木山幸輔『人権の哲学』

 本書の書き出しは次のようなものです。

 

 本書の目的は、人権に確定性を与えつつ、当該概念を適切に正当化する、そうした構想を提示することにある。より具体的にいえば、本書の目的は、人権の適切な構想として自然本性的構想、なかんずく二元的理論と本書が呼ぶ構想を提示すること、そしてその示唆を考察することにある。(1p)

 

 なかなか難しい書き出しですね。

 ここ最近、政治哲学について本をあまり読んできませんでしたし、本書の前半がロールズやラズなどの人権についての考えに対して批判を行うという形になっているため、ロールズやラズの考えをきちんと把握していない者にとってはなかなか理解しにくい面もあるのですが、非常に興味深い本であることは確かです。

 

 目次は以下の通り。

第1章 人権の哲学:その文脈と2つの構想

第2章 政治的構想の主要理論は擁護されるか(1):ロールズの場合

第3章 政治的構想の主要理論は擁護されるか(2):ラズの場合

第4章 政治的構想の主要理論は擁護されるか(3):影響力ある諸議論の概括的検討

第5章 自然本性的構想への批判に応答する:ベイツによる批判への応答

第6章 擁護されるべき自然本性的構想:二元論、一元論でも多元論でもなく

第7章 社会経済的権利は人権でありうるか

第8章 デモクラシーへの権利は人権でありうるか

第9章 人権と国際的関係

第10章 開発・援助構想に対する評価:人権の哲学による示唆を参照軸として

結語:本書がしたこと

 

 例えば、本書の6pには、ルームシェアしているあなたの友人があなたが大切にしまっておいたウイスキーを勝手に飲んでしまったのを「人権侵害」と言えるか? という話が出てきます。

 所有権は間違いなく人権の一部であり、本件ではそれが侵害されているわけですが、これを「人権侵害」だと呼ぶことに違和感を感じる人も多いでしょう。

 このように「人権」とは誰もが知っていて、大切なものだと習う言葉でありながら、それが何を指すのかについてはやや曖昧なところもあります。

 

 そして、この人権に関しては、その捉え方として「自然本性的構想」と「政治的構想」の2つがあります。この2つの考えの違いは以下のようなものです。

 自然本性的構想は、全ての人間が、単にその人間性(humanity)によって保持する権利として人権を捉える。他方の政治的構想は、人権が単に人間性によって保持されるという想定を否定しつつ、人権は、それが果たす政治的役割から理解され、構想されねばならないとする。(10p)

 

 政治的構想の立場からすると、例えば、「教育を受ける権利」といったものは一定の教育制度が整った場合に意味を成すもので、無文字文化で暮らすような人々には適用されないものになりますし、自然本性的構想のもとでは、無文字文化で暮らす人々にもやはり何らかの権利があるということになります。

 本書において著者が擁護するのは自然本性的構想です。

   

 これを受けて、本書では第2章でJ・ロールズ、第3章でJ・ラズ、第4章ではその他諸々の理論家の、政治的構想をとる人々の考えを批判し、第5章ではC・ベイツの自然本性的構想に対する批判に反論しています。

 ロールズの「人権が弁別的に果たす機能は、主権制約(干渉の正当化)の機能である」(22p)といった議論も興味深いものではありますが、著者の立場や、政治的構想と自然本性的構想の対立点を理解するには第5章の議論がわかりやすいと思うので、ここでは第5章の議論を紹介します。

 

 ベイツは人権の自然本性的構想を以下のように定式化しています。

 人権は、全ての人間に(全ての時間と全ての場所において)、単にその人間性(humanity)ゆえに保持される諸権利である。(92p)

 

 ベイツはこうした自然本性的構想を批判するわけですが、わかりやすい論点の1つは前制度性への批判です。

 自然本性的構想では人権は制度などを抜きにして理解可能だということになります。これはロックが主張する自然状態での権利などについては当てはまりますが、世界人権宣言にある「公平な裁判所による審理への権利」「(初等)教育を受ける権利」などは説明できないというのがベイツの主張です。

 ベイツによれば、自然本性的構想をとれば、人権は世界人権宣言などで定められたものよりも少なくなってしまう。あるいは、抽象的な形で定めるしかなくなってしまい常に社会状況への参照が必要になります。こうなると自然本性的構想の売りである「自然さ」が失われてしまうというのです。

 

 これに対して著者は、世界人権宣言などで掲げられたリストと人権が必ずしも対応している必要がないこと、抽象的な権利から多くの具体的権利を示しうることなどをあげて反論しています。

 例えば、後者についてはアマゾンのヤノマミ社会のような無文字文化において初等教育制度は存在しません。それでも、生き延びるための「知識への権利」は想定することができ、これが多くの国では「初等教育の権利」に、あるいは先進国などでは「中等教育の権利」にまで拡張できるというのです。

 

 ベイツは「「人権宣言の起草者たちが、古代ギリシャ人や、清王朝における中国、あるいは中世ヨーロッパ社会に、人権の教説を適用するよう意図したわけではなかったということ」は明らかである」(108p)と述べ、さらに未来においては新しい技術の登場や社会の変化において新たな人権が要請される可能性があるため、人権の「全時空性」は保持されないと批判しています。

 

 これに対して著者は、やはり古代人や原始人が持つような権利も抽象的な権利から導き出すことができると反論しています。

 例えば、世界人権宣言の23条には「すべて人は、勤労し、職業を自由に選択し、公正かつ有利な勤労条件を確保し、及び失業に対する保護を受ける権利を有する」というものがあり、これは近代以降の社会にしか当てはまらないものですが、これを抽象的な「地位の承認」といった概念で考えれば、石器時代でも社会集団内での共同作業に参加できる権利のような形で考えることができるわけです。

 また、「ヘルス・ケアへの権利」のようなものを想定すれば、例えば、将来的には人工臓器へのアクセスなども含んでいくことが可能です。

 

 ベイツはさらに自然本性的構想のもとでは、外部からの介入の基準としての人権の役割が果たしにくいという批判もしていますが、ここはあんまりピンとこない議論なので割愛します。

 

 では、自然本性的構想とはどのようなものなのか? それが展開されているんが第6章です。ここで著者はJ・グリフィンの考えを紹介し、それを修正しています。

 グリフィンによると人権の基礎をなすのは次の3つの考えです。

 第1に「自らの道を人生を通じて選ぶ ー つまり誰かあるいは何か他のものによって支配されたりコントロールされたりしない」という意味での「自律(autonomy)」、第2に、他者により「その人が価値ある生と見るものを追求するのを強制的に制止」されないこととしての「自由(liberty)」、第3に、選択をし、それを追求することを可能ならしめる資源とそれがもたらすケイパビリティの「最小限の備え(minimal provision)である。(138−139p)

 

 この3つの基礎的な考えが、それぞれの時代や社会の状況と参照されることによって具体的な権利として体現されるというのです。

 このグリフィンの考えは「自律」と「自由」という2つの価値が参照されていますが、一般的には「自律」を軸とした「一元論」と言われています。

 

 これに対して著者は「自律」だけではなく「平等」も基礎とする「二元論」を主張します。

 

 グリフィンはこの平等に関して、例えば、少額のバスのキセル乗車は他の乗客の平等な負担を無視するものですが、それは人権を侵害しているとまでは言えない「些末」なことであり、大学の入学試験などにあるように誰かを「劣った」者として扱うことが常に問題というわけではないと主張します。

 さらに女性参政権がないといった問題は「自律」の観点からも問題視できるし、平等それだけは価値にならないといったことを指摘しています。 

 

 一方、著者は「平等」を基礎とすることの利点として次のようなものをあげています。

 まず、「平等」を基礎することにより幅広い人間たちが人権保持主体として認められるようになります。例えば、白人と同じアミューズメント施設で遊べなかったキング牧師の6歳の娘は「自律」が侵害されたとは感じにくいかもしれませんが、「平等」な扱いを受けてないということは理解できたでしょう。同様に、重度の精神的障碍者認知症患者なども人権主体として扱われるようになります。

 

 また、「平等」を基底的価値とすることでグリフィンの一元論よりも幅広い権利が導かれます。

 例えば、デモクラシーへの権利は、グリフィンによれば「自律」「自由」とデモクラシーの間に必然的な結びつきがないことから人権とは認められませんでしたが、「平等」を基底的価値とすることは、デモクラシーへの権利などを人権に含めることに道を開きます。

 

 この考えをもとに、第7章では社会経済的権利(福祉への権利)が、第8章ではデモクラシーへの権利が人権に含まれることを示していきます。

 

 第9章では人権と国際的関係が検討されていますが、最初にとり上げられているのが、P・シンガーによる援助についての考えです。シンガーは次のように援助原理を定式化しています。

 

第1前提:食料、住居、医療ケアの欠如による窮状や死は悪い。

第2前提:もし、あなたに、ほぼ同じくらい重要な何かを犠牲にすることなく、悪い事柄の発生を防ぐことができる力があるのならば、防がないことは間違っている。

第3前提:あなたは、援助機関に寄付することによって、同じくらい重要な何かを犠牲にすることなく、食料、シェルター、医療ケアの欠如による窮状や死を防ぐことができる。

結論:それゆえ、もしあなたが援助機関に寄付をしないのならば、あなたは何か間違ったことをしていることになる。(228−229p)

 

 これについて、著者は第2前提に対する批判を紹介しています。

 まずはC・マッギンが出してきた例ですが、もしあなたが非常に魅力的な女性で、性的な欲求の問題で苦しんでいる男たちがいた場合に彼らとセックスしてやる義務があるのか? というのが1つの反論になります。

 この反論が有効かどうかは「重要な何か」をどこまでとるのかという問題になりますが、これをどこまでとるかで求められる犠牲は大きく変わってきそうです。

 また、著者はこの考えでは先進国に責任があるような貧困とそうでないものの区別ができないことについても問題視しています。

 

 これに対して、I・M・ヤングはスウェットショップの問題などをとり上げ、貧困や人権侵害に対する先進国の責任を問おうとしています。スウェットショップでつくられたスニーカーを買うことは、法的には何ら問題がなくとも、構造的なプロセスを考えると問題があるというのです。

 ただし、構造的なプロセスを持ち出すと、今度は個々の企業の責任は問いにくくなります。これに対して著者は、あくまでも人権侵害の因果関係を追うべきだと主張しています。

 

 ウェナーは『血塗られた石油』で産油国権威主義体制を問題とし、そうした国に対しては輸入国が民主化や人権保障などを働きかけるべきだとしました。

 この働きかけについて、ウェナーはあくまでも輸入国の法整備によって行うべきだとしましたが、著者は国家だけではなく、投資者や消費者がクリーンな石油会社を選ぶこと、NGOなどのアプローチなどの重要性を指摘します。

 

 シンガーはかなり大雑把に援助などの行動の必要性を説きましたが、著者は集合的な責任ではなく、貧困や人権侵害に対する先進国の人々の責任は、個々の因果の追跡を通じてなされるべきだと主張しています。

 

 第10章では望ましい援助について検討されていますが、ここで行われているRCTへの批判は興味深いですね。 

 援助に関しては、J・サックスが、貧しい地域を貧困から引き上げるにはその環境を改善するための大きな援助(ビッグ・プッシュ)が必要だと主張しました(ジェフリー・サックス『貧困の終焉』参照)。

 一方、W・イースタリーはサックス流のビッグ・プッシュを批判し、従来の援助に疑問を呈し、現場のニーズに即した援助を提唱しました(「サーチャー型構想」)。

 これに対して、バナジー&デュフロは、何が有効な援助かを実験(RCT)によって明らかにすればよいという主張をしています(『貧乏人の経済学』参照)。

 

 世間ではサックスとイースタリーの対立を乗り越えるものとして、RCTにもとづくアプローチが称揚されているイメージがありますが、著者はRCTの持ついくつかの問題を指摘します。

 まず、ある時点にある地域で行われた実験が、他の地域、あるいは将来にわたって有効かどうかという外的妥当性の問題があります。また、RCTは短期的な影響は測れても長期的な影響は測れないかもしれません。例えば、輸出用の作物を育てることで所得が3割増えたという実験結果があったとしても、他の農家も輸出用の作物をつくるようになれば、そこまで所得は上がらないかもしれません。他にも、1つの指標に注目することで、一見無駄に見えるものが果たしていた機能を見落としてしまうかもしれません(例えば、インフォーマルな絆はマイクロクレジットの返済には有用でも、他に場面では人々を抑圧しているかもしれない)。

 

 さらに、ある村になんらかの援助を行い、その効果を検証するために他の村には援助を行わないというやり方に道徳的な問題を感じる人もいるかもしれません。

 デュフロ『貧困と闘う知』には、当選確実な候補者の集会で「(エスニシティに基づく)縁故主義的なメッセージ」を含む演説と「国民統合のメッセージ」を含む演説を行う実験が紹介されていますが、こうした実験が社会を悪くする可能性も捨てきれません。

 

 RCTはリバタリアンパターナリズムと親和性が高いです。例えば、人々が貯蓄やワクチン接種などをするようになれば貧困状況は改善できると考えられるため、そういった行動に人々を誘導しようとします。

 ただし、この考えは本書が主張してきた「自律」と「平等」を基盤とする自然本性的構想とは相容れないものかもしれません。援助者が良かれと思って非援助者の行動を誘導することは、非援助者の「自律」や「平等」を傷つけるものと言えるかもしれません(本書ではこの点についてもっと丁寧な議論が行われている)。

 

 そこで著者が推すのがイースタリーに代表されるサーチャー型構想です。イースタリーの考えとRCTは必ずしも対立するわけではないのですが、貧困に陥っている原因をボトムから調べ、当事者と応答を重ねながら貧困から抜け出す道を探る「サーチャー」のあり方が、本書の考える人権構想と合致する援助の構想だと言うのです。

 

 このように本書は人権のあり方、特に国際社会における人権のあり方と、人権を守るための実践について論じています。最初にも述べたように、ここ最近、政治哲学や法哲学の本を読んでこなかったので、本書の内容を十分に理解できたわけではないのですが、余談として2つほど思ったことを書いておきます。

 

 まず、ルームシェアしているあなたの友人があなたが大切にしまっておいたウイスキーを勝手に飲んでしまったのを「人権侵害」と言えるか?  という話ですが、確かに、この言い方はおかしいように見えます。

 しかし、現在の日本においては「いや、それも人権だ」というスタンスをとったほうが良いのではないかと思います。本書では、国際的な介入の基準としての人権が論じられているケースが多いので、ウィスキーを勝手に飲まれたケースまで「人権」としてしまうと概念のインフレのようになってしまうということなのでしょうが、身近なケースを除外すると、日本において人権はますます「世間の保護を受けられなくなってしまった人が頼るべき何か」になってしまうような気がします。

 

 もう1つは人権の全時空性について。個人的には石器時代の人間に人権はないと思います。それは制度的な裏付けがないというよりは、そもそも昔の人間は「個人」として捉えられていなかったし、自らのこともまずは共同体の一員の形で認識していたのではないかと思われるからです。

 清水克行『喧嘩両成敗の誕生』には、村人を殺された人々が犯人の属する村のまったく関係のないメンバーを襲うといった話が出てきますが、特定の時代までは人間というのはそういうふうに捉えられていて、その後にリン・ハントが『人権を創造する』で分析したような形で共感可能な「個人」が出現したのではないでしょうか。

 ただ、石器時代の人間にも室町時代の人間にも人権を想定することは可能で、そういった想定可能性であれば、人権に全時空性があると言えるかもしれません。