『NOPE/ノープ』

 人を襲っているらしきチンパンジーの姿が写り、さらに画面が変わって黒人の親子が牧場で馬の調教をしていると、空模様が怪しくなり、空からコインが降ってきて父の頭に直撃して父が亡くなる。

 これがこの映画の冒頭のシーンで、監督のジョーダン・ピールについてまったく前知識のなかった自分は「これはデビッド・リンチみたいな感じか?」と思いながら、見ていましたが、リンチではないですね。

 リンチにおいて、なんと言っても不気味なのは人間なのですが、本映画において主人公のOJ(黒人の親子の子の方)こそムスッとした人物ですが、妹のエム(エメラルド)は非常に明るくてノリの良い人物であり、途中からこの兄妹を手伝うことになる電気店のエンジェルもいいやつです。

 元子役で今は西部劇のテーマパークのようなものを経営しているリッキーは、なんだか陰のある怪しい人物なのですが、リンチだったらリッキーみたいな人物で溢れているはずです。

 

 ストーリーとしてはOJとエムの兄妹が自宅の上空に「何か」がいるのではないかと思い(ときどき停電し、携帯も使えなくなったりする)、それを撮影できないかと考えます(このあたりが現代的)。

 そこでエンジェルの助けも借りながら家の屋根に監視カメラを設置するのですが、やはり何かがおかしいのです。

 

 途中から、その「何か」は実体として出てきそうな感じになるので、「これはリンチではなくてシャマランなのでは?」という感じになります。

 確かに、この外界から孤立した場所でのホラーと言うとシャマランっぽいのですが、大きな違いはシャマランにはないユーモアがこの映画にはある(シャマランのあれもユーモアと言えるのかもしれませんが…)。

 

 で、後半になるとどんどんと映画は加速していき、『AKIRA』への明らかなオマージュや『エヴァンゲリオン』的なものまで登場して、スケールが大きいのだか、そんなに大きくないのだかよくわからないようなスペクタクルが展開されます。

 

 意外と予備知識がないほうが面白く見れる気がするので、これくらいにしておきますが、映画としては面白と思います。

 

Stars / From Capelton Hill

  Stars、5年ぶり9枚目のアルバム。

 1stアルバムのリリースが2001年で、もう20年以上のキャリアがあるバンドですが、1曲目の"Palmistry"から、いかにもStarsなメロディとサウンドです。2曲目の"Pretenders"もそう。"Palmistry"がTorquilメインで、"Pretenders"がAmyメインで、とりあえず冒頭の2曲でStarsらしさを再確認できる感じです。

 3曲目の"Patterns"もStarsらしいメロディの良い曲ですね。

 

 ただし、今までのStarsっぽさをなぞっているような感じというのもあり、新しい展開とか、驚きとかはありません。

 もちろん、それでいいのかもしれませんが、ポップでありながら深く刻み込むようなフレーズもあったのがStarsの魅力だったので、往年のファンからすると、Starsっぽい曲をやってくれて満足な面と、やや物足りない面の両方がありますね。

 アルバムタイトルにもなっている7曲目の"Capelton Hill"もTorquilとAmyのツインボーカルを活かしたいい曲ですが、パンチ力はあと一歩ですね。

 強いて言えば、9曲目の"To Feel What They Feel"のギターとかが今までにはあまりなかった感じ。

 

 というわけで、あくまでもStarsファンがチェックしておけばいいアルバムかと思います。Starsを聴いたことがないなら、まずは3rdの「Set Yourself On Fire」から聴くといいでしょう。

 


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ケネス・盛・マッケルウェイン『日本国憲法の普遍と特異』

 「75年間、1文字も変わらなかった世界的に稀有な憲法典」

 これは、本書の帯に書かれている言葉ですが、今まで存在した成文憲法中、改正されないままに使われている長さにおいて、日本国憲法1861年に制定されイタリア憲法に続いて歴代第2位です。日本国憲法は「特異」な憲法と言えます。

 しかし、一度も改正せずに済んでいるということは、実は日本国憲法の内容が「普遍」的だったからとも言えます。

 

 この「特異」と「普遍」について論じたのが本書です。

 「日本国憲法は非常に短い」「統治機構について書かれた部分が少ないが改正の必要性の薄さにつながっている」といった主張については、著者がこれまで発表した論考などで知っている人もいるかとは思いますが、本書にはそれ以外にもさまざまな興味深い論点が盛り込まれており、非常に面白い内容になっています。

 

 目次は以下の通り。

第1章 憲法の形と軌跡
第2章 憲法が変わるとき
第3章 日本国憲法の特異性
第4章 グローバルスタンダードな日本国憲法
第5章 憲法の対応力と緊急事態条項の是非
第6章 日本国憲法選挙制度
第7章 日本国憲法のこれから――国民視点の憲法とは

 

 まず、近年の憲法の動向ですが、各国の成文憲法を英訳したものを比較すると、1950年には中央値が9172語だったのに対して、2013年時点では1万6331語と憲法は長くなってきています。

 そうした中で、日本国憲法は4998語と世界で5番目に短いです。

 

 憲法が長くなっている理由は、以前よりもさまざまなことが憲法に書き込まれるようになったからです。

 特に人権については手厚い記述がなされるようになっており、1950年の時点で残酷な刑罰を禁止しているのは36%にすぎませんが、2013年では83%、組合・団結権は50年では45%だが13年には76%と、盛り込まれる人権が増えているのです。そして、日本国憲法は1946年公布にもかかわらず、人権についてかなりの部分をカバーしているのが特徴です(18p表1−2、19p表1−3参照。ちなみにこの表では日本のストライキ権が×になっているけど、28条の団体行動権ストライキ権ではないのか?)。

 

 一方、憲法のもう1つの柱である統治機構についての部分でも、近年になって元首や政党、憲法裁判所などの規定が増えていますが(25p図1−3、27p図1−4、28p図1−5参照)、制定以来一度も改正されていない日本国憲法にはこれらの規定は盛り込まれていません。

 

 先に述べたように、日本国憲法は1度も改正されていませんし、大日本帝国憲法も1度も改正されずに終わりました。

 一方、インド憲法は100回以上改正されていますし、ドイツ基本法も60回以上改正されており、条文の半数以上が改正済みです。

 

 憲法の改正に関しては、アメリカの建国の父の間にも意見の違いがあって、ジェームズ・マディソンは度重なる改正は政治の安定性や政府への尊敬を損なうと考えましたが、トーマス・ジェファーソンは市民からの要請に応えるためにも定期的な改正が望ましいと考えていました。

 

 憲法改正の内容について具体的に見ていくと、最初の改正の74%、2度目の改正の81%が統治機構の修正であり、自由権社会権の修正は初回の35%、2度目の32%に過ぎません(40p)。

 人権に関しては司法の解釈などで導き出せますが、統治機構については実際に動かしてみて不具合がわかるということがあるのでしょう。

 

 憲法を一から再制定する国は中南米で目立ち、ドミニカ共和国は33回、ハイチが24回、エクアドルが23回となっています。これは中南米諸国が比較的古い時代から憲法を持っていたことと、政治が不安定だっためです。先進国ではフランスが14回憲法を制定しています(42p表2−1参照)。

 

 一般的に言って改正があったほうが憲法の寿命は長くなります(47p図2−3参照)。ところが、日本国憲法は未改正にもかかわらず長命であり、いわば外れ値担っています。

 

 この理由は、日本国憲法統治機構については実質的に「軟性」であり、人権に関しては「硬性」であることに求められます。

 先述したように、日本国憲法は非常に短く、統治機構についての部分の多くを法律に委ねています。

 この理由としては、GHQが急いで憲法草案を作成する中で、国民主権基本的人権の尊重、平和主義という三原則については詳しく規定したものの、統治機構に関しては日本側の意見を取り入れながら、日本側に委ねた部分が多かったということがあります。

 例えば、GHQは当初選挙制度小選挙区制にもとづくものにしようとしましたが、最終的には法律に委ねています。

 

 日本国憲法には「法律の定めるところにより…‥」や「……法律でこれを定める」という文言が40回現れますが、そのうち22回は統治機構に関して使われています(63p)。 

 特に選挙制度地方自治に関してはその多くが法律に委ねられており、1994年の小選挙区比例代表並立制の導入も、小泉政権における三位一体の改革も法律の改正によって行われています。

 選挙制度や定数を憲法で定めている国も多いですが、日本では何も書かれていないので、選挙制度の大きな改正も法律の改正のみでできます。

 

 地方自治についてはそもそも憲法での規定が少なく、ドイツ基本法地方自治について7667語(日本国憲法全体より長い!)を費やしているのに対して、地方自治について定めた日本国憲法第8章は143語しかありません。

 

 一方、人権については比較的詳細に規定しています。人権の規定が多いほど、憲法の寿命は伸びる傾向にあります。

 この統治機構については法律によってかなり柔軟に変えることができ、人権についてはしっかりと規定しているというのが日本国憲法が長命である理由だと考えられます。

 

 第4章では、日本国憲法が他国の憲法とどれくらいに似ているかということを項目ごとのマッチ率で分析していますが、日本と似ているのは、2005年制定のイラク憲法、1991年制定のクロアチア憲法、1949年制定の台湾憲法、1937年制定のアイルランド憲法などです(82p表4−1参照)。

 イラククロアチアとの類似は意外に思えますが、これは新しく制定された憲法日本国憲法と同じく人権について詳細に定めていることが多いためです。

 

 アメリカ合衆国憲法憲法の1つの手本とされてきましたが、人民の武装権や最高裁の裁判官の終身制、上院議員の各州への均等配分などは、世界の憲法のトレンドとは明らかにずれており、人権規定の少なさも世界の他の憲法とマッチ率が低い要因になっています。

 

 第5章では日本の憲法改正の議論でもよくあがる緊急事態条項について検討しています。

 緊急事態条項は、2020年時点で世界の現行憲法の91%に明記されています。ただし、緊急時の人権制限を認めるものは全体の68%にとどまっており、近年では国家に過大な権力を委任することを避ける傾向にあります。

 ここからは日本国憲法にも緊急事態条項が必要に思えます。

 

 自民党の2012年の憲法草案には緊急事態条項が盛り込まれていますが、自民党案では、武力攻撃や内乱、地震など大規模災害の他に「その他法律で定める緊急事態」を盛り込んでおり、さらに「法律で定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」と定めています。

 しかし、他国の憲法の緊急事態を見ると、緊急事態について「法律で定める」としているものは9%しかなく、法律と同一の効力を持つ政令の制定を認めているのは12%に過ぎません。

 人権についての規定も曖昧であり、自民党草案の緊急事態条項は必ずしも世界の潮流と合っているものではありません。

 

 著者は、日本のような多数者支配型の議院内閣制の国において、緊急事態条項がなくても比較的多くのことを決定できることを指摘し、もしも導入するのであれば、①緊急事態の発動基準やその際の行動を精査できる権限を最高裁判所に与えること、②緊急時に参議院を自動的に少数するように憲法に明記することを提案しています。

 よく、緊急事態で選挙の実施が不可能になることがあげられますが、参議院は半数ずつの改選であり、憲法には参議院の緊急集会というものが明記されているのです。

 

 第6章では選挙制度の問題がとり上げられています。

 先に述べたように、日本国憲法では選挙についてほぼ法律に任せています。そうした中で問題となっているのが「一票の格差」の問題です。

 この問題については、最高裁判所から何度か「違憲状態である」との判決が出ており、中選挙区制では3:1、小選挙区制のもとでは2:1の格差に収めるように区割りの改正が行われていますが、基本的には後追いであり、またギリギリ2:1を満たすような形での区割りの変更が繰り返されています。

 

 日本国憲法は第14条で「法の下の平等」を定めていますが、第47条では「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める」と規定しており、選挙で選ばれる国会議員に選挙についての広い裁量を与えています。

 こうした状況に対して、著者は定数配分のルールを憲法に明記するという提案を行っています。ノルウェー憲法は定数配分のルールとタイミングを憲法に詳細に規定していますが、日本国憲法においても憲法に規定することで「一票の格差」の問題を解決できると考えています。

 

 もう1つ本書がとり上げる問題が「選挙運動の自由」についてのものです。

 憲法第21条には「表現の自由」が規定されている一方で、日本の公職選挙法ではさまざまな選挙運動を禁止しています。事前運動の禁止、戸別訪問の禁止、情勢調査の公表制限、ポスターやビラの配布に関する文書図面規制、報道・評論の規制など、「べからず選挙」と呼ばれるほどに選挙運動は規制されています。

 また、選挙期間も非常に短く、衆議院選挙で12日、参議院選挙で17日しかありません。

 

 こうした規制は、金権選挙を防ぐためですが、同時にすでに知名度のある現職を有利にします。さらに日本には高額な供託金も存在し(衆議院小選挙区と比例で重複立候補するには600万円必要)、289選挙区すべてに重複立候補を立てるには17億3400万円が必要です。

 供託金は泡沫候補者よりも主要政党の候補者を減らすとの研究もあり(今年の参院選の選挙区選挙などを見ると実感できますね)、そもそもの趣旨からも外れています。

 

 選挙期間も公選法が制定された1950年には30日ありましたが、衆議院に関しては1958年に20日、83年に15日、94年に12日と短縮され続けています。

 これは明らかに現職(与党)を有利にしています。著者の研究によると、選挙期間が25日に保たれていた場合、自民党の初敗北は1993年ではなく1980年だったと推定されています。

 

 このような与党に有利な選挙制度が法律によって決まってしまっている状況に対して、著者は、第47条に「第14条、第21条、その他基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない」という2項を付け加えることによって、最高裁の介入を容易にすることを提案しています。

 

 最後の第7章では、今後の日本における憲法議論のあり方を論じています。

 安倍首相は憲法96条を改正し、憲法改正の発議の要件を引き下げようとしましたが、両院で2/3以上の賛成と国民投票過半数の賛成という要件は、他国と比べて特に厳しいものではありません。ドイツ基本法は60回以上改正されていますが、連邦議会連邦参議院の2/3以上の賛成が改正には必要です。

 

 アイルランドでは1937年以来、38回の憲法改正国民投票が行われ、そのうち26回で改正が承認されていますが、承認されたほとんどの改正案は最大与党と最大野党の支持を受けたものだと言います。

 日本での世論調査では、9条に自衛隊を明記することや、緊急事態における首相権限の強化は、自民支持と非自民支持で意見が分かれるものとなっています。一方、プライバシーの保護や良好な環境の保障は、全体的に支持が高く、自民支持と非自民支持の差も少ないです(177p表7−3参照)。

 まずは超党派で合意できる部分からゆっくりと進めるという形が憲法改正のための道なのかもしれません。

 

 このように、本書は日本国憲法が1度も改正されなかった理由を示すだけでなく、今後の改憲議論にも有益な多様な論点を示しています。

 憲法は当然ながら政治にとって重要なものなのですが、憲法といえば憲法学者が論じるべきものであるというイメージが強かったかもしれません。それに対して、本書は比較政治学的なスタンスから今までになかった形で憲法に切り込んでおり、まさに新しい地平を切り開いた本と言えるのではないでしょうか。

 

 

『劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編] 僕は君を愛してる』

 前編を見た時に、TVシリーズを見ていたはずなのに全然展開を思い出せなかったと書きましたが、後編もそう。いくつかのシーンは見ながら思い出したのですが、特に冠葉と晶馬の子ども時代の教団でのシーンとかは「これってあったっけ??」という感じで、11年という月日の長さと、自らの記憶力の減退を思い知らされましたが、だからこそ新鮮に楽しめたというのはありますね。

 

 前編の始まりが子どもになった冠葉と晶馬だったということで、一種の円環のような構造になるのかなと思いながら見ていましたが、少しズレた形の円環のような形になりましたかね。

 あと、TV版では苹果→晶馬、真砂子→冠葉というのは一方的な関係のままに終わってしまったように記憶していたのですが、そこに双方向性が出ていて、このあたりもTV版よりも明るいラストになった要因ではないかと思います。

 

 それにしても今回改めて『ピングドラム』は90年代的な想像力の結晶なんだなと思いました。

 地下鉄サリン事件をモチーフにしていて、「95」っていう数字が頻出するのはもちろん、酒鬼薔薇事件で使われた「透明な存在」という言葉が使われたり、時籠ゆりの子ども時代の話はドラマの「高校教師」を思い起こさせるし、とにかく90年代的なものが頻出していたと思います(実写の部分で緑の公衆電話を映していましたけど、これも90年代的ですよね)。

 去年のエヴァの完結といい、ここにきて90年代的な想像力が一つの完結を迎えたという感じを強く持ちました。

 

 ただし、モチーフなどは90年代的であっても、映像表現とか音楽の使い方とかがまったく古びていないのが幾原邦彦の作家としての腕前であり、『ピングドラム』の強さなんでしょうね。

 トリプルHがカバーするARBの曲とかもガンガンかかってましたけど、このあたりも古びていない。映像と音楽のセンスはさすがだと思います。

 

 去年の『シン・エヴァ』と並んで、サブカルにおける「95年体制」(今作った造語で、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件の影響をモロに受けた作品群)に一区切りをつけるものと言えるかもしれません。

 

村田沙耶香『コンビニ人間』

 本当に今更という感じで読んだのですが、この小説は文体がすおくいいですね。

 マニュアルによって規定されているコンビニに過剰適応した36歳の独身女性の古倉恵子が主人公で、設定自体は思いつきそうですが、それをこういった作品にまで仕上げる腕はさすがだと思います。

 

 古倉恵子は子ども時代からみんなの中でどう振る舞っていいかわからず浮いていた人物なのですが、コンビニでマニュアル通りに動くことで居場所を見つけます。

 さらに同僚の行動や口調や服装などを真似することで、「普通」の人間を演じようとするわけです。

 

 この主人公の努力は、悲劇的にも描けるとは思いますが、本作では主人公にとって必然的なものとして、変に外部からの批評的な視点を入れないで描きます。

 途中で、白羽くんという男性が現れて主人公にあれこれと文句をつけるわけですが、彼のあり方やロジックというものがあまりにも稚拙なために、主人公を批評する力を持ちません。

 

 主人公の行動は戯画的でもありますが、それが貫き通されるために、むしろ現実の社会が戯画なのだということが示されます。

 そして、戯画的であるがゆえに読んでいて面白さもあるわけです。

 主人公、そしてそれを書く作者のブレなさが効いていると思います。

 

 

木山幸輔『人権の哲学』

 本書の書き出しは次のようなものです。

 

 本書の目的は、人権に確定性を与えつつ、当該概念を適切に正当化する、そうした構想を提示することにある。より具体的にいえば、本書の目的は、人権の適切な構想として自然本性的構想、なかんずく二元的理論と本書が呼ぶ構想を提示すること、そしてその示唆を考察することにある。(1p)

 

 なかなか難しい書き出しですね。

 ここ最近、政治哲学について本をあまり読んできませんでしたし、本書の前半がロールズやラズなどの人権についての考えに対して批判を行うという形になっているため、ロールズやラズの考えをきちんと把握していない者にとってはなかなか理解しにくい面もあるのですが、非常に興味深い本であることは確かです。

 

 目次は以下の通り。

第1章 人権の哲学:その文脈と2つの構想

第2章 政治的構想の主要理論は擁護されるか(1):ロールズの場合

第3章 政治的構想の主要理論は擁護されるか(2):ラズの場合

第4章 政治的構想の主要理論は擁護されるか(3):影響力ある諸議論の概括的検討

第5章 自然本性的構想への批判に応答する:ベイツによる批判への応答

第6章 擁護されるべき自然本性的構想:二元論、一元論でも多元論でもなく

第7章 社会経済的権利は人権でありうるか

第8章 デモクラシーへの権利は人権でありうるか

第9章 人権と国際的関係

第10章 開発・援助構想に対する評価:人権の哲学による示唆を参照軸として

結語:本書がしたこと

 

 例えば、本書の6pには、ルームシェアしているあなたの友人があなたが大切にしまっておいたウイスキーを勝手に飲んでしまったのを「人権侵害」と言えるか? という話が出てきます。

 所有権は間違いなく人権の一部であり、本件ではそれが侵害されているわけですが、これを「人権侵害」だと呼ぶことに違和感を感じる人も多いでしょう。

 このように「人権」とは誰もが知っていて、大切なものだと習う言葉でありながら、それが何を指すのかについてはやや曖昧なところもあります。

 

 そして、この人権に関しては、その捉え方として「自然本性的構想」と「政治的構想」の2つがあります。この2つの考えの違いは以下のようなものです。

 自然本性的構想は、全ての人間が、単にその人間性(humanity)によって保持する権利として人権を捉える。他方の政治的構想は、人権が単に人間性によって保持されるという想定を否定しつつ、人権は、それが果たす政治的役割から理解され、構想されねばならないとする。(10p)

 

 政治的構想の立場からすると、例えば、「教育を受ける権利」といったものは一定の教育制度が整った場合に意味を成すもので、無文字文化で暮らすような人々には適用されないものになりますし、自然本性的構想のもとでは、無文字文化で暮らす人々にもやはり何らかの権利があるということになります。

 本書において著者が擁護するのは自然本性的構想です。

   

 これを受けて、本書では第2章でJ・ロールズ、第3章でJ・ラズ、第4章ではその他諸々の理論家の、政治的構想をとる人々の考えを批判し、第5章ではC・ベイツの自然本性的構想に対する批判に反論しています。

 ロールズの「人権が弁別的に果たす機能は、主権制約(干渉の正当化)の機能である」(22p)といった議論も興味深いものではありますが、著者の立場や、政治的構想と自然本性的構想の対立点を理解するには第5章の議論がわかりやすいと思うので、ここでは第5章の議論を紹介します。

 

 ベイツは人権の自然本性的構想を以下のように定式化しています。

 人権は、全ての人間に(全ての時間と全ての場所において)、単にその人間性(humanity)ゆえに保持される諸権利である。(92p)

 

 ベイツはこうした自然本性的構想を批判するわけですが、わかりやすい論点の1つは前制度性への批判です。

 自然本性的構想では人権は制度などを抜きにして理解可能だということになります。これはロックが主張する自然状態での権利などについては当てはまりますが、世界人権宣言にある「公平な裁判所による審理への権利」「(初等)教育を受ける権利」などは説明できないというのがベイツの主張です。

 ベイツによれば、自然本性的構想をとれば、人権は世界人権宣言などで定められたものよりも少なくなってしまう。あるいは、抽象的な形で定めるしかなくなってしまい常に社会状況への参照が必要になります。こうなると自然本性的構想の売りである「自然さ」が失われてしまうというのです。

 

 これに対して著者は、世界人権宣言などで掲げられたリストと人権が必ずしも対応している必要がないこと、抽象的な権利から多くの具体的権利を示しうることなどをあげて反論しています。

 例えば、後者についてはアマゾンのヤノマミ社会のような無文字文化において初等教育制度は存在しません。それでも、生き延びるための「知識への権利」は想定することができ、これが多くの国では「初等教育の権利」に、あるいは先進国などでは「中等教育の権利」にまで拡張できるというのです。

 

 ベイツは「「人権宣言の起草者たちが、古代ギリシャ人や、清王朝における中国、あるいは中世ヨーロッパ社会に、人権の教説を適用するよう意図したわけではなかったということ」は明らかである」(108p)と述べ、さらに未来においては新しい技術の登場や社会の変化において新たな人権が要請される可能性があるため、人権の「全時空性」は保持されないと批判しています。

 

 これに対して著者は、やはり古代人や原始人が持つような権利も抽象的な権利から導き出すことができると反論しています。

 例えば、世界人権宣言の23条には「すべて人は、勤労し、職業を自由に選択し、公正かつ有利な勤労条件を確保し、及び失業に対する保護を受ける権利を有する」というものがあり、これは近代以降の社会にしか当てはまらないものですが、これを抽象的な「地位の承認」といった概念で考えれば、石器時代でも社会集団内での共同作業に参加できる権利のような形で考えることができるわけです。

 また、「ヘルス・ケアへの権利」のようなものを想定すれば、例えば、将来的には人工臓器へのアクセスなども含んでいくことが可能です。

 

 ベイツはさらに自然本性的構想のもとでは、外部からの介入の基準としての人権の役割が果たしにくいという批判もしていますが、ここはあんまりピンとこない議論なので割愛します。

 

 では、自然本性的構想とはどのようなものなのか? それが展開されているんが第6章です。ここで著者はJ・グリフィンの考えを紹介し、それを修正しています。

 グリフィンによると人権の基礎をなすのは次の3つの考えです。

 第1に「自らの道を人生を通じて選ぶ ー つまり誰かあるいは何か他のものによって支配されたりコントロールされたりしない」という意味での「自律(autonomy)」、第2に、他者により「その人が価値ある生と見るものを追求するのを強制的に制止」されないこととしての「自由(liberty)」、第3に、選択をし、それを追求することを可能ならしめる資源とそれがもたらすケイパビリティの「最小限の備え(minimal provision)である。(138−139p)

 

 この3つの基礎的な考えが、それぞれの時代や社会の状況と参照されることによって具体的な権利として体現されるというのです。

 このグリフィンの考えは「自律」と「自由」という2つの価値が参照されていますが、一般的には「自律」を軸とした「一元論」と言われています。

 

 これに対して著者は「自律」だけではなく「平等」も基礎とする「二元論」を主張します。

 

 グリフィンはこの平等に関して、例えば、少額のバスのキセル乗車は他の乗客の平等な負担を無視するものですが、それは人権を侵害しているとまでは言えない「些末」なことであり、大学の入学試験などにあるように誰かを「劣った」者として扱うことが常に問題というわけではないと主張します。

 さらに女性参政権がないといった問題は「自律」の観点からも問題視できるし、平等それだけは価値にならないといったことを指摘しています。 

 

 一方、著者は「平等」を基礎とすることの利点として次のようなものをあげています。

 まず、「平等」を基礎することにより幅広い人間たちが人権保持主体として認められるようになります。例えば、白人と同じアミューズメント施設で遊べなかったキング牧師の6歳の娘は「自律」が侵害されたとは感じにくいかもしれませんが、「平等」な扱いを受けてないということは理解できたでしょう。同様に、重度の精神的障碍者認知症患者なども人権主体として扱われるようになります。

 

 また、「平等」を基底的価値とすることでグリフィンの一元論よりも幅広い権利が導かれます。

 例えば、デモクラシーへの権利は、グリフィンによれば「自律」「自由」とデモクラシーの間に必然的な結びつきがないことから人権とは認められませんでしたが、「平等」を基底的価値とすることは、デモクラシーへの権利などを人権に含めることに道を開きます。

 

 この考えをもとに、第7章では社会経済的権利(福祉への権利)が、第8章ではデモクラシーへの権利が人権に含まれることを示していきます。

 

 第9章では人権と国際的関係が検討されていますが、最初にとり上げられているのが、P・シンガーによる援助についての考えです。シンガーは次のように援助原理を定式化しています。

 

第1前提:食料、住居、医療ケアの欠如による窮状や死は悪い。

第2前提:もし、あなたに、ほぼ同じくらい重要な何かを犠牲にすることなく、悪い事柄の発生を防ぐことができる力があるのならば、防がないことは間違っている。

第3前提:あなたは、援助機関に寄付することによって、同じくらい重要な何かを犠牲にすることなく、食料、シェルター、医療ケアの欠如による窮状や死を防ぐことができる。

結論:それゆえ、もしあなたが援助機関に寄付をしないのならば、あなたは何か間違ったことをしていることになる。(228−229p)

 

 これについて、著者は第2前提に対する批判を紹介しています。

 まずはC・マッギンが出してきた例ですが、もしあなたが非常に魅力的な女性で、性的な欲求の問題で苦しんでいる男たちがいた場合に彼らとセックスしてやる義務があるのか? というのが1つの反論になります。

 この反論が有効かどうかは「重要な何か」をどこまでとるのかという問題になりますが、これをどこまでとるかで求められる犠牲は大きく変わってきそうです。

 また、著者はこの考えでは先進国に責任があるような貧困とそうでないものの区別ができないことについても問題視しています。

 

 これに対して、I・M・ヤングはスウェットショップの問題などをとり上げ、貧困や人権侵害に対する先進国の責任を問おうとしています。スウェットショップでつくられたスニーカーを買うことは、法的には何ら問題がなくとも、構造的なプロセスを考えると問題があるというのです。

 ただし、構造的なプロセスを持ち出すと、今度は個々の企業の責任は問いにくくなります。これに対して著者は、あくまでも人権侵害の因果関係を追うべきだと主張しています。

 

 ウェナーは『血塗られた石油』で産油国権威主義体制を問題とし、そうした国に対しては輸入国が民主化や人権保障などを働きかけるべきだとしました。

 この働きかけについて、ウェナーはあくまでも輸入国の法整備によって行うべきだとしましたが、著者は国家だけではなく、投資者や消費者がクリーンな石油会社を選ぶこと、NGOなどのアプローチなどの重要性を指摘します。

 

 シンガーはかなり大雑把に援助などの行動の必要性を説きましたが、著者は集合的な責任ではなく、貧困や人権侵害に対する先進国の人々の責任は、個々の因果の追跡を通じてなされるべきだと主張しています。

 

 第10章では望ましい援助について検討されていますが、ここで行われているRCTへの批判は興味深いですね。 

 援助に関しては、J・サックスが、貧しい地域を貧困から引き上げるにはその環境を改善するための大きな援助(ビッグ・プッシュ)が必要だと主張しました(ジェフリー・サックス『貧困の終焉』参照)。

 一方、W・イースタリーはサックス流のビッグ・プッシュを批判し、従来の援助に疑問を呈し、現場のニーズに即した援助を提唱しました(「サーチャー型構想」)。

 これに対して、バナジー&デュフロは、何が有効な援助かを実験(RCT)によって明らかにすればよいという主張をしています(『貧乏人の経済学』参照)。

 

 世間ではサックスとイースタリーの対立を乗り越えるものとして、RCTにもとづくアプローチが称揚されているイメージがありますが、著者はRCTの持ついくつかの問題を指摘します。

 まず、ある時点にある地域で行われた実験が、他の地域、あるいは将来にわたって有効かどうかという外的妥当性の問題があります。また、RCTは短期的な影響は測れても長期的な影響は測れないかもしれません。例えば、輸出用の作物を育てることで所得が3割増えたという実験結果があったとしても、他の農家も輸出用の作物をつくるようになれば、そこまで所得は上がらないかもしれません。他にも、1つの指標に注目することで、一見無駄に見えるものが果たしていた機能を見落としてしまうかもしれません(例えば、インフォーマルな絆はマイクロクレジットの返済には有用でも、他に場面では人々を抑圧しているかもしれない)。

 

 さらに、ある村になんらかの援助を行い、その効果を検証するために他の村には援助を行わないというやり方に道徳的な問題を感じる人もいるかもしれません。

 デュフロ『貧困と闘う知』には、当選確実な候補者の集会で「(エスニシティに基づく)縁故主義的なメッセージ」を含む演説と「国民統合のメッセージ」を含む演説を行う実験が紹介されていますが、こうした実験が社会を悪くする可能性も捨てきれません。

 

 RCTはリバタリアンパターナリズムと親和性が高いです。例えば、人々が貯蓄やワクチン接種などをするようになれば貧困状況は改善できると考えられるため、そういった行動に人々を誘導しようとします。

 ただし、この考えは本書が主張してきた「自律」と「平等」を基盤とする自然本性的構想とは相容れないものかもしれません。援助者が良かれと思って非援助者の行動を誘導することは、非援助者の「自律」や「平等」を傷つけるものと言えるかもしれません(本書ではこの点についてもっと丁寧な議論が行われている)。

 

 そこで著者が推すのがイースタリーに代表されるサーチャー型構想です。イースタリーの考えとRCTは必ずしも対立するわけではないのですが、貧困に陥っている原因をボトムから調べ、当事者と応答を重ねながら貧困から抜け出す道を探る「サーチャー」のあり方が、本書の考える人権構想と合致する援助の構想だと言うのです。

 

 このように本書は人権のあり方、特に国際社会における人権のあり方と、人権を守るための実践について論じています。最初にも述べたように、ここ最近、政治哲学や法哲学の本を読んでこなかったので、本書の内容を十分に理解できたわけではないのですが、余談として2つほど思ったことを書いておきます。

 

 まず、ルームシェアしているあなたの友人があなたが大切にしまっておいたウイスキーを勝手に飲んでしまったのを「人権侵害」と言えるか?  という話ですが、確かに、この言い方はおかしいように見えます。

 しかし、現在の日本においては「いや、それも人権だ」というスタンスをとったほうが良いのではないかと思います。本書では、国際的な介入の基準としての人権が論じられているケースが多いので、ウィスキーを勝手に飲まれたケースまで「人権」としてしまうと概念のインフレのようになってしまうということなのでしょうが、身近なケースを除外すると、日本において人権はますます「世間の保護を受けられなくなってしまった人が頼るべき何か」になってしまうような気がします。

 

 もう1つは人権の全時空性について。個人的には石器時代の人間に人権はないと思います。それは制度的な裏付けがないというよりは、そもそも昔の人間は「個人」として捉えられていなかったし、自らのこともまずは共同体の一員の形で認識していたのではないかと思われるからです。

 清水克行『喧嘩両成敗の誕生』には、村人を殺された人々が犯人の属する村のまったく関係のないメンバーを襲うといった話が出てきますが、特定の時代までは人間というのはそういうふうに捉えられていて、その後にリン・ハントが『人権を創造する』で分析したような形で共感可能な「個人」が出現したのではないでしょうか。

 ただ、石器時代の人間にも室町時代の人間にも人権を想定することは可能で、そういった想定可能性であれば、人権に全時空性があると言えるかもしれません。

 

 

 

デイヴ・ハッチソン『ヨーロッパ・イン・オータム』

 帯には「ジョン・ル・カレ×クリストファー・プリースト」とありますが、まさにそんな作品です。

 舞台となっているのは近未来のヨーロッパなのですが、経済問題や難民問題、さらに「西安風邪」と呼ばれるパンデミックが起こったことで、人口が減少し、国境管理が再び厳しくなっています。

 さらに機能不全に陥ったEUのもとでマイクロ国家が次々と独立し、都市だけでなく、宗教団体や過激なサッカーファンまで独立し、さらには観光収入をもとに国立公園も独立を狙っています。

 また、ポルトガルリスボンからシベリアのチュコトカまで伸びる大陸横断鉄道も独立して〈ライン〉と呼ばれる国家を形成しています。

 

 2016年のBrexitや2020年の新型コロナのパンデミックなどを経験したあとからすると、そういった経験を詰め込んだ設定にも見えますが、本書が刊行されたのは2014年で、まさに未来を予知したような小説なのです。

 

 そういった世界の中で主人公になるのはエストニア生まれで現在はポーランドでシェフをしているルディという人物です。彼は「クルール・デ・ボワ(森林を駆ける者)という謎の組織にスカウトされます。

 クルールは通常では届けることのできない物を届ける運送業者のようであり、各国にエージェントのいるスパイ組織のようなものでもあります。

 そして、シェンゲン協定が失われた後にシェンゲンの理想を体現しようとする組織と言えるかもしれません。

 

 この組織に入ったルディはさまざまな訓練を受け、ときにはひどい目に遭いながらもいくつかのミッションをこなしていきます。このあたりは完全にスパイ小説です。

 

 ところが、後半になると、18〜19世紀にイギリスで作られた存在しない村が記載された地図などが登場し、この世界はSF的な設定を持つものであることも明らかになってきます。

 

 というわけで、非常に魅力的な設定を持った小説で、前半のスパイの真似事をするシーンなども面白いのですが、前半から後半への話の転換にやや強引なところがある。

 とにかく後半になるとダダダッと話が展開していくのですが、前半にもうちょっとSF的な世界をほのめかすようなエピソードがあっても良かったと思う。

 読んでいる時は面白いのですが、ちょっと惜しい気がしました。