアピール力を発揮するケースも目立ちました。

 詳しいことはわかりませんが、厚生労働省と地方の保健所のつながりも、やはり以前よりは弱まっているのではないでしょうか。

 

 

morningrain.hatenablog.com

 

 また、感染拡大局面では「都道府県をまたいだ移動の自粛」が呼びかけられましたが、多くの勤め人にとって都道府県の越境というのは日常であって、自粛を要請されても困ると感じた人も多かったと思います。

 今回の新型コロナウイルス問題では、保健所の設置者が都道府県(または政令市や中核市など)ということもあって、都道府県の枠組みが強く意識されました。ただし、東京の人口が1400万に迫る一方で、鳥取の人口は57万で世田谷区や練馬区江戸川区などにも劣るという具合に、同じ都道府県と言ってもその規模には大きな違いがあります。

 それでも、47都道府県という枠組みが変わらないことと、その安定の背景を教えてくれるのが、曽我謙悟『日本の地方政府』(中公新書)です。福祉など近年その役割が拡大してきた分野に関しては基本的に市町村が担っており、都道府県は新たな行政需要に応えるために合併する必要がないというのが理由の1つなのですが、もし新型コロナウイルスの流行が収まらなければ、都道府県同士の新たな連携が模索されるかもしれませんし、大都市の周辺の県(例えば、東京に隣接する神奈川、埼玉、千葉)は、県境での人の流れを止めるわけにもいかず、難しい局面が続くと思います。

 

 

blog.livedoor.jp

 

 日本から離れてこの問題を考えた場合に、やはり注目すべきは発生国であった中国における初動の失敗と、その後の対応の強力さです。

 対応の強力さに関しては、何といっても中国が権威主義国家であり、末端まで政府の指令が届く体制になっていたという点が大きいですが、近年、中国で急速に発展しつつある情報テクノロジーが威力を発揮した点も見逃せません。

 感染症の抑え込みには、患者の把握と統制が必要なわけですが、中国では個人を把握するしくみが急速に整えられていました。そのあたりを教えてくれるのが梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書)です。

 中国では一人っ子政策のもとで子どもの誘拐事件が多発していましたが、監視カメラシステムによって未解決事件は激減し、人々に安心感を与えました。そうした利点が人々に監視社会を受け入れさせているわけですが、今回の問題でその傾向はさらに進むかもしれません。

 

 

blog.livedoor.jp

 

 ただし、一方で中国が新型コロナウイルスの抑え込みに失敗したのも事実です。この失敗について、アマルティア・センの考えを用いて説明するならば、その理由は「民主主義の不在」ということになるでしょう。

 アマルティア・セン、ジャン・ドレーズ『開発なき成長の限界』(明石書店)はインド経済に関して分析した本ですが、「中国に比べて、インドはその民主主義が経済成長を妨げている」との批判に対して、民主主義が不在の中国では情報が上にいかないことで上層部が判断ミスをし、それが大きな問題を引き起こす可能性を指摘しています。

 本書では、改革開放政策の中で「農村合作医療制度」が打ち切られ、寿命の伸びが鈍ったケースを紹介しています。農村向けの公的医療制度は2004年前後から「新型合作医療制度」として再び導入されますが、著者たちは民主主義ならこう簡単に制度を打ち切れなかっただろうと述べ、中国の統治システムの問題点を指摘していますが、今回も同じ医療・公衆衛生の分野で問題が起きたと言えます。

 

 

morningrain.hatenablog.com

 

 最後に気になるのは新型コロナウイルス問題で加速した間のある米中対立の行方ですが、詫摩佳代『人類と病』(中公新書)を読むと、冷戦下の米ソでさえ感染症対策に関しては一定の協力をしていたことがわかります。

 この背景には自陣営の正しさを証明したいという動機もあったわけですが、逆に言うと、今の米中には正しさを証明したいイデオロギーのようなものがないために、国際的な危機を救おうという考えが出てこないのかもしれませんね。もちろん、それでは困るのですが…。

 

 

blog.livedoor.jp