2021年の映画

 毎年書いている記事なので一応今年書きますが、今年はぜんぜん映画を見れておらず、しかも「これ!」といったものもないのでそんなに書く意味はないような内容。

 コロナという要因も大きいのですが、それ以上に会員になっている立川のシネマシティが、TOHOシネマズ立飛ができて以降、いまいちラインナップが揃わなくなってしまって見たいと思った映画を見そびれている事が大きいですね。

 『ラストナイト・イン・ソーホー』とかもシネマシティでやらなかったので、結局このまま見逃しそう。

 というわけで、一応並べてみたという5本。

 

1位 『ノマドランド』

 

 

 好きな映画というわけではないのですが、やはり今年見た映画の中ではもっともよくできていたと思います。

 出だしは現代アメリカ社会の格差や分断を告発する映画なのかとも思うのですが、そうではありません。本作の特徴はフランシス・マクドーマンド以外は1人を除いて実際のノマドが自身の役を演じているということなのですが、その彼らの存在を通して、「自由」や「HOME」というものを問い直すような作品です。

 

 

2位 『花束みたいな恋をした』

 

 

 数々の良質なドラマの脚本を書いてきた坂元裕二によるオリジナル・ストーリーですが、まずはやはり脚本がうまい。とにかくサブカルアイテムの使い方がうますぎるわけで、それだけでサブカル好きには満足できるのですが、「自由」な若い2人の日常が、しだいに「生活」に押しつぶされていくというありがちな話の料理の仕方もうまい。

 基本的に本作は、何かクリエイティブに生きたかった若者2人の夢が破れる悲劇ととれます。しかし、同時にそんな2人が、例えば暴力とか不倫とか、そういった悲劇に陥らなかった物語ともとれるのです。

 

 

3位 『竜とそばかすの姫』

 

 いろいろと脚本の穴もあって批判も多いのだろうけど、個人的にはこの映画のゴージャスさを買いたい。実写を含めて、ここ最近の日本映画の中だと一番ゴージャスな映画と言えるんじゃないでしょうか?

 まず、中村佳穂の歌がいいですし、主人公すずがUの中で変身するベルという〈As〉(アバター)のキャラクターデザインもよい。

 ラストに向けての展開は強引すぎて問題ありですが、仮想空間のUの中ですずの姿で歌うシーンはアニメにおける歌唱シーンの中でも屈指の出来ではないでしょうか。

 

 

4位 『DUNE/デューン 砂の惑星

 

 

 映像はさすがドゥニ・ヴィルヌーヴで言うことはないです。

 砂漠の惑星アラキスの景色、そこで動く巨大なメカ、砂漠に潜むサンドワームの迫力、主人公が最初にいる惑星カラダンの風景、怪しげな敵であるハルコンネン家の面々など、すべてが決まっています。

 この手のSF映画だと、どこかでしょぼかったり無理があったりしてしらけるところがあるものですが、そういってものが全くなくて画作りとしては完璧。

 ストーリーは途中までですし、テンポがいいとは言えないのですが、とにかく画面に圧倒されるような映画ですね。

 

 

5位 『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』

 

 1本の映画としての出来としては、例えば『破』のほうが上ですし、その『破』で「助けてみせる」と言った綾波を助けられたのか? つまり、新劇場版を完璧な形で終わらせることができたのかというとやや疑問も残るわけですが、とにかく、TVシリーズと旧劇場版をひっくるめて「終わらせた」ことに拍手という感じですね。

 

2021年ベストアルバム

 今年もたいして枚数は聴けなかったわけですが、そんな中でも比較的よいアルバムを引き当てることができたのではないかと。

 特に上位に上げる3枚はどれもよかったです。チャットモンチーとふくろうずがいなくなってからピンとくるものがなかった邦楽シーンに現れた崎山蒼志、圧倒的にかっこいいUK女性ラッパーのLittle Simz、前から好きだったけど今作でさらに一皮むけた印象のあるOh Wonderとどれもよかったです。

 というわけで今年はアルバム5枚と、ミニアルバム1枚の計6枚で。

 

1位 崎山蒼志 / find fuse in youth

 

 

 すごいギターテクと少しズレたような歌、でも、ギターの生み出すグルーヴ感でグイグイ引っ張っていくというなかなかないタイプ。少し向井秀徳を思い起こさせるところはあるのですが、向井秀徳よりもメロディアスであり、メロディの引き出しも多いのではないかと。今後も期待したいです。

 


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2位 Little Simz / Sometimes I Might Be Introvert

 

 

 とりあえずオープニングナンバーの"Introvert"を聴いたほしいのですが、これはかっこいいですね。かっこいいとしかいいようがない。

 女性ラッパーに関しては今まであんまり耳に入ってこなかったので、他のラッパーとの比較とかそういったものはわからないのですが、この"Introvert"以外の曲もトラックが非常にいい感じで、リズムだけでなく細かい音の付け方も含めてオシャレな感じです。近年のHiphopのアルバムの中でも相応かっこいい1枚だと思います。

 


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3位 Oh Wonder / 22 Break

 

 

 ロンドンのエレクトロポップ・デュオのOh Wonderの4枚目のアルバム。Oh Wonderは2ndから聴いていてずっといいなと思っていましたが、このアルバムで一段と化けた感じですね。

 出だしは、今までのOh Wonderらしいポップミュージックなのですが、3曲目の"22 Break"からは一転してヒリヒリするような感じで、今までのOh Wonderのイメージを一気に塗り替えます。そして、後半では明るさを感じさせてフィニッシュという構成が素晴らしいアルバム・

 


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4位 The Antlers / Green to Gold

 

 

 The Antlersはニューヨークのブルックリン出身のインディー・ロックバンド。2006年デビューで、これがおそらく6枚目のアルバム。

 派手さはないものの、じわじわと盛り上げてくるような曲が得意なバンドなのですが、今作でも静かに、そして同じメロディをループさせながらじわじわときますね。

 あまりスケール感を追求せずに、一定の空間を静かに満たしていくような感じが、このThe Antlersの特徴で、今作ではそれが非常にいい形で出ています。

 

 

5位 橋本絵莉子 / 日記を燃やして

 

 

 チャットモンチー橋本絵莉子のソロアルバム。以前にも波多野裕文と組んだ「橋本絵莉子波多野裕文」はありましたけど、こちらは完全なソロアルバム。

 「橋本絵莉子波多野裕文」は楽曲が基本的に波多野裕文だったので、チャットモンチーとは違う世界でしたが、こちらは基本的に橋本絵莉子が作曲しているようでチャットモンチーに通じる感じです。

 ただ、歌詞はやはり以前とはちょっと違っていて、毒舌というのではないけど、けっこうドキッとするようなフレーズもあって、そこが本作の魅力でもあります。

 

 

おまけ AJICO / 接続

 

 

 ミニアルバムなので番外となりますが、これも良かった。最近の浅井健一のしごとに関しては追いかけるのをやめてしまっていたのですが、このUAと再びタッグをくんだAJICOの作品は安易な方に流れていない感じで良かったです。TOKIEと椎野恭一というリズム隊ももちろん良い。

 

 

 次点はRoyal Blood / Typhoonsですかね。

 最初にもたいした枚数しか聴けてないのに、音楽に関してはなんとなく満足できた1年でした。

 

橋本絵莉子 / 日記を燃やして

 チャットモンチー橋本絵莉子のソロアルバム。以前にも波多野裕文と組んだ「橋本絵莉子波多野裕文」はありましたけど、こちらは完全なソロアルバム。

 「橋本絵莉子波多野裕文」は楽曲が基本的に波多野裕文だったので、チャットモンチーとは違う世界でしたが、こちらは基本的に橋本絵莉子が作曲しているようでチャットモンチーに通じる感じです。

 例えば、2曲目の"かえれない"なんかはメロディといい、高音の伸び具合とかチャットモンチーを思い出させます。

 

 ただ、歌詞はやはり以前とはちょっと違っていて、毒舌というのではないけど、けっこうドキッとするようなフレーズもあって、そこが本作の魅力でもあります。

 例えば、3曲目の"ロゼメタリック時代"の

「誰ももらってくれんかったら 嫁にもらってあげるな」

世界一
嫌な曲ね

とか、9曲目の「今日がインフィニティ」の

解散はできないように
もうバンドは組まない

とか、聴いててドキッとします。

 

 一方、自分の母親のことを歌った"あ、そ、か"とかはユーモアがあって面白いですし、歌詞は本当にいろいろ。ラストの"特別な関係"もいいと思います。

 楽曲的には手拍子とシンプルなギターでウェスタン風に仕上げている7曲目の"脱走"あたりが面白いですね。

 

 確かにチャットモンチー時代よりも落ち着いた感じはあるのですが、歌詞に見られるように、橋本絵莉子的な感性はまだまだ新鮮ですね。

 


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2021年の本

 なんだかあっという間にクリスマスも終わってしまったわけですが、ここで例年のように2021年に読んで面白かった本を小説以外と小説でそれぞれあげてみたいと思います。

 小説以外の本は、社会科学系の本がほとんどになりますが、新刊から7冊と文庫化されたものから1冊紹介します。

 小説は、振り返ると中国・韓国・台湾といった東アジアのものとSFばかり読んでいた気もしますが、そうした中から5冊あげたいと思います。

 なお、新書に関しては別ブログで今年のベストを紹介しています。

 

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小説以外の本(読んだ順)

 

蒲島郁夫/境家史郎『政治参加論』

 

 

 政治学者で現在は熊本県知事となっている蒲島郁夫の1988年の著作『政治参加』を、蒲島の講座の後任でもある境家史郎が改定したもの。基本的には有権者がどのように政治に参加し、そこにどのような問題があるのかを明らかにした教科書になります。

 教科書というとわかりやすくても面白さ的には…となりがちですが、本書で行われている議論は、教科書的なスタイルからは想像できないほど刺激的なもので非常に面白いです。

 日本は戦後「一億総中流」と呼ばれる社会をつくり上げたものの、近年はそれが崩壊しつつあるというのは多くの人が感じているところであると思いますが、その要因を「政治参加」という切り口から鮮やかに説明しています。

 

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坂口安紀『ベネズエラ

 

 

 トランプ大統領のさまざまな振る舞いや、コロナ対応などから「民主主義の危機」がさかんに叫ばれるようになりましたが、「本当に民主主義体制が崩壊したらどうなるのか?」ということを教えてくれるのが本書が紹介するベネズエラです。

 ベネズエラは世界最大の石油埋蔵量を誇る産油国であり、天然ガスボーキサイトなどの資源も豊富です。実際、ベネズエラは80年代なかばまではラテンアメリカでもっとも豊かな国の1つで、民主体制を維持していました。

 そんな恵まれた国がなぜ破綻してしまったのかということを、政治・経済の両面から描き出した本書は、政治において「何をやってはいけないか」ということや、問題のある制度があっても、それを破壊するだけではかえって悪くなることもなるといったことを教えてくれます。

 

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アン・ケース/アンガス・ディートン『絶望死のアメリカ』

 

 

 『大脱出』の著者でもあり、2015年にノーベル経済学賞を受賞したアンガス・ディートンとその妻で医療経済学を専攻するアン・ケースが、アメリカの大卒未満の中年白人男性を襲う「絶望死」(薬物中毒やアルコール中毒、それがもたらす自殺など)の現状を告発し、その問題の原因を探った本。

 この絶望死に関しては、アビジット・V・バナジー& エステル・デュフロ『絶望を希望に変える経済学』でもとり上げられていますし、大卒未満の中年白人男性の苦境に関しては、例えば、ジャスティン・ゲスト『新たなマイノリティの誕生』でもとり上げられています。学歴によるアメリカ社会の分断に関しては、ピーター・テミン『なぜ中間層は没落したのか』も警鐘を鳴らしています。

 そんな中で本書の特徴は、問題を告発するだけでなく、対処すべき問題としてピンポイントにアメリの医療制度の問題を指摘している点です。アメリカだけで絶望死が増えているのであれば、その背景にはアメリカ固有の問題があるのです。

 

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上林陽治『非正規公務員のリアル』

 

 

 本書がとり上げる非正規公務員の問題については、冒頭で紹介されている図書館職員の話を見るのがいいでしょう。

 

 1987年度、図書館員の82%は専任職員でしたが、2018年度には26%にまで低下しています。さらに現在では指定管理者制度という民間企業に運営を任せるスタイルも増えていますが、ここでも中心になっているのは非正規労働者です。

 しかも、少数の専任職員が高度で専門的な職務を担い、非正規労働者が簡単で周辺的な業務を行っているというわけではなく、次のような事情さえあります。

 一定の数少ない専門職・資格職を除き、日本の公務員の人事制度において、正規公務員とは職務無限定のジェネラリストで、職業人生の中で何回も異動を繰り返し、さまざまな職務をこなすことを前提とされている。ところがどの組織にも、さまざまな事情で異動に耐えられない職員、最低限の職務を「当たり前」にこなせない職員が一定割合おり、しかも堅牢な身分保障の公務員人事制度では安易な取り扱いは慎まねばならず、したがってこのような職員の「待避所」を常備しておく必要がある。多くの自治体では、図書館はこれらの職員の「待避所」に位置づけられ、そして「待避所」に入った職員は、そこから異動しない。(36p)

 本書は非正規公務員の実態を明らかにすることで、日本の公務員制度の矛盾や歪みを鋭くえぐり出した本になります。

 この非正規公務員の問題は日本の抱える問題の中でも最重要のものの1つだと個人的に思っているので、本書を読んでこの問題に注目し、その問題点に気づいてくれる人が増えてくれることを願っています。

 

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中井遼『欧州の排外主義とナショナリズム

 

 

 今年のサントリー学芸賞受賞作。

 イギリスのBrexit、フランスの国民戦線やドイツのAfDなどの右翼政党の台頭など、近年ヨーロッパで右翼政勢力の活動が目立っています。そして、その背景にあるのが移民や難民に対する反発、すなわち排外主義であり、その排外主義を支持しているのがグローバリズムの広がりとともに没落しつつある労働者階級だというのが新聞やテレビなどが報じる「ストーリー」です。

 本書はこの「ストーリー」を否定します。もちろん、経済的に困窮し排外主義と右翼政党を支持する人びとはいるのですが、低所得者層が排外主義を支持しているように見えるのは彼らが本音で話すからであり、高所得者はそれを隠しているだけかもしれません。

 本書はさまざまなサーベイ実験や、中欧や東欧への調査などを行うことで、経済的な問題から排外主義を支持する人々の姿ではなく、文化的(あるいは言い方は悪いが「本能的」な理由)から排外主義を支持する人びとの姿を浮き上がらせています。

 

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山尾大『紛争のインパクトをはかる』

 

 

 タイトルからは何の本かわからないかもしれませんが、副題の「世論調査と計量テキスト分析からみるイラクの国家と国民の再編」を見れば、ISの台頭など、紛争が続いたイラクの状況について計量的なアプローチをしている本なのだと想像がつきます。

 実は著者は計量分析を専門にしている人ではなく、本書は紛争の激しいイラクでなかなか現地調査を行えないことから生まれた苦肉のアプローチなのですが、そこから見えてくるのが、流布しているイメージとは違うイラクの意外な姿です。

 「イラクでは国家が信用を失い、代わって宗教指導者や部族長が人びとを導いている」、あるいは、「宗派対立が激しく、イラクという国はシーア派スンニ派クルド人の住む地域で分割したほうが良い」といったイメージを持つ人もいるかもしれませんが、本書の調査ではそれがはっきりと否定されています。

 人びとは首相や議会と同じく宗教指導者や部族長も信頼していない一方で、イラクナショナリズムは意外にも人々の間に広がっています。

 今年の夏はアフガニスタンにおけるカブールの陥落という衝撃的なニュースがありましたが、本書はアフガニスタンイラクの違いに答えている本とも言えるかもしれません。

 

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アブナー・グライフ『比較歴史制度分析」上・下

 

 

 

 ここ最近品切れとなっていた比較制度分析の名著がちくま学芸文庫で復刊。

 本書は青木昌彦の比較制度分析の考えなどを参照しながら、ゲーム理論の均衡分析を用いて国家抜きの制度の成立を論じた本になります。本書の紹介では、マグリブ商人とジェノヴァ商人の対比の部分がとり上げられることが多いですが、もっと射程の大きな本と言っていいでしょう。

 制度や秩序は、主権国家のような超越的な権力がないと成り立たないわけではありませんし、また、完全に自由な個人の取引の中で自然に生まれてくるとも考えにくいのです。このことを本書は、中世後期の地中海世界の歴史をたどりながら示しています。

 秩序の成り立ちをゲーム理論から説明しようとする試みは何度か目にしたことがありますが、それを実際の歴史事象に当てはめる形で行っているところが本書のすごいところですね。

 

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倉田徹『香港政治危機』

 

 

 2014年の雨傘運動、2019年の「逃亡犯条例」改正反対の巨大デモ、そして2020年の香港国家安全維持法(国安法)の制定による民主と自由の蒸発という大きな変化を経験した香港。その香港の大きな変動を政治学者でもある著者が分析した本。

 香港返還からの中国と香港のそれぞれの動きを見ながら、さまざまな世論調査なども引用しつつ、いかに香港が「政治化」したか、そして香港を取り巻く情勢がいかに変わっていたのかを論じています。

 本書はまさに現在進行系で進む香港の政治危機を総合的に論じたもので、これだけのものがタイムリーに出てきたことはすごいことだと思います。

 現在の香港の状況はすでに「何かをすればうまくいく」といった地点を過ぎてしまっていますが、それでも本書が現在の東アジア情勢を考える上で広く読めれるべき本であることは間違いないです。

 

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小説(1位から順に)

呉明益『眠りの航路』

 

 

 『歩道橋の魔術師』、『自転車泥棒』、『複眼人』などの作品で知られる呉明益の長編デビュー作。

 奇妙な眠りの病にかかった現代を生きる主人公と、第2次世界大戦時に少年工として日本に渡ることになった主人公の父親(日本名・三郎)の話が交互に語られ、呉明益の作品には欠かせない台北の中華商場をはじめ、のちの作品にも共通するさまざまなモチーフが出てきます。

 そして、神奈川の現在の大和市にある高座海軍工廠で、三郎は平岡君という日本人の青年に出会います。実はこの時期の高座海軍工廠では平岡公威、のちの三島由紀夫が勤労動員で働いていました。

 主人公の父の人生を通じて「帝国としての日本」に切り込むような作品で面白いです。

 

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パク・ソルメ『もう死んでいる十二人の女たちと』

 

 

 理解不能な暴力、歴史的事件との埋めがたい距離感、世界の連続性が失われる感覚、女性に対する暴力の遍在に対する告発など、さまざまなテーマを孕んだ短編集。

 韓国文学というとハン・ガンとパク・ミンギュが少し抜けた存在のように感じていましたけど、このパク・ソルメもすごいですね。圧倒的なインパクトを持った短編集だと思います。

 

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ケン・リュウ『宇宙の春』

 

 

 ケン・リュウの日本オリジナル短編集第4弾。今回の本も本当にいろいろな魅力が詰まった本なのですが、特にAIなどがつくり出す新たな世界の改変を描いた作品(「思いと祈り」など)と、東アジアの歴史をSF的な虚構の力ですくいとってみせる作品が見事ですね。731部隊を扱った「歴史を終わらせた男――ドキュメンタリー」は特に傑出した作品で、東アジアの歴史問題を考える上での非常に示唆に富んだものだと思います。

 

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郝景芳『1984年に生まれて』

 

 

 「折りたたみ北京」でヒューゴー賞を受賞した中国の作家による自伝体小説。

 タイトルの「1984年」は、オーウェルの『1984』から来ているものと考えられますし、早い段階で「They are watching you.」という言葉も登場します。読み手はSF的な展開を期待するでしょう。

 ところが、本作は純文学と言ってもいいような作品です。1984年に生まれた軽雲(チンユン)という女性と、その父で娘の軽雲が生まれてすぐに姿を消した沈智(シェンチィ)という2人の人物の人生を交互に語ることで、1984年〜2014年にかけての中国の激動と、その激動の並にもまれる人々が描かれています。

 「1984年」という年も、もちろんオーウェルのことも意識しているわけですが、本作では中国における「会社元年」、つまり改革開放が本格的にスタートし、今までの上からの命令をこなす時代から、自分の運命を自分で切り拓かねばならなくなった転換の年として意味づけされています。また、近年の中国の激動を体感できる小説とも言えるでしょう。

 

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トマス・ピンチョン『ブリーディング・エッジ』

 

 

 トマス・ピンチョンの最新長編は9.11テロとインターネットをテーマにしたこの『ブリーディング・エッジ』。

 ピンチョンと言えば、歴史上の出来事だったり、アメリカ社会の裏にさまざまな陰謀論を見出してきたわけですが、9.11テロとインターネットほど陰謀論と相性が良いものも少ないでしょう。

 相変わらず、多彩な人物が入り乱れる小説で、冗長と言えば冗長な部分もあるのですが(ピンチョンも本作発表時には76歳ですから)、小説が後半になるとだんだんと9.11が近づいてきて緊迫感が出てきます。

 実際にあった2日前のアメフトのゲームが再現され、アメリカの航空会社のプット・オプションが増え始める(これは実際にあった動き)。それでいて9.11自体は比較的紙幅を取らずにNYの混乱を描いていくやり方はうまいです。

 

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倉田徹『香港政治危機』

 2014年の雨傘運動、2019年の「逃亡犯条例」改正反対の巨大デモ、そして2020年の香港国家安全維持法(国安法)の制定による民主と自由の蒸発という大きな変化を経験した香港。その香港の大きな変動を政治学者でもある著者が分析した本。

 香港返還からの中国と香港のそれぞれの動きを見ながら、さまざまな世論調査なども引用しつつ、いかに香港が「政治化」したか、そして香港を取り巻く情勢がいかに変わっていたのかを論じています。

 

 目次は以下の通り。

序 章 香港政治危機はなぜ起きたか

第一章 中央政府の対香港政策――鄧小平の香港から,習近平の香港へ

第二章 香港市民の政治的覚醒――経済都市の変貌

第三章 「中港矛盾」の出現と激化――経済融合の効果と限界

第四章 民主化問題の展開――制度設計の意図と誤算

第五章 自由への脅威――多元的市民社会と一党支配の相克

第六章 加速する香港問題の「新冷戦化」――巻き込み,巻き込まれる国際社会と香港

終 章 「国安法」後の香港

 

 第1章では、返還時の「一国二制度」が国安法制定によって「一国一制度」になるまでの流れが中国側の視点から描かれています。

 香港返還にあたって鄧小平は「一国二制度」を導入することを決め、特にその経済的な部分については変えないことを約束しました。また、「港人治港(香港人による香港統治」と「高度の自治」も約束しましたが、この「港人治港」は鄧小平に言わせると「愛国者」による統治というもので、曖昧な部分を残したものでした。

 一方、イギリスは「自治」を「民主化」と考えて民主化を進めますが、これに対して中国は反発し、中国とイギリスの以降がずれたまま返還を迎えることになります。

 

 江沢民は基本的に相互不干渉の立場で香港に臨みました。92年に着任した最後の総督であるクリス・パッテンが民主化をさらに進めると中国側は強く反発しますが、97年の返還は平穏なもとで行われます。

 ただし、この時期は香港経済にとっては受難の時期で、アジア通貨危機のあおりを受けて香港ドルは投機筋の攻撃を受け、また、97年冬には鳥インフルエンザの流行がありました。さらに2003年にはSARSによって打撃を受け、GDPは大幅なマイナスとなりました。

 こうした中で法輪功取り締まりなどを目的に「二三条立法」と呼ばれる治安立法が試みられますが、03年7月1日には主催者発表で50万人規模の反対デモが起こり、条例は廃案に追い込まれました。

 

 このデモは香港政策が大きく転換されるきっかけとなりました。江沢民に代わって最高指導者となった胡錦濤は、経済における「中港融合」を進め、大陸から香港への個人観光客を解禁しました。これによって香港の小売・観光業は大いに潤い、経済はV字回復しました。

 一方で早期の普通選挙を却下し、不人気だった董建華行政長官を更迭するなど、香港政治に介入する姿勢を見せました。また、2017年に行政長官の普通選挙、2020年に立法会議員全面普通選挙化を可とするタイムスケジュールも示しました。

 

 「中港融合」は香港経済を助けましたが、同時に中国人観光客による「爆買い」や不動産価格の高騰などの社会問題も生み、香港では「香港人」の意識が高まります。2012年には「国民教育」の必修化が若者らの座り込みで撤回されるなど、香港人の政治意識も高まってきます。

 こうした中、行政長官選挙の候補者が事前に指名委員会で選ばれる方式になるということが判明すると、2014年9月には若者等による街頭の占拠運動が起こります。雨傘運動です。これに対して中央政府は、大陸への影響を抑え込みつつ、これを無視する形で運動を自然消滅に追い込みました。

 

 しかし、雨傘運動の挫折後、若者たちは「香港独立」を掲げるようになります。こうなると中央政府もこれらの動きを座視せずに、「独立」を掲げる議員の出馬資格を剥奪したり、就任宣誓を拒んだ民主派議員を失職させました。

 習近平指導部は、香港に対してかなり具体的な指示を出すようになっており、「香港が「中国の夢に『融入』し、香港の夢を実現する」(51p)ことを願うと発言しています。不干渉路線は破棄され、本土との一体化がはかられるようになったのです。

 

 こうして香港の民主化運動が抑え込まれる中でまさかの盛り上がりを見せたのが2019年尾「逃亡犯条例」改正問題をめぐる運動です。

 2015〜16年にかけて銅鑼湾書店の関係者が失踪し大陸で拘束を受けていたことが明らかになった事件の影響もあり、香港の人びとは「人身の自由」に不安をいだいていましたが、この「逃亡犯条例」の改正は、その「人身の自由」を骨抜きにするものだと捉えられ、民主化運動以上の支持を得たのです。

 

 香港政府と中央政府は反対の声を無視してこれを強行しようとしましたが、6月9日には主催者発表109万人という返還後最大のデモが行われます。

 香港政府は審議の一時停止で沈静化をはかりますが、6月16日には主催者発表で200万人規模のデモとなり、抗議運動はさまざまな形で展開していきました。中央政府もさまざまな手段で抑え込みにかかりますが、11月の区議会議員選挙では民主派が歴史的な大勝を収めました。

 これが2020年の国安法制定につながるわけですが、第2章、第3章では、「なぜ香港がここまで政治化したのか?」という問題を見ていきます。

 

 「香港人は金儲けにしか興味がない」と言われています。確かに1997〜2005年の調査を見ると市民の関心は経済問題に向いています。しかし、2010年頃から民生(社会)問題への関心がトップに立ち、2018年からは政治問題が急伸し、経済問題への関心は一番低くなっています(73p図1参照)。

 

 香港人が政治的関心を持たない理由としては、そもそも市民の多くが国共内戦などから逃れてきた難民であった、英語が唯一の公用語という中で政治的な意見に関する意思疎通が難しかった、香港では国民党も共産党の非合法化されイギリスの手によって「脱政治化」が進められたことなどがあげられます。

 しかし、返還とともに香港は「脱植民地化」され、人びとは次第に政治にも関心を向けるようになるのです。

 

 ただし、中央政府は2003年の50万人デモの要因をあくまでも経済問題として捉え、「中港融合」による経済のテコ入れでこの不満に対処しました。

 ところが、この50万人デモのあとに育った若者たちの政治意識やアイデンティティには大きな変化が見られました。自分を「中国人」・「香港人」・「香港の中国人」・「中国の香港人」のいずれで称するかを問う調査で、2008年の調査では18〜29歳の41.2%が「広義の中国人」(「中国人」+「香港の中国人」)だと答えたのに対して、2018年の調査で「広義の中国人」を選んだ18〜29歳はわずか3.1%です(30歳以上は40.8%。92p)。世代の入れ替わりとともに若者の意識が一変したのです。

 

 この若者たちが中核となったのが雨傘運動です。非暴力、そしてインターネットを活用しながら行われた運動で、大きなインパクトを残しましたが、民主的な普通選挙の実現という目標を達成することはできませんでした。

 この挫折を経て、若者の間にはさまざまな考えが生まれてきます。区議会議員選挙などにチャレンジしてコミュニティから変えていこうとする者がいる一方で、香港独立を唱える「本土派」も台頭しました。

 

 香港における「本土」とは、もともとアジア経済危機後の香港の地元経済を表す意味の「本土経済」で多用されていましたが、次第に香港の文化を守るため用語、香港ナショナリズムの用語として転用されていきます。

 彼らは今までのように中国の民主化を求めるようなことはせず、中国と香港は別だとした上で、民主派の非暴力などを批判しました。

 

 この民主派の分裂は中央政府にとっては思い通りの展開でした。本土派などは過激化して衰退していくと思われたのです。

 ところが、「逃亡犯条例」改正反対デモは香港に大同団結を生み出し、香港政府や中央政府も民主派と本土派を分断させることはできませんでした。

 

 では、なぜここまで対中感情が悪化してしまったのか? それを解き明かすのが第3章です。

 香港市民の中央政府に信任は、返還から10年ほどは高く、2010年頃から低下し、2014年に不信任が信任を上回っています(124p図1参照)。

 2010年頃に何が起こったかというと、08〜09年のリーマンショックを受けて大陸からの個人観光客が解禁された時期です。

 この個人観光客によって香港市民の経済的不満は収まりますが、民生への不満が高まってきます(129p図4図5参照)。買い物客の増加とともにインフレや粉ミルクなどの生活必需品の品不足などが生じました。さらに香港永住権を得るために香港で出産しようとする大陸人女性が増え、参加病床不足なども深刻になりました。

 さらに不動産価格の高騰が、若者や低所得者層に大きな打撃となりました。

 

 「中港融合」によって大きな利益を得たビジネスマンも多くいましたが、多くの庶民にとっては「開かれた」香港から大陸の人々がさまざまなものを奪っていき、一方、大陸側は相変わらず「閉じた」ままだという認識でした。

 こうした中で、職能別選挙という業界ごとの利益を反映させるような選挙制度はますます民意を捉えられなくなっていきます。

 

 また、中国が香港に置いて「愛国」教育を行ったことが、かえって香港の若者の香港ナショナリズムを高めたという見方もありますし、「中港融合」によって中国のニュースが身近に伝えられるようになると、中国の人権派弁護士などへの弾圧が中国の悪い印象を強化したという面もあります。

 こうしたさまざまな要因が、若者に「香港人」としてのアイデンティティをもたせることになったと考えられます。

 

 香港の民主化運動は中央政府に潰されることになるわけですが、それはいかなる制度のもとで行われ、いかなる問題を抱えていたのかということを分析したのが第4章です。

  香港の民主化の特徴は民主化が進む最中に主権がイギリスから中国に交代したことです。1980年代に始まった香港の民主化は、97年の香港返還をまたいで行われました。

 1979年、マレー・マクルホース総督が北京を訪れますが、ここでイギリスは鄧小平が97年に香港を回収する意図を持っていることを確認します。これまで香港の民主化は中国を刺激するとして回避されていきましたが、返還が現実になったことで中国要因はむしろ民主化を促進するものとなりました。

 

 1989年6月に天安門事件が起こると、中国と欧米の対立は深まりますが、事件前の2月に発表された基本法における、行政長官と立法会を将来普通選挙化するという部分はなくなりませんでした。イギリスは香港の動揺を抑えるためには民主化が必要だと訴え、返還時の普通選挙議席数を15から20議席に上積みさせることにも成功しています。

 しかし、92年に着任したパッテンはさらなる民主化を推し進め、北京の反発を呼びました。パッテンは立法評議会の選挙の民主化を進めますが、これに対して北京は返還とともに立法評議会を解散させることとします。

 パッテンによる民主化は、かえって北京に対するフリーハンドを与えることになったとも言えるのです。

 

 では、中国が目指す政治とはどのようなものだったのか? 

 まず、あげられるのが「行政主導」です。これは、香港の統治制度がもともとそうだったということもあるのですが、行政長官の人事は北京の意向が通りやすく、また、中国の「民主集中制」と通じるものがあったからです。

 2009年に全人代委員長の呉邦国は「絶対に西側の複数政党制・三権分立・二院制などをやらない」(192p)と述べたそうですが、共産党政権にとって権力分立は複数政党制と同じように悪いものなのです。

 

 北京は政党の影響力も可能な限り排除しようとしました。行政長官が政党員であれば在任中は離党することが求められ、一種の「超然内閣」が求められました。

 また、職能別選挙を導入し、その各枠の有権者資格を細かくコントロールすることで都合のいい議員を選べる余地をつくり、さらにその枠を財界に傾斜配分しています。

 選挙制度に関してはパッテンが導入した小選挙区制を退け、「最大剰余方式」の比例代表制足切り条項もなしという小政党に有利な制度を導入しました。これは民主派が大規模な政党をつくって力を得ることを阻止するためでした。こうした制度によって香港はほぼ1人1政党という状況になります。

 

 このように北京は政党、特に大規模政党を徹底的に排除する仕組みをつくり上げましたが、その結果、返還から16年間(2013年まで)で法案成立率が55.6%という、「行政主導」とは言えない状況が出現します。

 行政長官が率いる政党が存在せず、しかも小党分立が続く中で、立法会をコントロールすることは難しかったのです。

 

 さまざまな紆余曲折があったものの、2005年頃からしばらくは香港と中国の間がうまくいっており、2007年の行政長官選挙では現職の曽蔭権(ドナルド・ツァン)に民主派の梁家傑(アラン・リョン)が挑戦し、曽が勝利するという競争的な選挙になりました。

 これを受けて、北京は香港市民は現実的な選択をするだろうとして2017年の行政長官選挙を普通選挙で行うのも可としました。基本法の最終目標である普通選挙実現の日程が示されたのです。

 しかし、先に述べたように北京はあくまでも候補者を自らで選定する姿勢を崩さず、それが雨傘運動につながっていきます。

 これに対して、北京は民主派の議員の資格取消(DQ)を行うことで民主派を抑圧していくことになります。

 

 第5章では香港における「自由」がとり上げられています。

 香港は返還前から「民主はないが、自由はある体制」(244p)と言われてきました。フリーダム・ハウスの調査でも「政治的権利」は低いものの、表現の自由・集会と結社の自由・法の支配と言った「市民的自由」では先進国並みと評価されてきました。

 これには、もともとイギリスが危機の際を除けば植民地の内部の問題に関心を持たなかったこと、植民地当局が自らの機能を限定し、華人社会への介入を控えたこと、冷戦下で中国を怒らせるような行動が手控えられたことなどの背景があります。

 

 このように植民地当局が「小さな政府」を志向する中で、香港では宗教団体や慈善団体などの中間組織が教育や組織で大きな役割を果たすことになります。

 一方、香港はイギリスの植民地であったことで国連の諸人権条約の効力が及びました。また、冷静下の香港では、共産党と国民党の対立などを起こさせないために法治が進みます。香港政庁はセンシティブな決定を裁判所に委ねるようになったのです。

 

 返還後、中国は共産党組織をつくり、低所得者層にさまざまなサービスを行うことなどによって市民の取り込みをはかります。同時に財界やメディアも押さえました。

 しかし、香港の財界も一枚岩ではないですし、もともと大陸から逃げてきた者も多く、完全に取り込めたわけではありません、親中メディアは商業的には成功しませんでした。さらに中国ではさまざまな規制をかけてるネットも香港では自由に見ることができるため、Facebookのユーザーは香港の総人口の60%を超えるといいます(276p)。

 

 こうした香港の自由・市民社会・法治は「下からの抵抗運動のインフラ」(278p)ともなりました。規制のかかっていないネット空間もあって、中国本土では考えられないような抵抗の足場ができたのです。

 しかし、中国側から見ると民主化運動を抑え込むためにはこれらの基盤を破壊する必要があるということも意味します。

 中央政府は香港のメディアを弾圧し、民主化運動の運動家に対して厳罰を課し、さらには国安法で自由そのものを圧殺しようとしています。ソフトパワー、あるいはシャープ・パワーと呼ばれる情報操作などで香港を変えようとしましたが、結局はハード・パワーで変えることを選択したのです。

 

 第6章では香港問題と国際社会の関係について論じています。

 香港は中国の一部ですが、同時に西洋化された価値観に基づく国際的ネットワークを持っています。こうしたこともあって諸外国(特に先進諸国)は香港を中国とは別の場所として捉えます。一方、中国にとって香港問題はあくまでも内政です。

 こうしたズレが米中「新冷戦」とも言うべき状況の中で、さらに厄介な問題を生んでいるのが現在の香港の状況です。アメリカは中国の異質性を示すものとして香港の人権状況などをとり上げ、それに対して中国は香港の民主化運動の背後に外国勢力の影響を見ています。

 また、香港の問題に対してアメリカがどこまでの制裁を課すのかもポイントです。香港ドルはドルとのペッグ制をとっていますが、アメリカがドルの供給を妨害する措置を取ればペッグ制は崩壊し、香港経済は大打撃を受けると考えられます。

 

 終章では国安法制定後の香港の行方についてです。

 国安法は、国家分裂、国家政権転覆、テロ活動、外国との結託という4つの行為を取り締まっていますが、その対象はかなり広く、平和的な民主活動であっても逮捕される可能性があります。

 国安法は香港社会に巨大な萎縮効果をもたらしており、表現の自由、学問の自由と言ったものも失われつつあります。さらに行政長官選挙、選挙委員会選挙、立法会議員選挙のいずれにおいても候補者が立候補できるかどうかは政府の一存で決定されるようになり、民主化も大きく後退しました。

 

 こうした中で、今まで親中派と考えられており、北京も香港統治の頼りとしてきた財界と中央政府の関係にも変化の兆しがあります。北京には財界中心の統治が不動産価格の高騰などを通じて香港社会の不安定化をもたらしたとの認識もありますし、香港の財界人には「脱出」という手段もちらついていることでしょう。

 左派系労組などが影響力を拡大し、「中国式」の統治がますます進むという未来も考えられます。

 

 長いまとめになりましたが、これでも相当端折ってあります。本書はまさに現在の香港の政治危機を総合的に論じたもので、これだけのものがタイムリーに出てきたことはすごいことだと思います。

 ただし、当然ではあるのですが、本書を読んだから香港の今後について何か活路が見えてくるというものでもありません。本書では香港が政治化した原因がさまざま指摘されていますが、原因がわかったからといって現在の危機を解消する方法が見つかるわけではないのです。

 そういったことから「面白かった」という感想は持ちにくいのですが、それでも現在の東アジア情勢を考える上で広く読めれるべき本であることは間違いないです。

 

宮本浩次 / 縦横無尽

 宮本浩次の2ndソロアルバム。「独歩。」のあろカバーアルバムの「ROMANCE」を出し、そして今作の「縦横無尽」となります。

 最初の印象としては、楽曲がバラエティに富んでいた「独歩。」に比べるとスタンダードなロック寄りで、そんなにちゃんと聴いているわけではないですけどエレファントカシマシに近い感じですかね。

 

 でも、やはり宮本浩次の歌唱力というのは際立っていて、単純に音程が自由自在に合わせられるだけではなく、声の太さも自由自在に変えられる。

 唯一のカバー曲である柏原芳恵の"春なのに"でも、出だしは女性的な細さを持った声で歌い出し、そしてサビの♪春なのに〜♪で太い声にいくという普通の歌手ではできないような歌い方をしている。

 つづく桜井和寿とのデュエット曲である"東京協奏曲"でも、やはり宮本浩次の声の太さは際立っていて存在感では勝っている。

 

 個人的にはその歌唱の可能性を広げた前作の楽曲、例えば、演歌っぽい"冬の花"とかが好きなので、ロック寄りの曲よりは歌謡曲っぽい"十六夜の月"(この曲はアレンジがすごく小林武史っぽい)とか、宮本浩次の緩急が聞いた歌い方が気持ちいい"rain -愛だけを信じて-"とか、最後の太い声の伸びが良いラストの"P.S. I love you"とかが、今回のアルバムの中では好みです。

 「独歩。」に引き続き圧倒的な名曲のようなものはないかもしれませんが、歌の上手さが引き起こす「聴かせる力」を感じさせるアルバムですね。

 


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善教将大『大阪の選択』

 今年10月の総選挙で躍進を遂げた維新の会、特に大阪では候補者を立てた選挙区を全勝するなど圧倒的な強さを見せました。結成された当初は「稀代のポピュリスト」橋下徹の人気に引っ張られた政党という見方もあったと思いますが、橋下徹が政界を引退してもその勢力は衰えていません。

 

 しかし、その維新の会も大阪都構想をめぐる住民投票では2015年、2020年と2回続けて敗北しました。維新の人気が下り坂になっているわけではないのに、看板政策で2度にわたって躓いたのです。

 この1回目の住民投票を中心に分析したのがサントリー学芸賞も受賞した著者の前著の『維新支持の分析』でした。

 前著では維新への支持は「弱い支持」であると位置づけた上で、住民投票の否決に関して、「すなわち態度変容を生じさせやすい維新を支持していた大阪市民が、特別区設置住民投票の特異な情報環境下で、自らの批判的な志向性に基づき熟慮した結果、賛成への投票を一歩踏みとどまったのである」(215p)と結論づけています。

 

 2020年の2度目の住民投票に関しても結局は同じようなことが起こったのではないかと思っていましますが、著者は「違う」と言います。

 今回は今まで反対に回っていた公明党も賛成しており、前回よりも遥かに有利な状況でした。そして実際に事前の世論調査では賛成が大きくリードしていたのです。

 にもかかわらず、また否決された。その謎を政治学のさまざまな知見を駆使して探っていくのが本書になります。まるでミステリーを読むかのように、維新の「強さ」と「脆さ」、そして賛否がひっくり返っていく様子がわかってきます。

 

 目次は以下の通り。

序 章 2度の否決をめぐる謎の解明に向けて
 第I部 住民投票「前夜」
第1章 意外と緩い? 維新支持の特徴
第2章 なぜ大阪で維新は支持されるのか
第3章 クロス選の謎を解く
 第Ⅱ部 特別区設置住民投票
第4章 住民投票の特徴と反対多数をめぐる謎
第5章 賛成優位という虚構
第6章 拮抗する賛否,混乱する市民
第7章 毎日新聞報道で山は動かない
 第Ⅲ部 課 題
第8章 大阪における分断?
第9章 選択肢の不在

 

 本書が解き明かそうとするのは、(1)「なぜ住民投票の実施が確定した時点では賛成が圧倒的多数だったのか?」、(2)「なぜ住民投票の告示日が近づくにつれて賛否が拮抗したのか?」、(3)「なぜ最終的に賛否が逆転したのか?」という3つの問です。

 これらの問に対して印象論で応えることはできます。(1)の答えは「コロナ対策で吉村知事がテレビに露出していたから」、(2)の答えは「反対派が運動を始めて訴えが浸透したから」、(3)の答えは「反対派の運動に加えて、毎日新聞が報じた「大阪市が4分割ならコスト218億円増」という報道が最後の決め手になった」です。

 

 これらの答えはそこそこ説得力があるのでこの答えで納得する人も多いかもしれませんが、因果推論を少しかじったことのある人であれば(1)の答えにはけっこう飛躍があるということもわかると思います。

 (1)の答えが成り立つには、吉村理事の露出が事実だとして、(a)吉村知事の露出が吉村知事への好印象や評価につながる、(b)その好印象や評価が維新への支持や都構想への賛成へつながる、という2つのステップを満たす必要があります。また、吉村知事の支持率と都構想への賛否が連動している必要もあるでしょう。

 

 ところが、世論調査の推移をみると吉村知事への支持率と都構想への賛否は連動していません(98p表5−1参照)。2020年4月から9月にかけて吉村知事への支持率は読売新聞で1ポイントの下落ですが(77%→76%)、都構想への賛成は43%→48%と5ポイント上がっているのです。

 

 このようにある社会的な事象があったときに、その原因を確定させるというのは非常に難しいことで、だいたいはいくつかの要因をあげたところで終わりになります。

 しかし、本書は継続的に行われた世論調査とさまざまなサーベイ実権を駆使して、その原因について可能な限り接近しようという試みになります。

 維新の支持の実態を知ることができるのはもちろんですが、政治学者が実際にどのようにしてこの謎を解いていくのかということが本書の読みどころでしょう。

 

 まず、維新を支持する人の特徴ですが、大阪を中心とする関西圏に多いということを除けば際立った特徴はありません。例えば、特定の所得層が強く支持しているわけでもないですし、男性の方が強かった支持についても最近の調査では女性の方が強く出ていたりします(例えば、「政党支持率の「ニューノーマル」か?維新・立憲の支持率を各社世論調査から見る(米重克洋)」)

 「一言で維新支持の特徴をいえば「緩い」だ」(13p)と著者が述べるように、弱く変動しやすいのが維新への支持の特徴です。

 

 維新が支持を得た要因というと、まず橋下徹のキャラが思い浮かぶかもしれません。確かにアピール力や存在感は他の政治家にはないものでした。

 ただし、橋下徹個人への支持率は2010年頃から下がり続けており、大阪市長時代の2015年頃には50%を割り込んでいます(33p図2−1参照)。

 

 では、維新支持の源泉とは何なのか? これは維新こそが大阪府大阪市の統合調整を行うことができる存在だということにあります。

 大阪では「府市合わせ」と呼ばれる問題があります。府と市がそれぞれ「大阪」という都市圏の経営を行おうとし、結果として無駄や非効率が生まれているという認識です。

 そして、この府と市の調整ができるのが、府知事と市長のポジション、さらに府議会、市議会で第一党となっている維新というわけです。

 もちろん、東京への対抗心が維新を後押ししている要素も一応あるのですが、著者の調査ではそれよりも府市一体化への選好のほうが維新支持(特に強い支持)に影響を与えています(46p図2−3)。

 

 今回の住民投票の前哨戦となったのが2019年のクロス選です。市長選には府知事だった松井一郎が、府知事選には市長だった吉村洋文が出馬し、圧勝しました。

 しかし、府知事選はともかくとして、市長選では選挙前の調査で対抗馬の柳本顕が上回ったものもあったように、必ずしも松井の支持は盤石ではありませんでした。それでも結果として66万票あまりを獲得してゼロ打当確を決めています。

 この要員として、維新が「自共共闘」だと自民と共産の野合を批判したことが自民支持層の票割れを招いたとの説もありますが、著者は実験などを通じてこれを否定し、「国政は自民、大阪では維新」という支持層が一定程度存在し、対抗馬の柳本・小西コンビが府市一体化についての代案を出せなかったことが松井圧勝の背景にあったと分析しています。

 

 2019年のクロス選の勝利を受けて、公明党も都構想賛成へと転じます。そして、2020年11月1日に住民投票が行われることになりました。2015年の案では5つだった特別区が4つになった、設置コストが圧縮された、投票用紙に「大阪市の廃止」が明記されたといった変更点はありますが、基本的な方針は同じであり、結果として同じような票差で否決されました。

 

 さて、いよいよ住民投票をめぐる3つの謎を解いていきます。まず、1つ目は「なぜ住民投票の実施が確定した時点では賛成が圧倒的多数だったのか?」というものです。

 読売新聞が9/4〜6に行った調査では賛成49%、反対35%と14ポイント差、毎日新聞など6社が合同で行った調査でも賛成49%、反対40%と9ポイント差がついていました。

 この背景として指摘されたのが吉村人気ですが、前にも指摘したように吉村府知事の支持率と都構想への賛否は必ずしも連動していません。

 

 都構想への支持を長期的に見ると、2015年の秋、つまり都構想が否決された維新が再度の住民投票を目指してダブル選を仕掛けたタイミングでは賛成が反対を上回り、2017年や18年のタイミングでは反対が賛成を上回り、2019年のクロス選を経て再び賛成が反対を上回ります(105p図5−2参照)。

 

 このダブル選、クロス選前後での賛成への支持を著者は「過程」に対する評価だと分析しています。

 つまり、都構想自体に賛成というよりも、選挙で勝利した維新には都構想にチャレンジする資格がある、その姿勢は評価するといった支持だというのです。

 少しわかりにくいかもしれませんが、2005年の郵政解散を思い起こせば理解できるのではないでしょうか。郵政民営化自体があれほどまでの支持を得る政策だとは思えませんが、人びとは小泉首相の姿勢や覚悟に熱狂的な支持を与えたのでしょう。これと同じようなことが維新に対しても起こったと考えられます。

 ただし、郵政民営化法案は国会で審議して終わりですが、都構想には住民投票というハードルがありました。

 

 10月に入ると都構想への賛否は拮抗してきます。賛成のリードは5ポイント以内になっていくのです。2つ目の「なぜ住民投票の告示日が近づくにつれて賛否が拮抗したのか?」という問題です。

 とりあえずの答えは「反対派が運動を始めたから」ですが、JXによる世論調査の推移を見ると公示日を挟んで反対が増えているわけではありません。逆に賛成が3ポイント増えています(124p図6−3参照)。

 反対派の運動が活発になったと考えられるのに反対は特に増えていないのです。さらに著者の分析によれば反対派の活動を見たからといって反対に投票するわけではなく、むしろ賛成に投票するような傾向さえ見られます(126p図6−4参照、ただし、影響は無視できるほど小さい)。

 

 著者は有権者大阪市の廃止のデメリットを理解したのではなく、メリットを理解できなかったのだと分析しています。維新によって府市一体化は実現されており、大阪市を廃止して得られるメリットは実感しにくかったのです。

 本書では都構想の知識を問う質問の結果についても分析されていますが、目につくのは「わからない(DK」率の高さです。賛成派と反対派の主張が入り乱れる中で有権者が問題についてわからなくなってしまったこと、これが賛否の拮抗につながったと著者はみています。

 

 そして、3つ目の「なぜ最終的に賛否が逆転したのか?」です。JXの調査によれば10/30、31の調査で反対が賛成を上回りました(141p図7−1参照)。

 この理由としてあげられるのが、10/26の毎日新聞による「大阪市4分割ならコスト218億円増」という報道です。維新の関係者はこれを躍起になって否定しましたし、松井市長は財政局長に記者会見を開かせてこの試算を撤回させました。

 これが効いたというのが「通説」ですが、デメリットよりもメリットが見えないことが賛否拮抗の理由だとみる著者は、このデメリットによる効果に疑問を持ちます。

 そして、報道自体よりもその後の松井市長の対応が問題ではないかと推測します。

 

 しかし、これを証明するのは至難の業です。大規模なパネル調査でもやっていない限り、迷っていた人が直前でどんな理由で反対票を投じたのかということは普通はわかりません。

 これを著者はさまざまな刺激を駆使したサーベイ実験で突破しようとします。本書の肝でもあるので、ここは是非本書を読んで確かめてほしいのですが、著者の見立ては松井市長の一種の「自滅」ということになります。

 

 こうして維新の2度目の挑戦は終わったわけですが、維新の勢いは衰えてはいません。また、著者は住民投票が終わったあとで維新への強い支持が増えたことにも注意を向けています。

 まだ「分断」というような強いものではありませんが、住民投票を通じて維新支持者の維新支持態度が強くなったことで分極化がやや進みました。全体的には穏健な人が多いですが、維新に対して「強い支持」の人と「強い不支持」の人は「市民は騙されている」などと感じており(180p図8−5参照)、今後の動きが注目されます。

 

 そして、維新の強さは維新に対する選択肢の不在の裏返しでもあります。特に大阪自民に対する不信は強く、住民投票に反対票を投じた人びとの間からも強く信頼されていないような状況です(201p図9−6参照)。

 大阪において自民は府と市、さらに国会議員の間でバラバラであり、この背景には政党が機能しにくい現在の地方選挙制度があります。最後の著者はこの制度的要因を指摘しています。

 

 このように本書は維新という現象の理解に役立つ本であると同時に、政治学者がさまざまなツールを用いて謎を解いていくミステリー的な面白さが本書にはあります。

 コンパクトなサイズの200ページちょっとの本ですし、見慣れないグラフにあふれたノンフィクションのような感じでも読めるのではないでしょうか?

 

 ちなみに、本書のもう1つの大きな謎である、序章で街頭演説を行っていた松井一郎政治学者のような質問を投げかけた人物の正体に関しては、あとがきできちんと示唆されています。

 

 

 

 

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