横山智哉『「政治の話」とデモクラシー』

 よく「政治と宗教の話はタブー」と言われます。一方で、市民として政治に関心を持つことは重要だと言われ、「政治についてもっと話し合うべきだ」とも言われます。一体、われわれは政治の話をどう扱えばいいのでしょうか?

 そして、そもそも「「政治の話」とは何なのか?」という問題もあります。

 国会の動きについて話は「政治の話」でしょうが、景気の話や環境問題などはどうなのでしょうか? 

 また、「政治の話」をすることで、政治についての知識が増えたり、政治に積極的に参加するようになったりするのでしょうか?

 

 本書は、そうした問題に対して、まずは「政治の話」がどのようなものなのかを規定し、次いで身近な人(家族や親しい友人)との会話、ミニ・パブリックスのようなデザインされた議論も場に分けてその効果を分析しています。

 

 その結果、親しい人の間では政治の話はタブーではないこと、ミニ・パブリックスのような場を設定すれば政治などの知識は向上するが、その効果はあまり持続しない可能性があるということなど、いくつかの興味深い知見が示されています。

 近年の学校では「主権者教育」の必要性が指摘されていますが、「どのようなことをすればよいのか?」、「本当に効果があるのか?」ということを考える上でも本書で示されている知見は重要だと思います。

 

 目次は以下の通り

序 章 民主政における「政治の話」が果たす役割
 第Ⅰ部 「政治の話」に関する問い
第1章 政治的会話の問い
第2章 政治的議論の問い
 第Ⅱ部 政治的会話の実証分析
第3章 政治的会話の構造
第4章 政治的会話の抵抗感
第5章 政治的会話の動機
第6章 政治的会話と政治知識
第7章 政治的会話と政治参加①──認知レベルの心理変数を媒介とした分析
第8章 政治的会話と政治参加②──態度レベルの心理変数を媒介とした分析
第9章 政治的会話と政治的寛容性
 第Ⅲ部 政治的議論の実証分析
第10章 政治的議論の効果──ミニ・パブリックスに基づく検証
第11章 政治的議論の効果の持続性
終 章 「政治の話」はデモクラシーの資本たりうるか

 

 まず、「政治の話」をどう捉えるかですが、アメリカでも日本でも「あなたは家族や友人と、どの程度政治について話しますか?」というような設問で調査が行われています(26p表1.1、27p表1.2参照) 。

 ただし、このような設問だと「政治」をどのように捉えているかで答えが変わってくるかもしれません。例えば、夫婦別姓の問題でも社会保険料の引き上げでも、これを「政治の話」として捉える人もいれば、そうでない人もいると思います。

 

 ちなみに国際調査である世界価値調査(WVS)によると、政治的会話をする割合を見ると、2017−2022年に行われた第7波調査で、世界平均は65.40%、アメリカが89.02%、韓国が76.22%に比べ、日本は50%台前半と低いですが(32p図1.2参照)、「政治の話はタブー」というわけでもないことがわかります。

 

 さて、「政治の話」とは何なのか? という問題ですが、本書ではトピックモデルによる推定というものを行っています。

 詳しく説明する能力はないので、本書を見てほしいのですが、「あなたは日頃、どのくらいの頻度で、政治について家族や友人などと話しますか?」と訪ねたあとに、「あなたが上記の質問に回答する時に、どのような会話の内容を「政治」として思い浮かべましたか。どんなことでも結構ですので、いかに自由にご記入ください」と質問を重ね、そのデータを分析していきます(58−60p)。

 

 この手法だと調査時期によってさまざまな記述が登場しそうですが、本書では2012年11月〜2013年1月にかけてオンラインで行われた調査を元にして、「政治」に関連するトピックを抽出しています(自由記述の例は65p表3.3参照)。

 その結果、政治的会話に含まれる単語は以下の6つのトピック、「政党」、「選挙」、「政策争点」、「外交」、「景気」、「税金」から生成されやすいと分析しています。

 

 では、これらの話題はタブーなのでしょうか?

 先行研究では「政治の話」には抵抗があると示すものもありますが、本書の調査によれば、「国や政府」の話題はその他のもの、例えば「事件や犯罪」、「自分や家族」、「教育」などに比べて抵抗があるとは言えません(84p図4.2参照)。

 

 第5章では、「人々はなぜ政治的な会話をするのか?」という問題もとり上げています。

 その結果として浮上しているのが「感情共有」という理由で、「議論」や「情報提供・獲得」といった理由を上回っています(94p図5.1参照)。

 

 つづく第6章では「誰が政治的会話を通じて政治知識を獲得するのか」という問題をとり上げ、政治関心が低い人ほど政治的会話を通じて政治知識をお丘獲得していることを明らかにしています。

 

 7章では「なぜ政治的会話が政治知識を高めるのか」という問いから、さらに「政治的会話は政治参加を促進するのか、仮にその効果が認められた場合には、なぜそのような効果が生じるのか」という問いに答えようとしています。

 

 まず、検討されているのが人々が他者との会話から政治情報を獲得しているという「接触仮説」です。

 なんだか当たり前のことを言っているようにも思えますが、政治的会話を交わす他者は家族や友人といった親密他者が大半であり(この傾向は日本だけには限らない)、これが政治的知識を増やすかどうかを検討することには意味があるでしょう。

 もう1つの仮説が他者との政治的会話を交わすプロセスで政治情報に対する精緻化が行われるという「議論による精緻化仮説」があります。これはいわゆる熟議などを想定してもらえばいいと思います。

 そして、多くの先行研究が政治知識は政治参加の主たる規定要因になることを明らかにしていることから、「政治的会話が政治参加を促進する効果は、政治知識に媒介される」という仮説も検討しています。

 

 本書では、2014年4月〜5月に東京都墨田区で行われた調査をもとにこうした仮説を検討しています。

 政治に関するいくつかの問題を出して政治的知識を測定しつつ、政治参加や政治的会話の頻度や様態などを尋ね、それを分析していますが、なかなか複雑な分析がなされていますので詳しくは本書を御覧ください。

 

 分析の結果、異質な情報接触は政治知識を高めることが確かめられましたが、情報の精緻化の効果は確認されませんでした。また、ここでは新聞の購読だけでなく、ポータルサイトYahoo!)の利用が政治知識に正の効果を与えているところが興味深いです(123p図7.4参照)。

 政治的会話→政治知識→政治参加の関係ですが、政治的会話が政治的知識の増大を通じて統治政治参加(献金やカンパ、政治家や有力者への接触など)を促進することが確認されました(125p図7.5、127p図7.7参照)。

 一方、政治的会話は選挙政治参加(選挙や政治の集会への参加、選挙運動の手伝い)が政治的会話によって促進されることは確かめられませんでした(126p図7.6参照)。 

 

 第8章では、政治的会話と政治参加の関係について、「政治に対する心理的距離」という概念を導入して分析しています。

 政治的会話を行うことで、「どこか遠い世界で行われている」という政治のイメージが変わってくるのではないか? というわけです。

 

 ここでも詳しい調査法は本書を見てほしいのですが、政治的会話が政治に対する心理的距離を縮める効果は確かめられています(144p図8.3参照)。

 また、統治政治参加に対する政治的会話の効果はこの調査でも確かめられていますが(144p図8.3参照)、選挙政治参加に対する効果はここでも確かめられていません(147p図8.4参照)。

 これについて、著者は次のように述べています。

 上記の結果は日常場面で交わされる政治的会話が「他者の説得」を目的とする道具的な行為としての役割が小さく、一方で対人間のコミュニケーションを主目的とする自己充足的な行為としての役割が大きいという本書のこれまでの議論と整合的である。(148−149p)

 

 第9章では政治的会話と政治的寛容性の関係が分析されています。

 SNSなどのやり取りを見ていると、政治的会話はむしろ分断につながるのではないか? とも思われるわけですが、日常的な会話はどうなのでしょうか?

 

 本書では「原子力発電所の再稼働問題」という争点を用いて、この効果を分析しています。

 具体的には、自分と反対の意見を言う人の主張を受け入れるかどうかということを訊尋ね、さらに自分が再稼働に賛成か反対かを訊いた上で、自分とは違う立場の他者と横断的会話の経験の頻度についても訊いています(調査は2015年3月)。

 

 結果、横断的会話が異質論拠の正当性を高める(自分とは違う立場の論拠を認める)傾向があることがわかったものの、有意な傾向にとどまっています(165p図9.1参照)。

 また、横断的会話が政治的寛容性高める(自分とは違う立場の主張を受け入れる)、効果は確認されています(165p図9.1参照)。

 

 第10章と第11章ではミニ・パブリックスの効果を検証しています。

 ミニ・パブリックスとは、一般市民を集めて政治的な問題について話し合ってもらう試みのことで、本書では2016年に静岡県で実施された「外国人労働者の受け入れ政策」を議題とするミニ・パブリックスがとり上げられています。

 この試みには331名が参加しており、資料の閲読後、8名程度の集団に分かれて自己紹介とフリーディスカッションを行い、さらに問題についてのさまざまなレクチャーを受けたあと、再びフリーディスカッションをするという流れになっています(トータルでだいたい4時間程度、詳しくは183p図10.2参照)。

 

 こうした流れの中で、何回か調査を行っているわけですが、まず、争点知識については資料の閲読後に大きく上昇し、集団討議後も上昇がみられます(190p図10.4参照)。こうした試みが知識を増やす効果はあると言えます。

 

 次に政治的寛容性が増したかどうかもチェックしています。これは外国人労働者の受け入れに対して寛容になるというのではなく、第9章の原発再稼働のものと同じく、自分とは違う立場の主張を受け入れるか否かです。

 違う立場を指示する他者への感情温度を測定していますが、これは資料閲読だけでは十分に高まらず、集団討議後に有意に高まることが明らかになりました(192p図10.5参照)。集団討議には政治的寛容性を上昇させる効果があると言えます。

 また、傾向としては、資料の閲読だけだと「外国人労働者を受け入れる」シナリオを支持する他者への感情温度のみが高まる傾向がありますが、集団討議後には「受け入れない」シナリオを支持する他者への感情温度も高まる傾向がみられます。

 

 また、一連のプロセスを通じて、排外意識や外国人労働者を経済的に脅威と考える傾向も薄まることが確認できますが、資料閲読だけでは十分ではなく、集団討議を経てその効果がしっかりと確かめられる形になっています(196p図10.9参照)。

 

 最後の第11章では、ミニ・パブリックスで得られた効果がどのくらい持続するのかが検証されています。具体的には、第10章で紹介した調査に参加した人に対して半年後に調査を行っています。

 その結果は、自分とは違った立場の他者への感情温度の高まりや、外国人への排外意識の低減は、半年後にはミニ・パブリックスの参加前と同じような水準に戻ってしまうというものです(205p図11.1、207p図11.3参照)。

 これはミニ・パブリックスに期待を寄せている人には残念な結果ですが、これは本書でとりあげているミニ・パブリックスが4時間程度と軽いものだったからかもしれません。もっと長期にわたる討議やレクチャーであれば、効果が長続きする可能性もあるかもしれません。

 

 このように、本書は「政治の話」という曖昧模糊としたものを何とか実証しようとし、いくつかも興味深い知見を引き出しています。

 もちろん、「政治の話」の中身やその効果についてはさらなる研究が求められるのでしょうが、本書が導き出した「身近な人との政治の話が政治の知識を増やし、政治参加を促す可能性があり」「ミニ・パブリックスは効果があるがその効果は長続きしない」といった知見だけを取り出してみても、十分に意義のあるものでしょう。

 例えば、中学や高校の主権者教育においても、2〜4時間位を使って何かイベント的なことをするよりも、授業において頻繁に政治的話題について触れるほうが効果的なのかもしれません。

 

 実証分析を前面に押し出していてスタイルとしてはとっつきにくいところがあるかもしれませんが、多くの人にとって興味深いであろう知見をもたらしている本です。

 

 

2023年の紅白歌合戦を振り返る

 新年初日から能登半島で大きな地震があって、「今年はどうなってしまうのか…」という状況ですが、今できることをやるしかないので、毎年恒例の紅白歌合戦の振り返りを行いたいと思います。

 

 今年の山場はなんといってもYOASOBIの「アイドル」における、「オールアイドル総進撃」で、しかも、その場に日本のアイドルシーンに君臨してきたジャニーズのタレントがいなかったということでしょう。

 ジャニーズ勢が不在ということで「枠が埋まるのか?」という心配もありましたが、とりあえず枠は埋まった。ただし、ジャニーズ勢の不在がもたらす紅白の変質もあった。ここから「ジャニーズとは何だったのか?」という大きな問いが生まれていくることになるわけですが、その答えについては今後の研究の進展に期待したいと思います。

 

 このYOASOBIの「アイドル」とジャニーズの問題については、さまざまなところですでに論じられていると思うので、ここでは今回のテーマ「ボーダーレス」の中の「ボーダー」について指摘したいと思います。

 

 前回、一段と進んだ歌合戦形式の溶解は今回はさらに進んでおり、紅白のアイドルが入り混じった「アイドル」のあとの登場歌手は、福山雅治MISIAのみ。

 歌手としてMISIA福山雅治であることは明らかなので、当然のように紅が勝つわけです。前回から始まった「蛍の光」→「結果発表」というスケジュールもそうですが、もはや番組制作陣が勝敗を重視していないことは明らかです。

 ですから、紅組と白組のボーダーがないのは当然ですし、尹錫悦大統領の就任以来、好転した日韓関係を反映するかのようにJ-POPとK−POPの間もボーダレスでした。

 

 では、どこにボーダーは残ったのか?

 それは「歌手/タレント」というボーダーです。

 まずは、はまイクの2人。乃木坂というアイドル出身とはいえ、歌の上手さでは定評のある生田絵梨花と、ど素人感丸出しだった濱家隆一。見ている誰もが「歌手ってすごいんだな」と思えたでしょう。

 次に、藤井フミヤ有吉弘行の「白い雲のように」。紅白の舞台で歌をうたうというだけでプレッシャーだったでしょうが、有吉が子どもの頃にすでに大スターであった藤井フミヤとの共演、しかも藤井フミヤが「TRUE LOVE」をかつてと変わらない声で歌い上げたあとの歌唱。宮崎駿高畑勲を前して「私のアニメ論」の発表をするはめになったことに匹敵するような絶体絶命で、その圧倒的な緊張感と「畏れ」が画面越しに伝わってきて印象深かったです。

 

 橋本環奈と浜辺美波は司会をそつなくこなしていましたけど、ディズニーコーナーの歌はそつなくこなしていなかったので、2人とも歌手ではなく女優の道を進んで正解でした。

 ただ、司会に関しては、本来スリルを求める場ではない紅白にスリルを求めて審査員席にいた吉高由里子に期待してしまう自分がいる…。

 

 以下は各歌手の短評。

 

新しい学校のリーダーズ→歌の前半は山本リンダなんだけど、サビで力こぶつくって盛り上がらないところが違うところ。ただ、山本リンダのようなセクシーさがないだけに「不健全」ではある。

すとぷり→NHKホールにいた人は一体何を見せられていたんでしょうか?

純烈→「NHKの社員なのか?」と思わせるほどNHKに愛されている純烈ですが、その愛に応えるQRコードアピール。これは面白かった!

山内惠介→歌はともかく、半裸の芸人たちと商店街を練り歩く演出は面白かった。とりあえず脱げば面白いというのは男性芸人が女性芸人対して履いている下駄ですね。

水森かおり小林幸子もそうだったんですが、豪華衣装は行くつくところまで行ってしまうと驚きがなくなってしまう。そこで生き残りをかけてドミノに転向したわけですが、とりあえずは成功か。

10-FEET→途中でチバユウスケの名前を叫んだところで、もう満足ですよ。

NewJeans→圧倒的だとは思わなかったけど、LE SSERAFIMやMISAMOがアメリカ的な楽曲やダンスを極めているのに対して、ちょっと日本のアイドル文化にも目配せしたような独特な感じがありますね。

Official髭男dism→Nコンの課題曲だというけど、中学生のみなさんはあの音域についていけるのか…?

椎名林檎→「丸ノ内サディスティック」をやってくれたのは良かったけど、あのアレンジだとYOASOBIとかを含めた今のシーンの源流に椎名林檎いる(と思う)ということが伝わらないんじゃないか?

クイーン+アダム・ランバートアダム・ランバートが思った以上によかった。

三山ひろし→サッカーではVARの導入が話題になっていますが、今回のけん玉はVAR的な介入があっての失敗判定。それを読み上げる高瀬アナの適役感。

伊藤蘭→誰もが思ったと思いますが、本人よりもファンの姿に衝撃を受けた。

YOSHIKI→弾き語りの「ENDLESS RAIN」のあと、「Rusty Nail」でドラムセットに座って「歌どうすんの?」と思ったら、そこからHYDE清春松岡充などなど、YOASOBIが「オールアイドル総進撃」だとしたら、「オールV系総進撃」。あと、「孤高の人」みたいなイメージを売りながら、「蛍の光」では前の方でしっかり参加しているYOSHIKIはきっといい人なんだと思う。

あいみょん→「愛の花」はいい歌だし、圧倒的な安定感があるもののややマンネリ化しているMISIAに代わってトリでも良かったかも。トリも育てていかないと。

 

 最初に書いたように紅組の勝利は順当。白組は、北島三郎五木ひろしが抜け、嵐が抜け、氷川きよしが抜けたことで、急速にトリをつとめられる歌手が減ってしまってトリ候補の育成が急務。

 

2023年の映画

 今年はけっこう映画を見た。ただし、その要因は、長女の習い事で暇になってしまった次女を連れ出すためのものが多く、『アイカツ! 10th STORY 未来へのSTARWAY』、『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』、『仮面ライダーギーツ 4人のエースと黒狐』(同時上映のキングオージャーのやつも見た)、『しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE 超能力大決戦』、『映画プリキュアオールスターズF』、『映画 すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコ』と、ブログに感想を書かなかったものも多いです。

 このうち、大人も面白く見ることが出来るのではないかというのが『ドラえもん』と『すみっコぐらし』、ファンムービーとしてよくできているのが『アイカツ!』と『プリキュア』ですかね。

 

 もちろん、子ども向け以外の映画もそこそこ見れたので、一応、順位をつけて5本並べておきます。

 

『バービー』

 

 

 監督が『レディ・バード』と『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』のグレタ・ガーウィグということで期待して観に行ったんですが、期待通りに面白かったです。

 まず、いろいろと解釈したくなる映画ですが、そうした解釈なしでもキュートなマーゴット・ロビーと「ヒロイン力」満載のライアン・ゴズリングは素晴らしいですし、散りばめられているパロディも笑えます。単純に面白い映画だと言えるでしょう。

 グレタ・ガーウィグは今まで、「あるあるネタ」の調理が抜群にうまい作家だと思っていましたが、このように虚構で埋め尽くすような映画を撮っても上手いですね。

 バービーは女の子たちの憧れでもありますが、同時に「バービー」というイメージは、現実にはバービーほど完璧ではない女の子たちを抑圧する存在でもあります。

 バービー人形はさまざまな人種や体系などがつくられてはいますが、本作品は、こうしたバービーの二重性に自覚的で、そのあたりはさすがでした。

 

 

『TAR/ター』

 

 

 本作のサイコホラーっぽい演出とか、脚本とかにはいろいろと言いたいこともあって必ずしもベストの映画だとは言えないと思うのですが、それを補って余りあるケイト・ブランシェットの演技と存在感。 

 ケイト・ブランシェットはこの映画で「マエストロ」と呼ばれる現代のトップ指揮者を演じているわけですが、冒頭のトークショーのシーンから、まさにマエストロにふさわしい佇まいを見せています。

 その後にジュリアード音楽院の指揮者養成コースで、Wokeな若者をやり込めるシーンも完璧で、さすがとしか言いようがないです。

 

 

『キリエのうた』

 

 アイナ・ジ・エンドが主演で、そのバディ的な役として広瀬すずが出ているという情報を聞き、一種の青春音楽映画を想像しながら見に行ったら、かなりガッツリとした震災映画でもありました。

 上映時間が3時間近くある作品になっていますが、これは2つの作品を強引に1つにまとめたような作品だからです。

 そのため、映画としてはやや不格好なところもあるのですが、ラスト近くの青い花をもった広瀬すずが光の中に消えていきそうなシーンは、『スワロウテイル』の看板が釣り上げられていくシーンを思い出すようないいシーン。

 また、本作での東日本大震災へのこだわりとか、松村北斗の使い方とか、新海誠作品との共通点も感じました。

 

 

『ケイコ 目を澄ませて』

 

 

 まず主演の岸井ゆきのが素晴らしく良かったですね。

 本作で演じているのは聴覚障害者の女子プロボクサーという役で、手話も含めて寡黙ですし、とにかく身体で演じなければならないような役なのですが、それを見事にこなしてます。

 撮影前にボクシングのトレーニングをしたそうですが、このボクシングシーンも決まっていて、特にジムでトレーナーとボクシングのコンビネーションのルーチンを繰り返すシーンは素晴らしいです。

 ストーリー的にもう少しメリハリがあってもいいかもしれませんが、岸井ゆきの聴覚障害者の世界の描き方が非常によかったです。

 

 

『怪物』

 

 

 是枝裕和坂元裕二がタッグを組んだ作品。

 永山瑛太や田中裕子といった坂元裕二脚本のドラマにおなじみの面々が出ていることもありますが、ストーリーとしては坂元裕二色が強いものになっていると思います。

 リアルな描写から始まっていって、最終的には寓話的な形に持っていくスタイルも坂元裕二っぽいです。

 一方、大雨の中で泥だらけの車両の窓をふいて中を見ようとするシーンを内側から撮った画の美しさはさすが是枝裕和という感じでしたし、子どもの撮り方は相変わらず上手いです。

 ただ、ラストに関してはちょっと不満もあります。

 

 

 生成AIが話題になっている昨今ですが、今年の映画を振り返ってみるとやはり役者の存在感というのは大きいですね。

 『TAR/ター』にしろ、『ケイコ 目を澄ませて』にしろ、主役が平凡だったら成り立たなかった映画だと思います(マイナーな映画ですが『兎たちの暴走』のリー・ゲンシーもよかった]。逆に『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』はすごい画でしたけど、人がいないぶん、映画の核が弱かったような気もします。

 改めて「人間の魅力」の強さを感じた1年でもありました。

 

2023年の本

 今年は読むペースはまあまあだったのですが、ブログが書けなかった…。

 基本的に新刊で買った本の感想はすべてブログに書くようにしていたのですが、今年は植杉威一郎『中小企業金融の経済学』(日本BP)、川島真・小嶋華津子編『習近平の中国』(東京大学出版会)、ウィリアム・ノードハウス『グリーン経済学』(みすず書房)、リチャード・カッツ、ピーター・メア『カルテル化する政党』(勁草書房)、黒田俊雄『王法と仏法』(法蔵館文庫)といった本は読んだにもかかわらず、ブログで感想を書くことができませんでした…。

 このうち、植杉威一郎『中小企業金融の経済学』はけっこう面白かったので、どこかでメモ的なものでもいいので書いておきたいところですね。

 

 この1つの原因は、秋以降、ピケティ『資本とイデオロギー』という巨大なスケールの本を読んでいたせいですが、それだけの価値はありました。

 

 というわけで、最初に小説以外の本を読んだ順番で7冊紹介し、その後に小説から5冊紹介したいと思います。去年に引き続いて、小説も順位はつけずに読んだ順番で紹介したいと思います。

 ちなみに新書に関しては以下のブログで紹介しています。

 

blog.livedoor.jp

 

 

小説以外の本

 

玉手慎太郎『公衆衛生の倫理学

 

 

 新型コロナウイルスの感染拡大の中で、まさに本書のタイトルとなっている「公衆衛生の倫理学」が問われました。外出禁止やマスクの着用強制は正当化できるのか? 感染対策のためにどこまでプライバシーを把握・公開していいのか? など、さまざまな問題が浮上しました。

 そういった意味で本書はまさにホットなトピックを扱っているわけですが、本書の特徴は、この問題に対して、思想系の本だと必ずとり上げるであろうフーコーの「生権力」の概念を使わずに(最後に使わなかった理由も書いてある)、経済学、政治哲学よりの立場からアプローチしている点です。

 そのため、何か大きなキーワードを持ち出すのではなく、個別の問題について具体的に検討しながらそこに潜む倫理的な問題を取り出すという形で議論を進めており、しかも展開されている議論がわかりやすいのが良いところです。

 

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平野克己『人口革命 アフリカ化する人類』

 

 

 人口に関する基本的な理論を押さえつつ、それに当てはまらないアフリカの動きを分析していくことで、未来の世界を占おうというスケールの大きな本です。

 ミクロな現場を押さえつつも、スケールの大きなマクロ的な話を進めていく議論は著者ならではのもので、文句なしに面白いですね。

 なぜ、世界の多くの地域が少子化に陥る中でアフリカだけは人口の増加が止まらないのか? アフリカではなぜ一夫多妻制が根強く続いていて、それはどのような影響を与えているのか? アフリカの大地は増えていく人口を養えるか? など興味深いトピックに詰まった本です。

 

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東島雅昌『民主主義を装う権威主義

 

 

 アジア・太平洋賞大賞、日経・経済図書文化賞サントリー学芸賞(政治・経済部門)と今年の賞レースを総なめしたような本ですが、やはり面白いですね。

 「民主主義」の反対となる政治体制というと「独裁」が思い浮かびますが、近年の世界では金正恩北朝鮮のようなわかりやすい「独裁」は少なくなっています。多くの国で選挙が行われており、一応、政権交代の可能性があるかのように思えますが、実際は政権交代の可能性はほぼ潰されているような体制の国がけっこうあるのです。

 本書は、そんな国家を分析し、なぜわざわざ選挙をするのか? 選挙をするとしたらどのような選挙をするのか? どのようなときに体制は揺らぐのか? といったことを分析した本になります。

 まずは権威主義の戦略を知る面白さがありますが、同時に権威主義の戦略を知ることで「民主主義のポイント」と言ったものについても考えることができる内容になっています。

 

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岸政彦/梶谷懐編著『所有とは何か』

 

 

 

 私たちはさまざまなものを「所有」し、その権利は人権の一部(財産権)として保護されています。「所有」は資本主義のキーになる概念でもあります。

 同時に、サブスクやシェア・エコノミーの流行などに見られるように、従来の「所有」では捉えきれない現象も生まれています。

 本書は、この「所有」の問題について研究者が集まって書いた本なのですが、まずは冒頭の岸政彦とつづく小川さやかの論文で、私たちが生活していく上でかなり強い足場として認識している「所有」が、ほとんど足場になっていない社会の様子が紹介され、その後に経済学や歴史学社会学の立場から「所有」が論じられています。

 日本に住んでいると貯金通帳の残高こそがもっとも確実なものである(「老後までに2000万円貯めねば!」)と思いがちですが、これらはしっかりとした銀行制度や、それを監督する国の行政、そして通貨の安定などがあって初めて成立するものだということを教えられますね。

 

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大塚啓二郎『「革新と発展」の開発経済学

 

 

 

 長年、開発経済学の研究者として活躍てきた、著者による自らの研究の総決算的な本(ただし、本書の書きぶりをみてると「総決算」というのは早いかもしれませんが)。

 現場、実証、理論を行き来しながら、「何が農業と工業の発展の鍵なのか?」ということを探っていく本で非常に面白いです。

 近年の開発経済学というと、ノーベル経済学賞を受賞したバナジーとデュフロらが進めるRCTを使った研究がさかんですが、著者はRCTだけは国全体の経済を発展させるような理論は見いだせないと考えており、一方、FDI(海外直接投資)に関する研究の分野では、現場を知らない論文が査読で通ってしまい、その研究者が査読者になって無意味な論文が量産されていると、現場から離れてしまっている研究をコラムで手厳しく批判しています。

 総合的でありながら、同時に「熱い」本でもありますね。

 

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トマ・ピケティ『資本とイデオロギー

 

 

 読むのに3ヶ月、ブログ書くのに1月かかりましたが、格闘する価値のある本。

 現代の格差を問題にしていますが、格差縮小の処方箋を示すというよりは、格差を正当化するイデオロギーの歴史を世界的スケールで辿った本になります。

 聖職者、貴族、平民の3層構造という人類の歴史において普遍的にみられる構造から分析を始め、欧米だけではなく、インドや中国やイランやブラジルといった国々の歴史まで辿りながら、社会構造とイデオロギーの変化をみていく凄まじい力技で、そして現在の格差を作り出している財産主義イデオロギーの成立と動揺と再強化を論じています。

 有名になった「バラモン左翼」の話を始め、現代の経済や政治に対する分析も鋭いですし、歴史と社会科学に興味があり、なおかつ根気がある人はぜひ読んでみてください。

 

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横山智哉『「政治の話」とデモクラシー』

 

 

 ピケティ『資本とイデオロギー』のあとに読み終えた本で、まだ感想をかけていないのですが、これは非常に重要な問題に果敢にチャレンジした面白い本だと思います。

 よく「政治と宗教の話はタブー」と言われます。一方で、市民として政治に関心を持つことは重要だと言われ、「政治についてもっと話し合うべきだ」とも言われます。一体、われわれは政治に話をどう扱えばいいのでしょうか?

 本書は、そうした問題に対して、まずは「政治の話」がどのようなものなのかを規定し、次いで身近な人(家族や親しい友人)との会話、ミニパブリックスのようなデザインされた議論も場に分けてその効果を分析しています。

 その結果、親しい人の間では政治の話はタブーではないこと、ミニパブリックスのような場を設定すれば政治などの知識は向上するが、その効果はあまり持続しない可能性があるということなど、いくつかの興味深い知見が示されています。

 まだまだ先は長そうな研究ではありますが、面白い本だと思います。

 

 

小説

 

柴崎友香『わたしがいなかった街で』

 

 

 去年、『寝ても覚めても』を読んで、「おおっ」と思ったので、今年も柴崎友香の小説を何冊か読みますが、この『わたしがいなかった街で』も「おおっ」と思わせる小説ですね。

 前半は戦争の記憶や、遠い場所の戦場がしばしば登場し、「わたしがいなかった街で」というタイトルはそういうことなのか、と思って読み進めていくのですが、後半ではこのタイトルが別の意味をもってせり出してきます。

 柴崎友香の作品では、他にも『千の扉』が面白かったですね。

 

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ウィリアム・トレヴァー『ディンマスの子供たち』

 

 

 国書刊行会の「ウィリアム・トレヴァー・コレクション」の第4弾は、トレヴァー初期の長編になります。

 短編の名手として名高いトレヴァーですが、長編でもその辛辣な人間観察や、平凡な人間に潜む狂気を引きずり出すさまは十分に堪能できます。

 最初は「大人に絡みたがる少し頭の弱い少年」という印象のティモシー・ゲッジという少年の行動がエスカレートしていき、街を揺るがしていく様子はほとんどホラーです。

 

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パク・ソルメ『未来散歩練習』

 

 

 パク・ソルメについては、同じ白水社の〈エクス・リブリス〉シリーズから『もう死んでいる十二人の女たちと』という日本オリジナル短編集が、本書と同じ斎藤真理子の訳で出ています。

 最初は『もう死んでいる十二人の女たちと』のヒリヒリとした世界観とはまったく違って面食らうようなところもあるのですが、途中で、何度も1982年に神学生らが政権打倒と反米闘争を訴えて、一般市民とアメリカをつなぐ役割を持っていた文化学院に放火したという釜山アメリカ文化院放火事件が登場し、この事件の解釈を未来の中に探るような展開になります。不思議な読後感のある小説です。

 

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パク・ミンギュ『カステラ』

 

 

 『ピンポン』、『三美スーパースターズ』などで知られている韓国の作家パク・ミンギュの短編集で、パク・ミンギュが初めての翻訳にもなります。

 そして韓国文学を数多く紹介して1つのシーンをつくったとも言える訳者の斎藤真理子が世に出た作品でもあります。

 そして、パク・ミンギュですから当然といえば当然ですが、面白い。そして面白さの中に泣ける要素もある。高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』などの初期の作品に最も近いのが、このパク・ミンギュのような気がします。

 

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ルーシャス・シェパード『美しき血』

 

 

 全長1マイルにも及ぶ巨大な巨竜グリオールを舞台にしたシリーズ最後の長編にして、ルーシャス・シェパードの遺作と思われる作品になります。

 本作の主人公はリヒャルト・ロザッハーという若き医師であり、グリオールの血について研究しています。

 ロザッハーはグリオールの血から多幸感をもたらす薬を抽出することに成功しますが、その影響なのか、彼の意識は数年の時を超えてジャンプするようになります。

 主人公はいつ意識と記憶が飛ぶかわからない状況で、そういったタイムリミットを意識しながら行動しますし、目覚めるたびに新しい世界が開けていきます。

 そして、だんだんと物語は政治や宗教も含んだような形で展開していくのです。

 ジャンルとしてはファンタジーなのかもしれませんが、ガルシア=マルケスとかバルガス=リョサとかフリオ・コルタサルとかホセ・ドノソあたりのラテンアメリカ文学が好きな人なんかも楽しめるんじゃないかと思います。

 

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2023年ベストアルバム

 毎年やっているので一応やりますが、今年もあんま枚数聞けてない+11月末のチバユウスケの訃報で、そこからチバユウスケ追悼月間になってしまって、ブログでの紹介もできませんでした。

 本当はMr.Children「miss you」やSufjan Stevens「Javelin」も買ったのですが、ブログに書けずに終わっています。

 そんな感じであんまり参考にならないかもしれませんが、とりあえず5枚だけ紹介します(ただし5枚といっても結局全部ダウンロード)。

 

 

1位 Anjimile / The King

 

 

 マラウイ共和国にルーツをもつボストン出身のノンバイナリーのアーティスト、Anjimile(アンジマリ)の2ndアルバム。

 本人が「Giver Takerが祈りのアルバムだとしたら、The Kingは呪いのアルバムだ」とプレリリースの時に述べたそうですが、まさにそういう感じです。

 冒頭の"The King"の途中から一気に世界に引き込まれますね。

 


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2位 Daughter / Stereo Mind Game

 

 

 Daughter、7年ブルのニューアルバム。途中で、ボーカルのエレナ・トンラのソロであるEx:Re名義のアルバムはありましたけど、Daughter本体は本当に久々。

 Ex:Reのアルバムも良かったですが、やはりDaughter本体になると、イゴール・へフェリのギターが加わってさらに良い。

 4曲目の"Dandelion"の後半のギターに電子音を合わせてくるところとかは最高ですね。

 


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3位 崎山蒼志 / i 触れる SAD UFO

 

 

 崎山蒼志のメジャーでの3rdアルバム。

 前作の「Face To Time Case」は"嘘じゃない"をはじめとしてメロディは良かったのですが、ストリングスなどを用いたせいで持ち前のグルーヴ感が隠れてしまったように感じがしましたが、今作はやや地味ながら崎山蒼氏ならではのグルーヴ感が感じられていいですね。

 


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4位 RAYE / My 21st Century Blues

 

My 21st Century Blues

My 21st Century Blues

  • アーティスト:Raye
  • Membran
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 RAYE(レイ)はイギリスのシンガーソングライターで、イギリス人の父親とガーナとスイスをルーツに持つ母親から生まれたそうです。2010年代半ばから活動をしており、注目も浴びていましたが、今作が初のフルアルバムになるそうです。

 タイトルは「Blues」となっていますが、前半の曲はダンスミュージック色も強く、そこにさまざまな音楽的な要素が盛り込まれています。そして、それをすべて歌いこなしており、上手いですね。

 


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5位 Sufjan Stevens / Javelin

 

 

 Sufjan Stevensのニューアルバムですけど、相変わらずの良さがありますね。

 チバユウスケの訃報のあとに聴きましたが、そういった沈んだ状態でも沁みます。

 以下で紹介している"So Yo Are Tired"もとっても沁みます。

 


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トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』

 本書を「『21世紀の資本』がベストセラーになったピケティが、現代の格差の問題とそれに対する処方箋を示した本」という形で理解している人もいるかもしれません。

 それは決して間違いではないのですが、本書は、そのために人類社会で普遍的に見られる聖職者、貴族、平民の「三層社会」から説き始め、ヨーロッパだけではなく中国やインド、そしてイランやブラジルの歴史もとり上げるという壮大さで、参考文献とかも入れると1000ページを超えるボリュームになっています。

 

 ここまでくるとなかなか通読することは難しいわけですが(自分も通勤時に持ち運べないので自宅のみで読んで3ヶ月近くかかった)、それでも読み通す価値のある1冊です。

 本書で打ち出された有名な概念に「バラモン左翼」という、左派政党を支持し、そこに影響を与えている高学歴者を指し示すものがあるのですが、なぜそれが「バラモン」なのか?

 そして、本書のタイトルに「イデオロギー」という古めかしい言葉が使われているのはなぜか? 

 こうした問題は前半部を含めて読むことでクリアーになってくると思います。

 

 本書のラスト近くに次のような文章がありますが、これが本書の1つの主張になります。

 あるゆるイデオロギーには独自の弱点があるが、同時に、どの人間社会も格差に意味を与えるイデオロギーなしには生きられない。これは将来も変わることはない。とりわけ超国家的スケールにおいては。(923p)

 

目次は以下の通り。

 

はじめに

第I部 歴史上の格差レジー

第1章 三層社会──三機能的格差

第2章 ヨーロッパの身分社会──権力と財産

第3章 所有権社会の発明

第4章 所有権社会──フランスの場合

第5章 所有権社会──ヨーロッパの道筋

第II部 奴隷社会、植民地社会

第6章 奴隷社会──極端な格差

第7章 植民地社会──多様性と支配

第8章 三層社会と植民地主義──インドの場合

第9章 三層社会と植民地主義──ユーラシアの道筋

第III部 20世紀の大転換

第10章 所有権社会の危機

第11章 社会民主主義社会──不完全な平等

第12章 共産主義社会とポスト共産主義社会

第13章 ハイパー資本主義──現代性と懐古主義のはざまで

第IV部 政治対立の次元再考

第14章 境界と財産──平等性の構築
第15章 バラモン左翼──欧米での新たな亀裂

第16章 社会自国主義──ポスト植民地的アイデンティティの罠

第17章 世紀の参加型社会主義の要素

結論

 

 まず、問題として示されているのが格差の拡大であり、「バラモン左翼」の問題です。

 以下に示す41pの図Ⅰ−9からもわかるように、米の民主党や仏の左翼政党はかつては低所得者・低学歴者の政党でしたが、学歴に関しては70年代から、所得に関しては2010年代から変わってきており、高所得者・高学歴者の政党になりつつあります。

 

 

 1940〜70年代にかけて、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本において格差は大きく縮小しました(33p図Ⅰ−6参照)。

 戦争とともに、ヨーロッパでは左派政党が、アメリカでは民主党が格差を縮小させるような政策を推し進めたわけですが、その支持基盤が高学歴化・高所得化しているということは、その推進力が弱まっていることを予想させます。

 実際、低学歴層・低所得層は、左派政党ではなく、移民などを問題視する極右政党(本書ではあとで「社会自国主義」という言葉が出てくる)に流出しており、これが大きな問題となっています。

 

 では、なぜこうなってしまっているのか? 

 本書はその答えを探すために歴史を大きく遡っていくのです。

 

 多くの社会は本書で「三層社会」と呼ばれる構造を持っていたといいます。

 これは聖職者、貴族、平民で構成され、聖職者は知識と規範を提供し、貴族は軍事力を提供し、平民は生産活動を行います。フランス革命前の第一身分〜第三身分の話を思い出しますが、多くの社会がこのような構造を持っていました。

 

 聖職者と貴族の割合はしゃかいによって違いますが、フランスでは14〜17世紀にかけては聖職者が1.5%弱、貴族が2%程度、合わせて3.5%弱ほどだと推定されていますが、この数値はフランス革命に向けて減少しています(82p図2−1参照)。

 ちなみにフランスはカトリックであり、カトリックの聖職者は妻子を持てないために、その規模は小さくなりやすいといいます。

 

 1780年の時点で、フランスでは貴族と聖職者が土地の半分近くを所有していました。

 スペインでは1750年にまとめられたエンセナーダ土地台帳によると、協会が農地の24%を所有していました。エチオピア教会は1700年にはエチオピアの土地の30%近くを所有していたといいます。(93p)

 さらにこの規模感は、以下の引用にあるように現代にも通じるものがあります。

 

 教会がアンシャン・レジーム保有していた全財産の約30%という数字は、2010年代末の中国政府(実質的には中国共産党が支配している)の保有する国家資本のシェアに近いことにも留意しよう。明らかに21世紀初めの中国共産党アンシャン・レジームカトリック教会は、まったくちがう種類の組織で、その正統性もまったくちがう起源からきている。だがいずれも野心的な経済開発と社会統制を特徴としており、それは莫大な富というしっかりした基盤なしには実行できないものなのだ(96p)

 

 フランスでは、1789年の革命を機にこの三層社会が解体されます。

 ここで廃止されるべき特権と、維持されるべき特権が検討されたわけですが、基本的には領主権(安全保障、司法、正当な暴力)と財産権に分けられ、前者が国家が独占する一方で、後者は国家の保護を受けることになりました。

 教会への十分に一税も廃止され、さらに教会財産は補償なしに国有化されました。教会の提供していたサービスのうち、教育や病院などは国家に引き継がれていくことになります。

 

 領主の持っていた労働賦役の権利などは撤廃されましたが、地代は残りました。

 また、所得や資産に対する本格的な累進課税は導入されなかったために、アンシャンレジームは撤廃されたものの、新しい財産主義レジームというべきものが出来上がりました。

 

 革命は財産の再分配をもたらしはしませんでした。トップ1%のシェアは1780〜1800年にかけてやや低下したものの、その後はじりじりと1910年まで上昇を続けています(131p図4−1参照)。

 フランス革命の理念は自由、平等、博愛でしたが、経済的平等に関しては革命も大きな進歩をもたらさなかったのです。

 

 第5章ではヨーロッパ各国を比較しながら、所有権社会の成り立ちを見ていってます。

 まず、イギリスやフランスに比べると、スペインの聖職者階級の比重は高く、しかも減り方も遅いです(161p図5−1参照)。

 貴族階級を見ると、18世紀後半のデータで、スペイン、ポルトガルポーランドハンガリーといった国々がイギリス、フランス、スウェーデンといった国々よりも大幅に高くなっています(164p図5−2参照)。

 このあたりは所有権社会に移行できた国と、移行が遅れた国の違いとして分析されています。

 

 イギリスでは早い段階から貴族は財産貴族となっており、貴族院を中心にしてその権利を守るための立法(囲い込み法)などを行ってきました。

 ピケティは「貴族院は、18−19世紀に台頭した所有権社会の中で生き残った三機能秩序の名残と見るよりは、新しい財産主義秩序と富のハイパー集中の守護者と見るほうが有意義」(178p)と考えています。

 こうした貴族院の牙城が崩れていくのが19世紀後半の選挙権の拡大や累進課税の導入ですが、この流れの中でピケティは1872年の記名投票の廃止を1つのポイントとして考えています。

 また、アイルランド問題が財産主義イデオロギーを揺るがしたとも見ています。

 

 今でこそ「平等」のイメージが強いスウェーデンも、20世紀初めまではガチガチの財産主義で、1865〜1911年の選挙制度では最も貧しいグループの成員が1票を投じるのに対して、最も豊かなグループの成員は54票投じることができました。

 この仕組みは1911年の選挙改革で終わり、1920年代からSPAが政権を取ると、この状況は革命などをなしに一気に変わっていきます。

 そして、財産の集中度合いも1920年頃から大きく低下していくのです(197p図5−5参照)。

 

 さらにピケティはヨーロッパ以外の歴史も探っていきます。

 第6章では奴隷社会がとり上げられていて、奴隷廃止時に起こったことなどもとり上げられてます。ハイチの問題は、浜忠雄『ハイチ革命の世界史』岩波新書)にも書かれていますね。

 イギリスやフランスでは奴隷廃止時に奴隷主への金銭的補償がなされましたが、アメリカではそれは難しく(当時の奴隷の市場価値は米国全体の年間所得の100%に近かったという(236p)、戦争という暴力的な解決方法がとられました。

 

 第7章では植民地社会がとり上げられています。

 植民地社会で目立つのはその格差で、1780年のサン=ドマング(ハイチ)ではトップ10%が国民所得の80%以上を得ており、1930年のアルジェリアではトップ10%が国民所得の70%弱を得ていました(259p図7−2参照)。

 植民地社会においてトップ1%が持っていた富は本国に比べて多いわけではありませんでしたが、トップ10%のシェアは本国よりも多かったといいます。植民者と地元民の格差がはっきりとしていたのです。

 

 19世紀後半から第一次世界大戦にかけて、イギリスやフランスは植民地を通じて巨額の外国資産を積み上げました。

 第一次世界大戦直前にはイギリスで国民所得費で180%超え、フランスで120%超えとなっており、2010年代なかばの日本の80%という数字を遥かに上回っています(276p図7−9参照、ちなみに日本に関しては産油国と同じように外国資産を積み上げた国として分析されいる。そして、そろそろ転換点だろうとも(282p))。

 これがイギリスやフランスの特定の階級の生活水準を大きく押し上げました。

 

 第8章ではイギリスの植民地でもあったインドがとり上げられています。

 インドはいわゆるカースト制度によって、前近代の三層構造ががっしりと固まっていた地域で、また、未だにそれが影響力を持っている地域でもあります。

 

 インドは非常に人口の多い地域で、1700年の段階で中国が1.4億人、ヨーロッパが1億人だったのに対してインドは1.7億人いたと言われます。

 インドの階級社会を規定したものとして『マヌ法典』があります。『マヌ法典』では人々をバラモンクシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの4つのヴァルナに分類していますが、シュードラをヨーロッパの農奴のようなものと考えれば、三層構造に当てはまります。

 

 バラモンは支配階級として位置づけられましたが、同時に高い道徳と菜食主義を求められました。

 さらにインドでは世襲の職業などをもとにジャーティを呼ばれる職業集団が成立し、これをイギリスがジャーティをヴァルナの枠組みに押し込めたことで、混乱した形で「カースト制度」なるものが理解されることになりました。

 

 イギリスの植民地支配が進む前のインド社会はかなり流動的でしたが、ムガール帝国崩壊とそれに伴う軍事行政エリートを核にしたヒンドゥー王国が台頭すると、バラモンはこうした集団と手を組みながら、古いヴァルナのイデオロギーを利用して、自らの権威を確立しようとしていきます。

 

 ピケティは、インドのカースト制度を歴史的にずっと続いてきたものではなく、イギリスの植民地支配のなかで再構築されたものとみています。

 当時のインド社会で重要なのはジャーティでしたが、イギリス人にはその複雑さを受け入れながら国勢調査などをする術を持たず、ヴァルナによって区分しようとしたのです(ただし、それもうまくはいかなかった)。

 こうしたこともあってインドにおけるバラモンの割合は1870〜2014年にかけて、5%台後半〜6%台後半とあまり変わらない割合を保っています(340p図8−4参照)。

 

 インドでは1947年の独立後に大規模なアファーマティブ・アクション政策を採用しますが、指定カースト(SC)、指定部族(ST)と呼ばれる人々、さらにその他後進階級(OBC)という区分をつくり、大学の入学枠や公職の割当をおこなったのです。

 こうした政策によってインドの低位カースト(SC+ST)のその他の人口に対する所得は改善しました(351p図8−6参照)。

 ただし、インドでは農地改革などは行われず、財産レジームに対しては大きな改革は行われませんでした。

 

 第9章ではその他のユーラシアの帝国がとり上げられています。

 まず、362pの図9−2を見ると、1600年頃まではイングランドやフランスと中国帝国やオスマン帝国の国民一人あたりの財政再入にそれほど差がなかったものの、18世紀、19世紀になってくると大きな差がついていることがわかります。

 中国やオスマンでは国民所得の1〜2%程度しか財政収入を集められなかったのに対して、イングランドやフランスは6〜8%を税として徴収しています。

 ここから中国やオスマン帝国夜警国家の役割も果たせないような国家だったことがわかります。

 ただし、これは中国やオスマン帝国ではヨーロッパに比べて戦争が少なく、それほどの財政収入を必要としなかったということでもあります。

 

 この章では日本についてもとり上げられていますが、江戸時代は戦士階級が強い優勢性を獲得していたことに特徴があるといいます。

 江戸時代の日本と16〜18世紀のヨーロッパを比較すると、戦士階級の割合は大きいが、神官・僧侶などの宗教階級は少し小さくなります(378p図9−3参照)。

 また、ピケティは明治の経験をもとに、「日本の経験は積極的な政策、特に公共インフラと教育投資が、長年のきわめて強力な身分格差をわずか数十年で克服できることも示している」(380p)と述べています。 

 

 次に中国についても分析していますが、中国に関しては儒学を学んだ学者や知識人を僧侶階層として捉えています。

 中国は知識人エリートを科挙を通じて養成したわけですが、中国の官吏数はかなり抑えられており、19世紀半ばの清朝では帝国と地方の役人はわずか4万人ほどで、人口(4億)の0.01%にすぎませんでした。

 さらに公職の半分程度は旗人(満州族の戦士)に割り当てられており、知識エリートと戦士エリートは競合関係にもありました。

 さらに本章ではイランについても言及しています。

 

 第10章では、20世紀前半の格差が劇的に縮小した局面を見ていきます。

 本章ではさまざまなグラフによって格差の縮小が示されていますが、1910年〜1980年にかけてアメリカでも西ヨーロッパでも、基本的に格差が縮小するトレンドが見られます。

 もちろん、大きな要因としては2度の世界大戦があるわけですが、本章では具体的にどのような要因が格差を縮小させたのかも分析しています。

 やはり大きいのはかなり強い累進課税の導入で、相続税の強化と相まって、富裕層がその富を維持し続けることを難しくしました。

 

 また、この時期には戦争以外にも、ボリシェヴィキ革命、世界恐慌といった出来事が起こっており、これらが財産主義イデオロギーを弱めました。共産主義革命よりは高率の税と社会福祉のほうがまだマシだという判断もはたらいたのです。

  

 第11章では20世紀前半に力を持った社会民主主義が検討されています。

 アメリカでは民主党、イギリスでは労働党、ドイツでは社会民主党が力を持ち、社会民主主義的な政策が行われていきますが、各国による違いも大きかったといいます。

 例えば、ドイツやスウェーデン社民主義は共同経営という方向に向かいましたが、フランスやイギリスは国有化にこだわって共同経営には向かいませんでした。

 結果的に70〜80年代に国有化が挫折したことで、フランスやイギリスの労働者の影響力は後退することになります。

 

 アメリカに関して、ピケティは、19世紀〜20世紀前半でのアメリカの躍進の要因は初等中等教育の充実だったと考えています。1870年の教育への公共支出は米国で国民所得の0.7%だったのに対して、仏で0.4%以下、英で0.2%以下でした。1910年では米1.4%、仏1%、英0.7%になります(494−495p)。

 

 しかし、アメリカでは1970年代以降、底辺50%の所得がほとんど伸びなくなり、格差の拡大が続きました。

 また、現在のアメリカの高等教育に関しても、大学の国際ランキングのトップ20をみるとアメリカの大学が圧倒的優位ですが、トップ100、トップ500となるとそうでもないといいます。「米国最富裕の大学の国際的名声が、国内の制度全体の不均衡を覆い隠しているようだ」(508p)というわけです。

 そして、トップ校での母校への寄附者の子弟を優遇する制度などと相まって格差の拡大を後押ししているのです。

 

 ピケティはヨーロッパの社会民主主義の失敗の1つとして、十分な国際協調を行えなかったことをあげています。

 社会民主主義政権はECにおいて、共通の税制政策を進めるための努力をしませんでした。結果的に80年代以降の法人税ダンピング競争を招いてしまいます。

 さらに本章の後半では資産税について検討されています。

 

 第12章では共産主義国家とその後がとり上げられています。

 ソヴィエト型の共産主義は財産主義イデオロギーに対する最も急進的な挑戦でした。しかし、その劇的な失敗が財産主義イデオロギーを強化したとも言えます。

 共産主義の失敗の要因はさまざまありますが、ピケティは私有財産の廃止に伴う複雑な問題に対処する備えが決定的に欠けていたことが問題だったと考えています。

 問題の対処には慎重さ、分権化、妥協、実験精神が必要でしたが、これらは特にスターリン体制では著しく欠けていました。

 

 共産主義は確かに格差を大きく縮小させましたが(547p図12−1、548p図12−2参照)、西ヨーロッパの対する平均国民所得の比は60%台で頭打ちになり(549p図12−3参照)、生活環境の向上も止まってしまいました。

 

 共産主義の失敗の印象が強かったこともあり、ポスト共産主義者会は格差の拡大に対して鈍感な社会になりました。

 「ちなみにロシアほど累進課税という考え自体を排除した国はない」(558p)とあるように、共産主義時代に累進課税の仕組みなどがなかったこともあり、市場経済への移行が進められたにもかかわらず、格差を縮小させるような税制はつくられませんでした。

 ロシアではタックスヘイブンへの巨額の資本逃避も起こり、国有資産を奪った泥棒たちはその資産を海外へと移してしまいました。

 

 中国でも経済の自由化が進みましたが、ピケティは中国の私有化の進展について次のように捉えています。

 

 主な結論は、公有資本のシェアは経済改革が始まった1978年の中国では70%近くあったが、1980、90年代に急減し、2000年代なかば以降は30%前後で落ち着いていることだ。言い換えれば、中国の財産の漸進的な私有化は2005-2006年に終わった。(569p)

 

 ただし、これは1970年代末のイギリスやドイツと変わらない水準で、中国が一種の混合経済のスタイルで落ち着いたということを示すものかもしれません。

 とは言っても、中国では西側諸国のかつての混合経済とは違って、格差の拡大は容認されています。中国のトップ10%の純国民所得に占めるシェアは1980年には平等なヨーロッパの国よりも低いくらいでしたが、2000年以降急速に高まって、アメリカに迫る水準となっています(577p図12−8参照)。

 さらに中国には相続税というものがありません。ですから皮肉にも次のようなことも言えるのです。

 

 こうして21世紀初頭にきわめて逆説的な状況に直面する。相続税ゼロで資産を相続させたいアジアの億万長者は共産主義中国に移住すればよい。その良い例が香港で、イギリス植民地時代は高い相続税があったが、1997年の中華人民共和国返還後間もない2005年に廃止された。(580p)

 

 東ヨーロッパにおいて、ポスト共産主義の混乱はロシアよりは少なかったと言えます。所得の格差もロシアのようには広がりませんでした。

 また、多くの国がEUに加盟し、EUからの資金が流れ込んできましたが、以下のような問題もあります。

 

 東欧諸国はEU基金から2012〜16年の間にGDPの2〜4%に相当する純給付を受け取っているが、海外への資本の流出も大きく、2010〜16年まででGDP比で平均4〜7%にあたり、EU基金からの流入を大きく上回っている。(596-597p)

 

 EUからは資金が流れ込んでいても、資本がドイツやフランスの投資家などに吸い上げられている状況があるために、「反EU」的な動きがおさまらないのです。

 

 第13章では、現在の世界の格差を再確認しています。

 2018年時点でのトップ1%と底辺50%のシェアを見てみると、中東>米国>中国>ヨーロッパという形で格差の大きい社会になっています(607p図13−4参照)。

 中東の圧倒的な格差については、「石油王家が欧米の武器を購入し、欧米のスポーツチームや大学に資金援助をしている」(610p)ため、欧米からみても都合のいい状況になってしまっています。

 

 さらに本章では炭素排出量の格差、富を計測するデータの不透明性の問題、公式統計の劣化、タックスヘイブンの問題、家父長制の問題などを指摘しています。

 例えば、2014年から欧州委員会の委員長に就任したジャン・クロード・ユンケルはルクセンブルクの首相でしたが、ルクセンブルクは大企業と秘密の協定を結んで税率を密かに低くしていたといいます。

 

 本章ではリーマン・ショック以後の中央銀行のバランスシートの拡大についても触れられていますが、ピケティはこの効果をそれなりに評価しつつ、これはアメリカの議会やEUが機能不全になっている裏返しともみています(立法措置や予算措置が難しいので中央銀行がやるしかない)。

 

 最後に近年の億万長者への賛美についても触れ、以下のように述べています。

 

 ビル・ゲイツジェフ・ベゾスマーク・ザッカーバーグが独力でコンピュータ、本、友達を発明したと信じている人もいるようだ。彼らはどんなに金持ちになろうと十分でなく、地球の慎ましい人々は彼らがもたらしてくれた恩恵に対し、いくら感謝してもしきれないと考える人もいる。彼らを擁護するために、ロシアの邪悪なオリガルヒとシリコンバレー出身の素敵な起業家とは明確に区別され、両者を結びつけるものは意図的に忘れられる。だが両者は、都合のよい準独占状況、最大のプレーヤーに都合のよい法と税制、公共資源の私物化などでかなり共通しているのだ。(658p)

 

 第14章では、こうした格差の拡大の中での政治が分析されています。

 

 以下に載せた687p図14−9のグラフから、フランスでは、1973〜95年の間に、左派政党が低学歴者よりも高学歴者に支持される政党に変化していることがわかります。

 

 

 また、イギリスやフランスにおける所得上位50%と下位50%お投票率の差は80年代から拡大傾向にあり、アメリカでは低所得者、特に黒人が有権者登録を妨害されているような現状もあります。

 左派政党が低所得者を代弁していた時代は去り、低所得者は政治から疎外されつつあるのです。

 

 もっとも、左派政党は若者に好まれやすく、若者は年長者に比べて高学歴だという要因もあります。ただし、年齢などの要因を調整しても、今世紀になってからは高学歴ほど左派政党に投票しやすいという傾向があります(691p図14−11参照)。

 

 この要因としてピケティは「社会仮説」と「自国主義仮説」(大衆階級が人種差別や反移民という考えに引っ張られている)が考えられるとしていますが、ピケティがより重視しているのが社会仮説です。

 

 社会仮説とは、「教育面で恵まれない階級が、左派政党はいまや慎ましい出自の人々より、高学歴で恵まれた新興の階級やその子弟を指示していると信じるようになった」(695p)というものです。

 ここで「バラモン左翼」という言葉が出てきますが、左派政党は「バラモン左翼」の政党になったというわけです。

 

 現在の社会において、かなり早い時期から選抜が始まり、できる子は「いい学校」へと進んでいきますが。教育予算はそういった「いい学校」につけられています。

 

 全体として、教育システム(初等、中等、高等)を通じた全リソース配分を見ると、現在の仕組みでは、底辺50%の子供に比べると、トップ10%の子供には1人当たり3倍近い公共支出が行われているのがわかる。(698p)

 

 とあるように、現在のシステムでは「できる子」は良い環境と良い教師のもとで学び、「できない子」はそうでない傾向があります。そして、この「できる/できない」は家庭の所得によって大きく左右されるのです。

 

 では、右派が庶民に優しい政党になったかというとそういうわけではありません。 

 トップ10%を超えるような高所得者は右派政党に投票する傾向があり(704p図14−12参照)、さらに資産でいくとその傾向はよりはっきりします(706p図14−13参照)。

 本書では「商人右翼」と呼ばれていますが、右派政党は相変わらず財産主義イデオロギーを守る政党です。

 

 右派と左派について、ピケティは次のように述べています。

 

 両者はある種の特徴も共有している。たとえば既存の格差レジームについての保守主義なのだ。バラモン左翼は、学術的な努力と才能を信じている。商人右翼はビジネスの努力と才能を強調する。バラモン左翼は学位、知識、人的資本を蓄積する。商人右翼は現金、金融資産を蓄積する。両者はある点では意見を異にする。バラモン左翼は商人右翼よりは少し高めの税金を支持するだろう。でもそれは、自分がこだわりを持つリセ、グランセゴールや文化芸術機関のための資金だ。だがどちらとも既存の経済的な仕組みとグローバル化に強くこだわっている。それは基本的には知的エリートと経済金融エリートの双方の利益にかなうものだからだ。(709−710p)

 

 ただし、右派が反移民などの自国主義イデオロギーを唱えていることから、例えば、フランスのイスラム教徒は左派政党に投票しています(716−717p図14−16、14−17参照)。

 アメリカの黒人が民主党に投票し、イギリスのイスラム教徒が労働党に投票するのも似たメカニズムと考えられます。

 

 自国主義と国際主義というのもヨーロッパにおける政治の対立軸の1つですが、ヨーロッパではEUが金持ち減税の正当化に利用されたことから(EUは租税の引き下げ競争を放置した)、中間層や大衆層を自国主義に走らせているといいます。

 

 第15章のタイトルはズバリ「バラモン左翼」ですが、基本的な論点は第14章で出ているので、バラモン左翼について知りたい人は第14章から読むといいでしょう。

 

 ここでは第14章においてフランスに対して行われた分析が、アメリカに舞台を移して行われています。アメリカでもやはり民主党支持者の高学歴化の傾向がありますが、さらにアメリカでは人種的アイデンティティが強くはたらいているのが特徴です。

 アメリカのあとはイギリスについても同じような分析がなされています。 

 

 第16章では「社会自国主義」という、近年さまざまな地域で見られる右派的な権威主義的な政治スタイルについて検討しています。

 これは、左派政党が教育の拡大(教育格差の拡大でもある)と経済のグローバル化にうまく対応できない中で育ってきた考えです。

 

 例えば、ポーランドハンガリーでは、経済の自由化やグローバル化の進展に伴う混乱の中で、家族手当などの社会政策を行い、同時にナショナリズムを喚起するような政党が政権につきました。

 そして、イタリアなどでもEUの財政規律などへの反発をテコにして、こうした政党が政権を取りました。

 

 ただし、これらの勢力は反税金のプロパガンダに頼ってきたこともあって、累進課税の強化には及び腰で、格差の本格的な縮小に取り組む気配は薄いです。

 結局、社会自国主義は市場自国主義的なイデオロギー(トランプがまさにそう)に行くつく可能性が高いと言えます。

  

 そして、以下に述べるように、国際協調主義を掲げているイメージのあるマクロン政権の政策も実はトランプ政権の政策に近かったりします。

 

 驚かされるのは、トランプとマクロンの2017年税制改革がきわめて似ていることだ。フランスでは、前出の連帯富裕税(ISF)の廃止に加えて、新政府は法人税を33%から25%に徐々に引き下げ、配当所得と金利所得への税率を30%に下げた(これは最高税率への55%への税率にかわるものだ)。トランプのような自他ともに認める自国主義政府が、マクロンのようなもっと国際主義のはずの政府と似た税制を採用するのは、政治的なイデオロギーと手口がかなり収斂してきていることを示している。レトリックはちがっている。トランプは「雇用創出」をほめそやし、マクロンは「ザイルのトップ」と言いたがる。だが根底にあるイデオロギーは同じだ。万人の万人のための競争のために、最も可動性の高い納税者の税を減税し、大衆はイノベーションと繁栄をもたらす新慈善実業家を讃える必要があるというわけだ。(809p)

 

 フランス大統領は正反対の賭けをしている。彼は権力にしがみつくために、反対者に自国主義や反グローバル主義のレッテルを貼っている。フランス人の大半は寛容性と開放性を信じていて、したがって決断のときが来たら、社会自国主義者に反対票を投じてくれると考えて、そちらに賭けているわけだ。(実際には社会自国主義者はトランプ式の市場自国主義者になっているだろうが)。その奥底のところで、この二つのイデオロギーは基本的に、金持ち向けの減税以外に道はなく、進歩派と自国主義者の亀裂がいまや政治的対立の唯一の軸なのだという可能性に賭けている」(810p)

 

 社会自国主義を乗り越えるのは、何らかの社会連邦主義が必要だとピケティは考えています。

 そして、ヨーロッパにおいてはEUの改革や強化によってそれができるはずなのですが、加盟国すべての足並みが揃うのはなかなか難しく、ピケティは希望する国の間で欧州集会(EA)をつくることなどを提案しています。

 

 また、この章では、カタルーニャの分離主義が経済的な面から分析されています。

 一般的には民族や歴史が持ち出されることが多いですが、分離に賛成しているのは高所得層が多く、それはスペインからの分離+EUの枠に留まることでカタルーニャの富を自分たちのために使えるからです。

 スペインでは所得税中央政府と地方政府で折半されており、独立することでこの所得税を自分たちのために使え、さらにEUに残留しつつ法人税を下げてルクセンブルクのような国を目指すことも可能で、これが高所得層にとって分離を目指すインセンティブになっているというのです。

 このようなある種のタダ乗りを防ぐためにも、EUにおける連帯の強化が必要だというのです。

 

 さらに本章の後半では、インドの政治が分析されています。

 インドではずっとINC(インド国民会議)が支配的だったところに、近年、BJP(インド人民党)が台頭し、政権を奪取したわけですが、高カースト層の支持がINCからBJPに移ってきているといいます。一方、低所得者ヒンドゥーナショナリズムから疎外されているイスラム教徒はINCを支持しています。

 先述したように、インドにはかなり強いアファーマティブアクションがあるのですが、これに反対するのが高カーストです。BJPはこの反感を取り込みつつ、同時にヒンドゥーナショナリズムによってイスラム教徒への敵対心を煽ることで、幅広い支持を調達使用路しているのです。

 

 こうした社会自国主義的な動きを「ポピュリズム」という言葉で分析しようとすることに対して、ピケティは次のように反対しています。

 

 この概念(ポピュリズム)はあまりにしばしば、政治アクターが自分の気に入れないことを指し示し、それと一線を画するために使われる。反移民政党や、外国人をスティグマ化しようとする政党は「ポピュリスト」とみなされるべきだと考えられている。

 だが、金持ちに高い税金を払うように求める主張も「ポピュリスト」と呼ばれる。そして、公債を全額償還しない可能性に言及する政党は、まちがいなく「ポピュリスト」と呼ばれる。実際、この用語は、社会的に明らかに恵まれた階級のための最終兵器になっており、彼らの政治的選択や主張を批判するあるゆる資格を、前もって否定するために使われている。(866p)

 

 第17章において、ピケティは目指すべき「参加型社会主義」の構想を示しています。

 具体的な政策も並んでいますが、これまでの歴史や現状に対する分析に比べると、処方箋はややあっさりとしていると感じるかもしれません。

 例えば、アンソニー・B・アトキンソン『21世紀の不平等』や、エマニュエル・サエズ/ガブリエル・ズックマン『つくられた格差』のほうが、格差をなくすための処方箋の解説としては充実しています。

 

 これはおそらく、本書の目的が格差をなくす処方箋を示すことではなく、現在の格差を正当化しているイデオロギーを明らかにすることにあるからでしょう。

 最後に冒頭に引用した文章をもう1度示しておきますが、現在の財産権レジームが、政治的・社会的に創り上げられてきたものだということを示すことによってこれを相対化し、さまざまな可能性を拓くことに本書の意義はあるのでしょう。

 読み切るのは大変ですが、間違いなく格闘する価値のある本ですね。

 

 あるゆるイデオロギーには独自の弱点があるが、同時に、どの人間社会も格差に意味を与えるイデオロギーなしには生きられない。これは将来も変わることはない。とりわけ超国家的スケールにおいては。(923p)

 

 

 

『屋根裏のラジャー』

 公開2週目にして、シネコンではけっこう小さめの劇場になってしまっていますが、同じスタジオポノックの前作『メアリと魔女の花』に比べると、かなりいいと思います。

 『メアリと魔女の花』の大きな欠点であった、魅力的な脇のキャラクター(特に人間以外)が皆無という問題に対して、今作ではピンクのカバの小雪ちゃんや骨っこガリガリ山田孝之が自部位声を出している猫のジンザンと、魅力的なキャラがいろいろといますし、アニメーションのクオリティは相変わらず高いです。

 

 キャラの絵はジブリのものよりも絵本っぽい陰影を感じさせる絵で、動かすのはけっこう大変だと思うのですが、最後までクオリティを落とさずにいっています。

 アニメ的にも冒頭の想像の世界からはじまり、現実世界の描写、イマジナリーの世界の描写、どれも平板にならずによくできていると思います。

 シナリオ的にも子どもと一緒に見ている親には響くシーンがあり、親にとっては「泣ける」映画でもあると思います。

 

 ただ、やや「親向け」というか、子どもが置いていかれている部分もありますね。例えば、「忘れない」とか「守る」とかいう文字は漢字じゃなくてひらがなで表記すべきだし(すごく重要なシーンだけど小1の子どもは読めなかった)、エンディングテーマも洋楽ではなくて日本語の歌にすべきでしょう。

 

 このあたりは子ども向けTVアニメからの叩き上げだった宮崎駿などの世代と、アニメを年長者も当たり前のように見るようになった世代の違いとも言えるかもしれません。

 脚本も何か大きな穴があるわけではないのですが、もうちょっと子どもに引っかかるような工夫ができたかもしれません。

 とは言っても、一緒に見に行った小1の娘もけっこう笑っていたので、子どもが見てつまらないということはないと思います。

 

 やはり、オリジナルキャラで家族揃って楽しめる映画というのはかなりハードルが高いのだと思います。

 これが『クレヨンしんちゃん』のようなキャラが立ちまくっている原作ものだと、ストーリーを「親向け」に調整しつつ、おなじみのキャラで子どもたちを笑わせるということができるのですが、オリジナルものはこの手が使えませんからね。

 

 でも、最初にも書いたように『メアリと魔女の花』よりも面白いと思いますし、クオリティも素晴らしいので興行的にも頑張ってもらいたいです。

 間違いなく親は泣ける映画だと思うので、子どもが興味を示しているならぜひおすすめします。